「大事に至る」って何だろうか
人生わからないもので、先日何かの間違いで(?)、小説家の角田光代さんとお話しさせていただいた。
彼女が、若造であるところの福永をみて、ほぼ開口一番切り出した話題はざっくりいうとこういったものだ。
「若いうちは、何かものづくりをしていて、修正をさせられたり自分の思い通り作れない場面と遭遇すると、なんだか自分を汚されているような気がしたりする。だけど今思えば、そんなのは瑣末なことに過ぎない。そんなことは『自分らしさ』の幹ではないし、そんなことで自分の魂は汚れない。大事には至らないんだから、細かいことは全部譲っちゃえば良い。」
例えば若い頃は編集者と句読点の位置をどっちにするかで揉めた、だとか、そう言った切り口からお話ししてくださった。
物作りに携わる人間として極めて理解できる切り口であった。
いや、どんな仕事でも大体そんなものなんじゃないかしら。
全ての仕事はパーソナリティや能力を用いてなんらかの価値を産み、その対価をいただく。仕事の際に生まれる一般的な疑心暗鬼のお話だ。
完全に同意、というか同意を通り越して感銘を受けていたものの、またとない良い機会なので、ちょっと風情に欠けるかもしれない、と思いつつ、1つ質問をしてみた。
「では、角田さんにとって...魂の幹が汚れるのはどんな時だと思いますか?」
「それは...お金やな。」
なるほど、ギャラが低い仕事を受けてプライドを捨てるだとか、逆にやりたくもないギャラの高い仕事を受けて、とか、そういうお話か。なんて、てっきりそんなふうに思っていたら、切り口はもっと斬新であった。
「仮に、今から20年前に原発のPRのCM作曲を100万円で受けてくれ、と言われたとする。その10年後にあんなことになるとは誰も想像していない。そしてあなたは貧乏で、食うに困っているとしたら....こんな良いギャラの話、引き受けるやろ?でもそれは10年後に魂の幹を汚すことになりうる。」
はぁぁ...なるほど。
「いくらお金を積まれてもおでこに『肉』ってタトゥーを入れたらいけないってお話...ですね。」と感動しすぎて全く意味のわからない返答をした福永に対してカラッとした笑顔で「うん、まあ...そういうことや。」と答えた角田さんは出会って10分で「出会えて嬉しかった大人ランキング」にサッとランクインしたのであった。
「大事に至る」のはどんなことか。
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先日福永が所属するバンド"airezias"がYoutube企画「RTA」で制作した楽曲たちをデジタル(配信)リリースした。
RTAとは、色々端折ってざっくり言えばさまざまな音楽家とコラボしたりして、縛りプレイで1曲作ってみようぜ、という企画である。
リリースに際しては、販促の意味も込めて、コラボしてくださった音楽家のみなさんとの対談を敢行、記事にして公開している。
RTA No.7では"ryohadano"という音楽家と「spoon」という曲を編曲・演奏した。その上でryohadanoと対談も行わせていただいた。
hadanoさんが語った中で、日常的に反芻してしまう言葉がある。
「うっとりを集めて死にたいんよ」
彼にとって人間関係の瑣末な争いや、共同楽曲制作においてのちょっとしたアレンジ方針の違いは大事には至らない。だから、どうも、常に飄々としている。喧嘩にはギャグで返答するし、アレンジの方針はまあぶっちゃけると「どっちでもよい」けどそう答えると怒られそうだなと思い、なんかしらそれらしく答える。と、いうような。本人は飄々としてしまうことについては「職場で、ちゃんとやる気あるのに、やる気あるんか?と思われてしまう...」と悩んでいたりもする。
でも、話しているうちに明らかになっていく。
石好きのhadanoさんが「今日どんな石を拾うか」
絵画好きのhadanoさんが「部屋にどんな絵を飾るか」
宅録好きのhadanoさんが「どんな録音方法でどんなフレーズを収録するか」
看板好きのhadanoさんが「街でどんな看板と出会うか」
こういった「個人的なうっとり」にまつわることは「大事に至る」ので譲れない。そういう、うっとりを集めて死にたいんよ。ということである。
普段はだいたい飄々としているけど、なんだか稀に異様な執着を見せる。ryohadanoという男の種と仕掛けの一端をみた気がした。
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近頃、友人が女の子に振られた。
