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「主語がでかい」と言う人は自分に読解力がないことを喧伝しているだけ

「主語がでかい」という言葉をここ数年ネットでわりと目にするようになりました。
僕もブログがバズるとだいたい一人二人は「主語がでかい」と言う人が現れます。
流行ってるんですかね?
今までこれに反応したことはありませんでしたが、最近何度かまた目にしたので、僕の考えを述べておきます。

「主語がでかい」って何?

そもそも「主語がでかい」ってどういうことでしょう?
例えば僕のブログでいうと、小山田圭吾氏の過去のいじめ事件が話題になった際「ミュージシャンなんてだいたいそんなもんです」とこちらで書いたことがあります。

これについて「主語がでかい」というブコメがありました。
要するに「ミュージシャンがみんながみんな小山田みたいな人間じゃねーよ」という反論です。
その他例を挙げると、

「日本人は陰湿だ」
「東京の人は冷たい」
「関西人は面白い」
「横浜の飯はまずい」

などなどが「主語がでかい」と言えるでしょう。
一見正論のようですが、実はこれは「主語がでかい」と言っている人の読解力が不足しているだけなんです。

「でかい主語」の意義

では実際に僕が使った「でかい主語」で説明しましょう。
まず、小山田氏を例に「ミュージシャンなんてだいたいそんなもんです」と断言することで生まれる誤解や語弊、いわゆる「主語のでかさ」は当然僕も理解しています。
また、そこを批判されたり、そのせいで炎上する可能性も想像できます。
そこで日和って主語を小さくしていくとどうなるでしょうか?

ミュージシャンの中には、確かに小山田氏のように他人を傷つけたり弱者をいじめて平気な人もいる。
一方で人をいたわり、弱者に寄り添って活動する者もいる。
ミュージシャンだからといってみんながみんな小山田氏のような人間だとは思わないでほしい。
ただし本当におかしな人もいるからそこは気を付けるべきだろう。

おそらくこれぐらい書くと正論に近づいていくのでしょう。
でもこの文章、面白いですか?
なんか批判を見据えて日和って逃げ道を確保している印象があるし、何が言いたいのか、書き手はどう考えているのかが分かりません。
それなら、

「ミュージシャンなんてだいたいそんなもんです」

とずばっと断定した方が簡潔でインパクトがあるし、書き手である僕の立場や意見も100%伝わるし、読んでいて面白いはずです。
実際上記の記事はバズりましたからね。
読み物である以上、読者が面白いと感じ、反応したくなるような内容であるべきです。
「でかい主語」は、言い方は悪いですが読者を食いつかせる餌として十分意義があるのです。
実際「主語がでかい」というコメントが流行っていることからもその意義は実証されていると言っていいでしょう。

正確性は無視?

さて、「でかい主語」の意義はご理解いただけたかと思います。
確かに「でかい主義」にはインパクトがあるし、実際に食いつく読者が多いことも分かった、じゃあ「でかい主語」で主張の正確性が失われていることは問題ないのか?
AはBだと言い切ったときにこぼれ落ちるCやDやEには言及しなくてもいいのか??
そう怒る人がいるのもごもっともでしょう。
恐らく「主語がでかい」という批判の最大の趣旨はそこにあるのでしょう。
ただ、これって実は読者側の読解力の問題だったりするんですよね。

前提を行間に委ねる

「でかい主語」を使う意義は、文章のキレ、インパクト、立場の表明などにあると延べました。
さらにこの「でかい主語」には、もうひとつ隠された文章テクニックが潜んでいます。
それが<前提を行間に委ねる>です。

上記の小山田氏の記事で考えてみましょう。

そもそもミュージシャンが誰しも小山田氏のような人間でないとは誰でも分かりますよね?
ということは、そこはもう書き手と読み手の共通認識となるわけです。
共通認識だったら省略してもいいはずなので「ミュージシャンが誰しも小山田氏のような人ではない」という前提でそれを行間に委ね、あえて「ミュージシャンなんてだいたいそんなもんです」とでかい主語で書いてあるわけです。
読解力のある読者なら「ミュージシャンなんてだいたいそんなもんです」という一文を読んだとき、『ん?ミュージシャンが全員小山田氏のような人ではないはず、この作者もそれぐらいの常識はあるだろう……てことはそこが前提であえて省略してこう断定しているのか…』と理解できるはずです。
これがいわゆる「行間を読む」ということです。
正直25歳過ぎてこうした能動的理解が出来ない人は読解力が決定的に足りません。
「主語がでかい」は、こうした読解力が不足しているが故の早とちりです。
ですから「主語がでかい」と批判している人は「ぼく、行間が読めません」と言っているようなものです。

「でかい主語」には読者への信頼と敬意がある

小山田氏を例に挙げ「ミュージシャンなんてだいたいそんなもん」と述べることの危険性は、いっぱしの物書きなら誰でも理解できます。
あえてそれを行うのは前述のような意義があるのと、さらには『読者は行間を読めるはずだ』『読者は馬鹿ではない』という信頼と尊敬の念があるからです。
僕が「ミュージシャンなんてだいたいそんなもん」の後に「もちろんそうでない人もいるけど」と足さないのは、そういう理由もあります。
そして、その行間をしっかりと読み取れる読者も確かに存在します。
ただ残念ながら、書き手の敬意が届かない読者がいることも事実です。
個人的には様々な理由で後者は切ることにしています。
そちらに合わせると文章の質が下がるのと、内容が面白くなくなるので。

行間を読めるようになろう

文章を読んでいて「主語がでかい」と思ったら、立ち止まってその行間に何があるのかを想像してみましょう。
『あれ、普通に例外があるのにな?』『なんでこんな大雑把な断定するの?』と自分が思ったことは、書き手も必ず思っています。
『書き手も絶対思ってるはず』と考えることで、例外も当然存在することが前提となるので、じゃあ書かなくても分かるからあえて省略しているということが理解できるようになります。
これができるようになると行間に担保された論理性を頼りに、ダイナミックな文章を楽しめるようになり、いちいち主語のでかさに食いつかなくなります。
主語のでかさに食いついてくる読者は、書き手からすればとても”いい読者”です(つまり、カモということ)。
書き手に踊らされたくなければ読解力を上げ、行間を読めるようになりましょう。