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ひとつの空

《ひとつの空》
著者:すぎやま けんたろう
発売日:2024年11月29日(仮)
定価:2500円(税込)

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空は大地や海と違って、どこまでも繋がっている。快晴、大雨、厚い雲と、季節や日によって様々な顔を持っている。それはまるで人生と同じである。楽しい時、悲しい時、辛い時、人の心も空と同じように、いろいろな日々や人との関わりの中で様々な気持ちを抱える。
空には終わりがないが、人生には死という最期が訪れる。空と人生は全く違うようで、どこか似ている気がするのは気のせいだろうか。

夏が終わり、秋の涼しさが朝晩の空気に感じられる八月の末。  とは言っても、この大都市・東京の気温はまだ三十度を超える日が続いており、室内では冷房なしではとても生活できない。
「本当に暑い」と、つい口から言葉が漏れた。
吉祥寺のワンルームを借りて住んでいる守は、備え付けのエアコンで涼しさと文明の恩恵を感じていた。
大手企業に入社して四年目の彼は、人と会話するのがあまり得意ではなく、休日は主に一人で家やカフェで趣味の読書をすることが多い。
アパートの部屋から最寄りの駅までは片道二十分くらいで、左手にコーヒーを、右手にスマホを持ち、その画面に映る文字から世間のニュースを追いながら、両耳にイヤホンを装着してスマホからジャズの音楽を流しつつ、頭でニュースの記事を理解しようとしているが、まだ眠気と戦っている。
今日も昨日と変わらない一日が始まり、何もなく家に帰るのだろうと考えながら、職場の最寄り駅に電車が到着した。
電車が来ると、空いている席を探して座り、スタバで買ったドーナツを袋から取り出し、隣の人の迷惑にならないようにドーナツを食べやすいサイズに手でちぎってからおもむろに口へ運んだ。
朝食をアパートで食べることは、実家を出てからほとんどなく、家を出るギリギリまで寝ていることが多いため、出勤途中にドーナツを買ったり、コンビニで簡単に食べられるものを買い歩きながら済ませたり、電車の中で食べることが多かった。
守が務めている大手企業は地上三十階建ての大きなビルで、各フロアにさまざまな企業が入っており、入り口には警備員が立っており、入館書がないと建物へのゲートを通ることはできない。
その建物の六階に守が勤める会社があり、社員数は約千人以上という大所帯だ。
大学を出た後、特にやりたい仕事がなかった守は、エントリーシートを片っ端から企業に提出した結果、現在の会社に入社し、四年間勤務している。
守の仕事は主にデスクワークで、上司から頼まれた企画書を作成したり、取引先へのプレゼン内容を考えたり、締め切りまでに作成して上司に渡すことがメインだ。
彼が一生懸命作成した資料を基にプレゼンをするのは守ではなく上司や同僚たちであり、その現実に対して守は特に何も感じず、「自分がプレゼンをしたい」という向上心や前向きな感情はなく、むしろ誰かのサポート役や裏方として、プレゼン資料の作成や会議室の確保などに徹する方が得意だと感じている。
人にはそれぞれ得意分野があり、会社や学校などの大人数が集まるコミュニティでそれぞれが持っている得意分野を活かし、チームプレイをすることで会社や学校、そして社会が成り立っていると守は考えていた。
そのためには、自分が得意なことをしっかり務めることが大切だと考え、守は自分に言い聞かせながら、目の前にあることや会社から与えられたことに対して、どんなに地味な仕事でも文句一つ言わず取り組むことを常に意識していた。
同僚や先輩たちからは、「守が作る資料は分かりやすく、プレゼンの際にも先方に説明しやすい」と評判が高く、もしこの評判がなかったなら、裏方の仕事に徹したいという気持ちすら持てなかったと自分では理解していた。
「もっと上の立場になりたい」や「大きな仕事を取って周囲から褒められたい」などという気持ちや野心、向上心は、守にはなく、現状維持で今の仕事を続けていければよいと思っていた。
入社して三ヶ月ほど経過したある日、「守はなんでこの会社を選んだの?」と同期から尋ねられ、「面接の時に担当者が優しそうで、社内を見学した時もオフィスの雰囲気が明るかったから、暗い雰囲気の会社に入るよりはマシだと思ったから」と答えた。
「俺は、残業がないのと週休二日が確保されているところに惹かれて入っただけで、もっと楽に働ける仕事があればそっちにするけどな。  そんな甘い話ねえよなぁ」と半笑いでコーヒーメーカーから出てくるコーヒーが紙コップに入るのを待ちながら話していた。
企業の中には、守のような考えを持った人が必要であり、そうでなければ社長やグループのリーダーといった人の意見や考えをまとめる役割を持った人たちの存在価値が無くなってしまうのではないか。
つまり、“光と影”のようなもののようである。
彼が勤めている会社は、十七時になると帰宅準備をする社員が多く、この日も同僚たちの中には「今日はどこの飲み屋に行って呑む?」 、「私はこの後友達と会う約束があるので行けませーん」などとまっすぐ家に帰らずに、どこかでお酒を呑む相手を探しながら自分のデスクに散らばった資料を片付けたり、パソコンの電源をシャットダウンしたり、帰宅準備をする者が全体の大半を占めていた。
それとは逆に、自分が抱えている仕事の量を目の前にしてため息をつき、心の中で“よし!明日の午後までに終わらせないと”と自分を鼓舞した。
同僚や職場の人が帰った後も少し会社に残って、自分が抱えている仕事を少しでも終わらせようと、そこから自分の中のギアをもう一段階上げて仕事を続ける者がいる。
守はこの場合で言うと前者だ。
仕事に対して真面目だが、ただ一つ他の職場の同僚たちと大きく違うことがあり、それは必要以上に同僚とコミュニケーションを取らないことだ。
例えば、「最近このお酒に嵌っていて」 、「あそこの居酒屋の女性がめっちゃカワイイんだよ!」といった仕事とは関係がなく、ただ集団生活の中では必要とされるコミュニケーションだ。
守はデスクの上に決めている配置へとファイルやメモ帳などを戻し、周囲の人の耳に聞こえるか聞こえないかくらいの声で「お疲れ様です」と誰に対して言うわけでもなく独り言のように発してから、一人会社を後にする。
朝歩いてきた道を戻り、会社から一番近くの駅まで辿り着き、毎日決まったような時間の電車に乗り、ワンルームのアパートがある吉祥寺駅に降りる。
たまに同僚から、「たまには守も一緒に呑みに行かない?」と誘われても「いや、帰ってやらなきゃいけないことがあるから残念だけど行かないです」とやんわりと断っていた。
だが、特に家に帰って特別やるべきことは無いのだが、同僚たちと呑み屋へ行き、その場で交わされる仕事に対する愚痴や上司や取引先に対する不満大会に付き合うことが守は嫌で早く家に帰って趣味の読書をしたいのだ。
晩御飯はコンビニか外食タイプの守は、今日も近くのスーパーに行き、“割引”と書いてあるシールが貼られているお弁当や惣菜、そして“自分へのご褒美”である缶チューハイ一本をカゴに入れてスーパーのレジへ向かった。
実家から引っ越してからほぼ四年間、毎日通っているスーパーなので、ここでも必要最低限の言葉を発して、買った物を仕事用のカバンの中に入っているエコバックに入れスーパーから出た。
普段あまり空を見上げることはなく、むしろ掌の中にあるスマホでユーチューブやニュース、滅多に来ることのないLINEをチェックしながら帰ることが多い。
この日もまだ太陽の光は強く風がなければ暑さを感じるが、九月に近くにつれ時折吹く風はどこか優しく心地よく、秋の訪れを感じさせてくれるものだった。
守の周りには、学校から家へ帰り一度荷物を置いて同年代の子たちと遊んでいる子供たちの姿があった。
空を見上げると、童謡の“赤とんぼ”の歌詞に出てきそうなオレンジ色が強い綺麗な夕日がビルの間から見え、守はつい足を止めた。
この日は頬に当たった風が異様に心地よく感じ、ふと空を見上げた。空って、こんなに綺麗だったのか。とどこかの詩人のようなことを思い、その瞬間、どこからともなく湧き出てくる恥ずかしさという感情に心を支配された。
そんな彼のことなんか誰も気にせず、自分たちのペースで歩いている人がほとんどで、守の存在など気にする人は全くいない現実にふとかえると、急に出た恥ずかしさとこんなに人が大勢いるのに、自分も含めて他人に関心や興味が持てない今の人間社会の一方で、有名俳優の不倫や政治家による不祥事などが起これば、一斉に罵詈雑言を浴びさせるネットの中の社会は繋がっているようで、もしかすると本当は別世界のことではないかと考えた。
ネットの中の世界は本当の意味で、人と人との心は本当には繋がっておらず、誰かのことを叩いたり、様々なニュースに対して自分の主張ばかりしたりするだけで、むしろみんな本音の部分では孤独ではないのか。それらをあまり感じないようにするために、そういった行動をとることで安心感や一体感と似たものを得られることにより、自分の精神を保っているのではないかと考えながら、自分でも気付かないうちに足が動いていた。
築十年以上は経っているだろう、家賃五万円のアパートの三階建ての二階に住んでいる守は階段を上りながらズボンのポケットから部屋の鍵を出した。一人暮らしの彼にとっては、テレビは寂しさを少しでも紛らわすための道具である。特に観たい番組があるわけでもないが、守以外にこの部屋には誰もいないので、BGM代わりにテレビのスイッチを入れチャンネルをザッピングして、いろいろな番組を観たあとに結局バラエティへと落ち着くのである。
テレビに映るバラエティの中では若手芸人が司会の大物芸人に言葉という武器で食らいつき、司会のポジションを自分のものにしたいという熱意が声からも伝わってきた。読書が趣味の守はテレビに視界を向けることはなく、読みかけの本を手に取り、スーパーで買ってきた缶チューハイのフタを開けるとコップに移すことなくそのまま口に流し込む。
この瞬間が守にとっての僅かなシアワセの時である。
僅か?
違う。彼にとってこれ以上のない一番幸せな時間である。誰にも邪魔されず、大好きなアルコールを飲みながら趣味の読書を楽しめ、同僚たちと一緒に居酒屋へ行き焼き鳥を食べながら仕事の愚痴を言う時間と比べた時に遥かに、守にとっては特別な時間である。
そんな特別な時間を遮るように、飲みかけの缶チューハイや惣菜が置いてある机の上で何の前触れもなく、スマホが何かの知らせをしようとブルブルと机に振動を伝えていた。
右手に持っていた本を机に置き、守はスマホを手に取りながら、どうせ迷惑メールか登録しているサイトからのお知らせのLINEだろ。とLINEの通知を削除する気持ちでスマホの画面に視線を落とすと、そこには二つ年下の弟からのLINEの通知が表示されていた。
大した用事ではない、と思いつつ指でLINEの表示をスワイプると、「兄ちゃん、今度いつ帰って来るの?お母さんがたまには帰って来いと言っている」というなんでもない内容のLINEだった。
守の弟は実家に親と住んで、守と全く性格が逆でいろいろな年代や職種の友達が多く、女性からモテて高校の時から彼女がいなかったということはなく、兄の守からしてみても一人の男性として素敵な部分があり、女性からモテる理由は理解できた。守が最後に実家に帰ったのは、就職した年のゴールデンウイークで今から約四年前だ。
両親とも今まで大きな病気にはかかったことがなく、これといって実家へ帰る理由が思い当たらない守は、四年前に帰ってからは実家へは行っていない。
なぜ、実家に帰る必要があるのか。実家に帰っても、今いる部屋より親に対して気を使って疲れるだけだ、という考えが心に湧きスマホで弟に、「何かあった?帰った方がいい?」と帰る気ゼロですよ!アピールのLINEを送った。
五分も経たずに、「お母さんがどうしても話したいことがあるって」という内容のLINEが弟から返ってきた。そこまで言うのだったらLINEで内容を伝えてくれよ、と守は思いながら、「時間を作って帰れるようにするけど、いつになるかわからない」と弟に返事をした。
スーパーで買った晩御飯を食べ終えた守は、ほろ酔い気分で缶チューハイや食べたものを片付けることなく、そのまま身体をベッドへ移動して食べ終えた惣菜が入っていた容器を普段であれば洗ってゴミ箱に入れているのだが、仕事の疲れとアルコールを飲んだこともあり、明日の朝に片付ければいいや、どうせこの部屋には自分以外の人はいないのだから注意されることはない。と机の上にほったらかしにした。独身暮らしの醍醐味を守はこの日も満喫していた。
ベッドの中で目をつぶりながらさっきの弟からのLINEは、なんだったのだろう?と考えていると気付いた時には寝ていた。仕事がある平日であれば、九時までには会社へ出勤しなければならない。そのため守は、寝坊して会社へ遅刻しないようにと、平日の朝六時にアラームを就寝前に必ずセットして、その後スヌーズ機能で五分おきにアラームが鳴ると何度も鳴るようにしている。小学生の頃から低血圧のせいもあり、朝がとても弱く目覚ましが鳴る前に起きたことは一度もなかった。
ある時、母親に連れられて病院へ行き、午前中いっぱい身体に倦怠感があること、なかなか寝起きがスッキリしないことを病院で調べたところ、“起立性調節障害”と診断され、思春期の子供に多く診られる症状で、未だに治療方法や良い薬は見つかっていない。守も含め、この起立性調節障害を抱えている人が多い中で、認知度が低く怠け病と勘違いされやすく悩んでいる方が多い。「もう起きないと学校に遅刻するわよ!」と毎日のように母親が守のことを一、二回ほど声をかけて子供の時は起こされていた。
その日は前日の疲れとアルコールを飲んだこともあり、起きたのは予定よりも三十分遅れの六時半だった。守はスマホに表示されている時刻を確認しながらベッドから慌てて起き、前日着ていた部屋着を脱ぎ洗濯機へ入れることもせずに、すぐにスーツへと着替えた。
いつもならシャワーを五分くらい浴びるところだが、寝坊して遅刻してしまうこともあり、一分一秒でも時間短縮しようと慌てて冷蔵庫からコップに水を入れ一杯ゴクリと一気に飲み干し、アパートの部屋を後にした。
こんな時に空を自由に飛べることができたらと夢のようなことを考えながら、おそらくこの一年の間で自分が出せる精一杯の力を出し駅までダッシュし、通常であれば二〇分はかかる所を横断歩道の信号を無視したり、車が通らないことを確認した上で車道を横断したり、と社会に存在する交通ルールを無視して、なんとか一〇分ほどで駅へ着いた。
時間短縮とはいえ強行手段を取ったことにより、毎日決まった時間に来る電車に乗ることができた。もし一本でも横断歩道で止まったり、持っている鞄を落としたりしていたら電車に乗ることが間に合わなかったであろう。とともに自分が急いだことにより交通事故で誰かが怪我をする状況にならずによかったと考えていた。
いつもであれば駅のホームに入ってきた車両の中を見渡して、空いている席に座りスマホを触りニュースを見たり、会社の同僚や先輩からのLINEなどに目を通したりするのだが、普段からあまり走らない守は久しぶりに家から駅までの短い距離だが走ったため、自分でも驚くくらい息が上がっていた。僕も年をとったな、ひとまず呼吸を落ち着かせよう。そう思った守は空いているつり革を探し、そこに左手を通した。
いつもなら空いている車両だが、何故かこの日は混雑していて、アパートから駅まで走ったことにより乱れていた呼吸もだんだんと落ち着きを取り戻していき、額に滲んでいた汗も電車の冷房のおかげで、降りる駅に近づくにつれてみるみる汗が止まっていた。車内はまだ冷房が点いていたので、着ていたワイシャツが汗で濡れていたのが徐々に乾いて、涼しさを超えて少し寒く感じた頃、会社がある最寄り駅に近づくにつれ、さらに車内は混雑を増していった。
いったいこの東京のどこに、こんなにも多くの人がいるのか。まるで蜂の巣を切った時の断面を見ているかのように、電車の中は一駅ずつ停まるにつれ鮨詰め状態になっていった。
降りる駅に着いたら、コーヒーと食べ物を買って落ち着こう。そんなことを人がいっぱいで空気が薄くなっているのではないかと思うほどの密度の中で考えながら、守は乗っている電車が駅に着くのを車内の中吊り広告を見ながら、ただただ待っていた。ふと目を窓に向けると、車窓から見えるこの日の空は曇って、天気予報では一日曇と予報だったが、おそらく雨が降るのだろうと思わせるような厚い雲が空に浮いていた。

 

 

「結衣!ちょっとこっち来て患者さんをレントゲン室に連れてって!」前日の夜勤を担当していた先輩が、書き残していった結衣が担当する患者の症状や引き継ぐことなどが記されているパソコン上の電子カルテに隅々まで目を通し、必要なことを自分が愛用しているメモ帳に記録している時に、自分の名前を呼ぶ声が聞こえ、少し驚きながら早歩きでパソコンの前を離れて声のする方向へ向かった。
都心にある大学病院に勤務して早二年経つ結衣は、今から約七年前の高校生の時に大きな病にかかり、約半年学校を休み治療のため病院に入院していた。それまで風邪やインフルエンザにはかかったことはあったが、だいたいは自宅療養で回復して、病院での入院生活を送ったことはなかった。
幼い頃から男の子と一緒にサッカーやドッジボールなどをする活発な子供で、おままごとや人形遊びにはあまり興味がなく、毎日泥だらけになって帰ってくるような子供時代を過ごしていた。
結衣がかかった大きな病というのは、ある日突然のことで、前日まで何も異常がなかった手足に翌日には痺れと激痛が走り、その場に立っていることすら困難な状態だった。担任の先生が救急車を呼び、学校から病院へ運ばれ、病院に着く頃には両親も心配そうに駆けつけて、すぐさまCTスキャンや脳波の検査などが始まり、結衣が気づいた時にはベッドの上にいた。
「もう少し遅かったら危なかったって」と目に涙を浮かべ、ベッドサイドに座り結衣の右手をギュッと握りしめながら母親が教えてくれた。結衣は一瞬、誰のことを言っているのかわからず自分の身に起きたことを把握するのに時間がかかった。ベッドサイドで涙目の母親がギュッと結衣の右手を掴んでいることに気づいた。
入院した翌日から毎朝必ず看護師が結衣の所へ来ては採血を行い、担当らしき看護師は三〇代前半といった年齢で明るくて話好きな人で採血の時も、「高校ではどんなことが流行っているの?」、「結衣ちゃんは彼氏とかいるの?」と話しかけてくれた。そんな看護師に対し結衣はだんだんと心を開き、二日に一回しか来られない両親よりも会話の回数が増えていったり、内容の濃さも濃くなったりと、確実に距離が短くなった。
そんなある日、病のせいで急に高熱を出して夜には吐血から意識を失った。病院から両親に連絡が行き、すぐさま病院へ駆けつけると結衣の周りには主治医と看護師が二、三人集まり、いろいろな処置が行われていた。意識が朦朧とする中で、結衣はその看護師の姿を無意識に探し見つけると安心し、主治医と看護師が行った懸命な処置のおかげでなんとか命をとりとめた。
それから結衣が意識を取り戻したのは二日後のことだった。
目を開けると天井が目に入り、ベッドサイドにあるモニターから定期的に出ている音が聞こえ、「生きている」ということに気づきベッドの上で涙を流していた。
ベッドサイドに母親の姿はなく、結衣は視界に入るものから自分以外の人はいるのかと探すと看護師らしき人は見えず、ナースコールを押すことも考えたが、まだ体が自由に動かせることに気づき孤独という暗闇に突き落とされた感覚に陥った。
ベッドサイドで誰かが動く気配を感じ、結衣は目を開けると結衣に気づいた看護師は、「結衣ちゃん、目が覚めた?何かしてほしいことはある?」と言葉をかけた。それは毎日朝と夕方に採血してくれていた看護師の姿で、結衣は安心したことで突然涙が溢れ出て、「私、生きているの?」と掠れた声で聞くと、「すごく頑張っていたよ。先生とお母さんに連絡してくるから待っていてね」と言い残し病室から出ていった。
私、生きている…。
入院するまで当たり前だと思っていた日々が、入院生活の中で看護師や両親の持つ優しさに触れたことで、そして意識を一度失い紛れもなく“死”を感じた。今まで当たり前と思って、元気に何不自由なく生活ができていたことに対し、結衣の中で“生きている”のではなく、たくさんの人に支えられて“生かされている”のだと、一人ベッドの上で天井を見つめながら考えていた。
窓から見える空には雲が少しかかり、間から差す太陽の光がまるで結衣の命の線のように神々しく一本の橋のように感じた。入院から半年が経ち、結衣の病も完治すると退院ができた。病室では結衣と母親が主治医から今回の入院中に行った治療や、これからの日常生活の中で気をつけることの説明を受けた。主治医の横には入院初日から目の前のことを手伝ってくれた看護師の姿があった。
看護師は特に言葉を発することはなく、カルテらしきものを主治医が見やすいように持ち笑顔で結衣に向かって微笑んでいた。その姿が結衣には眩しいくらい輝いて見え、結衣は心の中で誓った。
“私もいつか、傷ついた人の支えになれる看護師を目指そう”と。
それから月日が過ぎて看護師になって初めての仕事場である結衣にとって、二年目の今はやっと仕事や先輩後輩、ドクターとの人間関係に自分なりに慣れてきたつもりだ。もちろん人間関係で苦労することや気持ちが落ち込むこともあるが、入院している患者の笑顔を見る度に、あの日の自分がもらった優しさを今度は他の人に渡したいという気持ちがより強くなる。
「今から、足のレントゲンを撮りに行きますね。終わったらまた病室のベッドに戻りますからね」とありきたりだが、しっかり患者の顔を見て伝え、車椅子を押してレントゲン室の方へ向かった。
「結衣ちゃんはいつも明るいから入院していても楽しいよ!」と患者から言われると、少し照れながらも、「早く退院しなきゃダメですよ。そのためにはしっかりご飯食べてくださいね」と返事をする。入院患者からは、「太陽のような笑顔を持っている結衣ちゃん」と大人気であると共に、患者だけでなく先輩や同僚や後輩たちからも、「仕事もできるしオシャレだし、何より患者さんから好かれて結衣ちゃんは看護師が天職なんだね」と評判が高い。
そんな彼女にとっても、この仕事は楽しいだけではなく、三交代制のシフトが組まれている彼女にとっては夜勤からの夕方出が一番身体にダメージを及ぼす。夜勤を九時に終えると電車で三十分かけて実家へ戻る中で、唯一救いなのは実家暮らしで帰ったら食事が用意されているという実家ならではの“特別待遇”だ。当然それに対して、結衣は母親に心から感謝していた。
そして、夕方五時には病院へ戻るというシフトが週に最低三回ある。
それでも結衣は、この仕事を誇りに感じている。前日も夜勤だった結衣は、この日は夕方五時までに出勤すればよかったこともあり、スマホのアラームをセットせずに寝ていた。
一階から聞こえる掃除機の音とテレビから流れてくる声に起こされ、夜勤の疲れが残っていた結衣は、もう少し寝たいという気持ちと、夕方からの仕事の前に少しショッピングをしたいという感情の間で、布団の上でボーッと窓から見える景色を眺めていた。
喉が乾いたので、パジャマのまま母親がいる一階へ自分の部屋から降りて行くと、「やっと起きたの?最近忙しいの?ご飯が冷蔵庫に入っているから食べて」と母親が掃除機を動かしながら独り言のように発した。結衣は、「はぁい」とあくび混じりの返事をし、コップを片手に冷蔵庫の扉を開け、中から水を取りコップに入れた。
冷蔵庫の中にあった、母親が食べたであろうサラダとソーセージと卵焼きの残りを出し、炊飯器に残っていたご飯を茶碗に入れてダイニングテーブルへ移動した。サラダ、ソーセージ、卵焼き、お米の入った茶碗をテーブルに並べ、その横に自分のスマホを置きながら、「いただきます」と独り言のように言い、スマホで友達から来たLINEの返事をしたり、SNSで自分の好きなファッションブランドの情報をチェックしたりしながら食事をしていた。
情報をチェックする、といってもほとんど頭の中には情報を入れず、スマホの画面に映る写真や自分が気になるワードにしか目が行かないという具合だ。スマホに表示されている時計を見ると、午後一時半を指していた。ショッピングに行こうと思っていた結衣だったが、連日の仕事で疲れているのと、シャワーを浴びて仕事に行く準備をしなければと頭の中でスケジュールを立てると、やむなくショッピングは諦めた。
家を出て最寄りの駅である荻窪駅から電車に乗り、病院がある駅に向かう。病院がある最寄りの駅までは吉祥寺から五駅の距離で、時間で言うと二〇分くらいだ。降りる駅までの間、スマホに入っている音楽を聴きながら、医療に関する本をいつも持ち歩いているので、その日もカバンから出し読書をしていた。
ふと電車の窓から外の風景に目を向けると、ビルの間からほんのわずかに青い空が見えた。「東京の空ってこんなに青かったっけ…」そんなことを考えながらまた膝の上に開いてある本に目を落とした。
電車は何事もなく仕事場の最寄りの駅に近づいていた。


 

