日本洋画の発展0 蕃書調所
先日の投稿で、日本の洋画の夜明けは高橋由一がキーマンという話をしました。
高橋が横浜でワーグマンに出会うのは1866年ですが、その前に蕃書調所の画学局に入局しています。
蕃書調所の画学局って何?
今回はこの蕃書調所について書きます
蕃書調所は、1856年に発足した江戸幕府直轄の洋学研究教育機関です。東京大学、 東京外国語大学の源流諸機関の一つになります。
1853年のペリー来航後、江戸幕府は蘭学にとどまらず海防に関わる外国の文献(蕃書)を日本語に翻訳させ洋学研究を充実する必要を痛感し、1855年に「洋学所」を開設しました。
その後1856年に名前を「蕃書調所」と改称しました。
蕃書調所は、江戸幕府が作ったというのが時代のポイントですね。
※ペリーが下田にやってきたのが1854年だからその翌年、江戸幕府仕事早いです。
蕃書調所は幕臣の子弟に対して、蘭学を中心に英学を加えた洋学教育を行うとともに、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当した。語学教育はたちまち隆盛し。翻訳書は次第に充実して自然科学部門も置かれた。この中に画学局があったのです。
何で外国の研究をする部門に絵を研究する部門があったのか?
それはリアルに描く洋画が正確な地形の見取り図や建築/武器の設計図を描くのに役立つからです、平面的で実態感の乏しい日本画、南画ではできないリアルな描写は国防や産業の発展に寄与すると判断されたのです。
「西洋の技術を学ぶには、その機械の設計図を描けないと」
「じゃあ設計図を描く技術を学びましょう」
「それには洋画を研究するのがいいね」
「じゃあ洋画を研究しましょう」
ということらしい。
洋画の研究は工業や軍事目的だったということが面白いですね。
それで1857年(安政4年)に絵図調方として画家の川上冬崖(川上万之亟)が任命され
て、高橋由一とともに、洋画の日本への導入に尽力したということです。
川上冬崖については、以前書いているので、そちらも参考にしてね
蕃書調所はその後1863年に組織改変をして「開成所」と名称を変えました。(薩摩藩が設立した同名の組織との混同に注意)1867年の大政奉還、1868年の明治政府樹立よりも前のことです。明治維新のゴタゴタで一時閉鎖されましたが、明治政府により復活!その後東京大学の源流となっていきます。