「ことばする」 とは・・・ ヤコブ・ベーメの場合 〈上〉 (静寂者ジャンヌ 27)
0 あるがままのことば
言葉のない野を
駈けることができたら
どんなに自由だろう・・・
ずっと、そう思ってる。
でも考えてみたら、その「言葉」って、人間の言葉でしかない。
言葉は人間だけのものだろうか?
「人間の言葉」・・・と言うとき、
きっと、わたしは、符号としての言葉を考えているだろう。
記号と、その指示対象と、両者をつなぐルールだとか・・・
そこに、リアルはない。
でも・・・「ことば」は、もっと広いはずだ。
*
かつて、あるがままの、自然のことばがあった。
と、ある人が言う。
16世紀から17世紀にかけて、ドイツに生きた神秘家、
ヤコブ・ベーメ(Jacob Böhme, 1575-1624)だ。
ジャンヌ・ギュイヨンと違って、よく知られている人だから、あまり説明も要らないだろう。
ヤコブ・ベーメは、血で血を洗う凄惨な30年戦争の最中に亡くなった。
ベーメの生きた時代は「私たちのにまさるとも劣らない」悲惨な時代だった。(1)
時代の悲惨は、「ことば」の混乱にある・・・
ベーメは、見抜いていた。
「ことば」の回復によってしか、没落からの新生はあり得ない・・・
*
ヤコブ・ベーメは、ジャンヌ・ギュイヨンの二、三世代ほど前のプロテスタント圏の人物だ。彼のテキストをジャンヌが読んだ可能性は皆無と言っていい。
しかし、両者の「ことば」観は、キリスト教神秘思想の深いところで通底している。
ジャンヌに「思想」があったのかは別として、「ことば」の問題は、彼女の〈内なる道〉の核心部分だと言える。先回、紹介した「神秘のエクリチュール」にも、その一端が窺える。
今回は、おもいっきり道草しよう。
ヤコブ・ベーメの壮大な「ことば」観を見ていこう。
以下、 南原実『ヤコブ・ベーメ 開けゆく次元』(牧神社)の「ことば」に関する箇所を読んでいこう。(2)
1 ことばの堕落
話は、最初の人間アダムからはじまる。
ベーメによれば、最初の人間アダムは、完全な人間だった。神の似姿であり、神の友だった。性別もなく、言ってみれば、いかなる二項化にも汚されない存在だった。しかし、アダムはその完全であることの単調さに飽きてしまった。「多」の世界に心を惹かれ、完全さを捨ててしまった。かくしてアダムの堕落がはじまる。
アダムの堕落は、アダムの語る「ことば」の堕落でもあった。
南原実は、こう解説する。ちょっと長い引用だけれど、美しい文なので・・・
神も自然もアダムも、みな、ひとつのことばでつながっていた。
それは「あるがままの、自然のことば」だった。
しかし、アダムの堕落とともに、アダムはこの「あるがままのことば」を失った。
ただ符号としての、いわば形骸としての言語が残った・・・
しかし人間は、この不幸を錯覚した・・・
2 バベルの塔
こうして、神、自然から断絶した人間の言葉は、もはやディス・コミュニケーションの道具でしかなくなった。それなのに、人間は、「ことば」が人間だけのものだと驕慢な錯覚をするようになった。バベルの塔。
「ことば」が人間だけのものと、錯覚する・・・このことを、ベーメは(というか、ベーメを読み解く南原実は)、ことばを使う者の側から、さらに踏み込んで考察する・・・
つまり、もともと、アダムの「自然なことば」においては、「(a)神が語るから(b)人間は語る」のであり、(a) と(b)には連続性、重なり合いがあった。
それはあまりに自然で、(a)の「神が語る」が無意識の底に沈み、(b)の「人間が語る」だけが意識の表層に表れる具合だった。
でも、それで、少しもさしつかえがなかった。
意識されなくても、深層の(a)の次元があるからこそ、表層の (b)の次元があることが、当然の前提になっていたわけだ。
アダムは自分が「神にならって語っている」ことを、自覚すらしないほどに、自然に行っていた。
ところが神の「ことば」と人間の言葉が断絶した。
人間は、「ことば」とは自分たちだけのものだと錯覚しだした。
(a)深層の「神が語る」を、ないものにしてしまった。それで、(b)表層の「人間が語る」こと自体がすっかり変わってしまった。
わたしたちは、神にならって語ることをやめてしまった。
3 創造としての 「ことばする」
それにしても、
神にならって語る・・・
とは、具体的には、どういうことなのか?
