murmuring note no.16(表現は境界に出来する)
境界で生起することに注意を巡らせよ!
自己の圏域ではない。私的所有は自己を腐敗させるからだ。他者の領分でもない。そこに取り込まれれば、自己疎外という大事故が発生する。
内部と外部、自己と他者の間に引かれた不可視の境界に生起する出来事に意識を集中する。それを追跡することだ。それがエクリチュール(書かれたもの)となる。
シーニュ(言語)したがってテクスト(表現)は境界に出現する。外部でも内部でもない。自己が境界の表面に現れた他者と対峙する場所がテクストである。したがって読解するとは、著者である他者に感情移入(同化)することでも、もう一人の著者として他者のテクストをリライトすることでもない。
自己と他者が遭遇する境界に生起するテクストという出来事の目撃者にならなければいけない。しかし、その内容はいささかも表層的ではない。自己と他者を複雑に反映するからである。
ジョン・アーリによればモダンの主体は「移動」を含意する。だが現在、地球上に蔓延する悲惨な停止劇は、モダンよりポストモダンの終焉を印しているのではないか? ポストモダンは、モダンの主体の移動の末にグローバル化された世界である。そのようにして「移動」が不可能となったポストモダンの採用した苦肉の策の擬似的移動が、リアルであれヴァーチュアルであれシミュラークルである。
ポストモダンの移動とはシミュラークルの変形であり、変形されたシミュラークルは新たなシミュラークルとなる。以下、同様。ポストモダンの境界で生起するテクストは、シミュラークルの輪舞だったのだ。ポストモダンのテクストの読解が、シミュラークルのそれである理由である。
したがって、ポストモダンの移動の停止はシミュラークルの死である。新型コロナウイルスの世界的流行は、このシミュラークルの死、つまりポストモダンの終焉の宣告あるいは予行演習ではないか? その告知/予言のために地上に派遣されたサタンが、新型コロナウイルスだったのだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?