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死ぬこと以外かすり傷

今回は僕の高校時代の思い出ばなしを中心に、振り返ってみて思ったことについて。この写真は高校時代の僕の心を1番表してくれて

まず、高校の時の僕をざっと説明するとこんな感じになる。

県内で三強に入る私立高校のサッカー部に田舎から意気揚々と入部し、寮に入る。一年生の時は試合に出られず、週末の練習試合では寮からグランドまで10km自転車をこぎ、朝6時半からグランド準備をし、出番が来るのは夕方によくわからん中学生のBチーム相手に最後の20分だけ。(これをいつメンで残飯処理班と呼んだ)その間は先輩にビビり、テントにも入れず、何時間もゴール裏で練習したり友達と愚痴り合った。チームはインターハイ予選、選手権予選ともにベスト8。

二年生の時もチームでの立ち場はほぼ変わらない。なんなら後輩ができてちょっとしゃしゃり始めた。調子が良くて何度かAチームの練習に入れてもらっても、怪我かチャンスでやらかして、安定のBチーム。寮が嫌で逃げるように退寮し、一人暮らし開始。チームはインターハイ予選優勝、選手権予選ベスト8。

三年生になってもトップの公式戦には出れなかった。責任感がやたら強くなり、言葉にプレーが伴わず後輩には嫌われる。監督から応援団長に指名された田中が、「俺太鼓叩くし。」とか言って断り、大役が飛び火してきた。なんやかんや頑張って、チームは三冠達成、選手権初出場、プレミアリーグ参入戦まで進んだ。これ以上ない結果だった。

おかげでちょっとはメンツが保たれた。感謝したい。クラスにはサッカー部が七人いて、みんなすごいやつらで、土曜日は僕だけ授業に出てて、死ぬほどダサくて気まずかったし、他の吹奏楽部も野球部もテニス部もみんな凄いし、輝いていて、正直肩身が狭い思いがあった。

決して裕福な家庭ではない中、えげつない授業料と下宿費、さらには50万払って行かせてもらったイタリア遠征中に、いきなりCチームにメンバー落ちして、この時はマジで泣いた。三年間こんなことの繰り返しだ。たくさんのものを背負って死ぬ気で練習してもサッカーで輝けた瞬間は三年間通してほぼ無くて、迷惑かけ続けた両親に晴れ姿は一度も見せれてない。

まあこれだけ見れば、辛くて後悔ばかりと思うだろう。てゆか辛くて後悔してばかりだった。当時は。

地元の高校に行ってれば、試合には出れただろうし友達と青春ライフを送れた。でも今は全く後悔は無い。なぜなら一つだけブレずに持っていた‘‘想い”があったからだ。

それは、「みんなに認められたい」これだけだ。

三年間を通して基本周りに馬鹿にされてきたし、先生にもめちゃくちゃ怒られた。三年間のほとんどをピッチ外で過ごしながら、なんで高い金払ってサッカー(もはや走り込み)やってるんだろうとひたすら自問自答しまくった。結構な人が辞めていく中で、認められたいから辞めるという選択肢は無かった。てゆうか勇気がなかった。

Aチームのレベルが高すぎて正直サッカーでは勝負できないと思っていた。じゃあ他のどこで勝負するのか、どうすればみんなに認められ、リスペクトされるんだろうとずっと考えていた。今思えば承認欲求のかたまりだったのかも知れない。

運動量と声は多少自信があったから、走り込みの時は絶対にトップで走ろうと決めて死ぬ気で頑張り、周りをまとめたりキツい時に鼓舞する声は必死で出していたつもりだ。それに半分媚売りの朝練もやった。「試合出てないけど石田頑張ってるやん。さすがやわ。」これが最上級の誉め言葉だった。ワンチャン先生が情でAチームの控えメンバーくらいには入れてくれるかなと期待しつつ頑張った。結果的には頑張るキャラが定着し何もなく終わってしまったが。。

結局何が言いたいのかというと、応援団長を任された時を分岐点に、

「認められる」よりも「チームにとっての価値」これを強く意識するようになった。

思考の順序を逆にしたのだ。つまり「チームにとって価値ある存在」になれば、みんなに「認めてもらえる」だろう、と。それならプレーじゃなくても必要とされるかも知れない。

価値ある存在とは何だろうか、必死に考えた。

だから、‘‘ただスタンドで応援している普通の三年生”には絶対なりたくなかった。

幸いにも、あのとき、田中が応援団長を断ってくれたおかげで、注目されて好き勝手出来る応援団長という特権を得られた。(田中マジありがとう)

