小難しい色を爪に塗るひと
かねてより憧れていた女性と初めて二人で食事をしようという話になり、予定を合わせてカレンダーに彼女の名前を書きこんだ。
その名前のつかさどる何月何日何時何分がくる少し前に、路地の奥にある扉をあける。視線を遣ると奥にまばゆくはにかみながら手を振る彼女がいた。なんだかすごく綺麗。顔つきがすごく綺麗な人だ。聡明さがにじんでいる。私は目を細める。お辞儀をかわし、カウンターに並んで座る。こんばんは。予約していただいてありがとうございます。すごく素敵なお店ですね、この街にこんな裏路地があったなんて。
とある冬の夜。東京。とある大人の街。
現代的な割烹。白っぽい檜の一枚板が明るいカウンター。正面には白い割烹着の料理人、左手には年上の綺麗な女性。ニコニコ笑う年上の綺麗な女性。すごいな、全体的に眩しい。光がはねるように眩しい。
初めて彼女をたくさん見る。今夜はたくさん見ていいのだ。なんせ二人で食事をするのだから。光っていても、目を逸らさなくていい。
おしぼりとビールが出る。乾杯。
この女性の、清潔な短い黒髪がうれしい。同じく清潔な短い爪には小難しいグレーが塗られている。この色は小難しいな、と緊張する。爪の色からわかることは多い。このような小難しいグレーを爪に塗る人を、喜ばせるのはけっこう難しい。
私は彼女に憧れていて、彼女を喜ばせたいのだけど、うまくできるかわからない。
先付がでる。雲子豆腐の天ぷら。
女性は、私のことを素敵なお嬢さんと呼んだ。
私は彼女の呼び声に応えて、素敵なお嬢さんを準備する。汎用性が高くて使い慣れた、よく躾けられたお嬢さんのよそゆきのマナー。
お嬢さんはお猪口を口元に運ぶときも肘をつかない。箸をおくときは両手を添える。気を張っているので、前菜の黒豆がバニラ香を帯びているのに気づく。蕪の旨煮にかかっているソースが海老だとわかる。さくらんぼの枝をつまんで実をぶんぶん振り回さない。背を丸めない。誰かの悪口を言うときも育ちよさげな悪い笑顔。
向付けがでる。江戸前蛤の軍艦巻き。
素敵なお嬢さんは、何を話せばこの女性に気に入ってもらえるのか、どんな声を出せばこの年上の女性に気に入ってもらえるのか、探り探り言葉を重ねていく。職業の話。旅行の話。お椀をすする音を立てない。いつもみたいに徳利をひっくり返して最後の一滴を睨むこともしない。読んできた本の話。書いてきた文章の話。相手を害さないような質問。彼女も私も好きじゃなかった映画の話。お凌ぎの卵もきちんとおいしい。
焼物がでる。イベリコ豚に金柑のソース。
彼女は何の話をしても楽しそうに屈託なく笑い、こちらを安堵させる。人懐こい。すごく優しい。それでそれで、それはなんで、もっと話してと促す。肯定に気が大きくなりかけた瞬間、その瞳に、不意に、慈愛の影がちらちら踊るのをみつけた。
あ。その影を見て、この人は他人を可愛いと思うタイプだ、と直感する。
ああ、嫌だな、と思う。
他人を可愛いと思うタイプには二種類ある。
一つは、人を許容するポーズをとってみせ、相手の上に立つことで話がスムーズに運ぶよう仕組むタイプ。かわいいねえ、よしよし、かわいそうにね、よしよし、みたいなやつ。この場合、優越を感じる目的はそれほど表に出てこない。そうしたほうがスムーズだからポジショントークをおこなう、非常に効率的な選択であることが多い。
このタイプは怖くない。演劇的な場の構築は人間関係をうまくいかせる効果が絶大であることを知っている知恵者か、経験によって反射的にそうする社会性の高い者。その場の演出にうまく乗るならば、わくわくするようなスムーズでスピーディーな展開を楽しむこともできるだろう。
もう一つが厄介だ。他者のことを本当に可愛いと思うタイプ。恐ろしいのはこの手合いだ。この人たちは安易に可愛いとか可哀相とか言わない。言わないのに、可愛がられているのが伝わってくる。
彼や彼女は、偏見にとらわれない。普通の人の理解力と洞察力がサッカーゴールのネットくらいだとすると、彼らの理解の網の目は洗濯ネットや、ともすれば織物に匹敵する。我々凡人には一生思い至らないかもしれない繊細な縦糸を通して、緯糸で見事に汲み取ってくる。緻密で、細やかで、とりのがさない。対象を柔く包み込んで守る。
