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「ことばする」 とは・・・ ヤコブ・ベーメの場合 〈上〉  (静寂者ジャンヌ 27)


0 あるがままのことば

言葉のない野
駈けることができたら
どんなに自由だろう・・・

ずっと、そう思ってる。

でも考えてみたら、その「言葉」って、人間の言葉でしかない。

言葉は人間だけのものだろうか?

「人間の言葉」・・・と言うとき、
きっと、わたしは、符号としての言葉を考えているだろう。

記号と、その指示対象と、両者をつなぐルールだとか・・・

そこに、リアルはない。

でも・・・「ことば」は、もっと広いはずだ。



かつて、あるがままの、自然のことばがあった。
と、ある人が言う。

16世紀から17世紀にかけて、ドイツに生きた神秘家、
ヤコブ・ベーメ(Jacob Böhme, 1575-1624)だ。

ジャンヌ・ギュイヨンと違って、よく知られている人だから、あまり説明も要らないだろう。

ヤコブ・ベーメは、ボヘミア山中に近い町ゲルリッツに住む靴匠であった。一六一三年ごろから糸や手袋の行商に転職している。およそ学問的訓練を受けたことのない人物であったが、その神智学的自然神秘思想はモリノスに発しギュイヨン夫人において大成する静寂神秘思想とともに、一七、一八世紀における汎ヨーロッパ的神秘思想運動の二大潮流の一つとなった。

(岡部雄三『ヤコブ・ベーメと神智学の展開』岩波書店 p.33)

ヤコブ・ベーメは、血で血を洗う凄惨な30年戦争の最中に亡くなった。

ベーメの生きた時代は「私たちのにまさるとも劣らない」悲惨な時代だった。(1)

時代の悲惨は、「ことば」の混乱にある・・・

ベーメは、見抜いていた。

「ことば」の回復によってしか、没落からの新生はあり得ない・・・



ヤコブ・ベーメは、ジャンヌ・ギュイヨンの二、三世代ほど前のプロテスタント圏の人物だ。彼のテキストをジャンヌが読んだ可能性は皆無と言っていい。

しかし、両者の「ことば」観は、キリスト教神秘思想の深いところで通底している。

ジャンヌに「思想」があったのかは別として、「ことば」の問題は、彼女の〈内なる道〉の核心部分だと言える。先回、紹介した「神秘のエクリチュール」にも、その一端が窺える。

今回は、おもいっきり道草しよう。

ヤコブ・ベーメの壮大な「ことば」観を見ていこう。

以下、 南原実『ヤコブ・ベーメ 開けゆく次元』(牧神社)の「ことば」に関する箇所を読んでいこう。(2)


1  ことばの堕落

話は、最初の人間アダムからはじまる。

ベーメによれば、最初の人間アダムは、完全な人間だった。神の似姿であり、神の友だった。性別もなく、言ってみれば、いかなる二項化にも汚されない存在だった。しかし、アダムはその完全であることの単調さに飽きてしまった。「」の世界に心を惹かれ、完全さを捨ててしまった。かくしてアダムの堕落がはじまる。