「守!ちゃんと会議室を押さえてあるか?!」
怒りを含んだような声で、一年先輩の上司が守に確認を促した。守は確認の返事をしようとしたが、社内ではその日使われる会議室には代表者の名前と使用時間が書かれたホワイトボードが、誰の目にも入る大きさで扉の内側に掛かっている。
守は、自分が座っている椅子をホワイトボードの方に向けたまま、自分の名前を書いたその後、椅子から立ち上がると自分の席から左斜め前にいる上司に向かい、「先ほどしっかりホワイトボードに記入しました」と伝えた。上司から、「そっか」とだけ返事があり、そのまま守は椅子に戻り、やりかけていた仕事を再開した。
「ありがとう」の一言もなく、「そっか」だけでやり取りが終わった。仕事とはいえ、上司と部下の関係であれば、ありがとうの一言がほしいと思うのが普通だが、守はできるだけ人との会話を避けたいため、この簡単なやり取りがちょうど良いと感じていた。
九月中に仕上げなければならない仕事が五つほどあり、それ以外にも自分で作った案を上司や同僚に月一回見せるという仕事が残っていた。ふとパソコンの横のカレンダーを見ると、この日は九月十五日だった。普段はあまり焦らない守だったが、自分の抱えている仕事の量と残り日数が少ないという現実に焦りを感じ、どこか遠い国や島に逃げたいという非現実的な空想を頭の中で抱いていた。
少し休憩しようと思い、守は自分のデスクから離れると、同僚との会話を避けながらなるべく自分の存在を目立たせないようにし、会社があるビルの横にあるスタバへ向かった。レジ前で守は「テイクアウトで」と一言告げ、いつも飲んでいる種類のコーヒーをオーダーした。コーヒーが手元に来るまで、他の客の邪魔にならないように“受け取り口”から少し離れた所に移動してスマホの画面で、「人はどこから来て、何のために生き、なぜ死という終わりがあるのか」について書かれた記事を読んでいた。
その記事には、「人はどこから来て、何のために生き、なぜ死という終わりがあるのか」についての答えは書かれていないのは明らかだった。守は、生と死に対する真理に気がつくと非常に興味を持ち、答えを求めているわけではなく、時間があれば生と死に対する真理について考えることがとても楽しく感じた。食事をしても味わうことなく、ただ単に空腹を満たすために体内に食べ物を運ぶという無意識の動作を繰り返し、美味しいとか不味いといった感覚はほとんどなかった。
その時もまた、スマホの記事を読みながら頭の中で平凡な生活をしている自分がなぜ生きているのかと考え始めていた。こうなると、守の耳には周囲の話し声や車のエンジン音、信号機の変わる音などが一切入ってこなくなり、自分の世界に没頭してしまう。テレビやスマホのニュースが本当に自分と同じ世界で起こっているのか、今の瞬間さえも現実ではなく、もう一人の自分が見ている夢ではないかと考え始める。自分が本当の自分ではないか、この考えを他人が聞いたら守が軽蔑されるかもしれないと、自分でも薄々感じていた。
「お待たせしました。ドリップコーヒーです!」
スタバの店員の甲高い声で、守がオーダーしていたコーヒーが出来上がったことを知り、スマホをズボンのポケットに入れるとコーヒーを受け取りに歩き出すと、「どうも」と小さな声で、店を後にした。
会社に戻り、自分のデスクにコーヒーとスマホを置き、パソコンから伸びているケーブルをスマホに繋げて充電を始めた。午後五時まであと一時間ほど。守はパソコンのメールチェックをし、先輩から送られてきた取引先の会社への納品についてのメールを開いた。メールには「来週の金曜までに取引先の会社へ商品を百個納品するように」と書かれており、その後には「綾瀬も納品日に取引先の会社に行って挨拶して来い」と記されていた。
守は、人と直接関わる仕事が苦手だと感じながらも、仕事という建前で気持ちを切り替え、「わかりました」と短い返事のメールを送った後、再び自分の仕事に戻った。一人で黙々とこなす仕事は得意だが、先ほどのメールに書かれていたような人と直接関わる仕事は守には不向きであり、あまり好きではない。
メールの内容をスマホのカレンダーに記入すると、ふとその前日の予定を確認し、そこには母親の誕生日と記されていた。「あっ、そういえば誕生日だった」と思い出し、この前弟から来たLINEの内容が初めてはっきりと理解できた。母親の誕生日は日曜日なので、前日の夕方にでも自分のアパートを出て電車で実家に向かえば間に合うだろうと考えていた。
午後五時になり、この日も残業せずにデスクの上を片付けて帰路についた。金曜日ということもあり、いつも利用する電車は通常の二倍ほど混んでいて、守はあえて一本電車を見送って次に来る車両に乗ることにした。
スマホの時刻を見ると五時四十分。普段であれば、電車の中で自分が降りる駅に着くまで、守が好きな読書ができる時間なのだが、今は駅のホームで電車が来るのを待っていた。帰宅ラッシュの人混みに押しつぶされそうになりながらも、それに負けないように足に力を入れて立って待っていた。
ふと空を見上げると、オレンジ色に染まった空が広がっていることに気がつく。小学校の頃から、友達とサッカーや野球をして遊ぶよりも、一人で学校の近くの河川敷に座り、自分が好きな本の世界に入り込みながら、たまに空を見上げることがとても好きだった。
空を見ていると、自分の考えや存在が誰からも否定されず、強制されない感覚に包まれる。そんな時が守にとっては非常に有意義な時間であり、その後の彼の思考を形成した時間だったのかもしれない。
守の小中学校時代は、ほとんど友達と遊ぶことがなく、友達に対して関心もあまりなかった。しかし、親友と呼べる人は一人いた。彼とは小学校から中学二年生まで毎日一緒に学校へ通い、同じ時間を過ごした。二人の間で言葉はあまり多く交わさなかったが、お互いの言いたいことは理解しているつもりだった。他の友達とは違って、一緒にいても気を使わず、まるで自分の一部のように、言い過ぎかもしれないが、自分以上に自分のことを理解しようとしてくれる存在だった。
特に印象的な思い出はないが、一緒に過ごした時間が守にとっても親友にとっても一番の思い出になっている。親友との別れは、守の人生にとって非常に辛く嫌な思い出となった。
中学三年生の二月、守は毎日のルーティーンとなっている中学校への道を一人で歩いていた。いつもであれば、途中で親友と合流し、二人で一緒に歩きながら中学校へ向かうはずだった。しかし、この日はいつも合流する場所を通り過ぎても親友の姿が見えず、守は黙々と一人で歩いていた。「きっと後から来るだろう」と心で思いながら空を見上げて歩いていた。
中学校に着いても親友と会うことはなく、一時間目の授業が始まっても親友の姿はなかった。昼休みになると、クラスメートたちはそれぞれ仲の良い人たちと話しながら弁当を食べ始めていた。いつもであれば守は親友と一緒に学校の屋上で弁当を食べていたが、昼休みになっても親友の姿はなかった。
教室の扉がガラガラと音を立てて開き、少し青白い顔をした先生が教室に入ってきた。先生の言葉を聞き、守は一気に全身の血の気が引いていった。言葉の意味を理解するのに時間は必要なかった。その前日に守と別れた親友は、自分の家の前の交差点でお年寄りを守ろうとした時に、信号無視した車に跳ねられた。救急車で病院に運ばれたが、今朝になっても意識を取り戻すことはなかった。
守は、死というものを初めて身近に感じることとなった。人と話すことに対してさらに無関心になった守は、それ以来、ますます読書をしたり、一人で映画を観たりすることで、一人の世界にいる時間が増えた。守は空を見上げると親友と会話している感覚になり、とても大切にしている。
駅のホームに音を鳴らしながら電車が入ってきた。いつも乗る時間よりも一本遅い電車がこんなに混んでいるのかと感じながら、つり革に何とか手を引っ掛けることができた。電車の揺れに応じて、守の体に他の人の体や持っているカバンがぶつかりながらも、気にせずに中吊り広告に目を向けた。頭の中では、帰ってからの夕飯のことや何の本を読もうかと考えていた。
守は給料の大半を趣味の読書に当てており、新品のものから古本まで本の状態には特にこだわりはなく、とにかく読書ができて自分の世界に入り込めれば良いと思っている。本のジャンルも様々で、哲学や人生観など、人はどこから生まれてきて何の目的で生活し、最後にはどう死を迎えるのかという答えが出ない考えを本に対して無意識に求めているのだろう。
守の考えを理解し、同じテンションで話してくれる相手はほとんど、いや、この世界に存在するのだろうか。そのことを守もどこかで理解していた。だから、あまり自分の考えを表に出すことはしない。
アパートに着くと、スーツから部屋着のジャージに着替え、すぐに本とスマホを机に並べた。この部屋では誰にも邪魔されることがないので、読書し放題である。まさに守にとっては天国と言える環境だ。
仕事がある時は十二時前に寝るようにしているが、翌日は土曜日で仕事が休みであり、誰かと会ったり、会社でやり残した仕事を終わらせなければならない予定もなかった。だから、いつもであれば一缶で止めておく缶チューハイをこの日は二缶買い、それを飲みながら大いに読書できる時間だった。この日はテレビではなく、スマホのYouTubeからジャズのチャンネルを選んでBGMとして流しながら本を読んでいた。

 

 

さっきまで飲んでいたアルコールが徐々に冷めてきたので、台所のやかんでお湯を沸かし、インスタントコーヒーを作り始めた。やかんから「ピュー」という高音が静かな部屋に鳴り響き、静寂を打ち消した。守は慌ててガスコンロの火を止め、やかんからマグカップにお湯を注いだ。
気がつくと、コーヒーが入ったカップに手をかけたまま、机に顔を置いて寝てしまっていたようだ。スマホを見ると、時刻は昼の十二時を過ぎていた。特に予定はないのだが、昼まで寝てしまったことに対し、時間が戻ってこないという気持ちから少し後悔の感情が芽生えていた。
守は昨晩食べたおつまみとコーヒーの入ったマグカップを洗いに台所へ向かおうと立ち上がろうとした。少なくとも二十八年間生活してきた中で、数え切れないほど毎日のように立ち上がる動作をして、自分の足にどのくらい力を入れたら立ち上がれるかは体が自然に覚えているはずだ。しかし、机から立ち上がろうとしても足に力が入らない。力を入れる以前に、目で見えているのに足の感覚が感じられないことに気づいた。同じ姿勢でいたのだから、きっと足が痺れているのだろう。
少し時間が経てば、きっと足の感覚が戻ってくるだろうと心の中で自分に言い聞かせた。一分、二分と時間だけが無情に過ぎていく。守は少しずつ焦り始めた。自分の身体なのに思い通りに動かないことに直面し、一気に恐怖心で心の中がいっぱいになった。現実を受け入れられず、何をどうしたらいいのかとパニックに陥った。こんな体験は初めてだ。
手は自由に動くことが分かると、慌ててカップからスマホに持ち替え、実家へ電話をした。「母ちゃん!足が動かなくて立てないんだ!!」と部屋いっぱいに声を張り上げて電話に向かって叫んだ。
電話の向こうの母親は、「何、土曜日の昼間から変な冗談言ってるの?そんなことより、今度いつ…」と話しかけようとしたが、守が「冗談じゃなくて、寝て起きたら足が動かないんだよ!いいから早くこっちに来てくれ!!」と怒鳴るように言い放った。
電話から聞こえてくる守の声色で、最初は冗談だと思っていた母親だったが、普段は怒鳴るような子ではない守の様子から、だんだんとただ事ではないことが起きていると考えた母親は、「今からそっちに行くけど、他に助けてもらえる人はいないの?」と聞いた。
その時、守は会社の同僚の中で自分を気にかけてくれている人がどのくらいいるのか、そもそも携帯番号やLINEなどの連絡先交換をして、仕事以外で遊びに行ったり、連絡を取り合ったりしたことがないことに気づいた。自分は本当に独りだという孤独感に覆われた。
母親からの問いに言葉を詰まらせていると、「多分、二時間くらいかかっちゃうけど、今からそっちに向かうから!あんたは救急車を呼んで、病院に行きなさい!!」と強い口調で言われた。守はアパートから近くの大学病院を選び、母親に病院の名前を伝えた。
救急車が来るまでの間、何度も足に力を入れ立とうとしてみたが、全く足に力が入らず、それ以前に足に感覚が戻る気配もなかった。「なんで僕がこんな目に合わなければならないのか」と、やり場のない怒りを感じていた。
両手は自由に動いたので、手が届く範囲の携帯や財布などを自分の腹の上に置き、救急隊が来るのを待った。
救急車が守のアパートに到着したのは、十五分ほど後だろうか。しかし、実際には一時間ほど経ったように感じた。救急車が到着し、救急隊が守の部屋の扉を開けようとしたが、鍵が掛かっており、「扉が開かないので、強制的に入ってもいいですか?」という問いかけに対し、「お願いします!」と目いっぱいの声で守は答えた。扉の鍵をこじ開けようとする音がしたかと思えば、次の瞬間には扉が爆弾で吹っ飛ぶような勢いで部屋の内側に倒れた。
三人の救急隊員が担架を持って部屋の中に入ってきた。「足以外に痛いところや違和感を感じるところはありますか?」とリーダーらしき救急隊員が守に聞いた。守は「両足の感覚がないくらいで、他には痛いところや違和感を感じることはないです」と答えた。
答えている最中も、他の救急隊員が守の手に血圧を測る機械を取り付けたり、持ってきた担架に毛布を敷いたりと、手慣れた手つきで救急車に運ぶ準備をしていた。守は初めて乗る救急車の中に驚きながら、車内に積まれている器具や頭上の運転席にあるトランシーバーのような機械を見上げ、目に入るものに驚きを隠せなかった。
救急隊員から「いつも通っている病院か、搬送してほしい病院はありますか?」と聞かれ、「近くの大学病院に」と伝え、「あと、母親に連絡してほしいので」と母親の携帯番号が表示されているスマホを救急隊員に手渡した。
救急車を運転する隊員、今向かっている大学病院の救急搬送先らしき人と電話で守の状況を伝える隊員、守の横で体温や脈などに異常がないか調べ、それをカルテに書く隊員がいた。守に向かって「痛いところとか気分が悪くなったら言ってください」と優しい口調で言われ、「あ、はい。母親には連絡つきましたか?」と尋ねると、「ご家族の方も今こちらに向かっているそうです」と言われた。
大学病院までは道が混んでいなければ約四十分で到着するのだが、救急車のサイレンの力で、約二十分で大学病院に到着した。救急車は病院の救急搬送入り口の真横に停められ、扉が開くと、守が乗った担架が病院の中に運ばれた。病院に入る前に担架から見える空は雲に覆われ、今にも雨が降りそうな空模様だった。
担当している患者のカルテ整理や点滴の交換など、一日に決められた業務をこなしながら、患者の治療に必要な器具の準備や、いつ鳴るかわからないナースコールに備えて、ナースステーションで先輩の看護師たちと話していた。
一人の先輩が突然「この前、彼氏に誘われて食事に行ったんだけど、そこのお店の料理が高くて支払いを割り勘させられたんだよ。ありえなくない?」と愚痴をこぼしてきた。「えぇ!行く前に店のこととか調べなかったんですかねぇ?」と聞き返した。「普通、事前に調べるよね?デートだよ⁉︎ 大事な彼女との」とかなりその時のことが気に入らなかったようで、普段の患者や家族に対する口調とは真逆であり、白衣の天使などと言われるイメージからは大きく外れる内容と話し方だった。
結衣はこうした会話よりも、患者との何気ない会話の方が楽しいと思いながらも愛想良く聞いていた。客観的に判断する人がいれば、結衣のように患者を思いやり、真摯に接する看護師が理想とされるであろう。
正午を過ぎ、結衣を含めた看護師たちは入院患者への昼食を配膳したり、口から食事を取れない患者には点滴で栄養を届けるなど、食事の時間は最も忙しい時間帯である。結衣が勤める病院は大学病院であり、子どもからお年寄りまで幅広い年齢層の患者が入院しており、その多くは裕福な家族の一員である。そのため、理不尽な要求やセクハラ、パワハラが日常茶飯事となっているのは珍しくない。
もちろん、感謝の言葉をかけてもらえる場面もある。「ありがとう」「いつもすまないね」と心から感謝されることもあり、そのたびに結衣は、患者が一日でも早く元気になり、笑顔を取り戻してもらいたいと願い、自分ができることをやろうとパワーをもらっている気がする。
正午から一時間の間に昼食を済ませ、終わった人から順番に食器の乗ったプレートを片付けていく。その後、看護師たちは順番に30分ほどの昼食と休憩を取り、ナースステーションには最低一人の看護師が待機しながら昼食を取る。
病院内の売店で食事を買う人もいるが、結衣はできるだけ自分の家でおにぎりを握って持参したり、母親が残り物のおかずを弁当箱に詰めてくれるので、それを食べている。
結衣には毎日必ず様子を見に行っている男の子がいる。その患者は自分の担当というわけではなく、結衣がこの大学病院に勤務し始めた初日に搬送されてきた。名前は翔、年齢は中学校二年生になる。翔は小学校六年の時に体育の授業でサッカーをしている最中、ボールがグラウンドから校舎の隅に転がり込んだのを取りに向かった際、校舎の工事で重いバールが地上四階から落ちてきた。翔と母親はその現実を目の当たりにし、精神的ショックを隠せなかった。
それから約三年、母親の希望で臓器移植手術を行うため、世界中から翔の体に合う臓器を提供してくれるドナーを待っているが、いまだに見つかっていない。翔が病院に運ばれたことやドナー提供を待っていることはすぐに結衣の耳にも入ってきた。まだ中学生で全く想像がつかず、なんとなく分からないが、それと共に「私にできることがある!会話の相手でもいいから何かしたい!!」と心の底から思った。
その日から毎日、日勤の際には五分、十分でもいいから翔の病室へ行き、「今日の夕飯のメニューはね…」「何かやってほしいことはある?」と簡単な会話を始め、最近では翔の方から「看護師さん、なんでこの仕事をしているの?」「仕事ばかりしていて絶対モテないよね」と中学生らしい少し失礼な言葉を交わすようになった。そこまでの関係性が築かれるまでには、ここ半年ほどの時間がかかった。翔と初めて会ってから、約二年半かけて作り上げた関係である。
翔の母親も結衣に対して非常に好印象で、「わざわざ来てくれてありがとうございます」と感謝の言葉をかけられることが多い。結衣は「私の方こそ、翔くんと話すことで多くの悩みが軽くなり、考えさせられることがたくさんあります」と正直に答え、そこに嘘偽りは一切ない。
日勤の際はこうして毎回翔の病室に行き、約十分間会話を交わしてから、制服から私服に着替えて帰る。
ある日、自分が担当している病棟で仕事をしていると、救急搬送の受け入れの電話が鳴った。先輩の看護師が受話器を取り、搬送されてくる患者の容態などを電話で聞きながらメモを取っている。受話器を置き、「今から両足が動かない男性が運ばれてくるから、手術室の準備とベッドの準備をして。あと、誰か先生を呼んできて!」と一気に緊張感が走った。
入院している患者たちは看護師の慌ただしい様子を見て、何が起きたのかと不安に思う人もいれば、また救急患者が運ばれてくるのかと入院歴によって見方が異なる。大学病院では救急搬送の依頼が少なくなく、入院患者や病院に勤務している医者、看護師たちはその対応に慣れている。
当然ながら、すべての救急搬送に応じられるわけではなく、患者の状態や病院内のベッドの空き状況によって受け入れを拒否する場合もある。結衣が勤務する大学病院の方針としては、「患者の身分や金で受け入れを判断せず、搬送希望時の身体に必要な治療および手当てが当病院で可能かどうかで判断する」とされている。
先ほど電話があった救急車が病院に到着した。結衣は救急患者にすぐ対応する立場ではないので、搬送されてきた患者の情報が耳に入ってくる程度で、いつもの業務に戻っていた。
救急車から担架に乗せられて出てきたのは、二十代後半の男性だった。意識はしっかりしており、一緒に乗っていた救急隊員から「吉祥寺在住、昼ごろに起床したところ、昨日まで動いていた両足が動かず感覚がない。意識ははっきりしており、脈と血圧も安定しています」と看護師に患者の情報が伝えられた。
その間、看護師はカルテに必要な情報を記入し、他の看護師は搬送されてきた男性に「ここは感覚ありますか?」と確認しながら足の部位を変え、触れたり少し強めに押したりしている。男性は「全く感じません」「そこもです」と丁寧に答えた。
「僕の携帯と母親への連絡は?」と救急隊員に尋ねると、「お母様がこちらに向かっているそうです。それと、これがご本人の携帯と保険証になります」と言いながら、看護師に携帯電話と、明記された保険証を渡した。「とりあえず一度、レントゲンやCTなどの精密検査を受けてもらいますので」と看護師は守に伝えた。守が乗った担架はレントゲン室へと運ばれ、看護師四人がかりで担架からレントゲンの台へと移動された。
「それでは、二、三枚撮影します。すぐに終わります」と一人残された部屋に設置されているスピーカーから男性の声が聞こえてきたかと思うと、少し大きめのシャッター音が鳴り、撮影が始まった。五分ほどでレントゲン室を出て、すぐにCTスキャンを撮るために部屋を移動した。移動の間に看護師が「ご家族の方は遠くに住んでいらっしゃいますか?」と守に聞いてきた。
「同じ東京なのですが、母は車を使わないので電車で来ていると思います。すみません」と答えた。そんなやり取りをしていると、ちょうど守が乗ったベッドがエレベーターの前で止まった時に、人の視線を感じた。守が頭を視線の方に向けると、自分が乗っているベッドを押している看護師の横から、約八メートル離れたところに車椅子に乗ったジャージ姿の男の子がこちらを見ているのに気づいた。
ここに来るまでにどれだけの人とすれ違い、様々な視線を浴びたかわからないが、今こちらを見ている男の子の視線は他の人と違い、まるで鏡に映ったこれからの自分を見ているように感じられた。時間にして三十秒ほどだったが、守にとってはまるで三、四時間のように感じられ、何かしらの意味があるという根拠のない思いが残った。
エレベーターが守のいる階に到着し扉が開くと、看護師に車椅子を押されてエレベーターに乗り、一階から三階に移動した。三階に到着すると、医者が待つ部屋へ車椅子を押されて入っていった。
「ご家族の方はまだ到着されておりませんが、先に検査結果をお伝えしましょうか?」と医者が守に尋ねた。その言葉には重みが感じられ、まるで余命宣告をするドラマのワンシーンのようだった。
とっさに「そんなに重い病気なんですか?」と守の口から言葉が出た。
守は母親を待っている時間が怖く、早く自分に起きている状況を知りたいと思った。と同時に、もう二度と自分の足で歩くことや走ることができない身体へ既になっているとどこかで感じていた。
「わかりました。結論から申しますと…」と言う言葉が医者から出た後、体感時間で五秒ほどして「原因はわかりませんが、脳から足に送られる神経がどこかで止まっていて、もう二度と御自分の意思で今までの生活をすることは不可能です」
やはり…、と思っていたことが自分の現実になった瞬間、守はこの世界から自分の存在が消されたような、そんな感覚に陥り身体が震え目から涙がこぼれ落ちいき、自分の手の甲に雫が落ちた。
憤りや憎しみ、悲しいとか虚しいとかこれまで様々な感情を味わってきた。が、自分が感じている気持ちを言葉で、第三者や自分に伝えることができないくらいの感情で鮮やかな色が世界から消えたような感覚になった。
「綾瀬さん、大丈夫ですか?」と医者の声がふいに耳に聞こえ、守は「あっ、はい」と覇気の無い言葉で返事を返すと、続けて「治療やリハビリをすれば元の状態に戻れるの…ですか?」と返ってくる答えはわかっているはずなのに、無意識のまま医者に聞いた。「先程も説明したように原因がわからない為、現段階でここの病院で行える治療やリハビリはありません。もしかしたら海外や国内の病院で専門の医者がいるのかもしれませんが、可能性としては低いものだと考えておいてください」と守にとっては、まるで雨雲に覆われていた空が一気に快晴になり虹が架かっているように感じられた。
急に守の医者がいる部屋の扉をノックする音が聞こえ、扉が開くとそこには二十代の女性の看護師に連れられて来た守の母親が顔を青くして立っていた。
守は看護師の胸元に付いてあるネームプレートに書いてある「小田結衣」という名前を見て、顔に目を向けて軽く会釈するとその結衣という看護師も会釈を返すと、母親が「守!どうしたの!!何があったの!?」と物凄い勢いで言葉を発しながら守に近寄ってきた。「お母様ですか?今、息子さんには説明させてもらいました」と医者が言い、先程守に対し説明した内容を守の母親に伝えた。
「とりあえず、精密検査は終わったのですが少し経過を診たいので、できれば一ヶ月程入院となります」と医者が守と母親の顔を見ながら伝えた。
守は無言で頷きその横で「わかりました。よろしくお願いします」と母親が医者や結衣に向かい深々と頭を下げた。
ベッドのある部屋へ守が乗った車椅子を結衣が押しその横を守の母親が歩き移動し始めた。その間母親は何度も守に向かって「ごめん」と謝り続け、「母ちゃんに謝られても困るし」と本当は泣きたいのはこっちだよと内心思いながらも、母親の前では弱い所を見せたらいけないと思い、いつものように振る舞った。
結衣に車椅子を押されて病院の廊下を歩いていると、「その人が彼氏?」という声が聞こえてきた。
ふと守は声がする方に目を向けると、そこにはさっきエレベーターに乗る前に視線を感じた車椅子だった男の子だった。
「からかわないで!今仕事中だからまた夕方行くから」と守の車椅子を押しながら結衣はその男の子に向かい返事をした。
この人はすごく心が綺麗な人だ、と守は後ろから聞こえて来る結衣の声を聞きながら思った。
守が乗った車椅子は三階のナースステーションがある場所から三部屋離れた六人部屋に入って行った。
部屋を入ると手前から三つ目の右側の奥に、綺麗なシーツや枕カバーが準備されたベッドがあり、「ここが守さんのベッドになります」と車椅子のブレーキを止めながら結衣が教えてくれた。
「今、男性職員を連れてきてベッドに移りますので、ここで待っていて下さい」と言い残しナースステーションの方へ向かって行った。車椅子に乗った守は自分の両手で感覚がない両足を触れてみたり、指で抓ってみたりしてみたが全く感じることはなかった。
力一杯自分の足を叩いてみようかと考えたが、母親が側にいたり、他の入院患者がいたりしたので、ここで自分の感情を顕にすると母親が心配するのと他の人に迷惑がかかると思い、自分の中にある感情を抑えた。
「お母さん、入院手続きをしてもらいますのでナースステーションの方に来て下さい」と結衣が男性看護師を三人連れて来ながら母親に言葉を放った。「じゃあ、守さんはベッドに移ってもらいますので、男性職員が抱えてベッドに移動しますね」と言い残し母親を連れ結衣はナースステーションへ向かって行った。
部屋に残された守は、男性職員に抱えられベッドに車椅子から移った。ついさっきまで一人で出来ていた何気ないことが、今では他人の力が無ければベッドへも移動出来ないのだということに対し、真っ暗な部屋に閉じ込められたかのような恐怖と孤独が入り混じった感情になった。
「クッションとか使いますか?」と男性職員に聞かれ、要らないという返事をすると頭の下に枕を入れられ身体の上からタオルケットをかけられた。ナースコールの場所を教えられ何かあった場合は押すようにと伝えられ、男性職員は守のベッドから去って行った。
生きていく意味はあるのか。他人や両親に迷惑を翔ならここでいっそのこと…。
などと考えたが、自分がいるところは病院だ。周りには他の入院患者やその家族らしき人が見舞いに来ている。
こんな人の目がたくさんあるところで、医療技術をもった医者や看護師がいる中で簡単に死を選択し、実行できる確率はほぼ皆無である。
ふと、さっき結衣から聞いた翔という男の子のことを思い出し、あまり他人と自分を比較することは無い守だが、今まで風邪以外で病院に来たことがなくましてや病室のベッドに寝た経験がない彼にとって今の状況は非常に苦痛なものであった。
気がつくと目からこぼれ落ち、涙が守の頬を伝ってベッドのシーツに落ちていた。
自分の右手で目を覆い周りの人に分からぬように一人シクシクと悲しい感情を抑えようと必死だった。
ベッドサイドの窓から見える空を見ると、時間は午後五時を過ぎていることもあり、まだ夏独特の青い空でその中にどこか秋を感じさせるような雲が浮いていた。季節は夏を終えて木に咲く葉の色が変わり秋を迎えようとしていた。
入院してから一週間が経った。
一日中ベッドの上で過ごす守にとって、いつ退院できるか分からない入院生活の中で三食の食事の時間は、唯一の楽しみであった。
入院してからは、ベッドサイドにテレビはあるものの、普段からあまり意識して見ることのない守にとっては、滅多に点けることがなく窓から見える空を眺めながら、母親に頼んでアパートから持ってきた本を読むことが多かった。
アパートから救急車で病院へ運ばれ、衣類など入院生活で必要なものを持って来てもらったり、買ってもらったりした時に母親が駆けつけてからは、会社の同僚・上司を含めて誰一人守の元へは訪れていない。
膝の上に置かれた本に目線を落としながら、そこに書かれている文字を目で追い内容を理解すること無く、ただただ文字を見ながらたまに、窓の方に顔を向けそこから見える空を見ていた。
つい一週間前まであの空の下でアパートから会社へ行き、その道中でコーヒーを買っていた何気ない日々が、今となってはどこか奇跡が連続していたかのように感じた。
なぜ、何も悪いことをしていない僕がこんなベッドの上で寝ているんだ!と、当てようのない感情が出ては消えの繰り返し続いた。
本の中に出てくる登場人物や、普段の生活で外を歩く中ですれ違ったりする中で出会う車椅子に乗った人、“ショウガイシャ”。
自分がそっち側の立場になるとは全く考えたことはなかった。
車椅子に乗っている人とエレベーターで一緒になれば、乗り降りする際にドアを開けたり、電車で困っていそうな様子を見たら時々声をかけたり手伝うなど、決して優しい人の類では無い方だと自覚していた。
“自分がそっち側の人生をこれから送ることになるなんて!?”
毎日会社へ行き、文句ひとつ言わず仕事をしてきて誰にも迷惑をかけていないのに…。
膝の上に置かれた本にポロポロと水滴が垂れては少しずつ滲んでいった。
病室の窓から見える空が、さっきまで晴れていたが、だんだんと激しさを増していきながら雨が降り続けていた。
 


 

