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ポストモダン回顧と現在 No.2

ポストモダン宣言として有名なものは、アーサー・C・ダントーによるアートの歴史の終焉論がある。それを現象学的に記述したのが、フレドリック・ジェイムソンの過去と未来なき現在だろう。彼らの言うことが正しいとすれば、もはやアートに時間や歴史は復活しないのだろうか?
だがポール・ヴィリリオの言うように、ポストモダンのグローバル化の加速が、あらゆる事象を「今ここ」に収束させるとしてみよう。とすれば、時間と空間はともに一点に凝集しただけで、通時的(時間)なものや歴史が消滅したことにはならない。
そして現在、我々が陥っている新型コロナ禍は、ヴィリリオの交通の高速化を容赦なく遮断して減速化させた。それによって一点に収縮した時間と空間が弛緩し、本来の時間的、空間的な延長(地球大)を取り戻したかに見える。これを、現在開催されているシドニー・ビエンナーレに当てはめてみたい。
なぜ、今年のシドニー・ビエンナーレに注目するかというと、新型コロナ感染拡大の影響を受けて一旦中断したこのビエンナーレが、周縁の時間が中心に集められた後に、未来の各地に散種されるからである。
シドニー・ビエンナーレは、その意味でグローバル化を最大限に活用して開催された。それは、人間、物質、情報のグローバル・ネットワークに沿って周縁から中心に集結した国際展の形をとっている。しかし、新型コロナウイルスの伝染でそのネットワークが切断され、展覧会が開幕してまもなく休止に追い込まれた。だが、ネットワークのうち人間と物質の移動は妨害され阻止されたが、情報の通信は無傷に残された。
これによって、シドニー・ビエンナーレは閉幕の危機を乗り越えることができたのである。それが、ビエンナーレのヴァーチュアル化である。グローバル・ネットワークを断ち切る非日常のコロナ禍が、逆説的にもネットワークでグローバル化された新しいアート・ワールドを開示し、コロナ禍で不通になったネットワークを代替して修復する方法(表現を物質から情報に変換)を見出したのである。それが、オンラインのヴァーチュアル・ビエンナーレだった。
この国際展を実現したのは、キュレーターのBrook Andrewを中心としたシドニー・ビエンナーレの主催者である。とくにキュレーターのAndrewによって切り取られグループ化された参加アーティストたちは、ビエンナーレでグループにまとめられることでマイノリティとなった。世界の周縁から呼び集められたアーティストたちは、それ以前にマイノリティと気づかれなかった人々も多くいるだろう。
その好例が、私がローカルと名付けた世界に散らばる一群のアーティストたちである。彼らの出身地だけを見れば、ローカル・アーティストと括ることはできないかもしれない。彼らは、グローバルとナショナルと対比されることでローカルになるのであって、それをAndrewは意図的に今ビエンナーレに組み込むことで、巧みにマイノリティの仲間入りさせたのだ。
その結果として、マイノリティのマルチチュードによって構成されたビエンナーレとなった。マイノリティ(少数)がマルチチュード(多数者)とはおかしいと思われるかもしれないが、ビエンナーレの参加アーティストの大半がマイノリティであることではっきり理解できるだろう。マイノリティだがマルチチュードの展覧会が、このようにして奇跡的に組織されたのだ。
写真は、シドニー・ビエンナーレ会場の一つニューサウスウェールズ州立美術館。

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