おじさんが作品にマウントを取る際に多用する「破術の計」について解説する
漫画や小説、アニメ、その他作品やその作者にやたらとマウントを取りたがるおじさんがいます。
こういった人たちの思考や傾向にある共通点があることに以前から気づいていました。
それは、おじさんはやたらと見破りたがるということです。
それについて最近頭の中でまとまったので書いておきます。
おじさんは見破りたい ~破術の計
やたらと何かを見破りたがるおじさん独特のマウントの取り方を僕は「破術の計」と名付けました。
まずはその前段階として、おじさんの思考を簡単にさらっていきましょう。
マウントを取りたくてうずうずしているおじさんは、若者のように正攻法で攻撃することはしません。
おじさんともなればある程度の経験やそれなりの見識もあるので、一見下手だったり穴がありそうでも、プロの作品にはそれなりの技術や知識があったりあえてそうする理由があるものだと知っています。
また、下手にSNSなどで正面からマウントを取ってファンから叩かれたり、専門家に詰められたり、作者本人に反応されでもしたらみっともないし、自分が負けるということも知っています。
でもやっぱりマウントが取りたい!
そこでおじさんは「術」という概念を生み出します。
この「術」とは、作品そのものではなく、その奥にある作者や会社の策略、謀略、戦術のようなものと考えていいでしょう。
ちなみにこれは「主題」とは異なります。
「主題」は作品に込めたテーマやメッセージのこと。
おじさんの言う「術」とはもっとドロドロした人を騙すための陰謀的な何かです。
ちなみに、その「術」はそもそも存在しないことがほとんどです(それについては後述)。
おじさんは、あらゆる作品にこうした「術」が仕掛けられているとします。
本当はそれがないことを分かっている場合と、本当にそういった「術」が存在すると思い込んでいる場合があります。
いずれにせよ、ターゲットとなる作品に仕掛けられた「術」を指摘し、それを『見破ったり!』と宣言することでマウントを取ろうとします。
これがおじさん特有のマウント法「破術の計」です。
有り体に言うと一人相撲なのですが、おじさんならではの知識や論理構成力が作用し、比較的高確率で成功したり、一定の成果を出せることが多いようです。
「破術の計」の実例
直近で見かけた「破術の計」がこちら。
どこかの大学教授が投稿したツイートです。
対象作品
「葬送のフリーレン」(2023年秋話題のアニメ)
術
作者および出版社は「自分の身の回りの世話をしてくれて血がつながっていない、天才だけど経験が不足していて、経験だけは豊富に持っている自分を尊敬してくれる弟子が1名だけほしい」という独身高齢者の願望を刺激し、比較的裕福でもあるそうした層に、作品に対して金を落とさせる。
これを「見破ったり!」とするのがツイートの主題であり、そこでマウント成立です。
最後の「上手い」には「上手い術だ、だが自分には見えているぞ。凡百の読者・視聴者は騙せても俺は騙されない!」という気概のようなものが滲み出ています。
この「上手い」さえなければもっと客観的な分析っぽく読めたんでしょうが。
マウントを取りたいという意志があるからどうしても「上手い」という感情のこもった余計な一言を足してしまったのでしょう。
「術」で多方面マウントを
作品や作者にマウントを取るためにわざわざありもしない「術」という概念を生み出す意味は他にもあります。
それは、上手くやれば多方面にマウントが取れるからです。
そもそも彼らの言う「術」とは、作者や編集者、制作会社などが作品にかけているとするものです。
そうして制作サイドがかけた「術」を『見破ったり!』とすることにマウントおじさんは意義を見いだしているのですが、欲張りなおじさんはさらに、漫画なら読者に対しても『お前らにこの術が分かるか?分からなかっただろ?』とマウントを仕掛けます。
この場合読者サイドが自分の「破術の計」を肯定しても否定してもどっちでも構いません。
「術などない」と言われれば『こいつは話の筋しか理解できないアホだ』とさらなるマウントが取れるし、術に賛同する人がいればそれはそれで自尊心がくすぐられるからです。
なんともよく出来た計略です。
「破術の計 ライト」
この「破術の計」は、ある程度の理解力と想像力、そして自説を表現する論理構成力が必要とされます。
もしかしたら実践するには大学教授クラスの知性が必要なのかもしれません。
しかしおじさんはめげません。
上記のツイートのような文章が書けないおじさん達は、「破術の計 ライト」を編み出しました
これは「術」について具体的な記述を避けながらしっかりと『見破ったり!』と主張できる、とても便利な手法です。
代表的なテクストとして『術中にはめられる』があります。
おじさんのレビューなどで「危うく作者の術中にはまりそうになった」「これ以上○○すると作者の術中にはまってしまう」といった表現をよく目にしませんか?