アダムの堕落は、アダムの語る「ことば」の堕落でもあった。

南原実は、こう解説する。ちょっと長い引用だけれど、美しい文なので・・・

この堕落とは、またアダムの語ることばの堕落であった。なぜなら、アダムの完全さとは、まさに彼のことばの完全さであったのだから。アダムは、鳥や草木のことばがわかっただけでなく、神ともはなしをかわすことができた。鳥のうた声、草木からもれ出るためいきーーそれをききとるのは詩人の空想ではなく、また神との会話は、神がかりの状態におちいった宗教家の幻聴ではなかった。アダムにとっては、自然は、私たちにむかいあっておし黙っている対象ではなく、そしてまた何よりも、神とは、雲のうえ高く姿をかくした、目には見えない抽象的な存在ではなかった。人間がひたすらゆるしを求め、また願いをかけ、ただ一方的によびかける沈黙の存在ではなかった。神は、山がそこにあるようにあった。神は懐疑の対象とも、信仰の対象ともなからなかった。アダムの耳は、神の語ることばの波長をとらえ、またアダムの口は、神とおなじことばを語ることができた。なぜなら、アダムは神の似姿、アダムのことばは、神とおなじことばであり、神、自然、アダムはみな、ひとつのことばでつながっていたのだから。あるがままのことば、すべてのもとにあることば、人工的な汚染を知らない自然そのままのことばという意味で、ベーメは、このことばを「Naturナトゥールのことば」とよんだ。

神も自然もアダムも、みな、ひとつのことばでつながっていた。

それは「あるがままの、自然のことば」だった。

しかし、アダムの堕落とともに、アダムはこの「あるがままのことば」を失った。

ただ符号としての、いわば形骸としての言語が残った・・・

したがって、アダムの堕落がもたらした大きな不幸とは、この「ありのままの自然のことば」が失われたことにある。ことばは残った。しかし、それがまさに大きな禍のもととなった。なぜなら、それは、あいまいさと錯覚のはじまりとなったのであるから。ことばは、変質していた。このとき以来、自然は黙りこくった。動物や草木のことばがわかるなどとは、おとぎばなしのナンセンスか、詩人の空想としか考えられなくなった。神は、抽象的存在となって、神学や教会のなかにかくれ、人間の作品、人間の願望、あるいは恐怖の投射像としか考えられなくなった。

しかし人間は、この不幸を錯覚した・・・

人間を人間たらしめているのは、ことばなのだ、と人間はこの不幸をいつか誇らしげに考えだす。ことばは、まさに、ディス・コミュニケーションの道具なのに……。
(…)
言葉は、あらゆるもののあいだに介在し、たちふさがる不透明な膜となった。


2 バベルの塔

 こうして、神、自然から断絶した人間の言葉は、もはやディス・コミュニケーションの道具でしかなくなった。それなのに、人間は、「ことば」が人間だけのものだと驕慢な錯覚をするようになった。バベルの塔。

「ことば」が人間だけのものと、錯覚する・・・このことを、ベーメは(というか、ベーメを読み解く南原実は)、ことばを使う者の側から、さらに踏み込んで考察する・・・

(…) つい最近まで私たちの先祖にとって当然だった考えを追えば、もともと人間をつくったのは、神。それは、語りかける神。そしてその神がつくった人間は、神とおなじ姿の、つまり、神とおなじことばを語る人間。(a)神があるから(b)人間はある、(a)神が語るから(b)人間は語るーーこの命題において、(a)が無意識の底に沈んで、(b)だけが意識化されても、少しもさしつかえがないほど、(a)と(b)とは連続し、重なり合っている。しかし、(a)が無意識の底に沈んでいるからといって、(a)を存在しないものとして、否定的に意識化するとき、(b)の内容に変化があらわれる。わたしがあり・・語る・・ということは変質する。私たちは、もはや、神にならってあり・・・・・・・・、神にならって語る・・・・・・ことをしない。

