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ポストモダン終焉宣言、第7弾!(ポストモダンが終わるべき理由とその後)

モダンの理念は物質だった。その理念を実現するのがモダンアートである。
シミュラークル(可視)はポストモダンアートの形式であり、その形式の原理=理念(不可視)が差異である。モダンアートの形式が可視的物質であり、その原理が不可視な物質(理念)であるのと同じ論理構造だ。
モダンに大きな物語(物質という理念)があったように、ポストモダンにも大きな物語(差異という理念)があった。さて、その大きな物語に終焉が訪れる。それがポストモダンではない。ポストモダン自体が終わるのである。終わりをぐずぐずと終わり続けることはできない。差異が飽和したからだ。もうシミュラークルの違いを生み出せないのである。
ダントーは、ポストモダンを理念の退去と仮定したので、その後はなんでもありのアートが終わりなく蔓延することになった。そうではないだろう。ポストモダンに理念(差異)があったからだ。この理念は、モダンと同様、大きな物語を形作る。
モダンの大きな物語が消滅する。つまり、普遍的物質主義が決定的に破棄される。それと同じく、ポストモダンの大きな物語、つまり普遍的差異が潰え去る時がくる。それが今である。
ポストモダンの終焉で理念は消えたが、アートには経験に基づく概念が残っている。それは理念ではないが、理念の代役になるだろうか? たとえば、 科学的認識がアートになる可能性は? 科学的アートは、理念の規範のような権威を有するだろうか?
写真は、ハンス・ハーケの科学的アート。

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