先送られた開会式
きょうは開会式だった、らしい。
わたしは観戦チケットを申し込んでいたわけではないけれど、楽しみにしていた競技はひとつふたつあった。23時頃と7時前のニュースで注目選手を知って、準決勝くらいからテレビを食い付くように見て、メダルの瞬間のリプレイ映像とか完全燃焼した選手のインタビューとかで興奮し、涙したんだろう。きっと。きっとそうだ。
今年の夏の東京は混むだろうから、お盆の帰省はやめとくね、と故郷の母に連絡を入れた年明けが、嘘のようだ。あの時とは違う理由で、しばらく帰省はできないかもしれない。親と会えるのは人生であと何回みたいな、いま思い出さなくていいことを勝手に思い出す。
このために用意された大型連休をまるで嘲笑うかのような。外へ出ること自体が良くないことかのような。“不要不急”ということばで全てまとめあげられて片付けられてしまっているかのような。そんな毎日が、だんだんと、けれど確実に、その濁りの度を増しては、息苦しくさせてくる。
いや、息苦しくなっている? わたしが勝手に?
楽しいこと、わくわくすること、頑張ろうと思うこと。そういうことを表現した途端、強いことばが牙を向いてきそうだ。だからなるべく悪目立ちしないように、わたし達ほら、制限された中でも楽しくやってますよみたいなすまし顔して。喉まで出かかったことばを、苦いなあと思いながら飲み込んで、ツイートの下書きばかりが溜まって。2、3歩先で毎日起きる喧嘩を眺めては、全然大丈夫、これも平常運転、もう慣れましたと言い聞かせている。
綱渡りというか、騙し騙しというか。自分を守るためだった標語が、守っていない人を攻めて責めて縛り上げる掟に変わって、血眼になって、掟破りを探しているやつがいる。
わたしはこの期間、仕事やお金や生活で、ものすごく困っているかと言われたらそうではない。リモートでも仕事は十分にできているし、収入も変わらずちゃんとある。恵まれている方なのかもしれない。
それでもひとり部屋で過ごす時、一瞬の隙を突いて、怒りや諦めやどうしようもない虚無感みたいなものがどろりとした液体となって体に入ってきていることに気がつく。そいつを振り払い、大部分を追い出すことに成功しても、染み込んだ少しの水滴は、消えてくれない。滲んで、染みを残す。
もう少しだ、もう少し待てば、と思いながら桜は散った。梅雨もあけそうだ。蝉の音と入道雲が似合う季節がやってくる。
あとどれだけ“もう少し”を数えたらいいのだろうか。元通りにはきっとならなくて、これと向き合うことがニュースタンダードになるのだろうけれど、楽しさやわくわくを押し殺すことまでスタンダードになってたまるか。
ふだん特別な興味がない人でも湧き立つスポーツの祭典。それが先延ばしになったこと自体が、わたしたちの心湧き立つあらゆる物事が遠いところへ行ってしまったことを象徴しているようにも、思えてしまっている。