何故か撮ってしまう好きな構図
ゆっくりにも程がある台風のおかげで、全然外に出ないまま8月が終わろうとしている。なので、過去データをさらったりして、あらためてここ5年くらいの写真を見直していた。
そんな中で、よく撮る街撮り。
そこには、何故好きかわからない構図で撮っている物が、多くあった。
なので今回は、その考察をしてみる。
例えばこんな1枚。
桜木町駅から横浜市新市庁舎へ向けてのブリッジで撮った1枚。
これはまだ好きな構図、と言うよりも意図的に斜めに撮ったもので、被写体が見る方向と誘導する感情のベクトルをズラして、不安定な形にして見る人に軽い不安感を持たせるように構図を作ったものだ。
撮影対象が決まっている場合には撮る事は殆ど無い構図だが、街撮りの様に被写体が決まっていない場合は、自然にそう撮ってしまう事も多々あった。
当然だけど写り込む人々とは面識は無く、故にポートレートの様な撮り方は必要な場合を別として基本的に避ける。
そしてそこに写るものは、リアルな街の風景とその日その時にしかない空気感。
それが面白いと気づいてからは、敢えて正対して構図上の立体感を排除する方向にシフトしていった。
基本的には、こうやって正対する撮り方。
構図を作る上では立体感が出にくいためにダメな撮り方とされてきたが、構図による立体感が無いからこそ、写る市井の人達の動きがリアルだったり、そこにある空気・空間が見えてくると考えている。
ただ、その空気を感じさせるためには、ある程度の解像度とピント面の浅さが必要で、フルサイズセンサーで撮る事でそれに対応できると考えている。
街にいる人達を街の景色と共に撮るというのが専らで、基本的に人物は横向きで歩いているのが基本。
それは日常的に見える街の風景であって欲しいからで、そうやって撮ってもその時の感情が構図に反映されるからこそ、面白いと気がついていく。
縦位置と横位置では意味が違って見える。
私は動画の撮影が多かった事もあって、必然的に横位置で撮る事しかできなかったが、横位置の構図は人間の目の配置からも自然に見える画になるのは、誰でも理解できるだろう。
対して縦位置の構図は、画像の上から下までを目が動いて捉える(乱暴に言えば上部と下部を同時に見る事ができない)ので、横位置に比べて全体を捉えるのに時間がかかる。
なので、写真の場合は特別に見せたいものが縦方向にある場合に使う方が効果的だし、逆に空間を感じさせるには視線移動が邪魔になりやすく不利、という事も考えるべきだ。
この1枚の様に建物の独特な形を効果的に見せたい場合は、縦位置で撮る事は必然だが、横位置の写真に比べて空間よりも人物や建物の構造に意識が向く事を感じられるだろう。
シャッター速度は、なるべく遅くしたい。
遅いシャッターによって動く被写体のブレが生まれ、静止した被写体との差別化に寄与する。例えばこの写真の場合、歩く人の動きと立ち止まっている人との違いが見えやすく、止まっている人への視線誘導に繋がっていく。
動画では特に顕著だが、カメラが動く事によって生まれる手ブレと被写体が動く事で生まれる動体ブレには大きな違いがある。
ブレ=意思と言えばわかりやすいと思うが、そこにある空間や時間をリアルに表現したければカメラの動きはあってはならない。カメラが動かない事でその構図内の動きだけが記録され、撮影者の意図した構図の時間の流れだけが表現されるのだ。
逆に言えば、カメラを動かすことで撮影者の主観的光景が記録されるワケで、手ブレを積極的に利用した写真もまた、撮影者の個性的表現に繋がっていく。
だから私は、三脚を使わない撮影に拘り、手ブレもその日の自分の状態と捉えて楽に撮るスタイルに行きついた。
ただそんな撮り方でも、「見せたいもの」を明確に表現しないと意味がない。
これは桜木町駅前でよく撮るポイントなのだが、何も考えずに撮るとこういう写真になる、という例としてアップしてみた。 街の風景のスナップでも「見せたいもの」があってこその撮影という事になるわけだ。
ただ、メッセージを強めに入れると「あざとい写真」になりやすいのも事実。
例えば次の1枚は、インバウンドに対するメッセージを込めて撮った1枚なので、そのあざとさが許せるかどうかを、自問するカットになってしまった。
かように、街撮りは面白い。
そしてこんな正対した構図を、何故か撮ってしまうのは、感情的にもしっくりくる好きな構図なのだろう。
借景と、道行く人々と空間の配置の面白さ。
構図によって見せつける立体感ではなく、そこにある空気・空間を表現したい、といった撮影に対する欲望もあるのだと思う。
そして、同じ構図を撮る事で日常と非日常もわかりやすくなるのも面白い。
だから旅先でも、やっぱりこんな構図で撮ってしまうのだろうね。