身のほどを知る
社会人になって、研修が始まった。
みんなはメモを取るとき、パソコンにタイピングをしていた。
打つのがめっちゃ早かった。
一方僕は、「ノートアプリってどれなの?」と隣の人に聞くところから始まった。
ついでに会話にもついていけなかった。
よくわからない専門用語が飛び交っていた。
キャンバってなに?イラレってなに?て聞いていた。
僕らの代が特殊なのかもしれないが、だいたいの人がこの会社に入った時から、何らかの武器を持っているように感じた。
そんなに深い考え方ができるのか。
そんな発想は自分にはなかった。
そんな風に考えるのが基本の形なのか。
あ、僕の方法は間違っていたのか。
新鮮な日々だった。
じゃあ自分はなんでこの会社にいるんだろう。
学生時代に何をしていたんだろう。
僕の持っている武器はなんだろう。
僕は、学生時代にとことん自分と向き合っていた。
昨日の自分より、速く走れるようになる
という目標を達成するために10年を捧げた。
スポーツの世界は残酷で、結局のところどれだけ努力しようが、先天的な才能が勝負を決めてしまうことも多いに起こりうる世界だ。
彼と同じ練習をしていても、彼より毎日5km多く走っていても、なぜか彼の方が足が速くなる。
お前はがんばってるんだけどな…
そう言われて、毎日走り続ける。
試合には出れない。
タイムトライアルが終わるたびに、トイレの裏で泣いた。
両親に、記録会に来てもらいたくなかった。
冷たくあたってしまう時もあった。
足の速い彼は今ごろ、たぶんコンビニでチキンを食べている。
足が速くならないので仕方がないからちょっと勉強をする。
彼は足が速いから、〇〇大学と、〇〇大学と、〇〇大学から推薦が来たそうだ。
おばあちゃんと約束した、箱根駅伝に出場する夢は、諦めるしかなさそうだ。
自分には、才能がないんだと悟った。
それでも、昨日の自分より速く走るための努力はやめなかった。
うまく走れた時はなぜうまくいったのか、食事なのか、睡眠なのか、気持ちなのか、体なのか、
徹底的に自分を見つめる時と、深く考えすぎないようにする時を分けるようになった。
辛いので走るのは高校でやめるつもりだったのに、大学でも続けることにした。
中学のときに、恩師と約束したタイムを切りたかったから。
個人競技は、言い訳ができない。
すべて自分の責任になる。
だから、自分自身を見つめ続けた。
しんどいのによくやるよね。と言われる。
自分でもそう思う。
けど、速く走るという行為ほど、自分を理解しなければならない行いはないと思う。
そんな日々を過ごしてきたから、自分のできることと、できないことはある程度理解できるようになったつもりだ。
今自分がやってることは、学生時代に走ってきたことより辛いことなのかな?と思うと、まったくそう思わない。
自分の興味を持てることに取り組むだけで、お金をもらえるなんて、なんて幸せなんだろう。
だから、これから自分に任せられる役職に、そんなにこだわりはない。
まだ、自分の限界を知らないし、走ることよりは、きっと得意だと思う。
それに、こんな経験をしてきたからこそ、得られるものもあった。
全てを糧にして、がんばる。
ーーー
最近の自分は、ポジティブな人に見えるそうです。びっくり。
でも、きっと部活をしている僕を見ている人なら知ってると思います。
走る前の自分がどれだけ弱気だったか。マイナス思考だったか。
よくキャプテンやってたなぁ。
こんな僕に期待してるなんて言ってくれて、嶋谷さん、本当にありがとうございます。
あ、でも今は好きなことしてるからポジティブなのかな。
これからの僕はポジティブなのかもしれません。