熱烈にアプローチしたもののその好意には双方向性がなかったというシンプルな出来事である。
落胆する彼と酒を飲んだ。なんだろう、ここしばらく恋愛から遠ざかっていたもので、衝動と真実しかないような、爆発的な会話をしたのは久しぶりだった。なんだか懐かしい。学生時代みたい。31歳になったって、恋愛を前にしたら我々はひよこである。
「その恋愛」と出会うのは初めてだから。
一方ほぼ同じ頃、別の友人が女の子へのアプローチに成功した。
高揚する彼とも酒を飲んだ。
シャイなもんで露骨な表現を避けているものの、口から飛び出すあらゆるエピソードがその恋愛が成就したことの喜びにそこはかとなく紐づいている。
そういえばそうだった。恋愛って「大事に至る。」
でもなんだか、年齢もあってか、このところもう少し現実との折り合いをつけるようなカップルのエピソードトークを聞く機会が増えていたもので。忘れかけていた。
生業とはいえ、家でパソコンに向かって音を吹き込んでいるだけじゃいかんな、と思う。金木犀の香りにむせながら歩道橋の下でビール缶を積み上げて、白んできた空に驚いちゃうようなことに、なんの生産性もなかったとしても、生産性のない時間特有の生命力がそこにはある。それこそ「大事に至る。」
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福永が落ち込む人を励ますのに使う常套手段...なんて言ってしまったらアレだが、ライフハックとして布教して回っている考え方がある。
「自分にとってつまんない、苦しい、辛い、そういう発想は全部悪です。ガンガン捨てて、さっさと逃げましょう。」
まあ、暴論に聞こえるかもしれないけどちょっとだけ話を聞いてみてほしい。
この世に生を受けた意味や理由が明確にある人はいない。
生を受けた因果については語りうるが、意味や理由ってのはない。
まあもう少し信仰・信奉が強い地域・時代であれば「私は〜の生まれ変わりで」とか「私は〜の預言者で」といったような"切実に信じられる生まれた理由・意味"のある人がいるかもしれないので...あんまり普遍的なもんではないのだが。
ダーウィンの進化論を中心に添えた現代の日本の一般的な感覚としては、「生まれた理由・意味」に該当する概念は"ない"で差し支えないんじゃないかと想像する。
生まれたのに理由や意味がなくて、同様にこの世の全ての営みにも、理由も意味もない。
因果はある。それに付随する実行力もある。
共同主観的に信じるストーリーもある。
でも、人それぞれの主観は人それぞれである。
と、いうことは、とある出来事があったときに、それを解釈して「〜という理由で」「良い」「悪い」「気持ち良い」「嬉しい」「辛い」「悲しい」と判決を下すのは自分のほうである。
出来事そのものが正や負のオーラをあらかじめ纏ってやってくる、のではない。
例えば、ステーキが正のオーラを纏っているのではない。日頃は滅多に食えないステーキと久しぶりに出会って、脂身がもう涙が出るほど愛おしいって日もあれば、ちょうど偶然2000日連続でステーキを食っているところで、ふざけんなまたステーキかよと落胆しながら胃に流し込む日だってある。(あるのか?)
つまり出来事になんらかのストーリーを付随させて正か負かの判決をくだし、感情に差し替えるのは自分自身の感受性であると言える。
極論、どんな出来事も、良いようにも言えるし、悪いようにも言える。
「2001日も連続でステーキを食えてオラは幸せモンだ」と言い換えても、それはそれで全く差し支えない。
ブッダが説く「悟り」というやつはこれに近い。怪我をして、痛い。だが、痛いから苦しいのではない。痛みがおさまってほしいと渇愛することが、苦しみを生んでいる。つまり、痛みは痛みとして、あるがままを受け入れれば...痛みは消えなくとも、少なくとも苦しくはならないんじゃない?と。
出来事そのものに付随させるストーリーを変更して、自分の判別を変えよう、という意味ではステーキの例もブッダの悟りも共通である。(...祟られませんように。)
さて。ということは。
「自分にとってつまんない、苦しい、辛い発想は全部悪です。」と言ってみたって、特に差し支えはない。案外暴論でもないんじゃなかろうか。
そのほうが今自分にとって楽なら、そう考えてみたって、全然ファールではない。
今まさに気が滅入っている人にとって、なんの意味もオーラも孕んでいないはずのプレーンな「出来事」ってやつを、つまらなく、辛く、苦しいものとして捉えるのにどんな良さや必要性があるだろう?
