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プロガイドのプライベート国内旅行:「日本橋」編

東京・日本橋に行ってきました。

江戸時代から、日本の街道の起点となった「日本橋」。行かれた方も多いと思います。

僕は、全国通訳案内士の資格を持ち、普段、主に外国人向けにガイドをしています。(今はコロナのためストップ。。涙)そんな僕が、日本橋について、面白いな〜と思った点を綴ります。(極力マニアックにならないように。。)

「日本橋」の文字の謎

表題の写真にもある通り、堂々と掲げられている「日本橋」の文字。(正しくは、揮毫(きごう)といいます)この文字を書かれた方は、ご存知の方も多いかと思いますが、最後の将軍、「徳川慶喜」公(尊敬の念を込めて”公”とお呼びします)です。

何度もこの文字を見ているので、「あ〜慶喜公が書きはった文字、立派やわ〜」(関西出身なので心の声は関西弁。。)と何気なく見上げていたのですが、ここで一つ疑問が。。

「誰が」慶喜公に揮毫を依頼したのか?

徳川慶喜はご存知の通り、江戸幕府最後の将軍として大政奉還し、その後、戊辰戦争で明治新政府軍の敵となり、賊軍(天皇の敵)とされた人物です。

現在の石造のアーチ状の日本橋は明治44年(1911)に架橋されたものあり、慶喜公の「日本橋」もこの時に書かれました。

何故、明治政府からすると、時は経っているといえ、元敵方の大将に、日本の道路の起点となる「日本橋」を書かせたのか? 

普通なら、明治政府の成立に貢献した人物=例えば、伊藤博文とか(伊藤は日本橋が石造りとなる2年前に死んでいますが。。)に、依頼しなかったのか?疑問です。

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現在の日本橋。
都内でも非常に少ない明治に建てられた石造の橋です。

東京市長の決断

結論から言うと、慶喜公に依頼したのは、当時の東京市長=尾崎行雄でした。

尾崎の父は、木戸孝允とも交流があり、戊辰戦争では、明治新政府軍に加わり、幕府側と戦っています。いわばバリバリの新政府軍です。

そのような出自を持つ尾崎が、慶喜公に揮毫を依頼した理由が素晴らしいので紹介します。

「江戸から東京へ戦火を交えず無血開城できたのはひとえに屈辱に耐え、負けを認めて恭順姿勢を貫いた慶喜公のおかげである。いわば東京の一番の恩人にこそ揮毫願うべきである。」

時に政治家は、自らの保身を第一に保守的な考え、行動をとりがちですが、尾崎は異なりました。このいたって、冷静で達観した歴史観と、それを行動に移す実行力。

彼がこの当時東京市長であったからこそ、今も、庶民に愛される「日本橋」なんだなと思います。

おわりに

最後にこちらの一枚。

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日本橋の入口に鎮座する勇ましい獅子像。何かを踏みつけています。

こちらは、旧東京市の紋章で、昭和18年(1943)に東京都ができてからは、東京都の紋章として使われています。(参考リンク:東京都ホームページ

この写真の上下には、慶喜公が書かれた「日本橋」の文字があり、いろいろな解釈があると思いますが、東京(江戸)の前あるじであった、徳川家が現在の国の、東京の政治をしっかりと見ているからな!といった、無言のプレッシャーを与えているように感じました。

結果的に、260年以上に及ぶ天下泰平の世を築いた徳川家の江戸幕府。国民主権・民主主義の世を生きる、我々、国民一人一人に、「平和な世」の構築を問いかけていると思います。

参考リンク

日本橋トリビア:リンク


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