「芸者のような女」「最新のビート」「夜の世界のバッドテイスト」というCGPの方程式(ラブソングの危機を考える10)
反・近代、反・洋楽運動として50年代から60年代初頭にかけて「夜の盛り場で歌われた作者不詳の歌」ブームが起こる。「北帰行」に象徴的だがこれらの歌は世をすねたような、捨て鉢な心情が描かれているのものが多い。「どうせオイラは」といった「自嘲」の心情である。これらレコード会社主導ではない、多分に反社会的な要素を含む歌のブームが50年代に起こった。この「自嘲」の感覚はのちのショーケンやダウンタウンブギウギバンドの宇崎竜童、そして長渕剛にまで受け継がれる「不良ソング」の論理の礎となる。(ちなみに矢沢永吉はこのような「世を拗ねる」という日本的な不良論理とは無縁の歌手である)
ところで現在、不良少年やアウトロータイプの男子を魅了する音楽ジャンルといえばヒップホップであるが、ヒップホップには伝統的にこの「自嘲」という感覚がない。最終的には「いつかみてろよ」や「オレたちこそが本物だ」といったポジティブへと変換する、というヒップホップ論理がある。つまり「とんぼ」とラップでは根本の思想が違うわけだが、このあたりはもう少しあとで考察してみたい。
さて、この「作者不詳」ブームの中から、毛色の違うヒットが登場する。1964年(昭和39年)に日本ビクターより発売された「和田弘とマヒナスターズ、松平直樹、松尾和子」名義による「お座敷小唄」である。この曲もまた、「北帰行」「北上夜曲」同様、作者不詳ソングを取り上げ、ヒットしたものだ。わたしはこの曲のヒットこそが戦後的CGP歌謡の原点だと考えている。この曲を発掘したのはバンドリーダーの和田弘で、広島に巡業中、ホステスが口ずさむのを聴いて採譜し、レコード化したと言われている。のちに作詞者を名乗る者が訴訟を起こし、その者が敗訴するなど作者不詳ソングらしい逸話をもつこの曲だが、どうも似たような曲は戦前より遊里や色街では歌われていたようだ。このヒットを背景にレコード会社各社は「祇園エレジー」「裏町小唄」「しらゆき小唄」と違うタイトルで発表したが、この曲に描かれた女性像こそが戦前から現代までを貫く歌謡曲のひとつの典型であるとわたしは考える。このとき提示された女性像が現代まで、(長渕を経て、福山雅治、EXILEまで)受け継がれていったと考えられる。それでは「お座敷小唄」の女性像とはどのようなものだったのだろうか?
この曲は形式としては男女のデュエットソングである。元々は芸者遊びの現場で、芸者と客が見つめ合いながらかけあう、といった歌われ方だったと思われる。妻子ある男性客の主人公、そんな客に片思いしながらも「妻という字にゃ勝てやせぬ」と辛い恋を自嘲する芸者の娘、という構図となっている。
そう、実はこの曲は「男性歌手が女性になりきって歌うCGP」ではない。しかし、この芸者の「報われぬ恋を自嘲する感覚」、この思想が完全に現代までのCGP曲の女性たちと合致するのである。たとえばやしきたかじん「やっぱ好きやねん」、EXILE「Ti Amo」、山下達郎「エンドレス・ゲーム」といったCGPの女性像にとても近い。これらに描かれた女性は「お座敷小唄」のDNAを受け継いでいるように見える。色街で醸成された「遊び」文化のモダン化とも言える「お座敷小唄」の彼女らは子孫だったのではないかと思えるのだ。無論、「その見立てなら「お座敷小唄」の前に神楽坂はんこ「ゲイシャ・ワルツ」('52)があるではないか」という指摘もあるだろう。確かに「ゲイシャ~」も「女がうまくいかない恋を自嘲する歌」には違いないのだが、のちのCGPヒットの持つ、「最新の洋楽的サウンド」という要素が欠けている。「お座敷小唄」にはこの時の最新のビート、「ドドンパ」のリズムをいち早く取り入れている、という「微妙にダサい、でも大衆がノリやすい洋楽ビート」という要素が組み込まれている。戦前よりハワイアンブームを牽引し、洋楽事情に精通していた和田弘の採譜力、アレンジ力がこのヒットの根幹にある。「洋楽(的)なサウンド」「(優れて儒教的な女性像)の男に従順な女」「(色街のような夜の世界を舞台にしたような)バッドテイスト」これらをすべて兼ね備えたヒットの最初は「お座敷小唄」と考えてよいと思うのだ。「お座敷~」をCGPの源流とみなすことでCGPの謎の多くがとけることになる。なぜ、CGP曲の女性はこうも男性依存で自嘲的で「バカな女」なのか。どうしてこうわざとらしいまでに男性にとって都合がいいのか。その成立過程を考えれば当然だったのである。つまりCGP曲とは「色街文化のお茶の間化」だったのである。