病院の中には、入院患者とその人の所へ見舞いに来た家族や友人などが憩いの場として使われるベンチがある。翔が乗った車椅子を押しながら、いつものように笑顔を浮かべている結衣の姿があった。
思春期の翔にとって、看護師とはいえ女性に車椅子を押してもらうことが、自分の家族や友達がそこにいない状況とはいえ、ものすごく恥ずかしくあり、嫌でもありとても複雑な気持ちであった。そんな翔の思いを知ることなく一方的に、
「私、この前渋谷のカフェに行った時に飲んだコーヒーが美味しくて、ついお店にあったドリップコーヒーを買っちゃったんだよね!今度他の人には内緒で、ご飯と一緒に持ってくね」と右手で翔の肩にポンと軽く手を置き、また車椅子の押し手へと右手を戻した。
「別に…」と小さく結衣の耳に聞こえるか聞こえないかの声の大きさで呟き、自分が着ているサッカーの日本代表のシャツの裾を伸ばしたり、縮めたりしていた。
「サッカーの試合、見に行きたいな。サッカーをしたいな」と翔は独り言のように言った。少しいつもと違う声のトーンで、「翔くんはサッカー好きなんだね。きっとまた試合を見に行ったり、友達とプレイができるようになったり…」と、歯切れの悪い口調だった。
また友達とプレイができる。それが叶わない可能性が高いことを翔が一番理解して、一番悔しい気持ちでいっぱいだった。かれこれ三年位、臓器提供者を待っているが未だに、何の明るい情報や希望があるのかさえ分からない。臓器提供者が現れても、翔の臓器と一致するものなのか。手術が成功する確率は百パーセントでは無いと主治医から言われている。この広い空の下で、自分と同じような臓器を持った人がいることは、宇宙から東京に向かってダーツの矢を投げて命中するくらい数学的には低い可能性である。きっとこの空の下のどこかに必ずいることは明確であり、可能性がゼロではない。
結衣と翔の間にとても気まずい空気が流れた。次に何を発したら良いのか。何の話題でこの空気を変えたら良いのかと、二人が頭の中で焦りと共に考えていた。
「なんでいつもそんなに笑顔でいられるんだよ」と翔が結衣に聞いてきた。結衣はそれまでゆっくりと歩いていた足を止めると、翔と同じ目線になるように膝を曲げて屈むような姿勢になった。目線を空の方に向け、翔以外の人に聞こえない位の声で話し始めた。
「私が小学校の頃に怪我をした時に診てもらった病院の先生が、とても優しかったの。今では医療技術や難しい言葉を勉強したから分かるけれど、小さい頃って分からないじゃない?でも、その時の先生がずっと笑顔で接してくれていて、すごく嬉しかったの。だから、私も医療技術は高くないけれど、せめて笑顔で痛みや辛さを少しでも和らげる存在になりたいなぁと思って」結衣はそう言うと、また翔が乗っている車椅子を押しながら前へ歩き始めた。翔はそんなキラキラと輝いた言葉が帰ってくるとは思わず、嫌味ったらしく聞いてしまった自分を少し反省し恥ずかしく思えた。
いつも一人で、病室のベッドの上で一日の大半を漫画を読んだり、テレビを観たりして時間を過ごしている翔は、家族を含めて人と会話を交わす時間はほとんど無かった。一日三食の食事を持ってきてもらったり、健康管理のために検温や血圧を計ったりする為に訪れる結衣を除いた看護師との会話はほとんど無い。
いつになったら臓器提供者が現れ、今の生活から抜け出し、同級生と同じように毎日学校へ行って好きなサッカーを含めて、自由に身体を動かせる日が来るのか。 または、このままベッドの上での生活を送ることになるのかとまだ中学生の翔には、すごく大きな闇の中にいるような感覚である。
約三十分位だろうか、翔が乗った車椅子を結衣が押して散歩していると、先ほどまで雲一つなく青空が見えていたのに、空からポツポツと水滴が落ちて徐々に地面に生えている芝生や舗装された道やベンチ椅子が、その水滴により濡れ始めてきた。それはまるで、翔と結衣の間にあるお互いが相手のことを気遣った結果ことで、起きてしまったすれ違う気持ちを表しているようだった。
「さっきまで良い天気だったのに」誰が言った。そういった声が次から次へと飛び交って、患者やその家族は自分のベッドがある部屋へと戻っていった。結衣も翔へ部屋に戻ろうと声を掛けながら、翔のベッドがある部屋へと戻った。
車椅子からベッドへ移るには、結衣一人の力では危険なので、部屋へ戻る道中に男性スタッフに声を掛けた。結衣と男性スタッフの二人で、車椅子に乗った翔をベッドへと移動させた。先ほどの雨で、濡れてしまった洋服を着替える為に、結衣は男性スタッフに声を掛けて、翔が乗っていた車椅子を押しながら部屋を後にした。
翔は、自分の意思で動かせる範囲で着ていた洋服を脱ぎながら、男性スタッフに対し、「タンス、上から三番目」と言ったように人へお願いするには雑な話し方で、新しい洋服へと着替えた。急に降ってきた雨で、濡れてしまった結衣は一度スタッフ専用の休憩室で、大きなタオルを使い濡れた箇所を拭いた。自分のバッグに入れていたペットボトルの飲み物を少し飲み、翔がさっき中庭で見せた自分の人生を、どこかで諦めながらも微かな希望に賭けていた。
“もう少し違った話をすれば、よかったのかな”
自分が翔のことを思って、これまで体験した事を元に少しでも元気になってもらいたいという考えが、時には相手を苦しめて追い詰めてしまう。看護師として、あの話しを翔にしたことは、本当は自分に対して鼓舞の意味で話していたのではと、手に持つペットボトルのラベルに書かれた文字に目を傾け、結衣は思った。
「お疲れ様です」と笑顔で後から入ってきた看護師に対し、結衣は笑顔で挨拶をすると、「何か悩み事?いつも明るいのにさっきまでペットボトルを眺めていたから、びっくりしたよ」とその看護師から言われると、「あぁ、大丈夫です」と結衣は返事をした。
大丈夫…。
その言葉を言った瞬間から、結衣は大丈夫では無いことを自覚していた。いつも元気で笑顔が絶えないとイメージを壊したくないと思いが強かった。目の前の看護師に少しでも弱音を吐いたら、徐々に広がり翔をはじめ担当している入院患者に不安を与えてしまうことがすごく彼女にとって怖く感じた。自分が小学生の頃と、今の翔が置かれている状況は比べように無いほど全く別次元のものである。
同年代の友人は一般企業でデスクワークを行ったり、自宅で子育てをしているので結衣が休みの日と予定を合わせるのが難しいので、自宅で録画してあるテレビ番組を観たり、スマホで買う予定もない洋服を見たり、その合間に仕事に必要な知識を勉強するため本を読んだりしていると時間が過ぎていく。
この日も、帰宅後に特にやるべきことはないため、翔はおそらくそのまま時間を持て余すことになるだろう。ナースステーションから見える空は、先ほどまでの雨が止み、雲の合間から神々しい光のカーテンが差し込んでいた。
翔の食事の時間は、朝六時半、昼十二時、夜十八時と決められており、主治医から特別な指示は出ていなかった。翔の母親は自宅が病院から遠いため、あまり病室を訪れることはない。そのため、翔はほとんど一人でベッドの上で食事をし、テレビから流れる音をBGM代わりに黙々と食べていた。
病院食は決して美味しいとは言えなかったが、翔は特に好き嫌いもなく、食事に対して不満を感じることはなかった。今日もテレビのスイッチを入れ、バラエティ番組に映るタレントや司会者の声に耳を傾けながら、頭の中で昼間の結衣との会話を思い出していた。
三年前のある朝、翔は今までに経験したことのない激痛が腰から下に走り、大声で叫んだ。痛みは下の階の台所にいた母親の耳にも届き、母親は勢いよく翔の部屋の扉を開け、「どうしたの?!」と駆け寄ってきた。翔もまた、自分の身に何が起こったのか分からず、「痛い!!足と腰が!?」と繰り返し叫んでいた。
気がつくと、翔は救急車の中で酸素マスクを付けられていた。救急車の中で病院へ向かうことに安心し、翔は再び眠りに落ちた。救急車は約二十分で大学病院に到着し、救急隊員からの連絡を受けた看護師と医者がスタンバイしていた。
「血圧・心拍ともに異常ありません。腰から足にかけての痛みあり」、「とりあえずレントゲンとCTとMRIを撮るから準備して!」といったやりとりが遠くから聞こえた。翔は状況を理解する余裕もなく、次々とやってくる看護師たちが「大丈夫ですか?何か身体に変化があったら言ってください!!」と大きな声で問いかけては去っていくのを、ただ黙って見ていた。
救急車で病院に運ばれてから約一時間が経過した。検査が一通り終わり、主治医らしき白衣を着た四十代くらいの男性が、看護師に母親を呼ぶよう伝えた。優しい口調で、「今から診断結果をお伝えしますので、ご家族の方と一緒に聞いてもらいますね」と声をかけた。
待合室で待っていた翔の母親が診察室に入り、ベッドに横たわる翔の横に座り、看護師から渡された丸い椅子に座って翔の右手をそっと握りながら、「先生、どんな症状なんですか?」と不安に満ちた声で尋ねた。
主治医は、撮影したレントゲン、CT、MRIの結果をもとに分かりやすい言葉で説明を始めた。「このままだと翔くんは歩けなくなってしまい、臓器提供者を募ってドナーから臓器を提供してもらう必要があります」と説明された。
「臓器提供?」 テレビドラマで何度か耳にした言葉だが、その意味を理解する自信はなく、自分の知識が浅いことを痛感した。主治医は資料を使い、翔とその横で顔をハンカチで覆い涙を流す母親に対して、病状や治療方法について丁寧に説明していた。診察室の時計の針だけが、冷たい空気の中で刻々と音を立てていた。
翔の頭には、学校での友達との生活、毎日欠かさず練習しているサッカー、そしてこれから先どうなっていくのかが一気に駆け巡った。ただ一つはっきりしていたのは、これからとても大きな問題と共に生活していかなければならないということだった。
翔の横では、看護師に肩をさすられながら涙で濡れたハンカチを持つ母親の姿があった。何か言葉をかけるべきだと理解していたが、翔には言葉が思い付かず黙っていた。
診察室の扉が開き、「先生、ベッドの準備ができました」と四十代くらいの看護師がハキハキした声で入ってきた。主治医は、「後のことはお母様にご説明しますので、翔くんは病室へ移ってもらいます」と言い、看護師たちが翔を入院患者用のベッドに移し、病院の廊下を通って個室へと運んでいった。
約一時間前まで自分の部屋のベッドで寝ていたことが、遥か彼方の出来事のように感じられ、翔は気がつくと眠っていた。そこから、翔の身体に合った臓器の型や血液などの情報を調べるための様々な検査が続けられた。全国の大きな病院や臓器提供者に立候補している人たちの元へ、翔の病院や主治医が積極的に働きかけたが、翔に合った臓器提供者はなかなか現れず、春夏秋冬が三度過ぎていった。
ある日、他の看護師とは異なり、明るく笑顔で挨拶をし、こちらが何も聞かないうちから天気や自分が食べた食事のことについて積極的に話す看護師がいた。それが、初めて翔の前に現れたときの結衣の姿だった。それから、翔の担当看護師が変わり、結衣が担当となった。
思春期で人見知りが激しい翔は、自分から結衣に話しかけることはなく、点滴が終わりそうになったときに知らせたり、トイレに行く際には男性スタッフを呼んでもらったりするなど、最低限の要求だけを伝える日々が続いた。
右手にお箸を持ち、目の前の食事を眺めながら、自分がここへ入院したときのことを思い出していた。
「いつになったら、前の生活に戻れるんだ!」気づくと、目の前にあったお皿が載ったトレイを床へと払い除け、ガッシャン!と大きな音を立てて、生姜焼きや味噌汁などが床に散らばっていた。
右手にはフォークを持ち、今にも自分の腹に突き刺そうとしていた。目は血走り、鋭く濁っていた。
「どうしたの!?」と看護師が驚きながら部屋に入ると、フォークを腹に突き刺す体勢の翔が目に入った。「何やっているの!?」と言いながら、フォークに近づこうとした。
「それ以上こっちに来るな!どうせ、もうこのまま誰も俺のことを助けてくれないんだ!!だったらここで死ぬ!!」翔の声は、病室からナースセンターを通り抜け、同じフロアの守の耳にも届いていた。夕勤の看護師に患者の健康状態などを説明していた結衣の耳にも翔の声は届いた。
何事かと思った結衣は、引き継ぎの途中だったが、「すみません!」と言い残してナースセンターから翔の病室へと走っていった。そこには、すでに他の看護師と男性スタッフが翔をなだめるように声を掛け、落ち着かせようとしていた。
結衣は、病室の中にいた看護師や男性スタッフに、現在の状況に至る経緯を簡単に聞いた。結衣は何も言わず、ゆっくりと一歩ずつまるで翔を包み込むように翔に近づいていった。周りの看護師や男性スタッフは、結衣に任せる思いで、それまで翔の行動を止めようとしていた言葉を止め、ただ黙って結衣の様子を見守っていた。
もちろん、翔が自分の腹部にフォークを突き刺す素振りを見せた瞬間には、彼の右手に目掛けて飛びかかる準備をしていた。
「その右手に持っているフォークを離しなさい!!」
普段は優しい口調で話す結衣は、翔を諭すように冷静に淡々とした言葉で問いかけた。外ではさっきまで大雨が降っていたが、今は曇りに変わり、風が強く部屋の窓が揺れて音を立てていた。
一歩ずつ翔の元へ近づく結衣の目は、その一歩ごとに潤んでいき、今にも涙がこぼれ落ちそうだった。翔の目にも映り、強く握りしめていた右手の力が少しずつ弱まっていき、気づくとフォークが床に落ちていた。翔の目からは大粒の涙がこぼれ落ち、結衣は優しく翔の背中をさすりながら、穏やかな笑顔で、「大丈夫、大丈夫だよ」と言葉をかけた。
今まで弱音を吐かず、涙を見せたことがなかった翔が、自分の感情をここまで表に出すのを見たのは、結衣を含む看護師や男性スタッフにとって初めての光景だった。結衣を除く看護師や男性スタッフは翔の部屋を離れていった。
結衣は丸い椅子を翔のベッドサイドに持ち寄り、特に言葉を掛けることもなく、ただ静かに翔の左手を自分の両手で包み込んだ。結衣は小学生の頃、病院で不安だった自分と同じように、看護師が優しく接してくれたことを思い出した。
「看護師や医者がいるからといって、必ずしも安心できるわけではない」
常に笑顔でいることが、入院している患者やその家族に安心感を与えると思い込んでいた。だが、患者一人ひとりが抱える病気や症状はさまざまで、結衣の笑顔がそれに直接的に影響するわけではないと気づいた。それでも、自分の笑顔で少しでも楽な気持ちになり、楽しいと感じてもらえることを願っていた。
この日、日勤の結衣は十八時で帰りの支度をする予定だったが、今は翔の側にいることが看護師の役割であり、何より結衣が憧れていた優しい看護師に近づく機会だと感じていた。
「結衣さん、そろそろ私が交代して…」と三十分ほど経過した頃、夕勤の看護師が部屋に入ってきた。結衣は左手の人差し指を立て、マスク越しの口の前に置き、シーッという音を立てた。その指でスヤスヤと寝ている翔の方を指し、翔が寝ていることを伝えた。
三十分ほどしてから、結衣は翔の左手からそっと手を離し、部屋を後にした。腕時計を見ると、時間は十九時を過ぎていた。休憩室に置いてあるバッグを持ち、更衣室へ着替えてから病院を後にした。外に出て空を見上げると、夕方まであった雲が晴れ、綺麗な星が輝いていた。結衣の心はほっこりと暖かくなった。

 

 

食事は以前と変わらず口から食べられたので、この日も病院から出されたものに一口、二口だけ食べ、守はスプーンをトレイに置き、天井を見つめていた。さっきの騒ぎは一体何だったのかと思いながら、母親がアパートから持ってきた本と病院の売店で買ったと思われる歯ブラシが消灯台に置かれていた。
「体調はいかがですか?」と主治医と看護師が守の部屋に入ってきた。昼間に思いっきり涙を流しながら今の自分の状況を悔やんだことは忘れたかのように振る舞い、「大丈夫です」と答えた。主治医からは、今日まで行った検査結果や見立てについての見解が伝えられた。守は、心の中で「早く原因を調べてくれ!」と叫んでいたが、言葉に出して主治医や看護師に気持ちをぶつける勇気もなく、状況が変わらないことを理解していた。守は「はい」とだけ小さな声で返事をし、主治医と看護師は守の部屋から出ていった。
ベッドの上で守は右手で枕元の読みかけの本を膝上に置き読み始めたが、本の内容が一切頭に入ってこなかった。時計の針が進む音が、自分の命が終わるまでのタイムリミットを刻むように、大きく聞こえてきた。守の目には、テレビや着替えが入った消灯台、エアコンの風で揺れているカーテンなど、無意識に病室のものをひとつずつ見ては、今の自分は社会から見たときにこれらと同じようなもので、つまり存在していれば必要とされるが、代わりになる者はこの世界に自分の他にもいるのだと考えていた。
「あぁ。」思わず口から弱々しい声が漏れた。その声と同時に、守の病室の扉が開き、「体調はどう?」という声が入ってきた。声のする方に守が顔を向けると、会社の同僚がスーツ姿でこちらに向かってきていた。時刻を確認すると、まだ昼の一時過ぎだった。
「こんな時間に。仕事がまだ残っているんじゃないの?」と同僚に尋ねると、「部長が綾瀬の具合を見てこいって言うから、外回りの帰り道に少し寄っただけだから、すぐ会社へ戻るわ」と言い、守は最近の生活の様子や主治医からの病状について説明した。
「もう少し迷惑をかける形になるから、先に謝っておくから伝えといてもらえる?」と守は伝えた。「それは良いけど、綾瀬が作った資料でないと取引先の人がなかなか納得して契約まで辿り着かないから、なるべく早く戻ってこいよ」と言いながら、持っていたカバンから茶封筒を取り出し守に渡した。守が「何?」と聞くと、「長期休暇になると思うから、今度来る時までに書いてくれよ。代わりに会社へ持っていってやるから」と同僚が言い、病室を後にした。
長期休暇か…。入社してから風邪を除いて一度も休みを取ったことがない守は、長く休むことは悪いことだと考えていた。いつ退院できるかわからない中で、使わずに残してある有給を全て使っても、以前と同じように会社に行く自分を守は想像することができなかった。上司からの命令でも、わざわざお見舞いに来てくれた同僚に対して、守は嬉しさよりも驚きの方が強かった。
「綾瀬が作った資料でないと取引先の人がなかなか納得して契約まで辿り着かないから」という同僚からの言葉を思い出していた。少なくとも自分が会社にとって必要とされる人材であり、同僚や上司、取引先から信頼されていたことに気づいていなかった。人から信頼されることがこんなにも嬉しいことだと心の底から感じていた。その瞬間、心が太陽の光に当たっているように温かく感じた。
今の会社に入社した理由は特になく、安定した給料を自分の持っているスキルで得られるという安易な考えで数ある会社の中から選んだ。両親からもどこどこへ就職してほしいという要望はなく、きっと自分の道を選ぶだろうと信頼されていた。ネガティブに捉えれば、両親が守に対して関心がなかったのかもしれない。
子供の頃、友達と喧嘩をしたり悪ふざけをして学校の先生や大人に怒られたりすることはなかった。休み時間も、教室で仲の良い友達と興味のある本の話をしたり、学校で飼っていたザリガニの世話をしたりと物静かな幼少期を送っていた。早い段階から周りの雰囲気を読む癖がつき、大人たちの目を気にして自分の気持ちを抑えることが多かった。周りの子供たちと比べると、欲しいものや行きたい場所を泣いて両親を困らせたことはほとんどなかった。
そういったことが、大人になっても変わらず、社会で様々な人々の中でもうまく渡っていける守のスキルに繋がっている。病室には、同じ病室に入院している患者の元に家族らしき人が毎日のように訪れ、他愛もない会話をし、前日に使用した服とおそらく家で洗濯した服と交換する光景が守の目の前で繰り広げられていた。
守は黙々と本を読み進める以外にやることがなく、午後になって訪れる看護師による体温と血圧の計測が終わると、夕飯の時間まで十分な時間があった。病院から車で片道一時間ほどかかる場所に住む母親はあまり病院に訪れず、そのため守は病院の服を使っていた。守はふとこの前すれ違った翔のことを思い出していた。
全く自分とは関係無いが、守はどこか自分とは関係の無いとは思えずにいた。守は今まで、こんなに家族以外の人へ対し関心を持つことが無かった。今の自分にある感情は、どういったものでどこから湧いて出てきているのかを、夕飯を食べながら自分へ語りかけるように探っていた。
今の守が抱えている状況と、翔という少年を比べた時に、どちらが辛い状況なのかは比べることは出来ない。この世界には、守や翔よりも辛い状況下で自分の命を明日まで繋ぐことが難しい人たちが、星の数程たくさんいる。自分が助けなかったり、関心を持たなかったりしても、きっと誰かが手助けをしたり、サポートをする事で当事者である人たちは、おそらく助かっているのであろうと守は思っていた。
自分の身体が動かなく、さらに自分よりも厳しい状況下に置かれている人がいる事を考えると、いろいろな状況や世の中の人たちに対し、とても深い怒りが守の心の底から湧いてくる。きっとあの翔という少年も特別悪いことをしたわけでは無く、他の子と変わらない生活を送ってきたのだと思う。それなのになぜ、彼が自由に学校へ行き、好きなことを同年代の友達と同じ時間を過ごす事なく、ずっと入院生活を送っていると考えると、世の中は理不尽であると守は感じた。
僕だってそうだ。同じ社内には仕事をしっかりこなすこと無く、会社や上司に対しての愚痴や文句を言っている奴らの方が多い。頭の中でそのようなことを考えながら、病院から出された夕飯の六割を食べ終えていた。
「全部食べていないですが、どこか体調悪いですか?」と守の目の前に置かれた、机の上にトレイを看護師が片付けながら尋ねられたので、「特に変わったことは無いです…」と暗いトーンで返事をした。今の気持ちを、目の前の看護師に話し聞いてもらうことで、少しは楽になるのかと守は考えた。
と同時に、彼の良い所でもある相手に対し気を遣い過ぎて、僕なんかに時間を取らせると他の人たちに迷惑になる、と思いが守の心の中でぶつかり、自分の思いを抑えるという選択肢を取った。その理由は分からないが、自分の思いを聞いてもらう相手はこの人では無く、この前来たあの元気のいい看護師だと直感で思った。
「何かあったら遠慮せずに言ってください」と今の傷ついた心を持った守にとっては、とても暖かくて優しい言葉がどこか胸に痛い程響いていた。「僕の病気のことで、先生とお話がしたいです」と守は気がつくと感情が言葉へと変わっていて看護師に尋ねていた。
「明日以降でこちらに来るように先生へは伝えます」とだけ言い残し、守が先ほどまで食べていたトレイを持っていき部屋を後にした。守は、膝の上に本を置き先程まで読んでいたページを開き少しずつ文字を目で追っては、自分の身体のことや翔のことをぼんやりと考えていた。
「そろそろお部屋の電気を消させてもらいますね」と声が聞こえると、守がいる部屋の患者は、「はぁい」と返事があった。足元が、うっすらと明るく照らされるくらいの照明だけ残し、天井の蛍光灯は消えた。各自のベッドサイドに設置されたライトを点けている人や、寝息を立て既に寝ている人がいる中で、守も夢の中にいた。
目が覚めると、汗で濡れてしまったパジャマを交換してもらうために、枕元にあるナースコールを押して、パジャマを替えたいという旨を伝え看護師が来るのを待っていた。時計を見ると二十二時半を指し、消灯時間からまだ一時間半しか経過していなかった。が、守は五時間ほど経過しているように感じていると、看護師が替のパジャマと身体を拭くためのタオルを持ち守の所へやって来た。守が寝ているベッドをカーテンで囲み、看護師から渡された新しいパジャマに着替えていると「どこか痛いところでもありますか?」と看護師からの問いに対し、「こんなことを聞くのもおかしいのですが、小田さんという看護師は今度いつ出勤されますか?」と守は尋ねた。彼女に話を聞いてほしい、彼女なら今の僕の気持ちや考えを真正面から受け止めてくれるはず。それだけで十分だから、話をただ聞いてほしいと願いに近い思いが、守の心の底に存在していた。
「多分、明後日の夜に出勤すると思います」と新しいパジャマを持ってきてくれた看護師から守は聞かされた。それと時間を作って綾瀬さんの所に顔を出すように伝えますと約束してくれた。それまで曇っていた空が、徐々に晴れていき雲の間から微かではあるがとても輝いて、希望と期待があるかの様な一本の光が雲の隙間から差し込んでいるようだった。とはいっても、まだ何も今の状況からは変わっては無く、自分の病気がどういったもので、完治するものなのか、以前のように、会社等に自分の足で歩けることが出来るのか。未だに自分の身体で何が起こっているのかは分からないままだ。既に、死が忍びよっているのかもしれないと守は考えていた。
主治医は、検査を行わないと病状が分からないと言うが、本当は判明してそこにある真実をどのタイミングで、いつ僕や家族に伝えて良いのか分からずに隠しているのかと、考えても答えが出ない事を頭の中で迷路の中を歩くように、グルグルと守は考えていた。
とっくに朝食の時間は過ぎて、守のベッドの前を通った看護師が、「綾瀬さん、起きましたか? 朝食、一応とってありますが、食べますか?」と聞いた。守は小さな声で頷きながら、「はい、すみません」と答えた。
トレイに置かれた食器の上にラップが掛けられ、埃などが付かないようにされている朝食が守に運ばれてきた。守はトレイの上に置かれたパンと小さな牛乳だけ食べ、残りの副菜と半分に切られたバナナを残した。トレイを下げる際に、「お昼になる前には先生がこちらに来て、綾瀬さんのお身体に関する説明をするとのことです」と言い残し、部屋を出て行った。
守の身体で起こっていることが少しでも分かれば、希望の光が大きくなる。治療方法や今後の生活の見通しを考えることができると思った。一方で、もし完治しない病で既に手遅れの状態だったらという思いが、守の中で波のように押しては引いての繰り返しだった。
きっと何もない…。これまで通りの生活を送るようになる…。人間は誰かの支えなしでは生きられない、とても弱い存在である、守は心の中で願うように、また自分に言い聞かせるように何度も繰り返していた。
守は特に神様的な存在を意識して生活してはいないが、人間という生物は、何か不安や恐怖を感じた時に、気を紛らわせるために自分の中に恋人や両親といった大切な存在をイメージしたり、見たことも会ったこともない神様的なものを想像して、自分の中の不安や恐怖心がまるで無かったかのように安定した気持ちを保つことができる、とても不思議な生物だ。
「守、体調どうだい?」と聞き慣れた声がしたので、声がする方を向いた。そこには母親が右手に紙袋を持って守に近づいてきた。いつものように守は無愛想に、「あぁ、別に変わりはないよ」と母親の顔を見ずに言葉だけ返し、黙々と本を読み続けながら、昼前に守の身体に関する現状の経過とこれからのことについて主治医が説明に来ることを母親に伝えた。
母親からすれば、幾つになろうとも息子であることは変わらず、何か欲しい物や食べたいものがあれば、すぐに買ってくると、愛情を感じられる言葉が次から次へと守に対して質問の嵐が続いた。椅子に座りながらも、そわそわと落ち着かない様子の母親は、自分のカバンからスケジュール手帳を取り出した。白紙のページを開きながら、もう片方の手でボールペンを持ち、主治医からの息子の身体に関わる経過や病状のことを一言一句メモに取るつもりでいた。主治医が守のところへ来るにはまだ時間があるのにも関わらず。
守は喉が渇いたので、消灯台に置かれた透明なプラスチックの容器に入ったお茶とコップを取り出そうと姿勢を変えた。母親に何か話題を提供しなければと思ったが、どんな話題で話すべきか全く頭に浮かばなかった。
「あのさ~、多分大丈夫だから」と自分でも何が大丈夫なのか、どういった根拠で自分の口から「大丈夫」と言ったのかは、守にもはっきりとは分からなかった。
「あなたは子供の頃から大人しくて、何かあってもお母さんから聞かないと言わないことが多くて、お母さんもそこに甘えてしまっていたから、ごめんね」とハンカチを口元に当て、目には涙を浮かべ俯いていた。そんな母親の姿を見て、守は胸がキュッと誰かの手によって握られているような感覚になった。そんなつもりで言ったのではないのに、ベッドの上に寝ている人から「大丈夫」と言われても、何の説得力も持たない。それどころか、返って不安や心配を煽ることに繋がることは、当然だと守も理解していた。
守と母親との間で交わされた会話を知らない人から見れば、息子が母親に対して八つ当たりをして泣かせているかのように受け取られてもおかしくない状況だった。
“この状況をどうにかしたい” この何ともいえない雰囲気をどうにかして変えたいと守は思い、「ちょっと売店で甘いものでも買ってきてくれる?」とポツリと言い、消灯台の引き出しの中に入れてある財布を取り出そうとすると、「お金、お母さんが払うから。甘いものってチョコ?」と母親が聞いた。「うん」と守は頷いた。守の返事を聞くか聞かないかのうちに、母親は椅子から立ち上がるとカバンから財布を取り出し、病室を後にした。
残された守は、やっと一人になれたという解放感と疲労感が入り混じり、ただベッドの上で母親の相手をしているだけなのに、一人でいられることの幸せを心から感じていた。ふと時計を見ると、十一時を過ぎて主治医が守の経過報告と今後のことに関する説明を行いに来る時間まで、一時間を切っていた。母親のいない間に、先程まで読んでいた本を膝の上に置き、母親が戻ってくるまで本の中の世界に入り込んでいた。
ビニール袋を片手に、「アーモンドのチョコでよかった?」と母親が守のもとに戻ってきた。「ありがとう」と言ってビニール袋を受け取り、「あと二十分くらいだから」と守は呟いた。
「綾瀬さん、遅くなりました。お身体の具合はどうですか? お母様も来ていらっしゃったのですね」と主治医が言いながら、その横に看護師が守のベッドサイドに立ち、こちらを見ている。それまで椅子に座っていた母親が、その場から立ち「お世話になっています」と主治医に向かってお辞儀をした。
「ここでお話するのも集中できないと思いますので、別室でゆっくり守さんの病状や今後のことについて、ご説明させてください」と主治医が言うと、守は頷きながら「はい」と返事をした。
車椅子に移った守は、看護師に車椅子を押され、ベッドがある部屋から同じフロアのホワイトボードや長机があり、いつもは会議などで使われている部屋に、守と母親は看護師に誘導され入っていった。ホワイトボードの前に主治医と、その横に看護師が座り、長机を挟んだ反対側に守と母親が座った。看護師から、紙が二枚で一セットの物が守と母親の手元に渡された。その用紙には、「綾瀬守様の病状と治療計画」と紙の中央上部分に大きく書かれていた。
守の隣から「えっ!」と母親の声が聞こえ、守は想定していたことが現実となって自分の前に現れたが、驚かず動揺も見せなかった。それより、主治医からの見解を早く聞きたいという思いが強かった。
「それでは、今お渡しした紙に書かれている内容に沿って、綾瀬さんのお身体の状況とこれからの治療方法などについて、ご説明させていただければと思います」と主治医が言った。その後、守と母親からの質問を含め、約一時間で話は終わった。
“虚血性心疾患”
主治医の口から、守と母親にとって初めて聞く単語が出て、重い病なのか、そうでない病なのかさえ判断する知識が守と母親の中には無かった。よく分からないという表情をしていると、虚血性心疾患について主治医から次のように説明された。心臓を動かすための筋肉(心筋)に血液を送る役目を持っている冠動脈が狭くなったり硬くなったりして、心筋へ十分に血液を送れなくなることで発症する疾患の総称とのことであった。
パソコンを使ってスクリーンに映る虚血性心疾患に関する情報を見せられながら説明を受けていたが、主治医の説明が頭の中に入ってこず、守は治るものなのか治らないものなのか、はっきりとした答えを教えてほしいと考えていた。
守の横に座っていた母親が、「元の生活に戻れるのでしょうか?」と主治医に尋ねた。
虚血性心疾患に対する治療方法は、次の三つであった。薬物療法、冠動脈形成術(カテーテルを用いた手術)、冠動脈バイパス手術である。主治医からは次のような説明があった。
心筋梗塞の場合は、時間経過とともに心不全を合併する危険性が高まるため、一刻も早い治療が必要となる。
主治医からの虚血性心疾患に関する説明を聞くにつれ、守と母親は軽い病気だろうと思っていたが、次第にこれは思ったよりも大きくて厄介なものに罹ってしまったと、守の気持ちがだんだんと重く、苦しくなった。
「きっと治療すれば大丈夫だから」と、守は隣で悲しそうな表情をしている母親を安心させるために口にしたが、心の中は雷がゴーゴーと鳴り響く夏の空のように、不安定な状態だった。
守のこれからの入院生活や虚血性心疾患に関する治療方法などの説明を主治医から聞き終えると、大部屋へ看護師に車椅子を押されて戻った。車椅子から看護師の手を借りてベッドに移ると、先程まで主治医の説明を一緒に聞いていた母親が、か細い声で、「また来週辺りに来るから。何かあったら看護師さんや先生に言うんだよ」と言い残し、部屋から出て行った。
部屋の一番窓際に、守が寝ているベッドが置かれていた。就寝時以外は白いレースのカーテンが閉められ、そこから外の様子が見えるようになっていた。
視線を本に向けていた守の視界に何か光るものが一瞬見えたと思った次の瞬間、ゴゴッと腹の底まで響くような低い音が鳴った。本の方から窓に顔と視線を向けると、さっきまで曇っていた空が、バケツを引っくり返したかのような大雨が降っていた。それはまるで、空が子供のようにワンワンと泣いているかのように守の目には映っていた。