    ☝太鼓がやたらうまい田中

捉え方を変えた途端、世界が一瞬にして明るくなり、おもしろいアイデアがあふれ出てきた。このアイデアをBのほかの三年生を説得して実行しつつ、吹奏楽部との初の応援コラボの企画、普段の練習からA以外の80人弱のメンバーをまとめることにやりがいを感じていた。

「俺らが頑張る姿勢を見せてAのケツを叩いてやろう。」言葉に出したかは覚えてないが、自分の中でスローガンにしていた。

気付けば認められたい欲は消え、自己犠牲利他に徹している自分がいた。だから後輩に嫌われるようなこともいい意味で言えたし、炎天下の下、8kmのタイム走を走りながらも、気持ちはAチームのために走っている自分がいた。

この経験で僕はサッカー以外の面で本当に大きな学びを得られたと思っている。成功の定義は人それぞれ違うが、僕にとっては、自分では試合に出ていたメンバーよりも人間的な成長幅は圧倒的に大きかったと思って自己満足している。中学生の頃の僕とは人格すら変わった。なんなら僕は試合に出れなくて良かったと思っているくらいだ。

このことに気が付いたのは卒業してから1年以上経ったつい最近のこと。

卒部式の挨拶で僕は誰よりもネガティブで、後悔の言葉を口にしたことを覚えている。最後にk先生が、はっきりと、それは間違いだ。と言っていたことを今になって理解した。

さて、

「死ぬこと以外かすり傷」

これは幻冬舎の箕輪厚介氏のことばだ。

人生レベルにおいて死ぬこと以外、失敗なんて存在しないのかも知れない。

その時その時では、大失敗したり、後悔したり、つらいことがたくさんあるだろう。しかしその経験も死ななければなんやかんや乗り越えて、全て人生勉強だし、いつかは飲み会のネタだ。けど、悪い状況の時に、考えて工夫して頑張ったぶんだけ、後からそのネタに深みが出てくる。

僕は読書にはまっていて成功者の本をたくさん読むが、だいたいみんな同じことを言っている。

京セラ創業者の稲盛和夫氏はまさに「自己犠牲」の化身だし、Google創業者のラリー・ペイジ氏は、情報化社会の中では「アイデアには価値はない」と言っている。周りの目を気にして、失敗を恐れて、行動しないなんてアホらしい。インプットよりアウトプットだ。サッカーと違って動き出しは早ければ早いほどいい。これはもう世の中では当たり前のことだ。決していきなりスーパーなことをしろというのではない。早寝早起き朝ごはんくらいからでいい。現状の自分に満足せず、常に上昇気流を作るイメージで、変化を求め、小さなことからでもいいので動き出すことが大切だ。僕にとってこのnoteもその一つ。

今部活を頑張っている人に伝えたいのは、部活を取り組んでいるのはあくまでアドバンテージでしかないということ。しかし最強の環境でもある。もうすでにちっちゃい会社に入社してるんだから、やるしかない。部活してるから社会に出て通用する、これは大きな勘違いだ。どれだけ組織のことを考えて一人一人が、ポジティブな影響を与える行動をとれるかが社会に出てから必要な力だと思う。誰でもできる仕事はこれからはAIがやってしまう。試合に出る出ないは大した問題じゃない。

サッカー“で”生きるのでははく、サッカー“と”生きる。これがヨーロッパのトップ選手のスタンダードである。

実は、僕は怪我の影響で本気でサッカーをプレーすることはもうできない。そのうえ途中から体育会のトレーナーを志願しても拒否された身なので、その環境が本当にうらやましい。だからこそめちゃくちゃ応援している。

これで尚更、それ以外の学生で行動しない理由はもうない。部活勢に後れを取ってるのは間違いないのだから。遊びやバイトは今までどうり一生懸命やればいい。けど、インスタのストーリーに映っていないところで何か努力してる人はカッコいいし尊敬する。

すでに社会人で働いている人も同じだ。電車でパズドラしてるサラリーマンを見てると、ちょっと萎える。

自分に満足してる人はいないだろう?常に危機感と向上心を持っている世の中の方が活気がある。

"変化とは進歩"

これはサッカー部の先生が言っていたことばだ。

この高校時代の経験のおかげで、くすぶっていた大学生活から大きく変わることができたし、今度は社会に対して自分の存在価値の示しどころについて真剣に考えるきっかけになった。これから先、失敗を恐れずに、いろんなことにチャレンジしていこうと思う。まだ大したことはしていないが、いつかはみんながびびるくらい大きいチャレンジを。

まずは当たり前のことを当たり前のように発信することから始めようと思う。誰かがこれを読んで少しでも気持ちの変化が生まれたなら嬉しい。

ちなみにこの話を両親にしたらめちゃくちゃ喜んでくれた。少しだけど恩返しできたかな。

以上です。 長くなってすいません。これでも結構はしょってます。

最後までありがとうございました。


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