見出し画像

菅原洋一や水原弘が視野に入っていることの凄さ(ラブソングの危機を考える16)

 前回の続きで今回は1980年のアルバム、「RIDE ON TIME」からである。


・山下達郎「RIDE ON TIME」(1980年)
ヒット曲「RIDE ON TIME」を含む代表作。全9曲。吉田(美奈子)詞6曲、山下(達郎)詞3曲の構成。このアルバムでは「RAINY DAY」と「雲のゆくえに(CLOUDS)」に注目である。いずれも吉田詞であるが、女性の主人公が失った愛について思いを巡らすというもので、もともと吉田に書き下ろした曲を取り上げるという、(注1)前回で述べた「時よ」と同様のパターンである。吉田提供曲(女性が主人公の恋愛の歌)を山下自身で取り上げる際の歌詞の処理については「ラストステップ」('76)以来、一貫していて、男性が歌っても不自然にならないように「てよだわ」的な女言葉を削除する、という方法をとっている。また、「あなたの腕に身を任せて」のような男性主体だと不自然となる描写を「あなたの胸に包まれながら」と改変する、というような形で成立させている。「RAINY DAY」でも「それは遠い昔の愛なの」→「~愛の日」、「そうよ あなたと」→「それは あなたと」と男性詞に改変している。無論、「てよだわ」のような助詞を変えたところで「女性的な心情」というベースが変化するわけではない。結果、この時期の山下曲は「ナヨナヨした女々しい男性の心情とオシャレなサウンド」のようなことになってしまっている。これと「RIDE ON TIME」の直情的な男性的な歌詞がひとつのアルバムに同居するという、リリックの面では奇妙なアルバムになっている。ひとつ言えることはこの時期、山下はかたくなに「てよだわ」言葉を歌わなかったということだ。


・「FOR YOU」(1982年)
「SPARKLE」、「LOVELAND,ISLAND」など今でもライブの定番曲を多く含む名盤。全8曲(アカペラのインタールード除く)吉田詞4曲、山下詞3曲、アランオデイ詞1曲。大名盤だが、CGP論的にとくになにもいうことが無いアルバム。おそらく吉田詞もすべてこのアルバム用に書き下ろしたものだろう。男性がそのまま歌っても支障がないような抽象的な表現にシフトした歌詞となっている。それは山下詞の「LOVELAND~」にもいえることで全体にサウンドに重点を置いたアルバム。つまり言葉はサウンドのアクセサリーのように散りばめられているというような存在なのだ。恋愛についての歌は「FUTARI」と英語詞の「YOUR EYES」のみ。CGP的な感覚からもっとも遠い世界だ。


・シングル「あまく危険な香り」(1982年)
「FOR YOU」発表後にでたシングル。「FOR YOU」と同じ演奏メンバー、プロダクトと思われるが、「FOR YOU」のようなイケイケ路線ではなく、沈んだ、メロウな曲調。山下詞である。私は今まで「あまく~」をCGPだと考えていたが、ちゃんと歌詞を読むと微妙だ。まず、「てよだわ」的女言葉はよく読むと使用されていない。しかしここに描かれる心情は実にCGP的なもので「あなた」に「傷ついた」心だが、取り戻すことはもうない。通り過ぎたのは「あまく 危険な愛の香り」だ、とエグザイル「Ti Amo」にも引き継がれているCGP的心情が見られる。つまり、サーファー的、「RIDE ON TIME」的な若者向けの心情の歌ではないということだ。これが吉田詞ならこれまでのパターンだと理解できるが、CGP的心情を山下が書く、というのはどういう企画意図があったのか? 「あまく~」の歌詞について軽く触れているインタビューがある。


 「あまく危険な香り」はもともと「FOR YOU」用に作っていた曲なんですか?
達郎 いや、それはあくまで「FOR YOU」の製作時期のレコーディングという意味で、その時点ではダビングもあまり詰めてなかった。もともとは漠然と誰か大人の歌手に歌ってもらおうと思って、フランク永井さんあたりを想定して書いたの。(中略)完全に夢想なんだけど、たとえば菅原洋一さんとかフランク永井さんとか水原弘さんとか、ああいうバリトンのちょっと洋楽的なテイストを持っているシンガーに歌ってもらおうと思って書いたの。(TATSUROMANIA No.87.2013Autumn「ヒストリーオブ山下達郎第32回」)

ここでCGP論的に注目するのは、当時の山下のような、サーファーに人気の若者音楽の旗手、とされていた者が菅原や水原のような典型的なCGP歌手に曲を書こうと考えていたということだ。洋楽の最先端と目されていた者が、演歌スレスレのドメスティックを手がけようとしていたということで、山下がプロデューサーとして不思議な感覚を持っていたとわかる。結果、「あまく~」自体はスタッフの勧めもあり自身で歌うことになったが、バリー・ホワイト風の楽曲「WOMAN」をこの年、山下はフランク永井に提供している。「あまく~」の歌詞自体はCGPと呼ぶには微妙なものだが、作家としてはCGPを当然に視野に入れていたということは重要である。このことの重要性を、たとえば渋谷系のプロデューサーなどは決してCGP業界(菅原洋一や城卓矢など)を視野にいれることはない、ということからもおわかりいただけるだろう。普通の文化人や近代メディアが「ないもの」としているドメスティック感覚を山下は自身の「最先端」とされている音楽に当然に「あるもの」と考えていた。このあと「高気圧ガール」(注2)というシングルを翌年発表するがCGP的になにもいうことのない曲なので飛ばすことにする。