 

 

結衣はスマホのカレンダーで翌日の出勤予定を確認し、友達からのLINEに返事をしたり、ファッションサイトで気に入った洋服をお気に入りに追加したりして、仕事から帰宅後の時間をゆっくりと過ごしていた。看護師という仕事柄、同年代の友達と遊ぶ時間がなかなか取れず、帰宅後は母親が作ってくれた料理に甘えて、自分の部屋で過ごしたり、リビングでテレビを見たりすることが多い。
友達の中にはすでに結婚して子育てをしている人もいて、たまに時間を作っては友達の子供に会いに行くこともあるが、それ以外の時間はスマホで連絡を取り合う程度の関係性だ。「結衣!ご飯できたから降りてー」と下の階にいる母親の声が聞こえたので、スマホを短パンのポケットに入れながら、「はーい」と返事をし、自分の部屋を出て階段を降りていった。
階段を降りているときに、一瞬ふらっと目眩がして、咄嗟に階段横の壁に手をつき、身体のバランスを保った。最近、仕事が続き、頼まれたことは断らないようにしている結衣は、同僚や先輩たちからの依頼を引き受けるうちに、普段よりも体力を消耗しており、疲れが溜まっていると感じていた。
結衣は冷蔵庫から麦茶を取り、シンクの横に乾かしてあるコップを手に取り、リビングの椅子に座って、「いただきます!」と言って、母親が作った料理を食べ始めた。食事の時間は、母親とのコミュニケーションの時間でもあり、職場で起きたことや悩み事など、他愛のない話を交わすひとときだった。
この日は、翔の話が中心で、母親にその日あったことを伝えると、「きっと、その子もいろいろな思いを抑え込んでいたんだろうね」と母親が言い、結衣がその場でとった対応を褒めてくれた。しかし、結衣は、「あの子を助けようとしたけど、もしかしたら傷つけちゃったかもしれない」と、普段あまり暗い顔をしない彼女が、足元に目を落としながら悩んでいる様子を見せた。
母親は、「たまには、有給を使って、あんたが好きな温泉にでも行ってリラックスしてきたら?」とテーブルに温泉情報の雑誌を置きながら提案してくれた。振り返ってみると、この半年間で休みを取って旅行に行くことはなく、仕事を終えた後にたまに同僚と近くのカフェでコーヒーを飲む程度だった。
母親は、「仕事を毎日休まずに行くのは素晴らしいことだけど、あんたが身体を壊したらどうするの?」と言い、結衣もその言葉に同意しながら、「今度、先輩に相談してみる」と答えた。そう言った後、スマホで好きなアーティストの情報をチェックし、使った食器を台所まで持っていった。
椅子から立ち上がろうとした瞬間、また目眩がし、辛うじて倒れずに済んだが、右側に体重が傾いてテーブルのコップを倒してしまった。母親が驚いた様子で、「何してるの?大丈夫?」と聞くと、「さっきも階段を降りるときに目眩がして、倒れそうになったんだ。たぶん疲れが溜まっているだけだと思うから、シャワーを浴びようと思ったけど、今日はもう寝ることにする」と答え、ゆっくりと階段を上り部屋へ戻った。
部屋に戻って念のため熱を測ったが、普段と変わらなかったので、ベッドでスマホをいじりながらゴロゴロしていると、そのまま眠りに落ちてしまった。約一時間が経過し、部屋の扉をノックする音が聞こえた。「なに?」と返事をすると、母親が心配そうな声で、「さっきの目眩のことだけど、心配だから、どこかで時間を作って調べてもらいなさい」と言ってきたので、「今度の木曜日になりそう」と答えた。スマホのカレンダーで予定を確認すると、次の休みは三日後の夜勤明けだ。「ちゃんと行ってね」と言い残し、母親は下の階へ戻っていった。
結衣は、自分が好きで就いた職業なので、精一杯努力し、担当の患者に寄り添いケアを続け、この先も医療知識をアップデートしていかなければならないと強く感じていた。スマホの時刻を見ると夜の九時を過ぎており、翌日は午後からの出勤なので、日付を跨ぐ前に寝られれば十分な睡眠が取れると思い、もう少し予習を兼ねた勉強を続けた。勉強の合間には、SNSをチェックし、友達に返事を返したりして、時間を有効に使った。
そうしていると、午後十一時を過ぎていたので、歯を磨くために一階の洗面所へ行こうとベッドから立ち上がり、階段を降り始めた。一歩、二歩とゆっくり降りていると、「あっ!」と右膝に力が入らなくなり、そのまま階段から左前に倒れた。咄嗟に左手で壁に手をつこうとしたが、身体のバランスを崩してしまい、階段を八段ほど転げ落ちた。
幸いにも気を失うことはなかったが、結衣は立ち上がろうと試みるも、どれだけ力を入れても左足から腹部にかけて激痛が走り、立ち上がることができなかった。「お母さん!ちょっと助けて!」と大声で叫びながら、母親が声に気付くまで助けを求め続けた。「お母さーん!」と喉が裂けるように叫ぶと、パタパタと足音が近づいてきた。
「何してんの?!大丈夫?!」と母親が聞くと、結衣は立ち上がれず、おそらくどこかの骨が折れているか、体に異常があると直感した。目眩と階段からの転落が関係しているのではないかと、痛みの中で思いを巡らせていた。
母親が結衣の体を支えて起こそうと試みたが、結衣は立ち上がることができず、痛みが増すばかりだった。母親は救急車を呼ぶことを提案し、結衣もそれに同意した。自分が働いている病院に連れて行ってもらえるように百十九番に連絡し、救急車が来るのを待った。
体温を測ると三十七度四分で、結衣にとっては少し高い熱だった。その間も、左足から腹部にかけて痛みが続き、母親が懸命に氷で冷やしてくれたが、その痛みは引くことなく、時間が経つにつれて強くなっていった。
百十九番に連絡してから約十分後、救急車のサイレンが結衣の自宅に近づいてきた。玄関のチャイムが鳴り、三人ほどの救急隊員が自宅に入ってきて、階段下で倒れている結衣のもとへ駆け寄った。結衣はこれまでの状況や階段から落ちた時のことを救急隊員に伝えた。ストレッチャーが準備され、救急隊員が結衣の体をゆっくりと抱え上げ、ストレッチャーに乗せた。
ストレッチャーで救急車に運ばれる間も、結衣の体に激痛が走った。母親もあとから救急車に乗り込み、結衣は自分が看護師であること、そして勤めている病院へ運んでほしいと救急隊員に伝えた。車内に設置された電話を使い、「小田結衣さんという患者を、今からそちらへ運びます。受け入れ可能ですか?」と救急隊員が病院に問い合わせた。おそらく「可能です」と返事があったのか、救急車は病院へ向かって走り出した。
自宅から約十五分ほどで、結衣が勤めている病院に到着した。緊急車両用の出入り口に救急車が停まり、看護師や医師たちがすぐに対応にあたった。院内に運ばれた結衣は、血圧を測ったりレントゲン撮影の準備をしたりと、普段は自分が行っていることを今は受ける側として経験していた。痛みを抱えながら、その状況を見つめていた。
母親は看護師に導かれて待合室へ案内された。結衣のレントゲン撮影や採血検査の結果が出るまで、待つことになった。検査を終えた結衣は、待合室にいた母親も看護師によって呼び戻され、二人で医師からの説明を聞くことになった。
「原発性硬化性胆管炎」と医師が告げた。結衣も、隣で説明を聞いていた母親も、初めて耳にする病名に戸惑いが広がった。どのような症状が出るのか、簡単に治るものなのか、次々と疑問が浮かび、結衣の手がだんだんと震え始めた。心の中に恐怖が広がり、医師の声が耳に入らなくなった。結衣はその場で気を失い、椅子から倒れてしまった。
目を覚ますと、ベッドの上に横たわっていた。隣には母親がいて、結衣の右手を両手で包み込み、涙を流していた。あの時と同じだ……。小学生の時に入院した時も、母親がベッドサイドで結衣の手を握り、「大丈夫、大丈夫だから」と何度も優しく声をかけてくれた。結衣は、それが愛情だと感じたことを思い出した。
「今日だけ入院してください」と医師に言われ、病院から用意された服に着替えた結衣は、心配そうな母親に、「あとは一人で大丈夫だから」と伝えた。しかし、その言葉とは裏腹に、結衣の心は不安と恐怖でいっぱいだった。今夜くらい母親にそばにいてほしいと願ったが、母親の体を考えて、わがままを言わないよう自分を抑えた。
「本当に大丈夫?」と問いかける母親に、結衣は、「本当に大丈夫だから。気をつけて帰ってね」と返事をした。母親は自分の荷物をまとめ、病室から出て行った。
その夜、食事は点滴で済ませた。病室にあるテレビはつけず、ただ天井を見つめたり、窓から見える空を眺めたりしていた。「原発性硬化性胆管炎」という病名が頭から離れなかった。医療書籍で勉強したことがあり、結衣も少しは知識があったが、この病気を抱えた患者を実際に診たことはなかった。
結衣は、この病気と共に一生を過ごしていくのだろうかと考え、不安と恐怖が心の中で大きくなっていくのを感じた。
いつの間にか眠りについた結衣は、朝日が差し込む窓からの光で目を覚ました。ベッドサイドで点滴を交換している看護師に気づき、結衣は、「おはようございます」と挨拶をした。看護師は笑顔で、「おはようございます。昨日は眠れましたか?今、先生を呼んできますので、ここにあるお茶でも飲んでいてください」と言って部屋を出て行った。
結衣はベッドサイドの消灯台の上に置かれたプラスチック製のコップとお茶が入ったボトルを手に取り、ボトルからコップにお茶を注ぎ、一口ずつ飲み始めた。約一日ぶりに自分の舌で味わうことができた。普段は食べ物を好んで食べる結衣にとって、たった一杯のお茶がとても美味しく感じた。
「食べることって、こんなに幸せなことだったんだ」と結衣は感じた。普段、その幸せがあまりにも身近すぎて、当たり前のことだと思っていた。仕事で接している患者たちが、食事の時間を楽しみにしている理由を、心の底から理解することができた。気がつくと、自然と涙が頬を伝い落ちていた。
「はぁ」と小さく息を吐き、自分が生きていることを改めて実感した。部屋の扉がガラガラと音を立てながら開き、医者と看護師が結衣の寝ているベッドまで近づいてきた。
「お身体の具合はいかがですか? どこか痛みや、普段と変わったところはありますか?」年齢が若そうな医者が結衣に尋ねた。
「先ほどお茶を一杯だけ飲みました。昨晩も特に痛みや違和感はありませんでした。先生、これからのことなんですけど……」と結衣は、これから自分の身に起こることを知っておこうと思った。正直、恐怖を感じていたが、母親がいない今のうちに聞いておく必要があると考えた。少しでも母親に心配や迷惑をかけたくないという気持ちでいっぱいだった。
「わかりました。現時点で私たちがわかっていることを小田さんにお伝えします。そして私たちも、この病気と向き合うために一緒にサポートしていきます。」医者の言葉には、結衣が原発性硬化性胆管炎という病と闘うために全力で支える決意が感じられた。
目覚めたときは晴れていた空が、今では大粒の雨が地面を打ちつけるかのように強く降っていた。医者と看護師が一礼して部屋を出ると、結衣はベッドの上で両手で顔を覆い、大粒の涙を流した。
「なんで私が!?」と、二十六歳で、これから楽しいことも悲しいこともたくさん待っている中、まるで数年の地球温暖化の影響で昨日まで晴れていたのに、急に大雪が降り出したかのように、結衣の心は乱れていた。外ではまるで台風のように強い雨と風が吹き、道を歩く人々は今にも飛ばされそうな悪天候だった。
 

日中に起きた騒動が嘘のように、翔はベッドの上でスヤスヤと眠っていた。部屋の照明は消され、ベッドはカーテンで仕切られ、ほとんどの患者は寝ていた。一部の患者はベッドサイドの照明を点けて読書をしながら眠ろうとしている。
巡回する看護師は懐中電灯を持ち、患者の点滴や医療機器から出ているコードにつまずかないよう、足元を少しだけ照らしながら一人ひとりの様子を見て回っていた。カーテンを少し開け、隙間から見える翔の寝顔を確認した後、彼の側に行き、体温計を腋の下に挟みながら、血圧を測り、点滴の残量を確認していた。
「ピピッ」と音が鳴り、体温計を取り出して表示された体温を確認すると、患者ごとの様子を記録するカルテに体温と血圧の値を記入した。先ほどまでスヤスヤと寝ていた翔は、誰かがいる気配を察して目を向けた。
「どこか痛いところはありませんか?」と、看護師が優しい口調で尋ねると、翔は小さな声で「大丈夫です」と答え、掛け布団を頭まで被り、心の中で「もう誰とも話したくない!どうせ僕なんか、ずっとこのベッドの上で生きていくんだ!!」と叫んだ。この世界にいるすべての人が自分の敵のように感じられた。
翔の頭まで覆った布団の上から、看護師が「大丈夫だよ」と言わんばかりに優しくポンポンと触れた後、彼のベッドから離れ、隣の患者のところへ向かった。翔は布団の中で、他の人に泣いていることが分からないように、目からポタポタと涙をシーツの上にこぼしていた。
ガラガラと音が聞こえ、翔は布団を肩まで下げて見ると、部屋の照明が明るく点いており、カーテンが全開になっていた。換気のために開けられた窓から外の空気が頬に当たり、昨晩は泣きながら眠りに落ちたことに気づいた。
「翔くん、起きた?」という声の後、「朝食、もうすぐだから待っていて」と、他の患者の体温や血圧を測る看護師の声が聞こえた。消灯台には、洗顔用のタオルがビニールに包まれた状態で置かれていた。まだ眠気が残る中、翔はタオルをビニールから取り出し、顔を拭いて心の中のイライラを取り払おうとした。真っ白だったタオルは、寝ている間に付いた汚れや汗で少し汚れていた。翔はタオルを丸め、強くビニールに投げつけた。
床に落ちたタオルが、自分の役目を全うした後、無用になって捨てられたように見えた。それはまるで、病気になって学校に行けなくても、誰も困っていない自分自身のようだった。
十分ほどして、看護師が翔の朝食を届け、床に落ちたタオルを拾い上げた。「遅くなってごめんなさいね。ここの紙に朝食のメニューが書いてあるから、二十分ほどしたら片付けにきます」と言い残し、翔の前に朝食を置いて次の患者の元へ向かった。
「食欲がない」臓器提供者がいつ現れるのか。そもそも提供してくれる人の確率は、どれくらいなのか。翔は臓器提供者が現れるまで、この平坦な生活を繰り返すのかと考え、空を見上げながら、怒りとも諦めとも言えない気持ちになっていた。本来ならば、友達と高校受験を受け、新しい友達と出会い、青春を満喫できていたかもしれない。「なぜ僕が……」と、感情が心の底から湧いてきた。
コップ一杯の麦茶を飲み終え、窓の外の空を見つめながら、いや、空よりも遠くを見つめるように、翔の体から力が抜け、心も空っぽになっていた。翔がいる病室は四階にあった。もしここから飛び降りれば、助かる確率はどれくらいだろうか。窓には手すりが付いていて、翔の体の大きさなら簡単に飛び降りることもできる。病室には看護師の姿がなく、「死ぬ」には絶好のタイミングだった。
環境は整っていた。あとは、翔が選択する度胸があるかどうかだけだった。いつ開けるかわからない、この暗闇の中にいるような生活を、ここから飛び降りることで変えることができるのは確かだった。母親の顔が翔の頭の中に浮かび、同時に親からもらった大切な命と体を、自分の身勝手な考えや思いで決めていいわけがないと翔は理解していた。
「もう、こんな生活は嫌だ!どうせ、お母さんも僕のことなんて本当にわかってくれているはずがない!!」翔はベッドから降り、ゆっくりと一歩ずつ窓の方へ進んだ。
「ちょっと、お兄ちゃん、何してるの?」翔と同じ病室にいる男性の声が後ろから聞こえ、小さな声で「もうほっといてくれ」と翔は呟き、一歩ずつ窓の方へ進んでいった。窓の前にある銀色の手すりを右手で掴み、左手でもう一本の手すりを掴もうとした瞬間、「看護師さ~ん!早く来てくれ!!」と、先ほど翔に声を掛けた男性が病室の外に向かって叫んだ。
その声を聞きつけ、近くにいた看護師が病室に駆け込んできた。そこには、今にも窓から飛び降りそうな翔の姿があった。看護師はすぐに翔に駆け寄り、彼の体を窓から引き離そうとした。その様子を病室の前を通った男性職員が目にして、女性看護師をサポートしに駆けつけた。大人二人の力で、翔の「命を断つ」という行動は阻止された。
翔が自ら命を断とうとしたのは、これが二度目だった。看護師と担当医は、「これ以上、彼をこのままにしては本当に危ない」と話し合っていた。翔は入院時と比べて約十キロも体重が落ち、元々サッカーの練習や試合で鍛えた筋肉も、今では見る影もないほど痩せ細っていた。
「生きるために食べるのか、食べているから生きているのか。どちらにせよ“死”が訪れるまで、これが繰り返されるのだ」と、翔は目を閉じ、心がいっぱいになった。自分で死ぬことすらできないことに対する悔しさと悲しさが入り混じっていた。
翔は自分の体を動かそうとしても、動かないことに違和感を感じ、少しずつまぶたを開けた。部屋の蛍光灯が眩しく、視界がチカチカしていたが、徐々にそれがなくなり、自分の手足を見た。ベッドサイドには母親の姿があり、彼女はハンカチで顔を覆いながらこちらを見ていた。「泣きたいのはこっちだよ」と、翔は心の中で呟いた。
母親が自分のことを本当に心配してくれていること、代わりたいと思ってくれていることも、翔は十分理解していたが、目の前にいる母親に対して、何と言葉をかけていいのか分からず、涙を流す彼女の姿をただ見つめることしかできなかった。
まるで“この世界からすべての音や言葉が消え去った”かのように、とても静かでどこか冷徹な空気が漂っていた。どちらかが先に言葉を発さないと、時間が経つにつれて緊張感や気まずい空気が一層濃くなってしまうだろう。
その沈黙を破るように、ドアの方からコツコツと二人分の足音が響き、「松田さん、少しお話しする時間がありますか?」と主治医が母親に声をかけた。母親は小さな声で返事をすると、主治医とともに翔の元を離れてどこか別室へと向かった。
「自分のいないところで、一体何を話しているのだろう…」不安と恐怖、そして緊張感が、分厚い雨雲のように翔の心の奥底まで満ちていった。主治医が何を考えているのかは翔には分からないが、臓器提供を待っているのは母親ではないのだから、翔の前で話すべきだと感じた。今の状況が医者としての役割に反しているように思えた。
それから約二十分後、母親と主治医が翔の元に戻ってきた。母親の表情は険しく、先ほどまで流していた涙は消え、まるで何かを“決心”したかのように見えた。それが翔にとって“光”なのか、それとも“闇”なのか。
母親と主治医との間で交わされた会話の内容を知りたい気持ちと、知りたくない気持ちが翔の心に存在していた。その二つの感情が翔の中でせめぎ合っていた。光であれ闇であれ、今の翔がいる場所から動くことは確かだろう。
「何を話したの?」と、翔は声を震わせて尋ねた。母親と主治医が、翔の寝ているベッドを挟むように、ベッドの両サイドに立った。
「今から説明することは、かなりの危険を伴うと同時に、翔くんの病気を治せる可能性があるものです。最終的な判断は翔くんに任せます」と主治医が真剣な顔つきで言うと、「あなたが選んだことなら、お母さんは全力でサポートするから」と、いつも優しい口調の母親が、決意を込めたような力強い声で言った。
どんな方法であれ、どれだけ険しい道を歩くことになるのか、きっと翔が想像している以上の困難や茨の道になることは明らかだった。
「どんな方法なんですか?」と、翔は主治医をまっすぐ見つめて尋ねた。
「ありがとう。では、これから説明の準備をしますので、一時間後に戻ってきてください。お母さまと翔くんが理解できるまで、しっかり説明させていただきます」と、主治医は深々とお辞儀をし、部屋から出て行った。その後ろ姿が見えなくなった後も、母親は同じように深々とお辞儀をしていた。
「ありがとう」と翔は小さな声で呟いた。それは母親に対しての言葉であると同時に、これから向かう“変化できる環境”に対する言葉でもあった。その“変化できる環境”が良いものであろうと悪いものであろうと、翔にとってはどちらでもよかった。今のように、毎日同じ生活を送ることと比べれば、希望や光に満ち溢れた世界が待っているように感じた。
母親の顔を見ると、彼女はまたハンカチで顔を覆い涙を流していたが、さっきとは違う感情が込められた涙であることは、翔にもすぐに分かった。
空から地面に降る雨のように涙が降り注ぐと、周りの人たちは喜んだり悲しんだりする。同じように、人の感情と空の表情は似ているのだと、翔は感じた。窓の外を見ると、雲ひとつない青空が広がり、吹く風に揺れる木の葉が、太陽の光を受けて鮮やかな緑に輝いていた。

 
 

 
「虚血性心疾患」という言葉が、守の頭の中で漢字やひらがな、カタカナと様々な表記で映っては消えを繰り返していた。自分が完治して、以前のように毎日出勤し、住み慣れたあの小さなアパートの一室に戻れるのだろうかと考えていた。もし、このままその小さなアパートに戻れなければ、自分はどうなってしまうのかと考えると、まるで宇宙空間に投げ出されたかのような感覚に襲われ、恐怖と不安、そして当てようのない憤りが守の心を支配した。
これまで病気にかかったり、怪我をしたりすることはなく、守にとって病院との距離は遠いものであった。健康を維持するための方法や、普段の生活で気をつけていることもなく、生まれ持った身体の強さに頼っていたに違いない。だからこそ、「虚血性心疾患」という“理解不能なもの”に自分の身体が徐々に蝕まれていくことを考えると、早い段階で医療技術の力を借りて楽に死んだ方が、痛みや苦しみを感じずに済むのではないかと、守は本気で考えていた。
そんな日々が一週間ほど続いたある日のことだった。それまで寝ていた守の身体に激しい吐き気が襲い、目覚めると同時に口から血を吐いてしまった。自分の口から出た血が白い布団に赤く染まっていくのを見ながら、なんとか手を伸ばしてナースコールのボタンを押した。確実に病気が進行しているのを感じながら、病室に駆けつけた看護師がシーツを交換し、守の身体の状態を診るために医師がやってきて「まだ気分は悪いですか?」などと尋ね、看護師に血圧を測るよう指示を出していた。
「もう、殺してくれ!」病室に響き渡るような大声で守は叫んだ。ベッドから降りようと身体を動かそうとしたが、看護師や医師によって阻止された。自分でも制御できないほどの力で周りの人々を追い払おうとし、手に届く物を手当たり次第に床にぶちまけたり、看護師や医師に向かって投げつけたりして大暴れしていた。
「綾瀬さん、ひとまず落ち着いてください!」と看護師が声をかけたが、「どうせ僕の身体なんかどうなったって、あなたたちには関係ないんだ!」と、喉が裂けるほどの大声を守は出した。守は手当たり次第に物を投げつけ、ベッドから降りようとし、右手に繋がれた点滴のチューブを左手で引き抜いた。病院が貸し出している服を着たまま裸足でベッドを降り、消灯台に置かれていたボールペンを握り締め、少しずつ看護師や医師に近づいていった。
「ここで死んだ方が、僕よりも重い病気を抱えた人の治療の時間を作ることができるんだから!僕は社会に何の役にも立っていないんだ!」目の前にいる看護師や医師にそう言っても、守の置かれている状況や気持ちが変わるわけではないことは理解していたが、頭では分かっていても、感情を抑えることができなくなっていた。
だんだんと看護師の人数が増え、ボールペンを握ったままの守は少しずつ冷静になっていったが、引くに引けない状況であることも確かだった。約三十分、守と看護師や医師たちの攻防は続いた。時間が経つにつれて守は冷静さを取り戻していったが、血を吐いたことで徐々に気分の悪さが増し、頭がクラクラとしてその場にしゃがみ込んだ。守が座った瞬間、看護師たちが一斉に彼に覆いかぶさり、一人の看護師が守の右手からボールペンを取り上げた。新しいベッドが病室に運び込まれ、守の身体は四人がかりでそのベッドに運び上げられた。
意識が朦朧とする中、守は「このまま意識を失ったままでいられるなら」と感じていた。近年の医療技術は、日々光の速度で進歩している。三年ほど前までは、諦めざるを得なかった病気でも、早期に発見すれば治療できるレベルにまで進化しているのである。そのため、本人の意思に反して命が延ばされるケースも例外ではない。
守の感覚では、約三時間しか眠っていないように感じていたが、目を覚まして消灯台に置かれた時計を見ると、すでに夕方の五時を過ぎていた。守は手を動かそうとしたが、柵が揺れる音と共に手が上がらない。視線を何とか手の方に向けると、ベッドの柵から白いロープが手に繋がれているのが見え、もう片方の手も同じようにロープで結ばれていた。その白いロープを見た瞬間、守は「やってはいけないことをやってしまった」と強い後悔の念に駆られ、心が一気に重く沈んでいくのを感じた。
看護師や医者からは、厄介者として見られているのだろうと、守は自分の行動を何度も責め、後悔していた。両手足をロープで縛られているため、自力で体勢を変えたり、上半身を起こしたりすることはできず、耳に入ってくる音や、顔を左右に動かして見える景色から得られる情報だけで、自分の状況を把握するしかなかった。
守は、自分が引き起こした行動がすべての原因であり、自分に責任があることを理解していた。看護師や医者、さらには他の患者にまで迷惑をかけ、信頼と信用を一気に失ってしまったと考えた。自然と目から涙がこぼれ落ち、耳の横を伝ってベッドのシーツに染み込んでいった。
「綾瀬さん、目が覚めましたか?」守の顔を覗き込み、手にカルテらしきものを持った看護師が尋ねた。守は小さな、申し訳なさそうな声で「すいません、僕はいつまでこの状態なんですか?」と恐る恐る訊ねた。看護師は守の顔を見ず、カルテを見ながら「綾瀬さん、こんなことを言うのは失礼かもしれませんが、ご自分がなさったことについて、どうお考えですか。確かに病気で辛い思いをしているのは理解していますが、あのような行動をされては、私たち看護師や他の患者さんが怖い思いをします」と言い残して守の元を離れていった。
その言葉は、鋭い刃物で心を刺されたような痛みを感じ、高い崖から突き落とされたかのような感覚に襲われた。看護師の言葉に対して、守は何も言い返すことができず、そこまではっきりと言わなくても良いのではないかと心の奥底で感じていた。
朝昼晩の食事の代わりとなる点滴の交換時以外、守のところへは誰も訪れることはなかった。唯一の楽しみだった食事も点滴に代わり、読書もできないまま、ただただベッドに身体を縛られたままの生活が約一週間続いた。
生きているのか、生かされているのか。今の自分はどちらに分類されるのだろうか。虚血性心疾患の進行によって、これからどのような治療が行われ、それに伴ってどれほどの苦しみと共に生活していくのだろう。以前のように、アパートで生活し、会社へ出勤して仕事をし、帰り道に一人でコンビニへ寄って酒とつまみを買い、アパートの部屋で読書を楽しむことがもう一度できるのだろうか。そう考えると、今の自分の状況を振り返ったとき、自分が“生きている”とは思えなかった。
そもそも、“生きる”とは何なのか。健康な身体を保つために食事をして、時間通りに仕事へ行き、課せられたノルマをこなし、上司や同僚とコミュニケーションを交わすことで、職場での信頼や信用を勝ち取る。また、学生の頃は、卒業後に良い職場を選ぶため、自分の得意分野を学び、磨いてきた。いろいろな地方から上京してくる、どこの誰かも分からない人たちから外れないように、本来の自分を押し殺してまで周囲に合わせてきた。大抵の人は、何の疑問や違和感も感じず、なるべく波風を立てずに生活している。仮に疑問や違和感を抱いていたとしても、職場や学校で大人数のグループから外れる恐怖が、疑問や違和感よりも強く心に現れるのだ。
もちろん、働きたかったり、学びたかったりする思いがあっても、身体に重度の障害があれば、いくら強く願っても叶えることが難しい人も、この世界の“空の下”にはいる。その姿と、ベッドにロープで縛られている自分の姿を比較したとき、守はすごい悔しさと、今までやってきたことが全否定されたかのような絶望感に襲われた。“今の自分は、生きているようで生きていない”と感じ、出口の見えない道をただひたすら歩いているかのように、同じことを考えては同じ思いに心がいっぱいになった。
その日の夜、点滴交換に来た看護師に勇気を振り絞って、結衣のことを聞いてみることにした。「すみません。前にいた病室にいた看護師さんは?」と尋ねると、看護師は「小田さんのことですか?なんだか体調を崩してお休みされているようです」と答えながら、点滴を片付けていた。守は、結衣が軽い病気ではなく、大変な思いをしているのではないかと想像した。直接、翔と話したことはないが、守の中で翔の存在が何故か無関係とは思えなくなっていた。
だからといって、翔に何か自分ができるわけではなく、自分の病気と向き合うことすら十分ではないのに、他人のことよりも自分の病気と向き合い、治療や日常生活に戻るために必要な身体のトレーニングや、傷ついた心をゆっくりと癒すことが守にはあった。
そこから数日後のこと。守が寝ているベッドのある部屋の扉が開き、主治医と二人の看護師が守のところへ近づいてきた。主治医から看護師に、守に繋がれているロープを外すよう指示があり、ベッドから守の両手足に繋がれていたロープが外された。主治医は「綾瀬さん、もう一度ご自身の病気について、私たちとお話しませんか?できればご家族の方も同席していただけると」と優しい口調で言った。その言葉から、守への思いやりが伝わってきた。
守は「こんなことをしてしまい、ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません。看護師さんを含め、あの場にいた患者さんにどう謝ればよいのか分からないくらい反省しています」と目に涙を浮かべながら、主治医と看護師に向けて深々と頭を下げた。主治医は「突然のことでしたが、綾瀬さんの反応は特に変わっているわけではありませんから、あまり気にしないでください」と話したが、横にいた看護師は納得していない様子だった。守は再び看護師に深々と頭を下げた。
看護師の手によって、ロープでベッドと繋がれていた守は解放され、主治医から「少し車椅子に乗って院内を散歩してもいいですよ。病気についてのお話は、綾瀬さんとお母様の日程が合う日に私も合わせますので、その日程を看護師にお伝えください」と言われ、看護師たちに後のことを任せて部屋を出ていった。
「車椅子を準備してくるので、少し待っていてください」と看護師が守に伝えると、他の看護師二人は守の腕に付いていた点滴のチューブを外したり、血圧と体温を計測してカルテに記入した。一人の看護師が守に軽く一礼してから部屋を出ると、部屋には守と一人の看護師が残された。
守は「本当にありがとうございます」と、小さく言った。腕から血圧計を外す看護師に向け、守は顔が赤くなるのを感じた。その言葉を聞いた看護師は、「苦しかったり、辛かったりする気持ちは分かりますが、もう暴れたりしないでくださいね」と少し笑いながら交換した点滴を片付け、守に言葉を返した。その言葉は、優しく守の心を包み込むように感じた。幼い頃に母親から褒められたときのように温かい気持ちになり、守は恥ずかしくなって黙って頷くと、窓の外に目を向けた。
外は風もなく、とても穏やかで静かだった。空には少し雲があったが、その合間から太陽の光が大地に向かって燦々と照らされていた。その光によって、街にある高層ビルや様々な形や高さの家々が、まるでヨーロッパの画家が描いた一枚の水彩画のように、とても鮮やかに見えた。
 