彼らは価値判断を下さない。評価を下さない。あらゆる物事に因果や構造があることを知っていて、ある出来事やある言動の背景を想像するための材料を山ほどもっている。しかも、時には物事に因果も構造も存在しないこともあるとまでわかっている。物事が発生する背景に妥当な想像を与えることや、誰かの曖昧な感情の構造分析を楽しみ、さらには説明不可能な偶然すら愛する余裕。
そういう、知的に開かれた人間の前に自身をさらけだすとき、どんなに取り繕ったところで意味はない。何をしたって丸裸なのだ。
隣で微笑む女性の目にちらついたのは、そういう知性の影だった。
もともと、彼女の事象認識の緻密さにあこがれていた。そういうことか、と腑に落ちる。なるほど。織物系か。
酢の物がでる。牡蠣の味噌漬けと柚子巻大根。
もっと流暢にできるはずの会話のウィットが喉でつっかかり、時々目が茫然と泳ぐ。
そうか。可愛がる人か。私が敬愛し見習いまねび親しむこの手合い。彼らのくれる穏やかな気分と彼らを警戒する穏やかでない気分との間で揺らされて、時折眩暈をおぼえるこの手合い。しかも十も歳が上だと、もう手も足も出ない。
取り繕っているつもりはなくても、取り繕うことの無意味をでかでかと書いた看板が目の前に立ち現われれば、無自覚を責められるようで気まずくなる。彼女に気に入られたくて選んだ振る舞いが、気に入られたくて選んだのだとばれてしまっている気がする。おそらくばれている。恥ずかしい。
ちょっと、どうしようと思う。思いながらもとりあえずお嬢さんを遂行する。お酒のおかわりお願いします。これとは別の、おいしいのをください。お猪口は錫がいいです。
丼物がでる。綺麗な器によそわれた、キラキラの海鮮丼。
今日は見るもの見るものよく光る。
好かれたい相手の前で丸裸になってもなおリラックスして揺蕩うには私はまだ未熟すぎる。怯えが先立つ。この人生は評価競争の檀上にあげられてきすぎた。有用性に点数をつけられ、アピールできなければ「つまらない」「使えない」と切り捨てられる。そういう傷を体に刻みつけすぎた。基本的にうまくやれるからこそ、失敗の痕は目立って痛々しい。
丼にやや遅れて蛤の赤だし。
いやだから、そうじゃなくって。
彼女の声がわずかに角張って、私ははっと我に返る。
動揺しているせいか、一手、間違えた。一瞬だけ、まずい空気が私たちを包む。
彼女は自分の頭が悪いと話す。私は彼女の頭が悪いとつゆほども思わない。けれど頭のいい人が自分の欠陥に敏感なことはよくよく知っている。その欠陥を含めて(そういう人々はその欠陥をリカバリする方法を必ず見つける、そのことを含めて)圧倒的に賢いわけで、勝手に安心してしまっている。なので彼らの吐露する欠陥に私はとても無遠慮になってしまう。遠慮なくそれを欠陥として認めるし、ずけずけと物申す。欠陥があるからこそあなたはそんなに素晴らしいことになっているんでしょ、とある種の突き放しと暴言をおこなう。そういう手荒いしぐさ、コミュニケーションの文法が成立する環境にかつて長く身を置いていた。そんな人ばっかりの環境はとても楽だった。
なので、新しく知り合った人が「そう」であるのが懐かしく、親しく、気が緩む。緩んで、迂闊にも無配慮で説明不足の物言いでずけずけと話してしまった。
それでちょっと齟齬が生じた。慌てて繕った。
甘味がでる。栗金団のシュークリーム。
ふむ。
さっき慌てて繕った、小さな小さな綻びを見つめる。
ちょっと怒ってたな。
この人は、「可愛い」として全てを許すよりも前に、一段階、何かあるのかもしれない。
もしかしたら「正しい」があるのかもしれない。正しい、というと語弊がある。「正確」があるのかもしれない。正確に物事を伝達すること、正確に物事を把握すること。その上で、可愛いか可愛くないか決めているのかもしれない。そしてなんと、可愛くなくても一向に構わないのかもしれない。