つまり、もともと、アダムの「自然なことば」においては、「(a)神が語るから(b)人間は語る」のであり、(a) と(b)には連続性、重なり合いがあった。

それはあまりに自然で、(a)の「神が語る」が無意識の底に沈み、(b)の「人間が語る」だけが意識の表層に表れる具合だった。

でも、それで、少しもさしつかえがなかった。

意識されなくても、深層の(a)の次元があるからこそ、表層の (b)の次元があることが、当然の前提になっていたわけだ。

アダムは自分が「神にならって語っている」ことを、自覚すらしないほどに、自然に行っていた。

ところが神の「ことば」と人間の言葉が断絶した。
人間は、「ことば」とは自分たちだけのものだと錯覚しだした。

(a)深層の「神が語る」を、ないものにしてしまった。それで、(b)表層の「人間が語る」こと自体がすっかり変わってしまった。

わたしたちは、神にならって語ることをやめてしまった。


3 創造としての 「ことばする」

それにしても、
神にならって語る・・・
とは、具体的には、どういうことなのか?
さらに、掘り下げていく。

そもそも、「神が語る」、その神の「ことば」とは、何か?・・・

神のことばによる無からの創造とは、神が何かいえば、それがそのままものとなって現れてくること、つまり、ことばすることが、そのまま存在となっている。

これは旧約聖書『創世記』がもとになっている。

神が「光あれ。」と、ことばする。すると、即、光があった・・・・・・
という、よく知られたシーンだ。

神の「ことばする」が、そのまま存在となるのだ。

『創世記』のこの箇所を掲げておこう。

初めに神は天と地を創造された。地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」すると光があった。

(聖書協会共同訳)



もちろん、人間の言語活動は、こんなふうには行かない。
人間にできるのは、ただ、命名するだけだ・・・

これに対して、人間の言語活動は、あくまでも命名であって、人間にできるのは、あるものに名前をつけることだけなのである。

そうなのだけれど、でも実は、人間の言葉による命名行為は、本来、神の「ことば」による創造行為と、つながっていたのだ・・・

しかし、それ(引用注:命名行為)はまた神に似た創造活動であって、勝手に名前をつけるのではない。つまり、そのことばは、符号ではない。それぞれのものの性質にあった名前をつける。人間は、神の言語行為のあとをなぞりながら、つまり、それぞれのものを創ったその神の創造行為のあとをたどりながら、それにふさわしい名前をつける。人間は、ものを無から創り出せないけれども、おなじ創造の行為をくりかえしなぞることによって、創造する。こうして、たんなる命名の行為も、創造となる。

人間の言葉は、わたしたちが考えがちな、恣意的な符号であるだけじゃなかった。

名付けること、言挙げすること。
それは、神の「ことばする」という創造行為を、なぞって、繰り返すことだった。

神にならって、
神の「ことばする」をなぞって、
神の創造行為をたどって、
神の創造行為を追体験する。

そんなふうに、わたしたちも、遠い昔、宇宙の不断の創造に、参加できたんだ。



4 言葉による世界構成、という錯覚

しかし、人間の言葉が神のことばと断然し、
そのために、人間の言語行為は、非創造的となった・・・

だが、なぞるもとの神の行為が失われたときに、あとに残ったのは、(a)創造とは縁のない非創造行為と、(b)それにもかかわらず創造しているのだという錯覚。

a ーー 非創造行為。なぜなら、なぞることができなくなった人間は、もはやモノの内側に入れない。私たちはただ外側からモノに近づくだけで、対象としてしかモノをとらえられない。そのとき、ことばもまたモノの内容とは関係のないレッテル、恣意的な符号となり、私たちにできるのは、ことばの組みかえだけとなる。

b ーー それにもかかわらず創造しているのだという錯覚。なぜなら、この恣意的な符号はすべてに及ぶ。人間にとって、いえないものは何ひとつない。いえないものがあっても、それは「言えない」という形でことばのなかに入ってしまう。人間のことばの網の目は、すべてに及ぼすことができる。

a ーーなぞることができなくなった人間は、もはやモノの内側に入れない・・・
ということは、もともと、人間は、神の「ことばする」という創造行為をなぞる・・・ことによって、モノの内側に入れたのだ!
 
