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面白いストーリー構造は、いかにマトリョーシカを大きくできるか

休学インターンが終わり絶賛引きこもり中なので、最近は映画や小説にいままでの生活よりは多く触れている。

複数の作品に触れるなかで、やっぱりアタリハズレのようなものは多少でてくるわけだけど、いわゆるアタリの作品というのは、「おっ、そういう展開になるか!」という驚きが多いなという、文字に起こしてみると至極当然なことすぎて震える事実に気づいた。

例えば、昨日から観始めたドラマ『アンナチュラル』では(いまさら)、初回の放送から何度も有力な犯人候補が変わった。

かなり納得感の高い論理で最初に疑われる人が出てきて、鋭い推理で「ああ、実はこいつが犯人だったのか!」と快感に浸っていたらそれすらも伏線で、結果的には超意外なところから犯人があぶり出されるという結末だった。

初回からものすごく満足度の高い放送を観終えて、「いかにマトリョーシカを大きく作れるかが、ストーリーでは大事だな」ということを思い知らされた。

あとは昨日、映画『ぼくだけがいない街』も鑑賞した。

こちらでも、ストーリーとは直接関係ないけれど、一つのシーンのなかにマトリョーシカが垣間見えるシーンがあった。

主人公の誕生日を祝うために、友だち数人がせっせと会の準備を進めていたのだけれど、いざ蓋を開けてみたら、準備していた側の人間だったはずの女の子も誕生日で、サプライズで祝われた。

主人公は女の子の誕生日のことを知っていて、ある種逆サプライズ的な展開になっていたのだけれど、これはマトリョーシカのなかでも、すごく汎用性の高い構造だなと思った。

よくよく考えてみれば、構造自体はけっこうあるあるだ。

味方だったと思っていた頼りになる存在が、終盤で実は黒幕だったパターンや、逆にずっと宿敵だと思っていたやつが、後半の大事な場面になって寝返ってこっちに来てくれるというパターン。

『僕だけがいない街』が秀逸なのは、この構造をストーリーにではなくシーンにも適用したことだ。

構造の時間軸をぐっと縮めて、短期間でこのマトリョーシカを完結させた。

人間関係マトリョーシカには、こんな使い方もあるんだなと唸らされた。

結局今回はなにを言いたいのかがよくわからなくなってしまったけど、大事なことは

・面白いストーリーには、マトリョーシカが潜んでいることが多い。
・人間関係マトリョーシカは、汎用性が高い。
・汎用性の高いマトリョーシカは、ストーリー全体だけでなくいちシーンにも適用することができる。

といったところだろうか。

『アンナチュラル』、これからの展開が楽しみだ。


★最近はコンテンツやストーリーの分析にハマっている


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藤本 健太郎 / 編集者
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