「想像力を働かせて」って言うけどさ
在宅勤務が始まって2週間目。
家を出る機会、人と会う機会が減り、何がという訳ではないけれど何となく気が滅入っている感覚がつきまとう。
無意味にスマホを握って、パソコンの前に座っている時間が増えた。よくない。
太陽の日を浴びて、風を感じて、気ままにぱしゃぱしゃと写真を撮って。気の合う友人に会いに行って、気持ちの良い乾杯をして。が、恋しい。
意識的に外の空気を自室に入れたり、たまの買い物はちょっと遠回りをしてみたり、そういったことでなんとか生を感じている気がする。「生を感じる」なんて大げさかもしれないけど、そう思う。
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数日前、センバツの全国的な中止を受けて夏の甲子園も危ういという報道を見た。その後、とある高校球児のつぶやきを見た。高校生活最後の甲子園が、こんな形で、戦うことすらできずなくなってしまうかもしれないことへの嘆きと葛藤のつぶやき。だからみなさん、開催可否の決定を下す5月半ばまで、外出自粛をどうかお願いしますと。
それに対する反応は、大変な時期にそんな自分勝手なことを言うな、視野をもっと広く、たかが高校生が、そういったものが多く目についた。けれど、そうした反応にも一つひとつ丁寧に答えながら、自分にとっては一生に一度の努力の結晶なんですという懇願に近いそのツイートが、強く残っている。
この期間、自分の中で何度も何度も考えているのが「想像力」という言葉。
想像力で世界を救え、という合言葉で、この時代を乗り越えるための革新的なアイデアが発信される。あるいは、大変な人もいるのに自分のことしか考えていないなんて想像力が足りていない、みたいな文脈。前述の高校球児の件のように。
他人の状況を想像できていなかったことに対して猛烈に石を投げつけても良い空気感が、結構しんどい。
想像力の限界、ってあると思うんです。諦めているわけではなくて、体験していないから。
医療従事者とか、罹患者とか、行政の関係者とか、職を失いかけている人とか、子どもの面倒を見ながら仕事をしなければならない人とか、学校が始まらない人とか。ここに書ききれない、あるいは書くことすら思いつけていない、様々な状況の人たち。
わたしが見えないところで頑張ってくれている人、わたしが知ることができていないところで苦しんでいる、戦っている人。そうした人への想像力を働かせて、配慮して行動を顧みるのは大切なことだけれど、限界があると思うのです。
その罪悪感にかられることを、やめにしたい。
想像力をもう一歩広げて欲しいと思うとき、石を投げて傷つけるのでなく、想像の甘かった部分に対してちゃんと怒って、一緒に行動できるようになる。そういう人と人とのコミュニケーションの部分にもっと想像力を使いたい。
想像力で世界を救えが、「もっと想像しろ」と誰かへ強制力を持って訴えることではなくて、自分の想像力をアップデートしていこうという呼びかけなら、もう少し思いやりが増えるのかな。わたしはそうありたい。
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日記って難しい。本来自分が綴るだけだから体裁なんて考えなくてもいいんだけど、それでもやっぱり気になって、書いては消し、消しては書いてしまう。
この時代について、自分なりの考えをまとめなきゃなんて思っていたけれど、こうやって思考を積み重ねていくことが、その役を買ってくれることを願って。