 

 
自分の好きなことができなくなる辛さや苦しさは、体験した人にしかわからない。結衣は、そのことを全身で感じていた。
原発性硬化性胆管炎の症状としてよく見られる疲労感や発熱が、日を追うごとに結衣にも徐々に現れ始めていた。
幼い頃から食欲旺盛で美味しいものを食べることが大好きだった結衣。しかし、変わらず一日三食をしっかり食べていても、一週間で約三キロも体重が落ちてしまった。
さらに、ストレスも病状に加わり、母親が作ってくれる食事に感謝し、美味しく食べたいという気持ちはあったが、疲労のために食事をすることすら困難になっていた。
病院で原発性硬化性胆管炎と診断されてから、職場に休暇届を出し、自宅での生活が始まった。結衣は実家暮らしだったので、食事や洗濯は全て母親が代わりに行ってくれていた。食事の時間以外は、自分の部屋でスマホを触ったり、ベッドの上でボーッとしたり、病気について調べたりして過ごしていた。しかし、症状の疲労感が結衣を襲い、スマホを操作しているだけでも体力を消耗し、一時間程度でヘトヘトになってしまっていた。
スマホで映画を観たり、好きなファッションブランドのツイートを見たりして時間を潰していたが、やることがだんだんと無くなり、病気について考える時間が増えていった。病気のことを考えると、これから自分の身体はどうなっていくのか、また仕事に戻れるのかなど、すごく不安と恐怖で心がいっぱいになった。
元気に仕事をしていた頃は、休みの日になるとお気に入りの服を着て、職場の同僚や先輩から聞いた美味しいカフェに行ったり、SNSでチェックしていた洋服を見に行ったりするのが楽しみだった。しかし、今では自分の部屋から一階のリビングまで歩いていくことさえ日を追うごとに困難になっていた。
結衣が病気になったことを知っているのは、家族以外では職場の上司や仲の良い同僚ぐらいで、友達には「少し疲れたから今は仕事を休んでいる」としか伝えていなかった。原発性硬化性胆管炎と診断されてからは、病院での受診日以外はほとんどの時間を家で過ごしていた。
天気の良い日は家の前を三十分ほど散歩したり、好きな映画やドラマ、ファッションに関する情報をチェックしたりして過ごしていたが、日を追うごとに体力が落ち、以前は自分でできていたことができなくなると、精神的負担がさらに大きくなっていった。それでも結衣は、母親の前ではなるべく明るく振る舞おうと努めていた。
生活リズムを崩さないよう、決まった時間に起きて朝ごはんを食べた後、自分の部屋で過ごすようにしていた。ある日、テレビから流れるニュースで、誰かが自分で命を絶ったという報道が聞こえてきた。職場で患者に「きっと大丈夫ですから」「前のように元気になって好きなことをしましょう!」と言っていた結衣は、自分が大きな病気になってから、その言葉が本当に正しかったのかと疑問を抱くようになった。
“医療は完全なものではない”——看護師を目指した頃からこのことは理解していた。しかし、原発性硬化性胆管炎を抱えて生活する中で、やはり以前のように仕事をし、好きなことをして過ごしたいと結衣は強く思っていた。
翌日のお昼から月一回の受診があったので、二十一時前には寝て朝を迎えた。母親がキッチンで朝食を作る音で目覚めた結衣は、スマホを手に取って「今起きた」と母親にLINEを送り、一階に降りる時にサポートをお願いした。
母親がエプロン姿で部屋に来て、結衣は少しでも明るい雰囲気を作ろうと「ちゃんと火を止めた?」と声をかけた。母親に支えられながらリビングに向かい、「今日の通院で何か新しいことがわかるかな?」と母親に聞いた。母親はキッチンで朝食を準備しながら「少しでも病気のことがわかって、楽に過ごせればいいね」と答えた。
結衣は朝食を食べながら、母親に「なに?食べているところを見られるの恥ずかしいんだけど!」と笑いながら言い、友達にLINEの返信をしながら食事を続けた。しかし、病気のため、完食することができず、お腹いっぱいになる前に体力が消耗してしまった。結衣が食べきれなかったものを母親が食べ、「美味しいのに」と笑顔で言った。
病院に向かうため、母親に手伝ってもらいながら結衣は再び二階の部屋に戻り、簡単に着られてオシャレな洋服を選び、少しずつ自分で着替えを済ませた。母親のサポートを受けながら一階に降り、車に乗り込んだ。車の中では、結衣が今一番欲しい洋服や、母親と結衣が共通で好きなアーティストの話で盛り上がった。
病院に着き、受付で名前を書いた後、待合室で母親と話を続けていると、結衣の名前が呼ばれた。母親に手を借りてゆっくりと歩きながら、結衣は診察室へと向かった。
医師が待つ部屋に入ると、結衣の笑顔を見て「すごく元気そうですね。お身体の具合はいかがですか?」と主治医が尋ねました。結衣は目の前に用意された椅子に座りながら、「だんだんと自分一人でできることが減って、少し動くだけですぐに疲れてしまいます。それが日に日に増えている気がして…」と、生活で感じたことを正直に話しました。
しかし、実際に感じている辛さや苦しさ、そして恐怖といった感情を、最も身近な存在である母親にもまだ打ち明けていないことを、目の前の主治医に伝えることはできませんでした。
「先生、この子の病気は治るのでしょうか?」と、母親が真剣な面持ちで突然問いかけました。それは、結衣が最も聞きたかったことでした。
「ちょっと席を外してくれる?」と主治医は側にいた看護師に声をかけ、部屋には結衣と母親、そして主治医の三人だけが残りました。部屋には張り詰めたような緊張感が漂いました。
「結衣さんも医療の現場で働いているので、率直に結果だけお伝えします」と主治医が言うと、結衣の鼓動が早くなりました。「今の医療技術では、結衣さんの原発性硬化性胆管炎を治すことは、残念ながら不可能です」と。
その瞬間、結衣と母親の顔から一気に血の気が引き、隣に座っていた母親が一瞬ふらつくのを結衣は感じました。「治すことができない」という言葉が示す先には、死があるのです。ショックを受けつつも、自分のことだとはまだ受け入れられず、涙がこぼれ落ち、自分の手の甲に落ちていきました。
テレビドラマでよく見る死の告知を受けた瞬間に泣き崩れるシーンを思い浮かべましたが、実際にその状況になると、感情を外に出す力さえ湧いてこないことを、結衣は身をもって体験しました。
その日は、具体的な話はせず、主治医からは「おうちでゆっくりご家族とお話ししてください」とだけ言われました。帰りの車内は、病院に向かうときの明るい雰囲気とは打って変わって、結衣は黙ったまま窓の外の景色を見つめていました。母親は運転に集中し、車内には暗く重い雰囲気が漂っていました。
自宅に戻り、母親にサポートしてもらいながら結衣は自分の部屋に入り、着替えもせずにベッドに横たわり、ただ天井を見つめていました。主治医の言葉が頭の中を何度も巡り、幼い頃に医療に救われた自分が、今度は医療を必要とする立場になったことを考えていました。
部屋に差し込む夕日が徐々に小さくなり、部屋も暗くなっていきましたが、照明を点けることなく結衣は布団に潜り込み、一人静かに泣いていました。「私が、死んじゃうの?」と心に問いかけると、シーツが涙で濡れ、敷布団の模様が見えるほどの大粒の涙が次々と溢れ出てきました。結衣は母親に泣き声が届かないように、布団を強く押し当てました。
気付くと、結衣はベッドの上で眠り、夢の中へと入っていました。夢の中で、白衣を着た結衣は病院で働いていました。周りには他の看護師や医師たちが忙しそうに業務をこなしていました。結衣はいつものように翔に話しかけようとしましたが、翔は「そんなに無理しないで、もっと自分を大切にしたらいいんじゃない?何で他の人に頼らず、一人で頑張ろうとするの?」と問いかけてきました。
結衣はハッとさせられ、「そっか、やっぱりそう見えていたんだね。元気づけようとしている人が落ち込んでいたらダメだよね」と返事をしました。すると翔は、「そうだよ!いつも笑顔でいてくれるのは嬉しいけど、もっとありのままの姿で僕たち患者に接してくれたら、もっと嬉しいよ」と言い、すっと姿を消しました。
「人に頼ること」――その言葉が結衣の心に深く刺さりました。夢から目覚め、スマホの時計を見ると、すでに深夜一時を過ぎていました。翔の言葉が心に残り、天井を見つめながら、これまでの仕事や休日の過ごし方、将来に対する考え方をもう一度見直そうと思いました。それでも、心の中では迫りくる死と向き合いながら、これからの生活をどう送れば自分にも家族にも良いのかを考えていました。
自分がこの世からいなくなった後も、母親が悲観的にならないようにすることが自分の役目であり、最後の役割だと考えました。結衣は、自分と同じような状況にいる人たちのために、自分が持っている力や知識を生かし、できることを考えて、それを自分の「生きた証」として残そうと決意しました。
具体的な方法はまだ頭にありませんでしたが、結衣は体力が落ちていく中で無力感や絶望感を感じることが確実だと分かっていました。それでも、看護師や一人の女性として、以前のように直接医療に関わることができなくても、病と闘っている人たちの希望や光となることが、結衣にできることだと考えました。
不安や絶望に覆われた心に少しずつ光が差し込み、結衣の心も少しずつ明るく前向きになっていきました。しかし、心とは裏腹に結衣の身体には倦怠感があり、日に日に動くのが難しくなっていました。
翌日から結衣は、朝食を済ませた後、自分の部屋のベッドでタブレットやスマホを使って、自分の病気に関する情報やその日の健康状態を、文章やイラストで記録していきました。ネット上の情報だけでは不確かなことも多いため、書籍を購入したり、同じ病を抱える人たちのオンラインサロンに参加して、積極的に交流を持ちました。近くに住んでいる人とは直接会うこともありました。
ただし、病の症状である倦怠感が強く出ることもありました。そのため、無理をしていないか自問し、一日中映画やドラマを観たり、好きな漫画を読んだりして過ごすことで、身体的にも精神的にも負荷をかけないようにしていました。結衣は、自分に合った生活スタイルを作り上げ、自分のペースで充実した日々を送ることを心がけました。その結果、迫りくる死への恐怖や不安をあまり感じなくなりました。
それでも、時折、海の波のように恐怖や不安が押し寄せ、結衣の心と身体を支配することもありましたが、以前よりも母親に頼ることができるようになっていました。「一人で頑張り過ぎず、人に頼ること」。この考えが結衣の中で大きくなり、自分一人でできないことは母親に助けを求め、体力があるときには自分の力で行うことで、バランスの良い生活を心がけるようになりました。
結衣は、生活の中での小さな変化もスマホに日記として記録し続けました。それは、自分と同じ病を抱える人やその家族のため、そして何よりも自分の「生きた証」として残すためでした。
毎朝必ず八時までに着替えて、リビングで母親が作った朝食を食べるようにしていましたが、この日は七時にセットしたアラームが鳴っても、倦怠感が強く、身体を動かすのが難しい状況でした。
なんとかアラームをストップさせるまでは身体を動かせたが、一階にいる母親に“起きたよ”というLINEを送ることができず、ベッドの上でどうしようと考えながらウトウトしていた。一階のキッチンで朝食の準備をしていた母親は、リビングの壁に掛かっている時計を確認し、エプロンに入れてあるスマホを手に取った。結衣からのLINEがまだ来ていないことを確認すると、少し不安になり、お皿に盛り付けた朝食をリビングのテーブルに置いてから、二階の結衣の部屋の扉をノックして「結衣?大丈夫?もう起きているの?」と扉越しに声をかけた。すると「起き上がれないから手伝って」と、眠そうな結衣の声で返事があった。
扉の向こうから聞こえてくる結衣の声に、母親は疲れ切っている様子を感じ取った。部屋の扉を開け、ベッドに横たわる結衣の身体を優しく起き上がらせ、「たまには母さんと遊びに行かない?」と聞くと、「うん」とだけ返事をした。母親は結衣をゆっくりと階段で降り、リビングのテーブルの椅子に座らせた。
母親は、お皿に盛り付けた朝食を「食べられる分だけでいいから」と結衣の前に置いた。いつもなら「ありがとう」と自分の気持ちを言葉にするのだが、小さな声でスマホに姿勢を合わせたまま「うん」とだけ返事をした。
「ねぇ、どこか行きたい所ある?お母さん、今日は結衣の行きたい所とか、やりたいことに付き合うから」と明るく尋ねた。結衣は右手にフォークを持ち、お皿に盛り付けられたソーセージと卵を刺しながら「そうだね。行きたいところかぁ。お母さんとならどこでもいいよ」と俯いたままフォークに刺さったソーセージと卵を口元へ運びながら、小さな声で返事をした。
「分かった!結衣が好きな美味しい甘いケーキを食べて、可愛い洋服をお母さんからプレゼントするね」と、まるで結衣と同じ年齢かのように明るく元気よく結衣に言うと、手に持っていたカップを持ち、キッチンに向かった。
母親はキッチンで皿やフォークなどを洗いながら「これが洗い終わったら、二階まで上がるのを手伝うから、着替えてきてね」と言った。すると結衣から「ねぇ、面白そうな映画があったんだけど」と声が聞こえ、エプロンに入れてあるスマホが振動し、結衣からのLINEを開いた。
“えんとつ町のプペル”という文字と、帽子を被った男の子のキャラクターの画像が写っていた。母親が「どこの映画館で何時からやっているの?」と尋ねると、「今調べたからLINEする」と返事があったと同時に、またスマホが振動し、上映スケジュールと文字が映り、結衣の家から近い映画館の場所と上映スケジュールの情報が表示された。
「じゃあ、十四時の回にしない?それまでに美味しいものを食べたり、可愛い洋服を見たりしてから映画に行こう」と言うと、「それでいい」とだけスマホを操作しながら、結衣は返事をした。
病気にかかる前であれば、着替えに要する時間は五分もあれば十分だったが、今は手足の痺れや倦怠感があり、三十分から四十分ほど時間がかかってしまう。さらに、普段から自分の部屋以外で動くことが少ないため、着替えをするだけでもすごく体力を消費する。
母親にはなるべくそういったマイナスの感情を見せないようにし、できる限り明るく振る舞うように心がけていたが、それでも心が折れそうになった時には、ベッドの中で涙を流したり、枕に顔を押し当てたりして声を出して発散していた。この日も、約三十分かけて着替えとメイクを済ませ、スマホと財布などを首から下げる小さなポーチに入れて出かけられる準備が整った。
母親へ“準備終わった”とLINEを送ってから、母親が結衣の部屋まで来るまでの間、何度も鏡を見てメイクの出来や髪の毛がしっかりとセットされているかを入念に確認していた。
自宅から約四十分離れたところにある、映画館が隣接している大型ショッピングモールへ向かった。ショッピングモールに到着し、お目当ての洋服やアクセサリーを見ていると、母親が結衣に向かって「あと二時間で映画が始まるから、お昼でも食べない?」「そうだね。お腹すいたし、早めに食べよう」と返事をした。
店内に入り、メニューを見てオーダーし、料理が届くまでの間に、これから観る“えんとつ町のプペル”について、母親が結衣に「芸人さんが描いた絵本が原作になっているんだよね?なんでこの映画を選んだの?」と笑顔で聞いてきた。「なんか、一人で作っているんじゃなくて、いろいろな人が得意なものを描いて絵本にしたらしいよ。Xとか見ていたら、“力をもらった”とか“何かに挑戦してみようと思った”とか書いてあったから、今観たら何か変わるのかなと思って」と、コップに入った水と氷をストローで無造作に混ぜながら言葉を発した。
“何かに挑戦したい”その一歩目を踏み出すために映画でなくても、誰かに「大丈夫だよ。きっとできるよ」と一言後押ししてもらえたら、結衣はこの先も病気を抱えながら“生きた証”を、死を迎える直前まで残せると考えていた。
イタリア料理を食べ終えると、映画上映時間まであと三十分と迫っていた。結衣と母親は少しずつ映画館の建物の方へ歩いていった。病気の影響で、何もなければ歩いて二十分で到着するところも、結衣と母親はゆっくりと歩いて四十分ほどで映画館に到着した。
結衣と母親が館内に着くと、すでにシアターではこれから公開される映画の予告映像が流れていた。薄暗い中で指定された席へ、他の人の邪魔にならないようにできるだけ背を低くして、ゆっくりと席へ進んでいった。結衣はXに書かれている情報や友達との会話で作品のあらすじについてはある程度知っていたので、他の作品を見る時とのドキドキ感は低かった。
作品が始まると、気づくと結衣は大粒の涙を流していた。“誰も見ていないのだろう!だったら、まだわからないじゃないか!?”劇中に出てくるキャラクターのセリフが結衣の心を貫き、隣に座っている母親やその横にいる客まで、聞こえるくらいの嗚咽を出しながら大泣きした。
毎日の生活に希望が持てず、これまでの人生の中で初めて絶望を経験してきた結衣は、毎日の日記を書くことで自分が“生きた証”を残し、原発性硬化性胆管炎やさまざまな病気を抱えて生きている人のために、少しでも自分の姿が希望となって“生きる力”へ変わることを考えながら続けてきた。そのことが観ている“えんとつ町のプペル”によって、自分が考えていたことは間違いではなかったと確信に変わった。
映画の上映が終わり、結衣をはじめ作品を鑑賞していた観客の拍手でスクリーン内は包み込まれ、徐々に拍手が鳴り止んでいっても結衣は自分が座っている席を立つことができなかった。家へ向かう車中で結衣は、自分が看護師を目指したきっかけとなった幼少期の優しい看護師のことを思い出していた。そして原発性硬化性胆管炎になり、あとどれくらいの時間を生きられるかわからない中で、改めて自分ができることにしっかり取り組んでいこうと考えていた。
母親に支えられて、二階の自分の部屋へ戻り、着替えを済ませてからスマホに今日感じたことや考えたことなどを、文字として丁寧に綴っていった。カーテンが開いている窓からは、まん丸の月と輝く星が夜空に見え、結衣は窓を開けた。外からは冷たくも暖かくもなく心地よい風が部屋に入ってきて、結衣はスーッと深呼吸をし、夜空を見ているとキラリと光る星が見えたと思った次の瞬間には消えていった。

 
 

 
何故あんなに感情を乱し、さまざまな人に迷惑をかけ、その結果ベッドにロープで拘束される事態になったのかを、守は理解するのが困難だった。あれからベッドと守の身体をつなぐロープは外され、以前のようにベッドの上で読書をしたり、再放送と同じ情報を流しているテレビを観たりして、大人しく入院生活を送っていた。
二週間に一度、守が勤めている会社の同僚が様子を見に来るたびに、「戻ってこられそうか?」と尋ねられるが、虚血性心疾患の存在など知る由もなかった。職場へ復帰できると信じる同僚に対して、守は恐る恐る「そのことについてなんだけど」と話し始めた。
守は、いつか自分の病気を職場に伝え、もう働くことができないとしっかり伝えなければならないと考えていた。職場からすれば、守一人がいなくなったくらいで会社全体に大きなダメージはなく、あっという間に守の代わりとなる人材を新たに確保し育成することで、守の存在が無かったこととして時間が経過するだろう。
だからこそ、早い段階で病気のことや退職する選択を伝える必要があった。ベッドで上半身だけ起こして椅子に座った同僚の方を見ながら、自分の病気のことをイチから伝え始めた。同僚は、守の話を聞くにつれて、それが難しいことであると同時に、守が虚血性心疾患と真剣に向き合って残りの人生を全うしていることが、言葉の一つひとつから伝わってきた。
「お前や会社のみんなには心から感謝しているし、こんな形で辞めるのは本当に申し訳ないと思っている」とベッドサイドの椅子に座っている同僚に対して、守は頭を下げた。「話してくれてありがとう。会社の上司には俺の方から伝えておくから」と同僚の気持ちと言葉に、守は非常に胸が熱くなり、嬉しさと照れくささを感じた。
「じゃあ、そろそろ会社に戻って溜まっている仕事とお前が残していったお荷物たちを片付けに戻るわ」と冗談を交えて守に言い残すと、ポケットから缶コーヒーを取り出し、消灯台の上に置いて部屋を出て行った。守は「ありがとう」と同僚の後ろ姿に向かって呟いた。それまで守の胸の中に引っかかっていたものが、すっと消えたように感じ、胸や肩をはじめ身体が軽くなったような感覚になった。
一日の大半をベッドの上で読書やテレビ観賞に費やす中で、ずっと同じ姿勢でいることで血流が悪くなるのを防ぐために、守は車椅子を使って院内の売店へ行ったり、中庭で外の空気や太陽の光に当たったりしていた。守にとって、車椅子を使って少しでも自分の意思で移動できることは非常に幸せなことであった。
病院の中庭にある大きな木の下で、病室から持ってきた本を読むことが、無機質で何の刺激もない入院生活の中で唯一の娯楽であった。読書をしながら、見舞いに来た家族と楽しそうに過ごしている患者や、缶ジュースを飲みながら空を眺めている他の患者を観察することも、守にとっての楽しみであった。
中庭に来る途中で売店で買った缶コーヒーのフタを開け、一口、二口と飲み始めた。病室では病院から出される麦茶か水しか飲めないため、自力で車椅子を使って中庭で缶コーヒーを飲みながら空を眺めることが、入院してから気づいた幸せの一つであった。二十分と短い時間だったが、それまでずっとベッドの上での生活が続いていた守にとって、その二十分の中で考えることや目に映るもの、耳に入ってくる人の会話などすべてが新鮮に感じられた。
病院の中庭からゆっくりと自分で車椅子を漕いで院内へ戻り、入院患者の病棟があるフロアへとエレベーターを使って向かっている途中、入院したての頃に車椅子に乗って俯いていた翔を思い出した。会話も挨拶もしたことがないにも関わらず、彼の存在が気になり、ベッドの上でどこかで会ったことがあるのかと考え、記憶を何度も辿ってみたが、会社とアパートの部屋の往復以外で外出することが少ない守には、中学生くらいの年齢の人との関わりや接点が全くなかった。
自分のベッドがある部屋に到着したので、ナースコールを押して車椅子からベッドへ移るために看護師が来るのを待っていた。看護師の手を借りてベッドへ移り、消灯台に置いてある麦茶を飲んでから、夕食が届くまでの退屈な時間を有意義に使おうと黙々と読書を始めた。守にとって読書は、様々な知識を取り入れるものではなく、普段考えていることや人に対する感情などを整理できる時間でもあり、その時間が非常に心地よく感じられていた。
入院前は、仕事が終わるとアパートへ帰り、誰もいない中で存分に読書を楽しんでいたが、入院生活が始まってからは同じ部屋に他の患者がいたり、決まった時間に食事が出たり、夜になると部屋の電気が消されるなど、読書以外のことができなくなった。人とのコミュニケーションは、一日三回の食事を守のベッドまで配膳してくれる看護師に「ありがとうございます」と伝えたり、毎朝の健康チェックで「体調いかがですか?」と聞かれた時に「大丈夫です」と答えるだけであった。
例えるなら、空に流れる雲のようで、風が吹かなければ動かず、形を変えることもない。季節によって気温や湿度が変化し、雨や強い日光が降り注いで空の下の人や動物の生活に変化をもたらすのと同じように、毎日が同じように流れ、大きな出来事が少なく、守にとっては入院当初から比べると徐々に快適で過ごしやすい空間になっていた。
それは、守が虚血性心疾患と真正面から向き合うことを決め、毎日を暗い気持ちで過ごすよりも、会社で働いていた時よりも時間の余裕があったからだと感じていた。余裕ができたことで、好きな読書をしたり、これから先のことについてゆっくり考える時間ができ、物事の捉え方が前向きに変わっていった。
虚血性心疾患が完治しても以前のように職場復帰ができるわけではない。ましてや自分の意思で退職届を出した以上、病院から退院しても生活をイチから作り直す必要があると、守は既に理解していた。退院後は実家へ戻るという気持ちを母親に伝えると、「分かった。解約手続きに必要な書類があったらここへ持ってくるから」と返事を受けた。
普段は母親のことを煩わしく思ったり、あまり関わりたくない気持ちが強かったが、今回のように自分が動けない状況で、何かと気にかけて代わりにさまざまなことを無条件で行ってくれる存在に対して、改めて感謝の気持ちを抱いていた。
「ありがとう」この言葉だけでは、守の心にある気持ちを母親に全て伝えるのは難しいと理解していたが、今の気持ちを表現する適切な言葉を見つけるのは難しかった。母親が去り、ベッドの上で読書をしながら窓から見える空を時折見ては、翔や結衣のことを考えていた。
翔については、守と同じ病院内に入院していることは確かだったが、この一ヶ月の間に「病気になって休職しているみたい」と看護師から聞いたこと以外、結衣に関する情報は何も分からなかった。異性として意識しているわけではないが、多くの看護師の中でも結衣は何か特別なものを持っていた。それが患者や同僚との関わりを見ていると伝わってくるのだった。
「今、どこで何をしているのか」休職中の彼女の状況が気になりながらも、他の看護師に「まだ仕事復帰していないのですか?」などと聞く勇気はなかった。いつかまた会えるだろうと考えていたが、その「いつか」が必ず来る保証はどこにもなく、確率もかなり低く、根拠は存在しないことを守も理解していた。
17時50分頃になると、部屋の一番奥のベッドにいる守は、最後に食事が配られ、看護師から食事のメニューについて説明を受け、食後に飲む薬を手渡されるのがルーティーンとなっていた。守は食事を残さずしっかりと食べることにしており、入院する前よりも食事に対するありがたみや楽しさを感じていた。
食事の時間は、テレビを観たり新聞を読んだりしながら食べる患者もいる中で、守は食事に集中し、味をしっかりと噛み締めながら、約30分ほどかけて食べていた。人は大きな病気にかかったり死を目前にすると、それまでの価値観や考え方が変わるとよく聞いたり、本で読んだりするが、虚血性心疾患と診断されてから様々な出来事があり、その中で守の考え方も少しずつ変わった。
以前は自分以外の会社の同僚や上司に対して関心や興味をあまり持たなかったが、翔と結衣のことだけは守の中で徐々に存在感が大きくなっていた。もし翔と結衣と多く会話を交わし、お互いをよく知る間柄であれば、見かける回数が減ったり会話がなくなったりすることは大きなことだっただろう。しかし、口数の少ない守が積極的に自分から話す姿勢を持っていれば、もっと違ったのかもしれない。
もっと翔や結衣のことを知りたいという感情が守の中で徐々に大きくなっていった。けれども、守の方から翔や結衣にコンタクトを取る手段がないことや「話をするきっかけ」をつかむことが、守にとっては二人を知るために非常に大切な一歩となっていた。翔が同じ病院内で生活していることは確かだったが、看護師から外出許可を得なければ、翔のいる部屋に行くことはできない。
同じ病院内とはいえ、他の病棟への移動は簡単なことではなく、様々な感染対策やセキュリティの問題があるため、看護師や医師以外は自由に病棟を行き来することはほぼ不可能だった。もし守と翔が親戚や家族であれば状況は変わったかもしれないが、一度しか会っていないことが、翔と直接会って話す理由として看護師に説明できるものではないと守は考えていた。
以前の守であれば、仕方がないと割り切って諦めていたが、虚血性心疾患と共に生きている今は諦めようとはしなかった。自分でも、なぜこんなに必死に翔や結衣と会おうとしているのかが不思議だったが、直接会って話すことが決して間違いではないと守は揺るがない気持ちでいた。
「やってみる前から失敗を考えても意味がない!」守は、自分が後悔しない道を選び、妥協せずに生きることを心に決めていた。ベッドサイドの窓ガラスに、カシャカシャと音を立てて外からの強い風が吹いていた。守は窓の方を見ると、空は雲一つなく、太陽と綺麗な青空が広がり、ここから何かが動き出しそうな感覚を与えていた。
守は読んでいた本にしおりを挟み、枕元のナースコールを押した。


