ふりかえってみれば ( 静寂者ジャンヌ 13)
先回は、どうも、こなれてなかった。
規範言説とか、言説権力とか、
クワガタみたいな言葉が
連なってしまった。
まあ、たまにはクワガタもいいか。
などと思っていると、
先回のブログを読んでくれた瞑想の友から、メールをもらった。
わたしの書けなかったことを、
別の次元で開いてくれた。
許可をいただいて、一部、引用しよう。
(…)オリンピック開催を前に、日本社会で続いている女性蔑視や障害者差別をめぐる騒動について、この前、五木寛之が「自分の心の奥底にも、差別があることを思わずにいられない」という趣旨のことを書いていました。
人を差別に追いやろうとする心根は幼い頃に教え込まれ、知らず知らずのうちに育ったもので、大人になり、歳を取ってからあらゆる差別を根絶すべきだと思うようになったけれど、いったん差別に支配されたしまった心は、完全には解き放たれないのかもしれない、少なくとも自分の場合は、差別に快感を感じるメカニズムが心のどこかにあることを完全には否定できない。
というようなことを五木さんは書いていました。
それはまさしく言説支配によるものだと、思い至った次第です。
古今東西、社会制度は、差別を肯定することによって成り立ち、言説支配が巧妙化していったように思います。
(…)もう昔のことになりましたが、一時期、南アのアパルトヘイトについて猛烈に勉強していた頃のことを思い出しました。
アパルトヘイトも、人種差別を言説支配によって社会制度として肯定したものだと思います。
黒人は生まれながらに劣っている、と白人(ボーア人)が聖書を手にして真顔で得々と話すのを聞いたことが、まだ30年も経っていないのか・・・と変な感慨を覚えます。
ジャンヌが向き合っていたものは、現代にもある。この葛藤は誰も避けて通れない。言説支配がいきわたる社会の中に、自分もどこかで加害者の側に回っているかもしれない・・・。
そう!
このあいだは、
男性支配社会に生きざるを得ないジャンヌの、
その内面の葛藤、
その蟻地獄感を、
言説をキー・ワードに、
どう、リアルに感じ取るか、
そこに焦点を当てようとしたのだけれど、
立場を変えれば、たしかにそれは、
自分も無自覚に加害者の側に回っていはないか
という、自分への問いかけでもあるだろう。
ふりかえってみれば
言うまでもないけれど、
オリンピックがらみの騒動で問題になった一連の
女性蔑視・差別発言や、過去にあった障害者への虐待などなどの件は、
すべて許されないし、擁護の余地はない。
その上で、自分ごととして、ふりかえってみれば、
自問してしまう。
わたしもそうした差別に
無自覚に加担してはいないだろうか?
わたしは、
南アフリカの「白人」の手にする「聖書」の代わりに、
別の何かを手にして、差別の言説を、
息をするように
吐き散らしてはいないか?
それを指摘されたら
「いっさい差別なんかしていません」と
むきになったり、逆ギレしたり、
「世の中そういうものでしょう」などと、
偽リアリストになって、
開き直っていないか?
ふりかえっているのか
こうした、自分の内に巣食った
無意識裡の差別・加害を
意識の表面に浮かび上がらせて
解体していくのは、
そうそう簡単ではない。
ジャンヌの〈内なる道〉には
〈自我ほどき〉désappropriation
というパッセージがある。
絶えざる自己批判、
自己の断念(と、ジャンヌは言う)のうちに、
意識の深層に至るまで
自我が解体される過程だ。
それは、言葉が落ちることと不可分だ。
言語を媒介せずに、ダイレクトに
無限に没入する体験を経ることでしか、
自己に組み込まれた言説権力から、
距離を置くことができないのだろう。
その境地に達して、はじめて、
自分の立場をいっさい考慮せず、忖度せずに、
言うべきことを、ずばり言うようになる。
しかも、自分では意識せずに。
たとえ、本当のことを言って、世界が凍ってしまっても。
ジャンヌの〈消滅〉=〈甦り〉のフェーズだ。
これから触れていければと思う。
* * *
そんなふうに
ジャンヌの〈内なる道〉を
わたしの日常にひきつけて
多層的に考えてみたい。
静寂者の現場は
この日常をおいて他に
ないのだから。
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