さらに、掘り下げていく。
そもそも、「神が語る」、その神の「ことば」とは、何か?・・・
これは旧約聖書『創世記』がもとになっている。
神が「光あれ。」と、ことばする。すると、即、光があった・・・
という、よく知られたシーンだ。
神の「ことばする」が、そのまま存在となるのだ。
『創世記』のこの箇所を掲げておこう。
*
もちろん、人間の言語活動は、こんなふうには行かない。
人間にできるのは、ただ、命名するだけだ・・・
そうなのだけれど、でも実は、人間の言葉による命名行為は、本来、神の「ことば」による創造行為と、つながっていたのだ・・・
人間の言葉は、わたしたちが考えがちな、恣意的な符号であるだけじゃなかった。
名付けること、言挙げすること。
それは、神の「ことばする」という創造行為を、なぞって、繰り返すことだった。
神にならって、
神の「ことばする」をなぞって、
神の創造行為をたどって、
神の創造行為を追体験する。
そんなふうに、わたしたちも、遠い昔、宇宙の不断の創造に、参加できたんだ。
4 言葉による世界構成、という錯覚
しかし、人間の言葉が神のことばと断然し、
そのために、人間の言語行為は、非創造的となった・・・
a ーーなぞることができなくなった人間は、もはやモノの内側に入れない・・・
ということは、もともと、人間は、神の「ことばする」という創造行為をなぞることによって、モノの内側に入れたのだ!
人間は、神の創造行為を追体験することで、造られるモノの内側に入って、言ってみれば、その〈いのち〉の灯りに、内側から触れることができたのだ。
しかし、人間の言葉は恣意的な符号とのみなり、指示対象であるモノに、外側からレッテルを貼ることしかできなくなった。そして、その言葉の組み合わせを替えることしかできなくなった。
b ーー それにもかかわらず創造しているのだという錯覚・・・
なぜ、そんな錯覚に陥るのか?
それは、符号としての言葉の網の目が、すべてに及ぼすことができてしまうから。
それで人間は、すべてを対象化して支配できるという、驕慢な錯覚に陥ってしまった。
人間の言葉による世界構成という錯覚が、分断と狂信を生む・・・
ベーメが追求したのは、本来の「ことば」の回復に他ならなかった・・・
長くなるから、続きは次回にしよう・・・
(1)南原実「ヤコブ・ベーメ 開けゆく次元」から。
(2) 南原実 (1930 - 2013) ドイツ文学者 / 神秘思想・ベーメ研究 / 東京大学名誉教授
著作:「ヤコブ・ベーメ 開けゆく次元」(1976 牧神社)(1991 哲学書房)/「失われた神話への旅 ギリシア」(白水社)/「聖なる森への旅 ルーマニア」(白水社)/「未来を生きる君たちへ」(新思索社)/「極性と超越 ヤコブ・ベーメによる錬金術的思考」(新思索社)など。
レーチェル・カーソン「沈黙の春 生と死の妙薬」青樹簗一の名で翻訳(新潮文庫)、「クレーの日記」(新潮社)翻訳なども。
「キリスト教神秘主義著作集」(教文館) の第一二巻以降(第一七巻までの六巻)を監修。このうち「第一三巻 ヤコブ・ベーメ」は自身が翻訳。
この六巻は、宗教改革以降、ヨーロッパ近代の神秘思想を取り上げたもので、「従来の西洋神秘思想の理解から見るとかなり異色のシリーズ」だ。神秘思想を通してヨーロッパ近代を読み直し、さらに西洋近代を乗り越える未来の思想として、神秘思想を解読する試みだ。(第一五巻にギュイヨン夫人『奔流』所収)