 

主治医が治療法についての説明に必要な情報が書かれた資料を準備するまでの間、翔と母親はベッドがある部屋に戻っていった。翔も母親もお互いに言葉を発することなく、翔はベッドに戻らず車椅子に座って膝下を見つめ、母親は部屋の片隅にある椅子に座った。
時計の針がチクタクと刻々と時間を進める中、翔と母親の間には、まるで時が止まっているかのように、別々の空間にいるような沈黙が広がっていた。思春期であるため、普段からあまり母親とは会話をしない翔は、主治医が戻ってくるまでの期待と不安が入り混じった気持ちを抱えながら、母親とどう時間を過ごして良いのかわからなかった。
主治医が翔の病気に関する治療法の情報が書かれた資料の準備に向かってから、30分ほどが経過してもまだ部屋に訪れる気配はなく、母親は徐々に焦りと不安が募ってきた。看護師に「あとどれくらい時間がかかりますか?」と尋ねようかと考えたが、一番不安なのは翔であることを思い出し、じっと耐えて待つことにした。
少し部屋を離れても大丈夫だろうという思いと、このまま同じ部屋で翔と二人とも黙っているのはますます気持ちが暗くなると感じた母親は、「下の売店でお菓子を買ってくるけれど、何か欲しいものはある?」と翔に尋ねた。特に欲しいものはなかったが、母親の優しさを無駄にしたくないと思い、「ポテトチップスかチョコレート」と答えた。
病室に一人になった翔は、車椅子からベッドへ自分の力だけで移動し、疲れた体を休めるために少しだけ横になり、眠りについた。目を開けると、周りには同級生がいて、学校の教室で翔を囲んでワイワイと笑顔でいろいろなことについて話したり、戯れたりしている光景が広がっていた。
「学校終わったら、翔の家でゲームでもしようぜ!」という声や、「四時くらいに翔の家に行くようにするわ」といったみんなの遊びたいテンションが翔に話しかけてくる。これが夢であると分かりながらも、翔は「わかった!あんまり大勢は無理だから!!」と返事をし、学校のチャイムが鳴ると同時に、自分たちの席へ戻り授業が始まった。
病院のベッドの上にいたのに、中学生になってから一度も行ったことがない学校にいることや、他の皆と同じ教室で授業を受けていることが夢だと理解しつつも、非常に嬉しく感じていた。3時ごろには全ての授業が終わり、翔を含む生徒たちが帰宅の準備を始め、仲の良い友達と一緒に学校を後にする者や、一人で帰る生徒もいた。翔は先ほど「ゲームをしようぜ!」と言った同級生を含む四人と共に学校を後にした。
夢にしてはあまりにもリアルで、翔はもしかしたら今までの入院生活が夢で、本当に今見ているものや友達と共にしている時間が現実なのではないかと思った。「じゃあ、荷物をおいたら翔の家に集合!」と、学校からの帰宅道を一緒にしてきた友達が自分の家に荷物を置くために、一人二人と次々に散っていった。先ほどまで賑やかだった雰囲気が、気づくと翔だけになり、とぼとぼと自分の家に向かって歩いていた。
本当にさっきまで一緒だった友達とこのまま時間を共にできるのかという現実的な考えと、早く友達と会って遊びたいという思いが翔の心に入り混じっていた。家に帰り、玄関のドアを開けると、「ただいま」と言うとキッチンの方から「おかえり!今日は寄り道せずに帰ってきたんだ」と聞き馴染みのある母親の声が聞こえ、これが現実なのか夢なのか、翔は分からなくなってきた。
部屋の時計を見ると、友達との約束の4時まであと十分しかなく、急いで制服から私服に着替え、一階に降りて冷蔵庫からジュースをコップ一杯飲み干した。「あとでジュースとお菓子を持っていくから」とリビングでテレビを観ながら掃除をしている母親の声が聞こえた。階段を登りながら「ありがとう」と翔は母親に小さな声で言い、友達が待っている自分の部屋へ向かった。
“あの入院生活はきっと夢だったんだ!”と、翔は確信し始めた。これから毎日のように友達と学校生活を共にし、楽しいことも悲しいことも一緒に過ごせると考え、気持ちを明るく切り替えて自分の部屋の扉を開けた瞬間、一瞬にして目の前が真っ暗になり、意識と身体の感覚が徐々に薄れていった。
翔が目を開けると、そこにはいつも見慣れている病室の天井があった。両手で目を覆いながら、“やっぱりさっき見ていたのは全て夢だったのか”と理解した。改めてその現実を目の当たりにすると、希望と光が差し込んでいたところから、絶望と深い暗闇の中に一気に叩き落とされたような感覚になった。
主治医から提示された治療法が、翔や母親にとって眩しく輝いた光のように感じられたが、その直後の夢によってその信じられなくなっていた。入院してから約五年で一度も臓器提供者が現れず、今回のように治療法が見つかることもなかった翔にとって、明るい話がなかった。何の前触れもなく「治療法が見つかった」と言われても、それを信じることが難しく、恐怖が心の中に存在していた。
「治療法についての説明が」と言葉が出た時、母親の表情が当事者である翔よりも明るくなっているのを横から見ていた。ガラガラと音を立てて扉が開くと、ビニール袋を手に持った母親が売店から戻ってきた。ビニール袋からチョコレートを取り出して翔に渡すと、翔はそれを受け取らず、消灯台の上に置いた。
ベッドサイドに置いてある椅子に座り、ソワソワと落ち着かない様子の母親は、売店で買ってきた飲み物を飲み、時計を何度も見たりしていた。母親はバッグから臓器提供に関する本を取り出し、右手に気になる箇所に印を付けるためのペンを持ち、本を読み進めていた。母親の目の下には、疲れを表すクマがはっきりと現れており、家でも寝る直前まで翔のために様々な書籍を読んだり、臓器提供に関することを調べたりしているのが翔には伝わっていた。
「いつもありがとう」と自分の想いをしっかり伝えることが正解なのだろうと理解していても、自分の言葉で伝えるとなると恥ずかしさや素直になれない気持ちが勝ってしまった。主治医が翔の治療法に関する書類を準備すると言ってから約一
時間が経過した。母親と翔の間の沈黙を破るように、ガラガラと音を立てて病室の扉が開いた。クリアファイルが五枚ほど重なったものを持った看護師と、その横にいる主治医が「お待たせしました。別室に行くのも大変だと思うので、こちらで説明します」と言った。
看護師は翔が食事の時に使っているキャスター付きの机をベッドの足元に移動させ、持っていたファイルを置いた。
母親は椅子から立ち上がり、「よろしくお願いします」と深々とお辞儀をすると、主治医に椅子に座るように促された。椅子に座ると、バッグからノートを取り出し、先程まで読んでいた本と持ち替えて、これから説明される内容を書き残そうとした。
翔は羽織っていた布団を足元にずらし、上半身を起こしてしっかりと主治医からの説明を受けるために、体勢と気持ちを切り替えた。「結論から申し上げますと…」と、そこから30分ほど、主治医が翔が抱えている臓器提供に関する話や治療方法の説明を行った。
翔と母親は、安堵と不安が入り混じった感情が顔に出ているのを自分でも感じていた。ほんの少しだが、翔にとって大きな前進となる結果である一方で、翔も母親も心の底から喜ぶことはできずにいた。それは、臓器提供者になるかもしれない人が見つかったことは確かだが、その人が必ずしも翔に臓器を提供することが決まったわけではないからだ。ドナーやその家族の考えや気持ちが変わった場合、翔への臓器提供がなくなってしまう可能性がある。
その期待が形となるのが明日なのか、5年先、はたまた10年以上先になるのか、可能性はいくらでもあった。それ以上に、この病院に入院してからずっと待ち望んできたことなので、臓器提供者が存在し続ける限り、翔が以前のように元気な体で学校に行き、大好きなサッカーを友達とプレーする可能性は現時点で遥かに高かった。
それを翔が一番望んでいるのは確かであり、それと同じくらい、またはそれ以上に普通の生活を送ることに期待していたのは母親だった。そんな二人の気持ちを表すかのように、病室の窓から見える空はオレンジ色に染まり、その中にはまだ青さと白い雲が鮮やかに残っていた。
 
 

 
原発性硬化性胆管炎と診断されて、仕事を休み自宅で過ごす時間が経過した。原発性硬化性胆管炎の進行のためか、以前はスムーズに飲み込めていた食事が、一口サイズよりも小さく切らないと飲み込むのが難しくなった。たまに気管に食べ物が入ってむせたり、母親が結衣の背中を叩いたりして、なんとか飲み込むことができるようになった。
洋服を着替えたりシャワーを浴びたりする時も、母親の手がなければ結衣の力ではできなくなっていた。病院で勤務していた時には、以前は自分の力でできていたことが、徐々に人の手がなければできなくなっていた。患者をサポートする側で、何人もの人に関わっていて慣れていたはずだったが、自分がサポートされる側になってみると、自分に対する悔しさやもどかしさがあり、サポートしてくれている母親に対して申し訳ない気持ちが強くなっていた。
「ありがとう」という言葉だけは必ず口に出し、どんなに些細なことをしてもらった時でも母親に伝えようと結衣は心掛けていた。それは結衣も職場で患者から「ありがとう」などと言葉にしてもらうことで「よし!次も頑張ろう!!」と思え、何より言葉があることで患者のことを気にかけるようになっていた。どんなに疲れていても、体力がなくなっていても、しっかりと感謝の気持ちを言葉にしていた。
一日のほとんどは自分の部屋で過ごし、スマホを使って原発性硬化性胆管炎と闘っている人が綴ったブログを読んだり、原発性硬化性胆管炎を専門に診ている医者が痛みを和らげたり、病気と共にどうやって生活していくかについて話している動画を観たりしていた。それでもずっとベッドや椅子に座っていると体力が落ちるスピードが速くなり、気分も落ち込んでしまうので、自宅の前を散歩していた。
結衣が外へ出る度に「大丈夫?何かあったら困るからスマホを必ず持っていってね」と心配していた母親。「すぐそこまで散歩するだけだし、周りに人もいるから大丈夫だよ」と心配そうにする母親を安心させるように、結衣は笑顔を見せて自宅を後にした。親からしてみれば、どれだけ年齢を重ねても子供のことは心配であり、ましてや病気になってからは、その心配な気持ちが大きな雲のように膨れ上がっていた。
結衣の病気に関する情報はあまり多くなく、スマホの画面から見える情報だけでは足りないと思った。自宅を後にした結衣は、原発性硬化性胆管炎に関する本を探して購入したり、図書館でそのページだけをコピーして自宅に持ち帰り、スマホで調べたことをメモ帳に書き留めたりしていた。ずっと病気のことを考えたり、自分の身体がこれからどうなっていくのかを想像したりすると気分が暗くなってしまう。そういった時は、漫画を読んだりNetflixでラブストーリーの映画やアニメを観たりして、意識的にメリハリを付けていた。
子供の頃から明るい性格で何事にもポジティブに捉え、どんなことがあっても笑顔を絶やさなかった結衣だが、病気が徐々に進行し始めてから身体をスムーズに動かすことが少しずつできなくなっていった。徐々に持ち前の明るさを保つことが難しくなり、母親の前では決して弱音を吐かず辛い表情を見せないようにしていたが、一人になると恐怖と不安が一気に押し寄せ、枕に顔を埋めて母親に声が届かないように涙を流していた。
看護学校に通っていた時の同級生とたまにLINEを使ってお互いの近況報告や、仕事や職場の上司の愚痴を言い合い、お互いを励ましあっていた。病気の進行で手に力が入りづらく、自分の力で箸や茶碗を持ち上げることが難しくなり、向かいの席に座っている母親にサポートしてもらうことが増えていった。その度に「ありがとう」「そこの魚を取って」と、数ヶ月前には自分の力だけで何不自由なくできていたことが、原発性硬化性胆管炎のせいで思い通りにいかない時に、自分がしたいことを言葉で伝えることに面倒臭さと苛立ちを感じていた。
結衣の思いは自分ではなるべく表に出さないようにしていたが、無意識のうちに言葉の端々や少しの顔の表情から母親には伝わっていた。母親は、結衣が抱える辛さや苦しみ、苛立ちなどの様々な感情を、強く降り注ぐ雨を吸収する大地のように優しく受け止め、キラキラと輝く太陽のように見守っていた。
夕食を終えてテーブルの上に置かれたスマホの画面をスクロールし、テレビから流れてくるお笑い芸人の楽しそうな声に耳を傾け、母親が入れてくれたコーヒーを飲んでいた。夕食の食器を洗い終えた母親が、自分が飲む用のコーヒーが入ったマグカップを持ちながら結衣の前に座り、「ねぇ、何か欲しいものとかあるの?」と結衣に尋ねた。「うーん、外に出かける回数も減ったし、人とも会わないし。むしろ、お母さんは欲しいものがないの?休業手当で何か買ってあげるよ」と視線をスマホと目の前にいる母親との間を行き来させながら、母親へ聞き返した。
両手で持ったマグカップを口に運び、コーヒーを一口飲んだ後、「じゃあ!結衣とお揃いのものを買ってよ」と考えもしなかった提案が母親の口から返ってきた。それに結衣は驚き、持っていたスマホがパタっと音を立てて掌から机に落ちて、「お揃いのもの!?なんでまた一緒のもの?」と、すごく嬉しい気持ちを隠そうと必死になって言葉が口から出ていた。
翌日は母親の仕事が休みだったため、新宿で買い物と散歩に結衣と二人だけで出かける予定を立て、結衣がお風呂に入る時に手伝いながら寝るまでの歯磨きやドライヤーで髪を乾かすことを母親がサポートし、ゆっくりと上がっていき部屋のベッドに結衣を座らせた。「あまり遅くまで起きてないで早く寝なさい。何かあったらLINEをしていいから」と部屋の扉を閉めながら「おやすみ」とニコリと笑顔で静かに扉を閉めた。
部屋に一人になった結衣は、リビングで母親が「お揃いのものを買おうよ」と言ってくれたことをベッドの上で横になりながら何度も思い出し、春の心地よい風と優しく降り注ぐ太陽の光に包まれているように、心が暖かくなった。自然と頬の筋肉が緩み、鏡を見ると笑顔になっている自分が映っていた。
真っ暗な布団の中でニカニカと笑顔が輝き、小学生の遠足前夜のワクワクした気持ちに似ていた。結衣は、明日母親と楽しい時間を過ごすためには早く寝て体力を回復させることが大切だと考え、布団の中で目を閉じた。額縁に入った画のような真丸の月と、雲ひとつない夜空を見ながら、結衣は眠りについた。
スマホが一定のリズムで振動し、起床時間の七時を知らせるアラームが鳴った。結衣は半分寝ている状態で振動を止めるために目を開け、スマホの画面をタップした。その後、ぐいっと背伸びをして、ゆっくりと布団を体から剥がし、ベッドに置かれたスマホに届いたLINEやショッピングアプリの通知を確認しては消していった。「今、起きた」と母親にLINEを送り、枕や布団を元の位置に戻して整えた。
母親が部屋の扉をノックし、「おはよう」と言いながら結衣の着替えを出し、今日の行き先や美味しい料理の店について話しながら、結衣の身支度を手伝い始めた。母親のサポートを受けて着替えとメイクを済ませ、階段をゆっくり降りてリビングのテーブルに座ると、母親はキッチンでコーヒーをマグカップに注ぎ、冷蔵庫からバナナを取り出して細かく切り、結衣が待つテーブルに置いた。
バナナを取ろうとした結衣は少し前屈みになり、重心を崩してお尻から床にバタンと倒れてしまった。母親が心配して駆け寄り、結衣の上半身を起こしながらアザや赤みがないか確認し、背中を優しくさすりながら「心配だったら病院に行く?買い物はまた別の日でもいけるから」と聞いた。結衣は小さく「うぅん」と返事をし、痛さから辛い表情をしていた。
母親に支えられながら車で病院へ行き、受付で転倒の状況や皮膚の状態を説明し、念のためレントゲンとCT検査をお願いした。受付を済ませ、名前が呼ばれるのを待つ間も、結衣の背中を母親が優しくさすったり、「どこか痛い所や気分が悪くなったりしてない?」と聞くことに対し、結衣は頷いたり、小さな声で答えたりして背中とお尻の痛みを我慢していた。
その痛みよりも、母親とのショッピングができなかったことの方が胸が締め付けられるように辛かった。看護師が「小田結衣さん」と呼びかけると、母親に支えられながら診察室に向かった。診察室に入り状況を再度説明すると、「今から一名、レントゲンとCTを撮りたいので、どちらから行けばよいか確認してください」とベテランの看護師が指示を出していた。
採血の準備を見て、自分が働いていた時のことを思い出し、悔しさや怒り、病気に対する無力感が一気に溢れ出た。結衣は大きな声で「もう!生きていても仕方がない!!人の手助けをしようと思って看護師になったのに!!!」と叫び、椅子から床に座り込んでしまった。母親がそっと肩に触れようとしたのを「触らないで!!」と大声で振り払うようにバッグを投げた。
今まで我慢していた感情が一気に爆発し、結衣の心は雪崩のように覆い尽くされた。レントゲンとCT検査の結果、結衣の原発性硬化性胆管炎は当初の診断よりも早く進行しており、自分で身体を動かすことができなくなっていた。病院に運ばれた後、主治医に連絡が入り、検査結果を見た上で原発性硬化性胆管炎の進行が早いことが説明された。「残念ながらこれ以上の治療方法はなく、残されているのは延命処置だけです」と重い口調で伝えられた。
結衣は涙をこぼしながら、「もうこれ以上は良いです。母親にも負担をかけたくないので、延命はしなくて大丈夫です」と弱々しい声で伝え、ズボンのポケットから臓器提供カードを主治医に手渡した。「私が看護師として、最後にできることはこれしかないので」と苦しみを耐えながら伝え、「母には伝えていないので、先生から伝えてください」と頼んだ。
夏の夕日が輝いていたかと思うと、突然大雨が降り注いだ。数ヶ月前まであった“希望という光”は、結衣の中から跡形もなく消えていた。太陽のように輝いていた笑顔はもはやなく、氷のように冷たくなった結衣の手を母親が優しく包み込んでいた。この空の下で何千回、何億回、いや、それ以上のたくさんの回数繰り返されてきたことに変わりはなく、“小田結衣”という生命がこの世界から消えたことは、世界規模からすれば何もないことと同じだった。空は何もなかったかのように、白い雲が青い空の上を流れ、人の心を包み込むような優しい風が吹く中、木々の葉がそっと揺れ、その下にはたくさんの人の笑顔が色とりどりの花のように並んでいた。
 
 

 

翔と話をしたいという気持ちを強く抱きながらも、虚血性心疾患の影響で、少し動いただけで心臓の鼓動が速くなることがあった。さらに、痛みが守の身体を襲うことで、徐々に一日の中での動作が大きな負担となっていった。また、虚血性心疾患を緩和するための薬物治療が始まると、薬の副作用で負担はさらに増した。その結果、生活のほとんどをベッドで過ごすことが多くなっていった。
“後悔したくない”と強く思いながらも、日を追うごとに身体の自由が徐々に奪われていった。胸の痛みが強くなり、守はベッドの上で天井を見つめながら“この先どうなるのだろうか”と考える時間が増えた。病気が進行するにつれて、母親の前でも胸の痛みを隠すことができず、苦しむ様子を見た母親は「大丈夫?」と声をかけることしかできなかった。
「用が済んだらさっさと帰れよ!」と守は心の中で思っても無いことを母親に言い放ち、「また何かあったらすぐ来るから、看護師さんとお医者さんに挨拶してから帰るね」と言い、滞在時間はわずか五分ほどで母親は病室を後にした。
“なんであんなに酷い言葉を言ってしまったのだろう”と申し訳なさと、自分の感情を素直に受け入れられない自分に対する憤りが心の中で大きく膨らんでいた。守は再びベッドで天井を見上げ、廊下から聞こえる看護師や患者のやりとりや、一定のリズムで鳴る音を耳にしながら、何度も身体に力を入れてベッドから起き上がろうとしたが、上手く力が入らず、身体が自由に動かなくなっていくのを感じた。
「本当に自分の身体なのか?」と思い、”十分でも五分でも良いから翔と話をしたい”と願う気持ちが強くなった。話をしないまま死んでいくことは、後悔ややりきれなさが残ると感じ、ますます翔と会いたいという気持ちが大きくなった。
食事も固形物を口から食べることが徐々に難しくなり、固形物半分と点滴半分の形で医者の指示の元、口からの食事をできる限り続け、守の健康状態が悪化しないように看護師が関わるようになった。少し前までは自分の力だけでできていたことが、今では他人の助けを借りなければならないことに対し、悔しさと無力感を感じていた。
半年前には、上司から頼まれた資料作りや会議の準備などをしていたことが、だいぶ昔のように感じられた。あの時の仕事に対する想いやモチベーションの低さを、もっと高く持って積極的に話しかけたり、仕事の後に飲みに行ったりすれば良かったと後悔しながらも、心の中には厚い雲が掛かったようなどんよりとした気持ちが広がっていた。
暗いことや嫌なことばかり考えても気分が落ち込むだけだと理解しながらも、そこから抜け出せず、どんどん深い暗い場所へと落ちていくようだった。鏡を見ると顔色が白く血が通っていないように見えた。守は自分の頬を二回叩き、“しっかりしろ!”と自分を奮い立たせ、翔と話すためにはどうすれば良いのかを考え、徐々に身体が動かせなくなっても頭の中で考えることはできると信じていた。
季節は移り変わり、部屋の窓から見える木の葉の色が緑からオレンジ色に変わり、葉が少しずつ落ちていった。“このまま死んでしまうのか”と守はぼんやり考え、翔に会って話したいという気持ちは以前に比べて小さく弱くなり、生きる目的がほぼ無くなっていった。心臓が動いて存在しているだけの生命体となり、感情が少しずつ消えていくのを感じていた。
週に一回、母親が守の所へ来て、使った洋服と洗濯したものを交換しながら「お母さんの声聞こえる?気をしっかり持つんだよ!」と守の動かない手を優しく包み込むように摩ったり、握ったりして声をかけ、ナースステーションにいる看護師に挨拶をして、守の元を後にした。母親の温かく少し肌荒れした手の感触を感じながら、守はこれまで母親に優しくしなかったことや、もっと「ありがとう」と伝えれば良かったと様々な想いで心がいっぱいになった。
悔しさや苛立ちを外に発散することもできず、ベッドの布団を叩いたり、消灯台の上の物を床や壁に投げたりしていた。今はその力すら出せず、分厚い雲のようなものが守の心を覆い、射していた光が徐々に薄れていき、闇が広がっていた。窓の外では、木の葉が雨で濡れ、葉に溜まった雨水が雫となって地面へと落ちていくのを見ていた。守は「あの雫も木の葉の上に留まる力があれば、落ちることもないのに」と思い、自分を木の葉から落ちる雫に置き換え、このままベッドの上で死を迎えるしかないと考えていた。
ある日、主治医から「虚血性心疾患に関してのこれからの守さんの身体についてお話があります」と重い表情で話があった。病気の進行により自分で呼吸することも難しくなっていたため、守は酸素マスクを着けており、声を出すことが難しかったが、顔を縦にゆっくりと動かして主治医に「理解した」と意思を伝えた。守は主治医から伝えられることを想像し、心の中で覚悟を固めていった。
彼の中には、怖さや悔しさといった感情は湧いてこないほど、虚血性心疾患で徐々に身体の自由を奪われる現状を受け入れ、諦めに近い感情が渦巻いていた。目の前にある“死”を受け入れる他は無いと考えていた。ベッドから車椅子へ移るのが難しい守は、別室へ移動することもなく、病院からの電話で駆けつけた母親が同席のもと、主治医から守の身体と虚血性心疾患の進行状況について説明を受けた。説明が進むにつれて、母親の表情は暗く重くなり、右手でハンカチを目元に当て涙を拭きながら、左手でベッドに横たわる守の手を優しく握った。母親の手が小刻みに震え、不安や恐怖、何よりも我が子を代わってあげたいという想いが、強く守に伝わっていた。
守が抱えている病気の進行や治療法、薬に関すること、そして“最期”に向けてどのように生活していくかを、母親を含め主治医や看護師とともに考え、悔いが残らないようにできる限り行い、“最期”が来た時には少しでも笑顔で旅立てるように考えていた。あまり好奇心が強くない守は、やり残したこととして海外旅行や美味しいものを食べることなど本以外には特に欲しいものはなかった。ただ、大好きな読書を時間が許す限り存分に楽しむことが、残された時間の中で成し遂げたいことであった。
残された時間がたくさんあれば、守は様々なことに触れ、関心や興味を持つ事も増え、多くの人との関わりを持つ可能性もあっただろう。しかし、今は自分で身体を動かすことができず、酸素マスクをつけて生きる状態だった。
看護師が点滴パックを交換しながら「綾瀬さん、だんだん陽が落ちるのが遅くなってきて、もう夏ですね」とつぶやいた。守は軽く頷きながら、来年の今頃にはまだこの世界に存在しているのかと考えた。厚くて灰色の雲が青空を覆うように、守の心には三度、不安と恐怖が襲いかかった。
毎晩、自然と目が覚め、生きることが無事に続けられるのかという重い思いが、日ごとに睡眠時間や質を短く変えていった。それが守の体力低下を招き、虚血性心疾患による痛みや症状を悪化させた。「もし夜、眠れないのであれば軽い睡眠剤を使ってみることも」と主治医に言われたが、これ以上薬で身体を傷つけたくないと伝えた。
主治医も母親も守の意志を理解していたが、日中の強い痛みに苦しみ、夜になっても以前のようにぐっすりと眠れず、守の身体には疲労と痛みが蓄積されていった。精神的にも大きな負荷がかかり、人と話すことが難しくなり、”死”に対する思いが増し、ただ天井を見つめながら一日が過ぎていくのを待つ日々だった。
看護師が一時間ごとにコップに入った水をストローで守が飲むのを手伝い、その他は点滴から水分や栄養が体に入っていた。最低限の健康は保たれ、少しだけ満腹感があったが、以前のようにコーヒーやチョコレート、大好きな酒を口にすることはなく、食に対する興味も低下していた。それでも“もっと味の濃いものを食べたい”という思いがあった。以前読んだ本に「生きることは、食べられること」とあったが、その意味や重さが今は理解できた。
食べたい物や飲みたい物を摂ることができない現実を目の当たりにし、虚血性心疾患によって見えた“生きる”上での大切なことを痛感した。点滴だけでは身体が痩せていき、それに比例して口数も少なくなり、看護師や主治医との挨拶も減り、一日中声を出さないことが増えた。心が生きているが、身体が死んでいるような状態で、母親が着替えを持って訪れても、返事をせず、瞼を閉じて天井を見つめることが多くなっていった。
母親は毎週、必ず新しい着替えと小さな花を持参し、主治医に守の病状を聞きに訪れていた。守は常に感謝の気持ちを持っていたが、酸素マスクをつけているため、声を出すことも手を挙げることも難しく、自分の思いや考えを表すことがほぼできなくなっていった。感情を表すのが不得意な守の性格を知る人には変化が感じられなかったが、守は感謝を伝えられないことに虚しさと怒りがこみ上げていた。
夜になると、看護師二人と医師一名が慌ただしく動き、不規則なリズムの音が鳴り響いた。それはまるで地球外生命体から身を守るように、病室のベッドの周りをカーテンで囲み、「バイタルが下がっていて酸素も落ちています!」「電気マッサージの準備を!!」などの声が廊下にまで聞こえた。さらに「誰か、ご家族の方に連絡して!急いで来てもらえるように伝えて!!」と呼びかけられ、廊下を走りながら女性の声が聞こえ、病棟は慌ただしい雰囲気に変わっていった。
カーテンで囲まれたベッドにはシャツのボタンが開かれ、胸には様々な医療機器がつながれている守が横たわっていた。看護師たちは必要な器具を持って病室を出入りし、嵐の中で動いているようだった。守は意識がはっきりしない中で“何か大変なことが起きている”と理解していたが、それが自分の身に起きているとは把握できず、また意識が薄れて眠るような感覚に包まれていた。
「今、先生が処置していますので、もうしばらくこちらでお待ちください。何か少しでも変化があったらお呼びします!」と、守の病室に入ろうとする母親を看護師が止め、背中をさすりながら廊下の椅子に案内し、優しい言葉をかけていた。母親は我が子に会えないもどかしさと胸の締め付けられるような切なさ、悔しい感情が溢れていた。
外では、ピストルの弾丸のような強さの雨粒が降り注ぎ、台風の強い風が病院の窓に大きな音を立てて吹き付けていた。窓から見える景色は別世界のように明るく光っていたが、守が寝ている病室では、台風が直撃したかのような忙しさが静寂に変わっていた。主治医や看護師たちは立ち尽くし、ベッドサイドでは母親が子供のように声を上げて泣いていた。その横では、命を繋ぐために必死に動いていた医療機器が、看護師の手によって守の身体から外されていた。
ベッドの上には、目を閉じて安らかながらもどこか悔いがあるような表情の守が横たわっていた。