これは先の「ズンドコ節」「ブンガチャ節」「LOVEマシーン」「アゲ♂アゲ♂EVRY☆騎士」のヤケクソパーティーソングの系譜と同じ構造でもある。(「LOVE~」「アゲ~」は激安キャバクラをお茶の間化したものである)また、サウンド面でも「お座敷小唄」の構造(古い芸者遊びを最新ビートで)を律儀にCGPは踏襲する。たかじんや達郎CGPは当時の流行のAORサウンドであるし、EXILEは現行のR&Bサウンドのなかで昔の芸者のような女を演じる。こう考えていくと「達郎はアメリカンポップスを、EXILEは現行のUSのR&Bを咀嚼した、洋楽的な音楽」というよくある評価は揺らいでくる。正確を期すなら、これらの楽曲は「サウンドこそ最新の洋楽風だがその歌の主人公は極めてドメスティックな文化のなかで育った昔の芸者のような女、というねじれた構造の日本特有の音楽」ということになる。
わたしはこの稿のパート4で「海外のジャズソングなどで日本の歌謡曲にあるようなCGP曲は存在しない。これは英語という言語システムがCGP向きではないからだ」と論じた。無論、そのような事情もあるのだろうがそれ以上に欧米には日本的な意味での「遊里」というものが存在しなからではないか、とも思える。もちろん欧米にも性的なサービスは存在するだろう。しかし、江戸時代より脈々と受け継がれてきた日本の旦那衆の「遊び」という感覚は欧米には存在しない。このため海外のポピュラーソングにおいてはCGPという感覚が育たなかったと考えられる。この「海外に日本的な遊里の感覚(女性のホステスが男性客にからかわれながら酌をする、といったような)がない」という問題について、具体的な証言がある。
開高健「そうですね。いわゆる(欧米の)酒場というのにはホステスはいないですね。経営者のおかみさんとか、酒注ぎガールとかいうのはおりますけど、見るからに女中の役であって、日本のホステスというのではないですな、日本のはやっぱり一種独特のものやね」
吉行淳之介「珍しい形だろうね」
開高「外人には面白がられるやろね。アメリカにも、イギリスにも、あんなバーはない。やっぱり日本独特の産物やね」
吉行「なんなんだろう。これちょっと研究する必要があるような気がするけど」
開高「やっぱり芸者の変型でしょう、早く言えば。芸者、仲居、雇女をいっしょくたにしてアウフヘーベンしたら、あんなようになるのや(笑)」(「対談 美酒について」開高健・吉行淳之介(新潮文庫))
しかし、まだとけない謎もある。なぜ、CGP曲は「イカツい男が弱い芸者のような女を演じる」のか? 「お座敷小唄」において弱い女性を演じたのは松尾和子である。(のちに「東京ナイトクラブ」などで「ムード歌謡の女王」と呼ばれるようになる)「お座敷~」の直後に歌謡曲にクロスジェンダード現象が生まれ、結果、デュエットソングよりこちらが主流となってゆく。さらに、もともと「お座敷小唄」に登場する男性は裕福な旦那衆タイプであったはずで、暴力団風、水商売風の男というパフォーマーは50年代にはいなかったはずで、この傾向はどこからきたのか?
私見では、暴力団風、水商売風のCGP歌手が登場したのは大下八郎「女の宿」('64)、バーブ佐竹「女心の唄」('65)のこのあたりである。この65年あたりを境に爆発的に菅原洋一、城卓矢、美川憲一、森進一、箱崎晋一朗、内山田洋とクール・ファイブのようなCGP歌手が一気に登場する。この60年代後半のCGP黄金期を経て、70年代に入るとぴんからトリオ「女のみち」('72)、殿さまキングス「なみだの操」('73)で最高潮を迎え、いったんCGPブームは収束する。しかしその精神性はアリス、かぐや姫、長渕、チャゲアス、松山千春、因幡晃などのフォーク勢を経て、福山、EXILE、TUBE、ポルノグラフィティのJ-POPまで脈々と生き続けている、という風に私は見ている。とくにEXILEは暴力感と水商売感が彼らの重要なセールスポイントであることから、バーブ佐竹の正統的な後継者といって差し支えないであろう。
無論、バーブや大したの前の時代、50年代にもCGPは存在する。それは近江俊郎「別れの磯千鳥」('47)、三橋美智也「おんな船頭唄」('50)のような夜の盛り場とは無縁の声楽家出身歌手や民謡出身歌手によるものである。そしてこれらにの歌の主人公は「お座敷小唄」に見られたような「芸者感」がない。つまり自嘲したりおどけたり媚を売るようなそぶりのないう、いわば真面目な人物である。しかし「女心の唄」までくると男に去られた女の辛さがかなり直接的に語られる。
ようするに1964年を境に、歌謡曲は急速に下品になったといえるのだ。この「下品化」を先導したのは無論「お座敷小唄」をはじめとする「作者不詳ソング」たちだ。いったい、1964年になにがあったのか?