いつも、全てを可愛がる人に自分の全てを許され愛され安心することを熱望しながら、いざ愛されてみればプライドはずたずたになってしまうのだった。だってこの種の人間は、私を愛しているけど、私だから愛しているわけじゃない。私以外も同じく均しく愛している。彼らの世界には愛す可きものばかり。彼らにとって私は代替可能な存在で、私ばかり、彼らを唯一のものとして希求し、縋ってしまうのだ。穏やかな気分と穏やかでない気分の間でどうしようもなく揺らされる。屈辱だ。屈辱。この屈辱を避けるには、私も彼らと同じものになるしかない。可愛がる側の人間になり、超然と他者を愛でる。そして品性だけがある場所で穏やかに暮らすのだ。それしかない。痛みや執着を捨て、超然と生きるのだ。それでようやく、なにも損なわず、一方通行に苛まれず、プライドを傷つけることなく、問題なく可愛がられ可愛がる国の完成だ。
と、思っていた。この種の人間に、「可愛くない」があるとは思わなかった。
と、いうか、この人が「可愛くない」を持っていることに気づかなかった。可愛がるばかりの人ではないのかもしれない。
前提がころりころげた。ふむ。
「なんでも可愛い」を前提とされて、張り合いがなく、自尊心も保てず、そういう相手に愛憎半ばする感情を抱いてどろどろに苛立ってきた若くて苦い経験の、土台がぶわっと綿菓子みたいにゆるんだ。ころりと転んだが、足元が綿菓子なのでセーフ。舞い散る綿菓子もきらきら光る。
この人の前では、可愛くてもいいし、可愛くなくてもいいのかもしれない。だってさっき可愛くなかった私への態度が変わっていない。相変わらずニコニコ笑ってくれている。
小難しい爪の色のことが思い出される。なるほど。難しい。
ごちそうさま、美味しかったね。お酒もご飯も美味しかった。美味しいものは本当にいいですね。たのしーい。
白く輝く明るい店を出て、夜の街の坂を並んで下る。お酒が少し回っている。お嬢さんを遂行すべく気を張っていたので酔わないはずだったのだが、今はなんだかふわふわしている。
相変わらず隣にいる年上の女性は朗らかに笑っている。笑ってくれると安心する。笑ってばかりではない難しい人だとわかったから、素直に安心する。ニコニコしながら、最近読んですごくよかった本を教えてくれる。重量級の海外文学。さすがの読書体力をもつ、憧れのお姉さん。
タイトルを検索しながら、これを読めばこの人ともっと親しくなれるのかしらと思う。「可愛くない」があるこの人に可愛がられたいと思っている自分がちょっと情けないような気もする。
でも、すごく自然だ、と思う。あー好きだ、と思う。憧れている人に対して、過剰に畏れを抱いたり、卑屈になったり、虚勢を張ったりせずにいられそうで、すごく嬉しくなる。この人は可愛がるばっかりじゃない。うまく言えないけど、もっと感情的な人である気がする。人間臭い人である気がする。態度に感情をきちんと乗せられる人である気がする。
それに立ち向かうのは難しい。お気に召さないかもしれない。喧嘩になるかもしれない。お社交でやるみたいな、形式化された問題のない関係で付き合うようなラクはきっとできない。すごく難しいけど、それゆえに、この難しい人が好きだと思う。この人の前では、この人が人間だからこそ、私も人間としていられるのではないかと思う。
ふわふわして、好きだと思って、難しいなと思って、なんだかくるくると舞い上がってくる。何て言って伝えようか、いろいろと難しく考えるが、隣の人がニコニコしているのでついに諦めて、腕に抱きついた。難しい人に好きという気持ちを伝えるには単純なやり方じゃないといろいろとねじくれてしまう。
どうにも離れがたくて、自分の駅を行き過ごし、相手が乗る線の改札口までついて行った。
また遊んでくださいと言って手を離す。初めて正面からきちんと顔を見たら、唇の左端のほうが高く上がる笑い方をしていた。彼女にすごくよく似合っている。改札の向こうでグレーの爪がひらひら空を舞った。
なんでも上手な女の子 - 傘をひらいて、空を http://kasasora.hatenablog.com/entry/2018/01/30/190000