人間は、神の創造行為を追体験することで、造られるモノの内側に入って、言ってみれば、その〈いのち〉の灯りに、内側から触れることができたのだ。

しかし、人間の言葉は恣意的な符号とのみなり、指示対象であるモノに、外側からレッテルを貼ることしかできなくなった。そして、その言葉の組み合わせを替えることしかできなくなった。

b ーー それにもかかわらず創造しているのだという錯覚・・・
なぜ、そんな錯覚に陥るのか?
それは、符号としての言葉の網の目が、すべてに及ぼすことができてしまうから。
それで人間は、すべてを対象化して支配できるという、驕慢な錯覚に陥ってしまった。

こうして、神のことばによる世界創造というかわりに、人間のことばによる世界構成という錯覚が生まれる。
(…)

アダムの堕落の結果によることばと存在との不一致の不安は、いつかことばによる対象の支配という自信にすりかわっていく。




人間の言葉による世界構成という錯覚が、分断狂信を生む・・・

だからこそ、ベーメは、しきりとバベルの塔というこの古い比喩にこだわる。彼は、時代の悲惨がことばの混乱にあることを見抜いていた。いがみあい、殺しあいーーそれはどんなに苛酷で私たちの気持をかきみだそうとも、その背後にある本質をこそ正しく認識しなければならない。つまり、(a) アダムの没落以来、ディス・コミュニケーションの道具となったことば、(b)それにもかかわらず、ことばがコミュニケーションのためにあるという錯覚、こうして(c)バベルの塔の建設、(d)ディス・コミュニケーションの露呈、「正義」「真理」……などのことばについてそれぞれ意味するところがちがって、あい争い、そして塔の崩壊、という必然の連鎖こそ、正しく認識さるべきであった。


ベーメが追求したのは、本来の「ことば」の回復に他ならなかった・・・

神秘家、哲学者、あるいは預言者といわれるベーメが、ことばの問題に情熱をかたむけたのも当然だった。なぜなら、時代の狂気から脱出するには、「言う」ということは何か、を新しく発見するよりほかに方法はないのだから。「ことば」の回復によってしか、没落からの新生はあり得ないのだから。


長くなるから、続きは次回にしよう・・・



(1)南原実「ヤコブ・ベーメ 開けゆく次元」から。

(2) 南原実 (1930 - 2013) ドイツ文学者 / 神秘思想・ベーメ研究 / 東京大学名誉教授

著作:「ヤコブ・ベーメ 開けゆく次元」(1976 牧神社)(1991 哲学書房)/「失われた神話への旅  ギリシア」(白水社)/「聖なる森への旅  ルーマニア」(白水社)/「未来を生きる君たちへ」(新思索社)/「極性と超越  ヤコブ・ベーメによる錬金術的思考」(新思索社)など。

レーチェル・カーソン「沈黙の春 生と死の妙薬」青樹簗一の名で翻訳(新潮文庫)、「クレーの日記」(新潮社)翻訳なども。

「キリスト教神秘主義著作集」(教文館) の第一二巻以降(第一七巻までの六巻)を監修。このうち「第一三巻 ヤコブ・ベーメ」は自身が翻訳。

この六巻は、宗教改革以降、ヨーロッパ近代の神秘思想を取り上げたもので、「従来の西洋神秘思想の理解から見るとかなり異色のシリーズ」だ。神秘思想を通してヨーロッパ近代を読み直し、さらに西洋近代を乗り越える未来の思想として、神秘思想を解読する試みだ。(第一五巻にギュイヨン夫人『奔流』所収)

これらの六巻は、「自然」の比重の大きさ、科学やグローバルな世界のもたらす新たな知識や認識との対話、キリスト教の中のさまざまなグループ分けを超えた非党派性、女性の思想家の存在、言語や国の境界を超えたネットワークなどを特徴としている。ヤコブ・ベーメがこれらの六巻の隠れた中心であり、ベーメを、西洋神秘思想の終わりとしてではなく、それ以降の流れの始まりととらえる。神秘思想はヨーロッパ近代を開いた思想であるとともに、西洋近代を乗り越えた未来の世界の思想でもあるという理解が背景にある。

中井章子「キリスト教神秘主義著作集 第一二巻 十六世紀の神秘思想」(教文館) 訳者あとがき p597




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