託されたもの / すべての証明を。
2024年は記録撮影も多く担当しました。
その中でも10月に岡山県備前市の「長島」にて一泊二日で行われたワークショップの記録は、僕の記憶にこれからも残り続ける大きな体験となりました。
長島愛生園
長島に広がる風景は穏やかで美しく、まさに瀬戸内の島らしい風景です。
しかし、その美しさとは裏腹に暗い歴史を持つ不思議な場所なのです。
長島には国立ハンセン病患者療養施設「愛生園」があります。
元ハンセン病患者の方々が今も暮らしており、80代や90代の高齢者の方々が大半です。
恥ずかしながら僕はこのワークショップに参加するまで、
ハンセン病の正体も知らなければ、長島に上陸したこともありませんでした。
きっと僕と同世代の皆さんの中には「ハンセン病」と聞いてもそれがどんな病気なのか知らない方も多いと思います。
時間の彼方に忘れられようとしている人々の記憶や歴史が、
今も瀬戸内海の真ん中に静かに浮かんでいるのです。
今回のワークショップでは愛生園の歴史やハンセン病のことを学ぶ座学と、実際に島内を歩きながら島の空気に触れて、住んでいる方々が実際どのような生活をされているのか知ることができるフィールドワークを織り交ぜた内容でした。
五感を使って知識と体感を反芻することで、より学びが深まったのではないかと思います。
この島に残されたたくさんの遺構や建造物をどのように保存・活用していくのか、その歴史や記憶を次の世代へ繋ぐために何ができるのか。そんなことを考えさせられる濃密な2日間でした。
託されたもの
ハンセン病は衛生面・栄養面がある程度担保された現代の日本において感染する人はほとんどいません。感染者は年間6、7人だといいます。
しかし、当時の日本は戦時中だったこともあり、現代ほど医療が発達しておらず貧しい生活をする方も多かったため、ハンセン病にかかるリスクは高かったのです。
この病気は感染すると皮膚や末梢神経に後遺症が残ることがあり、知覚麻痺、運動障害が生じると回復が困難で、愛生園の入所者の方々も後遺症に悩まされてきました。当時、ハンセン病は治療方法が確立されていなかったため「隔離」という方法が取られ、日本全国に愛生園のような隔離療養施設ができました。
全国に数カ所あるうち、長島のように島ごと隔離するような施設はわずか2か所(愛生園も含む)だけでした。昭和63年までは橋が架けられていなかったため、入所者は船で上陸していました。
当時まだ子どもだった入所者の方の体験談を聞くことができましたが、
それはまるで収容所に行くような感覚だったと言います。
桟橋に着くとすぐ向かいにある施設へ行き、
消毒風呂に入れられて、
ベッドに寝かせられて、
そのまま一生家族や親戚、大切な友人に会えない。
想像するだけで心が痛みました。
ハンセン病の流行が終わった後も、
差別や風評被害は収まることはなく入所者に社会的自由はありませんでした。隔離されるとは単に島に行くということではなく、社会生活から疎外されるということ。
ハンセン病患者である自分が親戚にいることで迷惑にならないようにと、名前を変えて生活される方もいたそうです。自分の存在など無かったことにしたいと思っている人もいたと思います。
今回のワークショップの中で自治会長の中尾伸治さんという方のお話を聞く機会がありました。中尾さんは1948年、13歳の時に愛生園に入所されておられます。
中尾さんは、実のお母さんやお兄さんが亡くなった時さえも誰にも知らせてもらえず、後から知ったときはかなりショックを受けたと言います。
お母さんとの最後の会話は「(あなたがハンセン病であるということが)みんなにわかったら困る」というような内容だったそうです。
中尾さんは「これがハンセン病患者の宿命なのかもしれない」とおっしゃられていました。
僕はひどく心が痛みました。
そんな宿命あっていいはずがない、と思いました。
中尾さんは講演を通して起こった事実をひたすら僕たちに伝えてくださいました。どんな悲劇が起きて、壮絶な闘いがあって、未だにハンセン病に対する偏見や差別が残っていること。
託された、と感じました。
次の時代を生きる僕たちが何を受け取って
どんな未来を描くのか試されている気がしました。
中尾さんのように世界に対して勇気を持って語りかける姿勢を持っている人もいます。僕たちはその声に耳を傾け、同じ悲劇を繰り返さないように考え続ける必要があると思いました。
そこにあった全ての証明を
僕はこの滞在中写真を撮りながらずっと、
「自分には何ができるだろう」と考えていました。
僕は若者というには少し歳をとっていて、
まだ大人というには半人前です。
できることはとても限られていると思います。
結局今の僕にできることは「目の前の物事を記録すること」でしかありませんでした。
理不尽な法律を変えようと立ち上がることも、
遠い国で苦しむ人々を救うことも今の僕には難しくて、
ただこの島の今を伝えることで精一杯でした。
でもその代わり、カメラを構えて目の前の事実に自分なりに真摯に向き合ったこと。それだけは伝わるような写真を撮りたいと思いました。
あの瞬間、あの場所にいてその事実と向き合ったこと。
それは他の誰にもできなかったことだと思います。
写真家なんて綺麗な仕事で、宙に浮いたようなものです。
誰かがいないと成り立たないし、
何か事実がそこにあってこそ成り立つのが写真です。
だからこそそこにある風景も、人々の暮らしも、歴史や時間も、全てが確かにそこにあったことの証明になるのが写真だとも思います。
美しい物事だけでなく、
そこにあった全ての証明を。
そんな写真を撮り続けたいと思っています。
(241224)