 
 

 

入院生活が始まってからのほとんどはベッドの上にいたり、病院が用意した車椅子に座ったりして生活している時間が多く、体力が落ちてしまうため、少しずつ体力を付けていき、臓器提供の手術に備える必要があった。手術には最低でも約八時間以上かかるため、翔の筋力を取り戻すことが必要だった。
そのため、一日一回はベッドから降りて母親や看護師にサポートしてもらい、病室の中をゆっくり歩いたり、ベッドから両足を下ろして上下に動かしたりして、少しでも長い距離を自分の力で歩けるようにしていた。身の回りのことを人の手を借りずに、自力で行えるように翔は積極的に取り組んでいた。「もう一度友達とサッカーがしたい!」という気持ちは以前より大きく、そして熱いものへと変わり、毎日のトレーニングへの原動力となっていた。
身体を動かし、体力を少しずつ元に戻していくことと、学校に行けず入院生活を送っているため、勉強が遅れていることを自覚していた。これまで避けてきた勉強に積極的に取り組み、入院生活が始まってからずっと自宅に置いていた教科書で勉強をしていた。
勉強とトレーニングを始めてからは、夜になると眠気が襲ってきた。以前は不安と恐怖で眠れない日々が続いていたが、消灯時間の九時には目を瞑り、バランスの良い睡眠をとる生活サイクルが翔の中で習慣になっていた。看護師と交わされる会話も以前より増えていき、勉強していて分からない箇所を看護師に聞いたり、将来の夢であるサッカー選手にはどんなことが必要なのかを聞いたりしていた。
「えー、そんなこと勉強したかなー?」と笑いながらもわかる範囲で教えてくれ、自分に子供がいる看護師は「この問題を解くには、この計算方法を使った方が早く答えが出せるよ」と丁寧に仕事の合間を縫い、翔に勉強を教えてくれる人もいた。
入院してからずっと暗い表情ばかりだった我が子が、それまで大雨が降り続いていたのが燦々と光り輝く晴れに変わったかのように、徐々に明るく変わっていく様子を間近で見ている母親は、自分のことのように嬉しく感じていた。今までの日々で苦しい思いをさせたり、辛い思いをさせたりしたことや、それを代わることができず、母親が抱えているもどかしさや胸を締め付けられるような苦しさから解放されたように、ほんの少しだけ気持ちが楽に変わっていった。
中学生になり思春期に入ったということもあり、あまり母親と会話を交わす回数も減っていく中で、さらに臓器提供を受けなければ生きていけない状況が重なり、精神的ストレスが翔に大きく襲いかかり、少しのことで怒りの矛先が母親へと向けられることがあった。翔が抱えている自分の身体に対する怒りや、やり場のない苛立ち、不安を母親に向けても、それを一切否定せず、翔からのシグナルを受け取らず、孤独にさせてしまうことは、母親としての責任を果たせず、今まで愛情を注いで育ててきた中で得たものが一度に崩れていく感覚だった。
母親は、友達や先生など、初めて会った人には必ず挨拶をすることと、感謝の言葉は絶対に言葉で伝えることだけは、何度も翔に言い聞かせていた。その他のことに関しては強く注意せず、翔が「やりたいことをやらせる」環境を作るよう心掛けていた。彼の中にある「自立心」を早い段階で伸ばし、翔が社会で生きていくときに困らないように教育として伝えておきたいという想いが強くあった。
小学校卒業を、あと半年後に控えた二学期の終わりのある日、いつものように学校のチャイムが鳴って机の横に掛かっているランドセルを手にし、「かける~、今日もお前の家でゲームしに行っていい?」と声がし、ランドセルを片方の肩に背負い、「わかった!三十分後に!」と返事をしたときに、急に目眩が翔を襲い、意識を失ってしまった。
自宅で洗濯物を干していた母親の元へ学校から電話が鳴った。洗濯物を途中で投げ出し、車に乗り学校から教えてもらった病院へと車を走らせた。急いで翔が運ばれた病院へ駆けつけたときのことを思い出していると、臓器提供者が見つかり、今まで心から望んでいたことが身近になったことで、あの日に絶望から希望へと変わった時からすれば、今は希望の光が翔を照らしていることが母親はとても嬉しかった。
ベッドの上で、移動式の机の上に学校の教科書とノートを広げて勉強をしている翔の姿を目の当たりにした母親の目から涙が落ちていた。それは悲しさの涙ではなく、これまで翔なりに頑張って様々な痛みや、それを和らげるための薬の副作用など、いろいろな症状を乗り越えてきたことへの嬉しさが表れていた。
「どうしたの?」とハンカチで涙を拭く母親へ翔が尋ねると、「う、うん。なんでもない」と声を絞り出すように母親が答えると、翔はまた目の前の教科書と向き合い続けた。時間を無駄にしたくないかのように翔は勉強を再開し始めたので、母親はその様子から「少し下の階の売店に行ってから、お腹が空いたからお昼ご飯を食べて来るね」と勉強に夢中になっている翔に気を使い、病室を後にした。
そんな母親の優しさを翔は感じ取り、それを邪険にせず無駄にしたくないという想いと優しさも揺れ動いた。同時に、母親への感謝の気持ちが強く大きくなっていた。この想いを、絶対に母親や今まで関わって支えてくれた人たちに対し、時間がかかったとしても、自分が果たすことだと考えていた。それは、夢でもあるプロサッカー選手になって「世界でプレーをして自分と同じように臓器提供を必要としている人や、病気を抱えて生活している人が少しでも夢に向かって明るい気持ちで生活していけるきっかけ」として表していくこと。さらに、臓器提供を待っている人の気持ちを一人でも多くの人に知ってもらうことで、助かる命が今よりも増えていき、そこで悩み考えている人や支えている家族や医者などの存在を伝えていきたいと翔は考えていた。
身体が今よりもっと自由に動くようになったら、サッカーの練習や多くの人を助けるために必要なことについて勉強する時間と力を注いで、そういった夢が具体的になっていくと翔は考えていた。毎朝、起床
時間の六時半になると眠気と戦いながらも目を覚まし、以前は全く食べなかった朝食を、今では少しでも口へ運び、完食をせずとも、ヨーグルトや果物などはなるべく食べるようにしていた。朝食の後は自分で考えて作り上げたカリキュラムをこなすため、ほとんどの時間を教科書やノートと向き合っていた。
ずっとベッドの上での生活を送っている中で翔の体力は落ち、どんなに長くても勉強に費やせる時間は二時間くらいが限界だった。また、そのことに対してもっと勉強に取り組みたいと強い想いがある翔にとっては、自分の身体なのに思い通りにならないことに対する悔しさや憎さ、怒りやもどかしさなどの様々な思いに抗っても、それらは無力であることを理解していた。臓器提供を受けて健康な身体を取り戻しても、小学六年からずっとベッドの上での生活をしてきた翔は、同年代の子たちが経験したことや、いろいろな出来事を通ってこなかった。
無事に退院し、友達と同じ時間を過ごせるようになっても、友達と楽しい時間を過ごすことや大好きなサッカーを思う存分プレーできるのかと不安があった。そんな翔の気持ちを、一ミリたりともこの世界は気に掛けることはなかった。翔以外の生きている人に等しく時間は刻々と進み、それはどこかまるで差別をしているかのように感じられた。誰かにとっては、心をピストルの弾で撃ち抜かれたかのように痛さを超えて脱力感があった。
新しい臓器を翔の身体に入れる手術の日程はまだ決まっておらず、半年後になるか、または一年後になるのかと状況だった。主治医からは「おそらく長時間の手術になると思いますので、翔さんの身体に負担がかからないように、こちらも努力しますが、少しずつ体力を付けておいてください」と言われ、それまではベッドの上からずっと窓から見える外の景色を眺めたり、自分の状況に対して悲観的になったりして、ただ時間が過ぎていくのに身を任せていた。しかし、臓器提供が決まるかもしれないという話が翔の耳に入ってからは、人が変わったように、自分ができることや将来の夢を叶えるためにどういったことが必要なのかと考え方がポジティブに変化していった。
勉強と身体のトレーニングに全ての力を注いでいくことが、翔にとってとても充実していた。これまで全く触れてこなかった知識や物事が全て新鮮で、それと向き合っている時間がとても楽しく、成長していることを実感していた。勉強していて分からない箇所があれば調べ、すごく当たり前なことでも入院生活の中で経験する場面がほとんどなかった。自分からもそのような機会を積極的に作ることがなかったため、勉強していて頭に入ってくること全てに対し興味と魅力を感じていた。
さらにトレーニングをしていると、初めは少し身体を動かしただけで大量の汗が流れ、今まで感じたことのない疲労感で夕飯を食べ終えると、まるで死んだかのようにぐっすりと眠ってしまった。学校に行っていれば授業や部活を通して得られる経験が、入院生活が長く続く中でほとんど刺激のない状況が続いていた。ほんの少しのことでも、翔にとっては非常に楽しく、過ごしてきた一日が全く違った日を経験しているかのように感じられた。
まだ十四歳で、身体的にも精神的にも大人ではない翔にとって、同世代の人が経験することや感じることを積み重ねる約三年間は、きっとこれからの人生において大きな財産となり、人の痛みや苦しみを理解できる人間へと成長させてくれるに違いなかった。翔は、毎日友達とサッカーボールを追いかけることで、人の痛みや喜び、してはいけないことなどを自然と感じ取ることができ、読書やドキュメンタリー番組を見ることよりも遥かに多くを吸収していた。
何よりも、一つひとつの経験が彼の中では大きな財産になっていた。
小学三年のある日、翔は最も仲の良い友達三人といつものように家から近くの公園でサッカーをしていた。友達が蹴ったボールが空高く舞い上がり、翔はボールを追うことができず、その間に地面へ落ちてくるボールを別の友達が落下地点で待ち構えていたが、ボールがその友達の頭に直撃し、バタリとその場に倒れてしまった。翔を含めた他の二人が急いで駆け寄り「大丈夫?」と声を掛けたが、地面に倒れた友達からは返事がなかった。
翔たちは、何をして良いのか分からなくなり、大人を連れてくるべきだと思い始め「誰か呼んでくる!」と翔の横にいた友達がその場を離れ、近くにいる大人を探しに走った。大人を呼びに行ってから十五分ほど経過し、友達が「こっちだよ!」と声をかけ、その後には四十代くらいの男性が早歩きで翔たちの元に駆け寄ってきた。男性は地面に横たわる友達の様子を見てすぐにスマホで電話をかけ、状況を説明した後、サッカーをしていた公園の名前を伝えた。
その後、救急車が到着し、公園の入り口に停まって担架を運び、翔たちの元に来て、すぐに地面に横たわっている友達を担架に寝かせて救急車の中に運んだ。救急隊の一人が倒れた時の状況を翔たちに優しく尋ね、翔たちがしっかりと答えられないほど泣いているのを見て、背中を優しくさすりながら「ゆっくりで良いから、君たちのことを絶対怒ったりしないから教えてくれる?」と、翔たちと同じ目線で話してくれた。その瞬間、翔は親以外の大人に対して、とても温かいものを感じ、救急隊の姿が非常に輝いて見えた。子供ながらに、いつかは優しくて輝いて見える大人になりたいと強く思った。
今はベッドの上で勉強やトレーニングを行い、手術が無事に終わった後に友達と遊び、学ぶために辛い時は楽しいことを思い出していた。これから待っているはずの輝かしい日々を再び楽しむために、目の前のことにひたすら取り組んでいた。
翔はふと、病室の窓に視線を向けると、入院してから部屋の窓から見える空は、雨が降ったり燦々と光が差し込んだりしていた。翔が気にしなくても、この世界はさまざまなものへと移り変わっていることに気づかなかった。そんな時でさえも、空はさまざまな模様へと変化していた。そしてその下には翔よりも生きることに対し絶望や不安を抱えている人や、大金を持ち高級な食材を毎日のように食べている人が存在する世界があった。
この日の夜空は星が輝き、翔の胸の中にある希望を表しているかのようだった。手術が成功すれば、また友達と勉強やサッカーができる生活が確実になるが、手術を受けたからといってすぐに病院へ通わずに済むわけではなかった。術後の経過観察や、翔の身体に異常があった場合には、すぐに病院に再入院することが手術を受ける上での条件だった。身体に変化が見られた場合は、すぐに入院することに対し翔は素直に理解し、もうこれ以上母親に迷惑をかけたくないという思いと、早く友達と時間を一緒に過ごしたいという強い思いがあった。
そういえば、以前は毎日のように様子を見に来ていた少しおせっかいな看護師、ユイさんの姿を最近全く見かけなくなったことに翔は気づいた。その日の夕飯を翔の元へ持ってきた看護師に「あのぉ、ユイさんという看護師さんがいたと思うのですが…」と小さな声で尋ねた。「あぁ、ずっと働いていたみたいだから、今は休んでいるみたいだよ」と答えたが、その言葉にはどこか真実味を感じられなかった。それ以上のことを聞くのが少し怖くなり、目の前に置かれた夕食に手をつけ始めた。
夕食を食べながら、翔はどこか胸の奥でざわざわとした違和感を抱いていた。それは家族や友達に対する心配とは違ったもので、何であるか自分でも説明できないほどのものが心を占めていた。口の中の味を感じることなく、頭の中はユイさんが何をしているのか、最近姿を見なくなったのはなぜかと考えていた。徐々に心配が不安に似たものへと変わっていった。
翔はあの時、フォークを自分の喉に向けて刺そうとしていたのを、自分の家族のように止めてくれたユイさんの優しさが他の看護師とは違っていたことを思い出していた。なぜ自分と向き合ってくれたのか、毎日のように翔の部屋に来て優しく話しかけてくれた姿は、看護師の仕事としてではなく、ユイさんが幼い頃に経験したことを翔に少し話してくれたことを思い出していた。きっとあの時、“患者としてではなく一人の人として向き合ってくれていた”のだと、他の看護師と接する中で徐々に理解していった。
翔は、夕食を終えて就寝時間になるまでの間で少しでも勉強をしようと思い、消灯台に置いた教科書とノートをテーブルの上に置き、眠気が襲ってくる中でも手術を終えて学校へ戻った時に友達と同じことを勉強するためにできることに取り組んでいた。翔はテーブルの上に置かれた教科書とノートの上に両手を置いたまま、気づくとそのまま寝てしまっていた。
翌日、カーテンの隙間から入る太陽の光が翔の顔に当たり、その眩しさで目が覚め、せっかく勉強していたのに寝てしまったことに気づいた。もう少し勉強したかったと思いながら、自分を少し責め、看護師が持ってきた朝食を少しずつ食べ始めた。「勉強するのはいいことだけど、夜は決まった時間に寝て、昼間に勉強した方が学校に行くことを考えたら、その方がいいと思うよ」と、翔のベッドサイドでカルテに記入していた看護師が翔に言葉を掛け、部屋から去っていった。
そんなことは翔も分かっていたが、手術が成功して早く学校へ行き、みんなと勉強したり、今まで経験できなかったことに触れたいという思いが強かった。勉強に時間を割くことで身体に大きな負担をかけ、手術を受けられない身体のコンディションになってしまっては、せっかくの良い状況や環境を無駄にしてしまう。そうなることで、明るく楽しい未来を迎えることや、手術の成功を願っている母親を悲しませることは絶対にしてはいけないと考えていた。
手術の日程は、提供される臓器が翔の元にいつ届くか、届いた後に翔の身体に使えるかをチェックする必要があった。主治医からは「はっきりとした日程をお伝えすることはできません。さらに、もし提供された臓器が翔さんの身体と合わなかった場合も考えておいてください」と翔と母親に告げられていた。せっかく提供された臓器があったとしても、翔の身体と合わなかった場合は、また別の臓器が提供されるのを待つことになる。その可能性がある以上、入院生活が延びることも十分に考えられた。
それを考えると、翔は非常に大きな恐怖と不安に襲われたが、主治医からはその可能性は低いと告げられていた。翔はできるだけマイナスに考えず、手術が成功することだけを考えるようにしていた。
入院してから四度目の夏が始まろうとしていた。病院内は少しずつ冷房が効き始め、窓から見える太陽が顔を出している時間が徐々に長くなっていった。優しい光が日に日に強くなり、朝と夕方の短い時間で部屋の窓を開け、そこから入ってくる風が心地よく、少し生暖かいものへと変わっていき、季節が移り変わっていくのを翔は感じていた。この狭い空間でも、外の世界は大きく動き、目まぐるしい速度でさまざまな物事や人の生活が移り変わっていることを、窓の外の景色を見ながら考えていた。

 
 

 
ジリジリと蝉が鳴く声と共に、窓の半分を占めるクリーム色のレース越しに、強くギラギラと病室の床を照らしている夏の太陽が翔の元にも射している中、いつものように机の上に教科書とノートを並べ、周りの音が聞こえないように耳栓をして勉強に集中している翔の姿があった。
翔の母親が臓器提供の可能性が高いことを学校に連絡したことで、翔の担任の先生がこの三ヶ月の間に何度か病室を訪れるようになった。先生からは、同級生が学校で行っている授業の話や、翔が取り組んでいる勉強の様子を聞いていた。
一日でも早く退院し、学校や自宅で友達と遊び、勉強する時間を共に過ごしたいという思いが、翔の中で強いものへと大きくなった。翔の体調は、手術の可能性が高くなってから以前よりも悪化せず、安定して生活できていた。母親を含めた周囲の人たちにとって、それだけでも嬉しいことであり、あとは提供される臓器が翔の身体に合うかどうかを、主治医や数人の医師が詳細に調べ、様々なシミュレーションが何度も行われていた。その結果は、必ず翔と母親にも共有され、不測の事態に備えたケースもいくつかのパターンに分けて説明された。
病院に運ばれた時と比較すれば、現在の方が明るい光に照らされ、手術のリスクについて考えることが以前よりも少なくなっていた。入院してから三年間ほど、翔の身体に関することや生活の中で経験した様々なことを共に乗り越えてきたことから、翔は主治医に対して信頼と信用を持っていた。
その後、数日間にわたってCTスキャンやMRIなどの検査が行われ、翔が必要とする臓器やその周辺に異常がないかを調べた。臓器がいつ翔の元に届くのかを主治医や病院側が調整し始め、いよいよ約三年間の入院生活で諦めかけたこともあった。日本ではドナー登録の割合が少なく、臓器提供に対する関心が他国よりも低いため、臓器提供者が見つからずに亡くなる患者が多い現状があった。これを踏まえると、翔が置かれている状況は本当に奇跡的だった。
臓器提供者がどこに住んでいるのか、どんな人なのかを知ることはできないが、翔はできることなら臓器提供者の家族に会って、感謝の言葉と元気な姿を見せたいと望んでいた。
手術に備え、翔ができることは、一日三食の食事をしっかり食べ、筋力を取り戻すためにリハビリを兼ねたトレーニングを行うことだった。始めたばかりの頃よりも体力が戻り、筋力が増えていったことに喜びを感じたが、トレーニング内容は非常に地味だった。ライバルのように競い合う人がいれば、翔ももっと高い意識を持ってリハビリやトレーニングに取り組めるが、誰からも褒められることがなく、徐々にモチベーションが落ちていった。それでも、毎日欠かさず運動をすることで食欲が湧き、以前は朝食を食べず、昼と夜も全体の四割程度しか食べなかったが、トレーニングを始めてからは、朝を除き昼と夜も全部食べ切るようになった。
机が縦に向かい合わせに並び、椅子が二脚ずつ机の横に置かれ、白い壁にはホワイトボードがある部屋に、翔の主治医と看護師が並んでいた。その迎えには翔の母親が座り、非常に深刻な雰囲気の中で話が進められていた。机の上には、これまでの翔の身体に関することや、これから行われる手術に関する様々な情報が書かれていた。その中には、“今回の手術に関する医療的情報や術後の経過についてのすべてを当病院および執刀医や主治医に預けること”と書かれた項目もあった。
翔には知らせていないことだが、今回の手術は日本国内の医療業界からも注目されていた。中学二年という年齢で臓器を二つ取り出し、臓器提供者からの新たな臓器と交換することは、これまで国内で行われてきた臓器提供手術の歴史の中で初の試みだった。手術が成功するかどうかはもちろんのこと、術後の経過に関する注目度も現時点で高かった。翔にこのことを伝えると精神的負担がかかるのではないかと考え、また万が一の事態を考慮して伝えない方が良いという判断が、主治医と翔の母親の間でなされていた。そのため、翔には一切その情報が伝わらないように、母親を含め病院側がしっかりと対応していた。
自分が受ける手術が全国から注目されていることを翔は全く知らず、毎日のように勉強やトレーニングに取り組んでいた。ただ、手術の日程がはっきり決まらないことが大きな精神的負荷となり、主治医に聞く勇気も出ず、不安やイライラをどう解消したら良いのか分からず、誰にも相談できずにいた。
ふと結衣の姿が翔の頭に浮かび、以前であれば結衣が「最近、元気がなさそうだけど大丈夫?」「私でよかったら話くらいなら聞けるよ」と他の看護師とは違う形で優しさや気遣いを見せてくれたことを思い出していた。母親には話せないことも、なぜか結衣には話せる雰囲気を翔は感じていた。しかし、結衣の姿を見ることはこの半年の間で一度もなく、他の看護師に尋ねてもはっきりとした返事が返ってこなかった。結衣が何らかの理由で仕事を辞めたのか、他の病院へ移ったのかと翔は考えていたが、結衣がこの世にもう存在しないことを知る由もなかった。
また、翔が気にかけている人が結衣以外にも一人いた。その人は、結衣よりも話した回数は少なく、どういった人なのか知ることもなく、翔の前に現れることは二度と無かった。「他の患者さんの情報を教えることはできません」と返答されたため、翔はその人物の名前や現在の状況、なぜこの病院で入院することになったのかなどを知る術がなかった。それでも、その存在が翔の心に残り続けていた。
半年前であれば、夕方六時には既に外の光が落ち、病室から見える駐車場の街灯の灯りが点き始めていた。太陽が出ている間は外がまだ明るく、窓の近くでは少し暑く、夏の姿が感じられていた。
翔の手術に使う臓器は二つで、それぞれ異なるドナーから提供された。母親は翔に「どこの誰かは分からないけど、あなたの中には二人の大切な気持ちがこれから支えてくれると思いながら、翔らしく生きていければ、きっとドナーの二人も喜んでくれるはずだよ」と言った。少し沈黙があってから、翔は「うん。無事に退院してからサッカーをたくさん練習して、ヨーロッパでプレーして世界で一番の選手になれるように努力するよ」とベッドの上から窓の外の景色に目を向けた。
これまで見たことがない表情に、翔の顔は窓から入る太陽の光に照らされ、どこか輝いているように母親の目には映っていた。入院生活が始まってから、こんなにも希望に満ちた輝きを放っている目をしている翔を見るのは初めてだった。母親にとっては、我が子のことであることを抜きにし、心の底から喜びが溢れていた。
手術に向けて、医師や執刀医の間で共有された情報や方法、そしてそれによる翔の身体へのリスクや負担についての説明が事細かに行われた。翔や母親にも主治医から直接説明があり、手術に対する疑問や心配事には丁寧に対応された。
手術に対する不安や恐怖は、翔よりも母親の方が大きかった。手術を受ける翔はどこかで決心し、「動じない心」を胸の奥に持っていた。「何か聞きたいことはある?」と主治医から聞かれても、「いや、特に大丈夫です。先生たちに全て任せます」と主治医が驚くほどの余裕を見せていたが、本当はそれしかできないと言った方が翔の気持ちを表すかもしれない。大きな手術を受ける人が「特に大丈夫です」と答えるのは普通では考えられず、「もし失敗したら?」「成功する確率は?」と慌てふためき、感情的に問い詰めるケースの方が多い。
翔は周りの人を心配させたくない、何より母親にこれ以上の不安や恐怖を味合わせたくないと考えていた。自分がある程度の我慢をして手術に臨むべきだという考えを持ち、手術以外の方法はないのだから、主治医や母親を困らせるのは無意味だと達観した考えを持っていた。非常に不安で怖く、できることなら手術を受けたくない気持ちもあった。しかし、手術が失敗することを考えるよりも、この約三年間ずっとドナーの到来を待ち望んでいた母親や主治医の気持ちを裏切るわけにはいかないという気持ちが翔の中に強くあった。
日を追うごとに、臓器移植手術に向けた準備が着々と進められた。夏の空に晴れ晴れとした太陽が輝き、どこか少し寂しさを感じる紅葉の葉が、翔の部屋の窓から徐々に多く見え始めた。窓から入ってくる風も、朝晩になると冷たくなり、病院食もたけのこや椎茸など秋の食材に変わっていった。
ドナーから提供された臓器の手術は、一日一回行うことができれば良い方で、日本全国で臓器移植手術のスキルを持つ医師の数はかなり少ない。翔が入院している病院は、その中でも最先端の医療技術を持った医師が多い。しかし、それ以上に全国から臓器提供手術を望む患者の割合が、医師の数より遥かに上回っていた。
翔のようにドナーが現れても、すぐに手術に繋がるケースは少なく、順番待ちで手術まで半年後や一年後ということも稀ではない。翔に手術日が伝えられると、今までとは違った緊張感や不安が襲ってきた。毎日行っているトレーニングや勉強に対する集中力が落ち、それまでの生活リズムが崩れ、日に日に以前のようにベッドの上で何もせず過ごす時間が増えていった。
現在の医療技術や翔が入院している病院の医療技術であれば、今回の臓器移植手術が失敗する可能性よりも成功する可能性の方が遥かに高い。しかし、心のどこかで不安と恐怖があり、それらが消えることは手術を終えるまではないと考えていた。身体は正直で、手術のことを考えると胸の鼓動が夏祭りの太鼓のように速くなった。
スーッと鼻から勢いよく息を吸い込み、フーッと口からゆっくり息を吐いた。病室の窓から、優しい風と共に病院内の草の匂いを感じ、身体中を巡って外へと出ていった。
「もう少しで晩ごはんですから、ちょっと待っていてくださいね」と血圧を測る機械や点滴のパックを載せた銀色の台車を押しながら、翔の個室の扉の向こう側から看護師の声が聞こえ、その声が消えるとすぐに足音へと変わった。窓からは、たくさんの雲と生い茂った葉の間から青い空が見え隠れしていた。
 