それらは全て<自分は作者の術を理解しており、見破っている>が前提となります。
しかしその「術」について説明する能力がないので「これ以上書くと作者の術中にはまりそうなのでこのへんで…」などと上手に濁してきっちりマウントだけ取って逃げます。
恐らくその「術」について追求されたときの逃げ口上や逃げ道は同時に考えてあるのでしょう。
なぜそこまでして「見破り」たいのか?
ここで疑問に思う人も出てくるでしょう。
おじさんって、何でそんなに「見破り」たいの?
これは自分もおじさんだから分かります。
おじさんになると、ある程度社会の裏側が見えてき、それらも含めてちゃんと物事を見据えられていることに価値を見いだすようになるからです。
簡単に言うと『社会の裏側見えてる自分カッケー!』と思いたいのです。
そして実際社会の裏側も見えていないと生きていけないですからね…
そうした人生観と承認欲求が混ざり合って、ターゲットとなる作品にありもしない「術」という裏の意図を作り出し(世の中にも裏があるんだから作品にも裏があるはず!)、それを見破る自分という構図を構築することで自尊心を満足させようとするのです。
作品に術もクソもない
最後に一応物書きとして言っておくと、作品に術もクソもありません。
百歩譲って編集者とかプロデューサーにあったとしても、作家、プレイヤー、クリエイターはそんなこと考えて作品を作ってはいませんよ。
僕の本でいうと「ギタリスト身体論」がたぶん一番売れて長く読みつがれていますが、「術」などという妙ちきりんなものは一切使っておりません。
また、他のクリエイターも間違いなく「術」などというものは持っていないと断言してもいいでしょう(技術とかコツとかは別)。
なぜ断言できるかというと、こざかしい「術」(この層のここを刺激したら売れる!みたいな策略)では創作という苦しい苦しい作業に耐えられないからです。
例えば「葬送のフリーレン」の作者が本当に、増えてきた高齢者層を取り込むためにキャラクターや設定、ストーリーを構築したとしたらどうでしょう?
そんな愛着もない物語を書き続けることは絶対にできません。
苦しい創作を支えてくれるのは「術」でもなければお金でもありません。
それはキャラクターへの愛着、愛情であり、物語への責任、親心、キャラクターとの会話、彼らと分かち合う苦しみや喜び、彼らと一緒の世界を生きているという不思議な没入感、完成後のなんとも言えないすっきりした気分、そして寂しさ、また次の作品へと向かう使命感……
そういったもので地獄のような創作活動は成り立っています。
術で創作でき、それがその術通りに受け取られるのであれば、誰も苦労はしないし、そしてそれが本当なら誰ももう創作なんてしないでしょう。
術がどうたら言うおじさんはさっさとその術で創作し、ヒットして大金持ちになればいい。
「破術の計」は一番バカにされる
最後に、アーティスト、クリエイターが一番バカにして大笑いしネタにするのが実は「破術の計」です。
一度でも作品に対して「術」がどうたらとか言われたことのある人は
「マーケティング通り作品書いて売れたら苦労しねーってのwwww」
「術wwwwwwちょww術ってなに?wwww」
と爆笑しているはずです。
正直そんなレビューやコメントよりも中学生の「つまんない」の方が刺さるし、傷付きます。
ですので、やたらと見破りたがるおじさんは変に頭使って「見破ったり!」とするよりも、素直に面白い/つまんないと言いましょう。
その方が作者に届きますよ。
ただ、物事の奥を見ようとする姿勢は重要だとは思いますが。
僕も気になる作品があればできるだけその奥にある作者の思考、哲学、世界観、できれば無意識まで到達しようとはします。
ただそれはマウントを取るためではなく敬意を持って行うので(敬意がなければそんなめんどくさいことはしない)、「見破ったり!」にはならないですねえ。