・シングル「スプリンクラー」(1983年)
本稿の目的は「いつから山下達郎は広沢虎造みたいな歌い方になったか」なのだが、答えはこの曲である。いわゆる山下達郎的、クドイ歌唱が確立した曲である。また、「あまく~」や「クリスマス・イブ」などと比べると虎造的な唸る余白の多い曲で、このあとの楽曲は「クリスマス・イブ」や「ヘロン」のような余白のない曲と「THE WAR SONG」「Splender」のような余白の多い曲(つまり唸る曲)に二分してゆく。「スプリンクラー」では唸る。それでは「スプリンクラー」はCGPか? CGPではない。しかし、主人公の男性の「女々しい心情」が描かれている。この1982年~1983年にかけてのCGP歌手への視線、唸る歌唱の誕生のあたりで作家、歌手ともども変容していたように見える。84年に変貌していった長渕、アスカより1年早かったことになるが、やはりこの時期なのである。そしてこの83年以降、山下は歌詞について原則、自作詞でいくことを決意している。このことについても興味深い発言がある。


 何よりまず、自分自身の言葉で歌いたくなったことが第一だった。どんなに稚拙でもそうすることによって自分の音楽がより個人的なものになるから。あと、自分の曲に乗っている歌詞が男性の作った言葉はじゃないことにも不満があった。女の人の言葉もメロウでいいんだけど、もっと男のやくざな感性が欲しいというか・・・。(TATSUROMANIA No.20.1996Winter)

「やくざな感性」というイメージに私は反応してしまう。というのも日本のポップス、たとえばミスチルでもスピッツでも小沢健二でも構わないのだが、ポップスは「やくざではない、近代人の感覚」をいかにアップデートしたか、の競技のような側面がある。小沢健二の恋愛ソングが画期的とされるのは近代人のもっとも進んだ恋愛観を提示してみせるからである。しかし、山下の歌詞観とは、もともとその競技の場外にいるようなのだ。しかし国民的と呼ばれるほどのヒットとは常にそのような競技の場外からしかでてこないように思うのだ。しかし、山下自身、「詞作は得意ではない」というように「男のやくざな感性」の世界をどれほど貫徹できたかはよくわからない。というのも長渕「とんぼ」がアウトロー歌謡のひとつの到達点を示して以降、90年代以降、アウトロー歌謡の旗色は非常に悪いものとなったからだ。辛うじて長渕とシャ乱Qが気を吐いていたのだが、90年代は小沢健二をはじめとする近代人によってやくざが制圧されてしまったように思える。そのようなさなかにヒップホップ、ラップ文化が90年代には台頭する。

 この文化は全国の不良、アウトロー志向の少年たちを魅了することになるが、アウトロー歌謡の代替物とは残念ながらなり得なかったようだ。おそらく山下の言う「男のやくざな感性」とヒップホップはイコールではない。どうしてヒップホップ、ラップはアウトロー歌謡になりえなかったのか? 日本のラッパーにも悪声の者は多いが、あれは浪曲ではないのか? 浪曲でないとしたら、長渕を除き、歌謡界にはもう浪曲の歌手はいないということか? 絶滅してしまったのか。女々しい心情を訴えたり、不合理な義理人情を讃えるような表現はもう歌謡曲にはお呼びでないのか。もともと日本の不良の感性とは連続性がなさそうなラップの「セルフボースティング」(注3)のほうが現代にとってリアリティがあるのか。

次回は「ラップは日本の歌謡とはなりえないのはなぜか」ということについて考えてみよう。つづく。

注1・・・「RAINY DAY」は吉田美奈子のアルバム「MONOCHROME」('80)、「雲のゆくえに(CLOUDS)」は「Let's Do It-愛は思うまま-」('78)用に書き下ろされた曲。

注2・・・この稿では達郎氏をさんざん浪曲呼ばわりしているが、何が浪曲なのかわからないという方もいるだろう。「高気圧ガール」は2009年のライブツアーで23年ぶりにステージで歌われた。2011年リリースのシングル「愛してるって言えなくたって」のカップリングに2009年4月25日ニトリ文化ホール公演の音源が収録されている。このパフォーマンスに「達郎浪曲とはどういうことか」が端的に示されている。爽やかなポップスがネバつくほどクドいことになっているのがおわかりいただけるだろう。「高気圧ガールfeaturing広沢虎造」とクレジットしても信じてしまいそうだ。達郎ファンの多くはこの、レコードでは聴けない「アクみ、臭み」をライブパフォーマンスに求めて足しげく通うことになる。

注3・・・ラップ表現の定番、一種の自画自賛である。「俺がいかにすごいか、何人人を殺したか知ってるのか? 俺に近づくんじゃない」といったラップ詞。日本の不良の感性の源流は近代以前のやくざの仁義あたりに遡れると思うが「お控えなすって」に象徴される「自身を下げる」文化である。つまり合衆国におけるマイノリティと日本の不良は別の文化、文脈と考えられる。だが、ロックだって何十年かかかって日本の歌謡曲に根付いたわけでそのうちヒップホップもヒップホップ界の宇崎竜童や長渕のような人が現れて、そうなるのかと思っていたがどうもそういう感じではない。今のところ。

いいなと思ったら応援しよう!