などとトボケるまでもなく、64年といえば東京オリンピックに決まっている。私はてっきり東京オリンピックの年はなにしろオリンピックを開催したのだから超好景気だったのだろうと思っていた。しかしこの64年~65年にかけての時期というのは急速に日本の経済が縮小した時期だったようである。ウィキペディアによれば64年にサンウェーブと日本特殊鋼が倒産したことによる。翌、65年には大手証券会社各社が軒並み赤字に陥った。ここで政府は戦後初の赤字国債を発行することで経済成長を維持することになる。つまりこの「お座敷~」ブームの時とは高度経済成長期のなかの谷間の時期だったのである。景気が悪くなると下品な歌が流行るのだろうか。そういえば「お座敷~」の系譜にあたる(芸者のような娘たちがヤケクソ気味に自身の恋を自嘲する唄)「LOVEマシーン」も90年代後半の構造不況を歌の背景に取り込んだものだった。そもそもこの歌を広島のキャバレーで発掘した和田弘自身、この大ヒットをどうとらえていたのか。この年、昭和39年12月23日読売新聞夕刊で和田はインタビューに答えている。
いくら着るものやアクセサリー、それに住居が新しくなったって、日本人は日本人です。心の中は、戦後派も戦前派もないんですね。「お座敷小唄」は地方巡業のとき、ふと耳にして、とてもいい歌だなと思い、東京に帰ってきてレコーディングしたんですが、歌の内容もメロディーも新しいものはありません。いわゆる日本人好みのものなんです。この歌が不景気ムードの象徴だなんていわれましたが、不景気になればみんな余裕がなくなり直接心に訴えてくる歌を求めるんじゃないでしょうか。(ことしのレコード界「健康で正常なムード「五輪音頭」「お座敷小唄」「純愛路線」三つの柱を中心に流行」)
ここでどうにも私はなにか裏切られた恰好になるわけだが、わたしはてっきり「お座敷~」とは「庶民には決して手の届かない芸者遊びの世界をお茶の間向けに翻訳した歌詞」「ドドンパのような最新ビートを取り込んだ、音楽の最先端のお茶の間化」を意図したプロデューシングと考えていた。つまり未だ貧しかったはずの日本人のお茶の間に非日常をぶつけるダイナミズムこそがこの大ヒットの核なのだと考えていたのだ。ところが肝心の和田はこのインタビューでまったく真逆のことを言う。この歌を知らずにインタビューだけ読めば、まるで「お座敷~」が正統派バラードソングかなにかに思えてくる。無論、当時サンザン低俗扱いされた同曲をめぐる言説への反論の意味もあったかもしれない。しかし、この曲が提示した「芸者のような古いタイプの女の女々しい歌詞」と「最新のビート」の組み合わせで大ヒットという、このあとの歌謡曲の大きな金脈となるコンセプトを和田は自分で発明しながらこの時点ではよく理解できていなかったのかもしれない。この和田のヒット分析は受け手にうも共有されていたようだ。昭和40年4月30日読売新聞夕刊で哲学者の鶴見俊輔は同曲を取り上げ、「復古調」だと指摘している。
(お座敷小唄の歌詞は)大正12年という日付をつけてもとおるし、昭和3年という日付をつけてもとおりそうだ。(中略)流行歌の世界に戦後20年経って生まれた復古調は、戦争前の時代の復古調とは働きがちがうだろう。この復古調にはなにか投げやりな感じがする。(現代流行歌の性格 記録性、国際性に新しいアピール)
新しいどころか、「古い」と切り捨てる。しかしさすがは哲学者だけあって、「この復古調はなにか投げやりな感じがする」というところにこの時点では影も形もなかった演歌とムード歌謡の時代の到来の匂いを感じ取っていたらしきところに嗅覚の鋭さをみせている。なぜならまぎれもなく鶴見の言う「復古」とは「古いタイプの女がいる」というCGP歌謡の核心の指摘にほかならないからである。
それにしても大下、バーブの登場はCGPにとって画期的だったと言える。なにしろ水商売風の男性歌手がサム・テイラー風のラテンサウンドで古いタイプの女を歌う、という歌唱モデルがここで完成したのだから。とくにバーブのパフォーマンスは決定的でパンチパーマの暴力的な出で立ちで低姿勢な態度で女心をせつせつと歌うというCGPの様式美をたった一人で完成させたと言える。でもなぜクロスジェンダー現象となったのか。「お座敷~」で芸者を演じたのは松尾和子、女性であったはず。「お座敷小唄」→「女心の歌」のあいだにクロスジェンダー現象が起きた。女性が芸者を演じる小唄ブームは「お座敷~」「松ノ木小唄」あたりの数曲でブームは収束する。しかし、バーブ式のCGPは現在まで受け継がれている。歴史を振り返ればこの時のクロスジェンダー現象は歴史的転換点と言えそうである。では「お座敷~」と「女心の歌」はなにが違うのか。次回はこの、両者のあいだで起こった転換点について考える。つづく。