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江戸城ガイドの城めぐり:江戸城と鳥取城

少し前ですが、日比谷図書館で開催されていた「タイムトリップ 江戸から東京へ展」に行ってきました。

現在、日本の”首都”であり、今や世界有数の都市である東京ですが、明治維新の後、いきなり近代東京ができたわけではなく、やっぱり、そこには前政権=江戸幕府の都市計画があり、そのインフラ遺産のおかげで東京が誕生したんだなと改めて思いました。

江戸城を作った人々

では、徳川幕府の本拠地である江戸はどのように作られたのでしょうか。このあたりも、話せば長くなりますが、簡潔に!キーワードは「天下普請(てんかぶしん)」です。

家康が入府した当時の江戸城は、後の江戸城と比べると規模はとてつもなく小さく、建物も簡素なものでした。その後、関ヶ原の戦いで天下人となった家康は、江戸に幕府を開くことになるのですが、その際、自らの居城を全国の大名に命じ築城させています。それが「天下普請」です。

戦場以外でのアピールの場

こうして、日本全国の大名を巻き込んだ、一大建築プロジェクトとして、江戸城の建築(元々、江戸城自体はあったので正確には改築が正しい表現かもしれません)が始まリました。

江戸城のどの区画を担当するかはくじ引きで決められ、工事にかかる費用も全額各藩の持ち出しで、藩の財政的な負担は相当なものだったと思います。ただ、徳川の仮想敵国である豊臣家も滅び、戦乱の世が収束する中で、武人である武士たちの活躍=アピールの場も失われていく中、天下普請は苦しくとも、自らをアピールする絶好の場とポジティブに捉える大名も多かったのではないかと思います。

鳥取藩主・池田吉泰!

因幡・伯耆の二カ国(現在の鳥取県)を治める大藩=池田家も、江戸城工事に勤しみます。

その、鳥取藩の努力の結晶が、現在も皇居東御苑(旧江戸城)に堂々とそびえ立つ「中之門」です。元々、江戸時代初期の万治元年(1658)に熊本藩主細川綱利(つなとし)によって構築されたのですが、元禄16年(1703)の元禄地震により崩落し、翌、宝永元年(1704)に鳥取藩主池田吉泰(よしやす)によって修復されました。

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現在の江戸城中之門(上)と建物が破却される前、明治4年頃の中之門(下) ( 『鹿鳴館秘蔵写真帖』(社団法人霞会館蔵))。現在、中之門は一般にも開放されており自由に見学することができます。

もちろん、工事を担当した池田家にとっては単なるボランティアで終わるのではなく、ちゃっかりと幕府に「アピール」しています。その証拠が、2005年〜2007にかけて行われた修復工事の際に見つかった、下の刻銘です。

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ちゃっかりと「僕(池田吉泰)が築きました!」と書かれています。ちなみに、池田氏は、徳川氏と姻戚関係を結んでいたことから徳川の旧姓である「松平」を名乗ることが許されていたため、公式な場=特にこのような絶好のアピールの場においては松平を名乗ることができました。池田氏の他にも、島津氏や前田氏なども、徳川家と姻戚関係を結んでいました。外様大名にもメリットはありますが、幕府にとっても、有力外様大名を一族に取り込むことにより、反乱を防ぐ目的があったと考えられます。

おわりに

いかがでしたでしょうか。「たかが城・されど城」お城の石垣一つをとってみても、その裏にはさまざまなドラマがあり、人々の努力や苦労があるものです。ちなみに、池田氏が江戸城中之門を建築した話は、地元鳥取の方でも有名な話みたいで、鳥取城観光パンフレットにも紹介されています。今でも、地域の誇りとなっているんだなと、今回、鳥取城を訪れて思いました。

鳥取城のパンフレットは上のページからダウンロードすることができます。江戸城中之門の話は、2ページ目に書かれています。






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