そもそも根本的には、なーんも意味なんてないのに?
自分の中に負の発想が渦巻いたなら、大いに逃げ出して、大いにサボってよい。そして、自分にとって都合よく解釈したって良い。それは反則ではない。きちんと元気になってからごく自然と湧いてきたモチベーションを担保に改めて取り組んでみたって、なんらスポーツマンシップに反する行為とは思わない。
自分にとって楽で楽しくて嬉しいことだけやっちゃえ!まずは逃げろ!
と、まあ、そういった論理になるのですけれど。
結構良い発明なんじゃないかと思っている。
ライフハックとして、テクニックとして有効なように思う。
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でも。
どんな石にうっとりするか?
どんな人に恋するか?
時には意味でも理由でもストーリーでもオーラでもなく、ただ純然と本能に近いところで楽器が鳴るような感覚で湧き上がってくる正の感情/負の感情があって、それこそ「大事に至る」ことであり、「自然の摂理」でもあるのかもしれなくて...
僕ら大人たちは、ライフハック、テクニックとしての感情のあやし方を学んで損はないと思う。例えば昨今のSNS。一部のノイジーマイノリティが目につきやすいだけではあれ、「自分の正義は絶対に正義。だからその反対は絶対に悪。殴ってよし。」といった感覚で汚い言葉で殴る行為は、幼稚園で怒られてしまうような、自らの感情のコントロールの不得手さが原因のように思われてならない。物事の反対側への想像力、正義の多層さについての洞察力、相手の主張の出どころや感情に関する考察力...。
意見の成熟を図るためのコミュニケーションとしても、論理的に自分の主張の筋を通すためのディベートとしても、自らの主張を広く一般に普及させるためのマーケティングとしても...あらゆる面でそういった「感情爆発」系の表現にはシンプルにメリットがない。言い換えると、極めてもったいない。
それだけならともかく、時にそう言った言葉が他の人をひどく傷つける。
実際に命に関わる事例が出てしまっている以上、重く受け止めても良いはずだ。
感情コントロールの不得手さが、結果的に他人に「大事に至る」傷を負わせてしまうのだとしたら。
感情の奴隷になるのはもったいないことだとは思う。基本的には...。
でも......そうやって感情に溺れる経験もまた...海の広さを知る貴重な機会なのかもしれない。事実、私は無力である。そして、海の波が自らを運んでいる。自由意志とは無関係に。完全に逃れることもまた不可能だ。
多分、全か無かである必要はない。必要はないというより、グラデーションを消そうとすること自体が、また新たな歪みを生みかねない。
もしかしたらそういう経験をした人だけが、溺れながら泳いできた人だけが、例えば角田さんのような、不思議なムードと説得力を放ちながら「そんなことでお前の魂は汚れない」と口にできるのかもしれない。
感情の奴隷であって良いとは思わない。でも、事実、奴隷ではある。テクニックは学べる。ライフハックは創れる。でもこの世の中には不可能だってある。葛藤。大人の中に住む子供。あるいはその反対。
福永の心に迫ったのは、キュンときちゃったのは。
「そう簡単に、魂は汚れない」という言葉そのものではなく、あの瞬間の眼差しのほうだったのかもしれない、とも思う。
はだのさん。こんな雑多なエピソードも「うっとり」と名付けてコレクションしてみても良いですかね?
彼の答えは...きっとyes。
「君がうっとりしてるなら、なんでもいいんじゃない。俺は俺で勝手にうっとりしてるから、君は君で勝手にどうぞ。」
飄々としてるぜ、はだのさん...。(大いに妄想)
とまあ、出来事としてはそんなに大層なことは何も起きていないのだが(角田さんにお会いしたのはかなりびっくりでしたが)、日常のちょっとしたあれこれが、福永にとっては書き残しておきたいくらいには「大事に至る」ことなのである。
まあ、魂もうっとりも大事も。一旦脇に置いて。
結局のところ言いたいのはこれだけ。
二人の恋愛ファイターに、無垢の幸あれ!
本日はこれでおしまいです。
以下は、路上ライブで言うところの「ギターケース」のつもり。
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