 

 
テーブルの上には、ノートと教科書が開かれていた。普段なら昼晩の食事を残さずに全て食べる翔だったが、今日はスプーンを口に運ぶ速度もゆっくりで、あまり味わうことなくどこか上の空だった。全体の半分を終えた後、翔はスプーンをトレイの上に置き、横になって再び天井を見つめていた。
ガラガラっと音がして、翔がいる病室の扉が開いた。外から主治医とカルテを持った看護師が入ってきて、「あともう少しで手術する日が決まるので、それまでの間に今まで通りトレーニングをして食事を摂って体力をつけておいてください」と翔に向かって主治医が言った。
「先生、もし万が一手術が失敗したり、成功した後にまた入院生活に戻ることはないんですか?」と強い口調で翔が尋ねると、「失敗しないように向けて、私や手術を行う執刀医を含めた全スタッフでいろいろなシミュレーションを重ねているので、失敗する確率はかなり低いもので“ほぼほぼ無いもの”だと考えてもらって結構です」と続けて、「術後のことに関しては、すぐに退院してもらえるわけではなく、経過観察をしたいので最低三ヶ月は入院生活が続きます」と主治医がゆっくりと翔に説明をした。
説明を受けて、翔は静かに頷き、強く手を握り締めて冷静を保とうとしていた。その表情はいつもと比べて強張り、何かに対して怯えているような様子を主治医や看護師は感じ取った。「何か不安なことや些細なことでも構わないので、話がある場合は遠慮せず、私か看護師に言ってください」と主治医が言うと、それに対して返事をすることなく、翔はただ黙ってゆっくりと頷いた。
主治医と看護師が翔の部屋から出て行き、翔は再び一人になってベッドの上で、手術やその後の姿を想像しながらぼんやりと過ごした。どうなるのかが分からず、少し前の前向きでポジティブな気持ちではなくなり、その真逆のネガティブで後ろ向きな思考が、台風の風のように頭の中をぐるぐると回っていた。
翔は、自分の額を手のひらで何度も叩き、自分が生きていることを確かめようとしていた。壁の時計を見ると既に五時を過ぎていた。部屋の窓からは徐々に明るさが消え、空が暗くなっていくのを翔は眺め、「これからの自分の将来も同じように暗いものになっていくのか」と考えていた。
手術が確実に行える現実とは裏腹に、そこに対する恐怖がますます大きくなっていた。それでも時間は止まらず、手術に向けて着実に迫っていった。日が過ぎるごとに翔の不安と恐怖は大きくなっていったが、その思いを母親や主治医に自分の口から伝えることはしなかった。なんとか抑え込み、周りには心の内が分からないようにしていたが、毎日朝晩に看護師が翔の体調に変化がないか確認していた。日を追うごとに、翔が何かに対してすごく怖がり、恐怖に感じている表情を看護師は読み取っていた。
臓器提供手術に向けて、翔の身体に変化がないかを細かく検査した。特に異常が見られなければ、二週間後の木曜日に手術を行うことが、主治医と執刀医を含めたスタッフの間で決められ、翔と母親にも伝えられた。母親はこれ以上ないくらい喜び、何度も主治医や看護師に対して「ありがとうございます」と繰り返し頭を下げていた。その横で、不安と恐怖が日々大きくなっていた翔は、素直に喜ぶこともなく「わかりました」とだけ小さく呟き、身体の前でゆっくりと両手を開いたり閉じたり繰り返していた。
繰り返し頭を下げている母親の姿を見ながら、自分の気持ちを言葉にしたい気持ちを、翔が寝ているベッドの周りにいる主治医や母親に分からないようにし、自分の太ももを強く叩いた。病室から主治医と看護師が去っていき、翔と母親だけが残された。「きっと無事に成功して学校に行けるようになるから、お母さんもできることは全て手伝うから」と翔の肩に手を当て、片手でハンカチで涙を拭きながら母親が翔に声をかけたが、黙ったまま静かに翔は頷き、「もう、うちに帰っていいよ」と母親に言うと、布団を頭までしっかりとかぶった。
ガラガラと扉の方から音がした。部屋は一気に静かになり、頭まで被っていた布団を少しずつ下ろし、ベッドサイドを見た。先程まで座っていた母親の姿はそこにはなく、病室には翔だけが残っていた。時計の針からカチカチと大きく音が聞こえ、翔は消灯台に置かれている小さなカレンダーを見て、手術までの日数を数えながら、どう抗っても逆らえない時間が進んでいく中で、自分の力がどれだけ小さくても待ちに待った手術なのに心から喜ぶことができずにいた。
諦めだとか苛立ちだとか、手術に対してどうでもいいなど様々な感情が、台風が上陸して街や森に被害を与えているかのように、ものすごい速度で流れていき翔の心をかき乱していた。その日の夕飯には、一切手をつけることなく、「少しくらい食べないと体力がつかないですよ」と看護師から言われたが、「今日は食欲がないので要りません」と小さな声で呟いた。何か少しでも食べ物を胃の中に入れてから薬を飲む方が正しいことは、翔も十分理解していた。手術のことを考えると食欲が全く湧かず、薬だけは飲まなければならず、仕方なく何も食べずに薬だけを飲み干した。
布団の中に入り込むと、再び恐怖と不安が翔の心を襲っていた。昼間、主治医が翔のところに来て「失敗する確率はかなり低いもので“ほぼほぼ無いもの”」だと言っていたことを思い出していた。“ほぼほぼ”が、一体どれくらいの確率でそれが高いものなのか低いものなのかが、翔には分からず、仮に手術が失敗した際のことよりも翔が気にかけていたのは、成功した後に今の入院生活がどれほど続くのか、以前のように学校に毎日通うことができる日はどれくらい先になるのかだった。手術が成功したからといってすぐに退院できるわけではなく、何ヶ月間かの経過観察が、自宅から定期的に通院して行うのか、それともベッドの上での生活の中で行われるのか、主治医から一切説明がなく、翔には分からず不安と恐怖がその根本の一部となっていた。
翔は、ベッドの上でそのまま夢の中に入り込んでいた。そこでは不安や恐怖から解放され、日常生活とはかけ離れた世界で同級生と学校へ通い、勉強や遊びを楽しむことができていた。翔は夢だと頭のどこかで理解しつつも、この夢が覚めないでほしいと心から願っていた。目が覚めたら、いつも通りの生活に戻ってしまうことへの恐怖が心のどこかにあった。
目が覚めると、翔の目から涙がポタリとベッドのシーツに落ちていた。翔は、自分の服で濡れた箇所を軽く拭き取った。看護師や他の人に対して、手術における恐怖や不安を察知させないように、母親には心配をかけないようにしていた。自分に対して強くあることで、少しでも不安や恐怖に打ち勝てるのではと翔は考えていた。
主治医は毎日のように翔の元へ訪れ、身体に変化がないかや不安なことが出ていないかと、五分程度の会話を交わしていた。翔は、本当に心で思っていることを主治医に伝えられず、「大丈夫です」と言って、なるべく一人で過ごしたいと思い、会話を短くしようとしていた。
この日も、五分程度で終わると翔は考えていたが、「二週間後の金曜日に手術を行うことが決まりました」と主治医が告げた。それを聞いた翔は他人事のように「はい」と返事をし、その後に頭の中でもう一度主治医の言葉を繰り返した。手術がいつになるのか分からない中で、二週間という明確な日数を目の当たりにし、本当に自分のことなのかと疑う気持ちが嬉しさよりも上回っていた。
手術の日程が決まったという知らせは母親にも届いていた。看護師が電話で伝えると、電話越しに啜り泣きと共に「ありがとうございます」と何度も繰り返す母親の声が聞こえた。翔と同じく、この約三年間、全国からドナーが見つかるのか、翔の身体に合う臓器が手元に来るのかと、蜘蛛の糸を掴むように毎日待つ日々が続いていた中で、ようやく嬉しさと少しの安心が、雲の隙間から光が差し込んで暗闇から明るくなっていき、翔の母親の心は少しずつ晴れ渡っていった。
病院からの電話が終わると、身体の力が一気に抜けて母親はその場に座り込んで大粒の涙が溢れ出た。諦めずにドナーが現れることを含め、様々な出来事を翔の力を信じて支えて乗り越えてきたことが頭の中を駆け巡っていた。何よりも、翔が途中で諦めずに自分が置かれている状況と向き合ってきたことに対し、我が子ながら誇りに思うと同時に、一人の人として心から尊敬していた。
翔の元にも、看護師経由で手術の日程が決まったことが母親にも伝えられた。これを聞いた翔は、少しほっとし、「ちょっとだけ母親に対して良いことができたのではないか」と思えた。まだどこかで母親が心配して不安な気持ちでいると思うと、手術が成功して一日でも早く退院し、自宅での生活に戻ることが最大の親孝行であると考えていた。
手術の日が決まってからは、毎日が過ぎていくのが楽しくてたまらないのだろうと想像していたが、現実には多少の嬉しさと喜びはあるものの、「自分のことではない」ような思いが心の中で徐々に大きくなっていった。手術を受けて以前のように学校へ行き、友達と勉強や遊びを共にしたいと思う一方で、もし仮に主治医が言っていた「ほぼほぼ」に入らなかった場合、自分の身体が今よりも悪化する可能性を考えると、両手を上げて心から喜ぶことができなかった。
もしこの世界にまだ結衣が生きていて、毎日のように翔の元へ訪れていたら、一人で悩みを抱えずに、いろいろな話を聞いてもらうことで気持ちが楽になり、「そんなに悩まなくてもきっと手術は成功して、また学校で友達と勉強や遊べるようになるよ」と満面の笑顔で翔の肩をポンっと軽く叩き、声をかけていたに違いない。だが、いくら強く翔が願っても、結衣はもうこの世界にはいないことを翔はまだ知らない。
手術の日程が決まってから、翔の元へ母親が毎日訪れていた。以前よりも「何かしてほしいことがあったら何でも言って」「一応学校の先生にも手術が決まったことを伝えておいたから」と喜びが母親の姿から、星の形のように翔の目に映って見え、母親の表情が明るくなっていた。「特にないよ」「そんな、何回か会ったことがない人に伝える必要はないよ」と言葉では冷たく表現していたが、母親が笑顔で話してくれることが、この三年間の間で翔にとってとても嬉しかった。
そんな会話を交わしていると、ガラガラと扉が開く音がして、主治医と看護師が翔と母親のもとへやって来た。主治医が少し嬉しそうに「お母様にもお伝えしたいことがあるので、ちょうどお二人がいらっしゃって、こちらとしてはタイミングが良かったです」と言った。それまで丸椅子に座っていた母親は、主治医が部屋に入ってきてから立ち上がり、「どうぞ、座ってもらって構いません」と母親に椅子を勧めた。母親は一礼して丸椅子に座り、翔に背を向けて主治医と看護師の方に身体を向けた。
翔も少しだけ体勢を変えてベッドの上で話を聞くつもりでいた。「もし負担でなければ車椅子に移りますか?」と看護師に聞かれ、「あ、はい」と返事をすると、看護師が廊下に置いてあった車椅子を翔が寝ているベッドの横に持ってきて、翔は自力で車椅子に座った。「自力で動けるのは、手術において体力があることにつながるので、毎日のトレーニングの効果が出ていますね」と優しくニコリとした主治医の顔が、翔には何故だかとても嬉しく、眩しく感じた。
「手術に向けての説明を改めて」と主治医が翔と母親に説明を始めた。母親が「この場合はどういった方法をとりますか?」「息子の身体に負担が掛かると思うのですが、最大何時間まで耐えることができると想定されていますか?」などと翔の身体を心配する気持ちを表し、翔が自分で聞かないことを理解していたので、代わりに事細かく主治医に質問を投げかけていることを翔も感じ取っていた。
主治医は翔の母親からの問いに対して、一つずつ丁寧に説明を何度も繰り返した。翔と母親が納得するまで、紙にイラストを描いて分かりやすく伝わる工夫をしたり、看護師に頼んで説明に必要なことが書いてある参考文献を持ってきてもらったりして、全ての力と知識を活用して一ミリでも不安を取り除こうと努力していた。
説明を始めてから一時間半くらいが経過し、「他に分からないことや不安なことがあれば、いつでも聞いてください。できる限り短時間でも、翔さんからお話を聞かせてもらうように私も努力します」と最後に主治医が言い残し、翔と母親に一礼をすると部屋を去っていった。翔も「ありがとうございます」といつもより大きな声でしっかりと主治医の方を向いて伝えた。
翔の心には何かはっきりとしない、とても大きく心を包み込んで暗闇に変えてしまうものがあった。主治医と母親との時間で、どこか遠くに消え去ったかのように、それまであった不安や恐怖が今の時点ではすっかりと無くなっていた。車椅子からベッドに戻り、布団を横に座っている母親の姿に窓から入る太陽の優しい光が当たっていた。何よりもその光景が翔にとって嬉しく感じられた。
気持ちが落ち込んで、それまでほったらかしにしておいた教科書とノートを消灯台から机の上に置き、黙々と勉強に向かい始めた。“どうせ同じ一日を過ごすのであれば、自分ができることをしっかり取り組んでおこう”と夜になり、落ちていた太陽が朝日として明るく照らし出しているように、翔の中の気持ちが強くなっていた。少しずつ確実に自分ができることを取り組み、一日を無駄にしない日が続いていた。
何かに真剣に取り組んでいると、時間の流れは早く感じ、過ぎ去っていく。勉強やトレーニングに集中せず就寝時前になると、また心の奥底から不安と恐怖が翔を毎晩のように襲ってきた。翔は毎日のように勉強とトレーニングに取り組んでいた。主治医たちは手術に向けて、見落としている点や手術時間を短くするための工夫がないかを考え、話し合いを繰り返していた。気付くと手術日の前日となっていた。
勉強している手を止め、ふと窓の外の風景を翔は見た。まだ夕方五時にも関わらず、天気が曇っていて、外はすでに真っ暗になっていた。翔は手術に対する不安が大きくなり、翌日に控えた今となっては、手術に立ち会う主治医や執刀医を信じることしかできないと考えていた。
 
 

 
手術を翌日に控えた夜、面会時間ギリギリまで特に何をするでもなく、翔が寝ているベッドサイドに丸椅子を置いて座っている母親の姿があった。
「もう大丈夫だから、そろそろ帰った方が」と翔は小さな声で母親を気遣った。しかし、母親は「何とかして待合室でもいいから、今夜くらい病院に居させてくれないかしら?」と言い出した。翔は咄嗟に「あとは寝るだけだから、家に帰った方がゆっくり休めるから帰ってくれよ!」と強い口調になった。
それでもまだ翔の側に居たそうな母親だったが、翔の表情がだんだん怒っている様に変わっていき、「じゃあ、明日の手術の時間帯よりも早めに来るから」と自宅へ帰る気になり、座っていた丸椅子を片付け、自分の荷物と一緒に翔が着た洋服を自宅で洗濯するためにまとめて帰る準備を終えた。
「夜に何かあったら遠慮しないでナースコールを押して良いからね」と言い残し、母親は部屋を後にした。
やっと帰った、と心の中で思う一方で、翔は果たして明日の夜には手術が終わっているのか、またその時に自分の言葉で話すことができるのかと、今までとは違った不安を抱いた。
消灯台の照明のスイッチをオフにし、目を閉じて何とか寝ようとしたが、頭の中でいろいろなことを考えてしまい、なかなか寝付けなかった。いつもであれば朝まで起きていたとしても支障はないが、翌日に手術を控えている現状を考えると、寝ないで過ごすことは身体に疲労を蓄積し、手術に影響を及ぼす可能性があるため、翔はナースコールのボタンを押して看護師に相談することにした。
ナースコールのボタンを押してから、一分程で看護師が翔の部屋に来た。「どうしました?」と尋ねられた翔は「どうしても寝られなくて」と相談すると、看護師は「ちょっと当直の先生に相談して、軽い睡眠薬でも出してもらいましょうか?」と言い残して扉を静かに閉めた。
五分ほどして、先ほどの看護師が手に一粒の薬と水が入ったコップを持って戻ってきた。「これ、そんなに重い睡眠薬ではなく、精神安定剤みたいな効果があるもので、飲んでから様子を見て、それでも眠れないようでしたら声をかけてください」と言いながら、消灯台にコップと薬を置くと、早歩きで部屋を後にした。
翔は、消灯台に置かれた薬を口に入れてすぐさま水と一緒に飲んだ。薬の効果がゆっくり効くのを待ちながら、身体をベッドの上に横にして目を閉じ、静かに眠りへ入るのを待ち、五分もせずに夢の中に落ちていった。薬の効果もあって、その晩は普段と異なる夢を見ることなく、朝まで深い睡眠ができた。
「松田さん、手術当日ですよ。しっかり朝ごはんを食べていただいて、血液検査を行わなければいけないので起きてください」と看護師が翔の肩を軽く揺りながら優しく声をかけた。就寝前に飲んだ薬の効果がまだ残っているため、いつもより激しい眠気が翔を襲っており、深い落とし穴から這い上がるようにして目覚めた。
翔は「わかりました」と看護師に伝え、ベッドの上で上半身を起こし、時計を見ると七時前を指していた。手術開始時刻が十一時で、あと四時間後には手術室の中で新しい臓器が自分の身体に入っていることを考えたが、手術を行うことが現実として捉えられていなかった。
朝食の八割を食べ終えて、窓から見える空に視線を向けると、太陽がキラキラと輝き、雲一つない快晴だった。まるで、翔の手術の成功を予期しているかのようで、外を見ているとガラガラと扉が開く音がした。まだ面会時間になっていないにも関わらず、そこには母親の姿があった。
「まだ時間になってないじゃん」と翔が母親に言うと、「先生が特別に許可をくれて手術まで翔さんの側に居ても良いって言ってくれたから」と目の下にうっすらとクマがあった。恐らく翔を心配で、昨夜はあまり眠れなかったことが表情から感じ取れた。
母親が翔の元に来て五分程経過すると、主治医と看護師が部屋に入ってきた。「いよいよ今日ですね。我々も全力を尽くしますので、翔さんはどうか信じてください」と言い、母親の方を向いて「万が一のことがないように、私を含めてこれまで様々なシミュレーションを繰り返してきましたので、何かあった場合は、私が全責任を背負う覚悟で行います。どうかお母様も手術が終わるまで不安だと思いますが、息子さんのことを信じて待っていてください」と言い、深々とお辞儀をして頭を下げた。
「こちらの準備が終わるまで、もう少しこちらでゆっくりしていただき、体調に変化が起きたり、何か聞きたいことがあったりした場合は、遠慮なくナースコールで呼んでください。すぐに来ますので」と優しい口調で看護師が翔と母親に言うと、主治医と共に部屋を後にした。
部屋には翔と母親の二人だけになり、「きっと大丈夫だから」としきりに言う母親を横にして、気を紛らわすために教科書とノートを出し、翔は少しでも時間を無駄にしないようにと勉強に取り組み始めた。丸椅子から立ち上がったり座ったりを繰り返し、自分が持って来た荷物から翔の入院生活中の体調などが記されたノートを開いて何かをチェックしていた。
ぶつぶつと小さな声で独り言を発している母親を横目にしながら“うるさい”と思いつつも、きっと少しでも気を紛らわせているに違いないと思い、注意してしまうと傷つけてしまうのではないかと翔は考えた。二人の間で会話が交わされることはなく、刻々と手術の時間が近づいていった。
「そろそろ手術室近くまでベッドのまま移動しますので、お母様もご移動の準備をお願いします」と看護師から促されると、さっきまで開いていたノートを閉じ、急いで荷物の中に戻した。「はい、ありがとうございます」と看護師に向けて伝えながら、それまで座っていた椅子を部屋の角に戻した。
いつもベッドがある部屋から出て、同じ病院内の他の場所へ移動したのは、すごく久しぶりだった。翔は、手術室に向かっていることへの不安と、目に入ってくるいろいろな物がすごく新鮮で目新しく感じ、「早く自分の足でいろいろな場所へ行き、様々な経験をしたい」と思う気持ちが大きくなっていった。手術に対する不安や恐怖はほんの少しであったが、心の中では少しずつ変わっていた。
手術室がある階は、翔がいつも過ごしている部屋とは違う階にあり、大きなエレベーターを使って移動することになった。エレベーターを待っている間、翔は以前この場所ですれ違った名前もわからない男性を思い出した。「今、その人は何をしているのだろう?」と思い、何故その男性が気になるのかは自分でもわからなかった。もしかしたら、どこかで会ったことがあるのか、母親の知り合いなのかと考えた。
ベッドはエレベーターから降りて、「手術室」と書かれたパネルの前で止まった。「手術が行われるまで待機する部屋を準備しますので」と一人の看護師が言い、他の三人の看護師が部屋の照明を点け、換気のために窓を開けた。「大丈夫です」と声を上げると、看護師が「じゃあ、また動きますね」と翔に伝えた。
ベッドが廊下から部屋へ移動し、固定された。「あと一時間ほど掛かるので、こちらでお待ちいただけます。ナースコールがありますので、何かありましたら」と言いながら、母親が椅子を持ってきて翔に伝え、部屋を後にした。扉の外では、先程の看護師たちが「先生に患者さんを連れてきたことと、何か準備しておいた方が良いものを確認して」と話しているのが聞こえた。
「手術が長くかかるって先生が言っていたけど、ずっと待ってなくても良いから」と翔が小さな声で言うと、「翔も頑張るから、お母さんも待合室か病院のどこかに居るから」と母親が答えた。やはり言っても無駄で、親の気持ちに勝るものはないと、翔は手術まで四十分前に改めて親の偉大さを感じた。
トントンと扉を叩く音がして開くと、先程の看護師たちが部屋に入ってきた。「そろそろ手術室へ移動しますので、こちらの方へベッドから移っていただきます」と言われ、翔はベッドから車椅子に移動し、その後、廊下に出て準備された台の上に横になった。「お母様も一緒に手術室の前までどうぞ」と看護師が母親に声をかけた。
「ありがとうございます」と母親が言いながら、看護師の手を借りて車椅子から台へ移動した翔は、その上に横になると、「それでは動きますね」と看護師の声がして、少しずつ手術室の方へ進んでいった。その後ろには母親が荷物を持ち、心配そうな顔でついて来ているのが翔の視界に入っていた。
先程までいた部屋から約十メートル歩くと徐々に人が少なくなり、廊下には様々な移動器具が置かれていた。翔の心は「裁判へ向かう人」のように高鳴り始め、小さな不安が「風船のように膨らむ」ように大きくなった。心の中で「逃げたい!」と強く思いながらも、この状況から逃げることはできないと理解していた。何よりも、主治医や手術に関わる人たちを信じるしか方法がなかった。
翔が横になった台が止まると、「ここから先はご家族の方も入ることはできませんので、そちらの椅子もしくは、後でご案内する部屋でお待ちください」と看護師が母親に伝えた。母親は「よろしくお願いします」と返事をし、「頑張って」と翔に声をかけ、左手を優しく包み込むように握った。
「わかったから」と素っ気ない態度で返したが、実際は母親の手の温かさがとても嬉しく、手術に対する怖さを伝えたかった。赤い背景に白い文字で「手術中」と書かれたサインを見ながら、翔は自動ドアを通って手術室に入っていった。
手術室には約十人が同じような服装をしていて、その中には翔の主治医もいた。「今から全身麻酔をして、眠っている間に臓器を入れ替えます。少し怖いかもしれませんが、また目が覚めるので安心してください」と優しく言われ、翔は「お願いします」と返事をした。
ピッ、ピッと一定のリズムを刻む音が微かに聞こえ始め、翔は「何だろう?手術が失敗して、何かアクシデントが起こっているのか」と不安になりながらも状況を理解しようとした。少しずつ閉じていた瞼を開けると、最初は部屋の照明が眩しくて物がはっきり見えなかったが、徐々に目が慣れて天井の模様と蛍光灯の輪郭がはっきりしてきた。右手を上げようとしたが、麻酔の効果で力が入らず、手術が失敗していないことはなんとなく把握できた。
声が出るかを確かめるために、あーっと恐る恐る声を出してみると、はっきりとした大きな声は出なかったが、小さくか細い声は出た。「かける!?」と声が聞こえて、母親の顔が視界に入ってきた。母親は心配そうな表情をしながら翔の右手をぎゅっと包み込んでいた。「手術、無事に成功したよ!よく頑張ったね!!!」と涙を流しながら優しく言ってくれた。
これが夢ではなく現実であると感じ、嬉しさが心の奥底から大きくなり、気付くと涙が頬を伝って落ちていった。部屋の扉が開く音がすると、主治医が「綾瀬さん、目が覚めましたか?気分が悪いことはありませんか?」と尋ねた。声を出すのが難しかったので、「大丈夫」と伝えるために、ゆっくりと頭を左右に動かした。
「新しい臓器が翔さんの身体に悪い影響を与えないか経過観察していきます。痛みや違和感があれば、すぐに看護師を呼んでください」と優しく伝えられた。手術が何時間かかったのか、母親が一度も自宅に帰らずに手術が終わるまで待っていたのかを翔は聞きたかったが、声が出せずに尋ねることはできなかった。疲労が襲ってきて、気がつくと翔は眠ってしまった。
「手術、無事に成功して良かったね」と結衣の姿があった。「え!?今までどこにいたの?」と翔は思わず尋ねると、結衣は「実は私、原発性硬化性胆管炎という病気になり、いろいろな治療を受けたけど、見つかった時には手遅れで、もうこちらの世界にはいないんだ」といつもの満面の笑顔で優しく伝えた。
翔は「え!?いつのこと!?」と驚き、冷静であまり動じない自分が、結衣が以前翔に話した看護師を目指すきっかけの出来事や他の看護師とは違う関わり方などを思い出した。彼女がもうこの世界にいないことに衝撃を受けていた。夢だとわかっていたが、なぜ結衣が自分の前に現れたのかを理解しようと必死になったが、夢のためか頭が思うように働かなかった。
その間、結衣は話を続け「実は君の身体の中に入っている新しい臓器の持ち主は、私と前にエレベーターですれ違って君が気に掛けていた守さんという男性の臓器なんだよ」と言うと、結衣の横に二十代半ばの男性が立っていた。
翔がその男性の姿をよく見ると、確かにあの日エレベーター前ですれ違い、翔が自分の個室から聞こえた男性の声と同じだった。
「やっと君に会えることができた」と守が翔に話し始めた。虚血性心疾患に罹る前の生活は、平凡で“生きる”ことに対してあまり関心がなかった。毎日、あまり人から目立たぬように自分から積極的に行動せずに暮らしていた中で、虚血性心疾患に罹った。入院中に翔の存在を知り、もっと積極的にいろいろなことに取り組み、自分も頑張ろうと思っていたことを守は翔に素直に伝えた。
「僕は死んだけれど、君の身体の中の僕の臓器が動き続ける限り、きっと僕は死なないと思う。僕ができなかったことややり残したことを、君がこれから歩んでいく道や夢と一緒に叶えていって欲しい」と守は翔の目を見つめながら、力強く伝えた。
翔は力強く頷き、守と結衣に「ありがとう」と涙を流しながら言い、二人の手を取った。守と結衣は優しく微笑んでいた。
「これからは自分がやりたいと思ったことに、私たちの分までやり通してね」と結衣が言った後、「あ、でも僕たちのことを考えすぎて無理しないで欲しいけど、僕たちがやり残したことが君の夢を叶えることが僕たちの願いだから」と守が翔に言葉を掛けると、二人の姿は消えていった。
翔は目が覚め、自分の身体の中には二人の想いが詰まった臓器が入っていると思うと、涙がこぼれ落ちた。その涙は、今までの恐怖や不安が篭ったものではなく、結衣や守に対する感謝の気持ちと、自分が“生かされている”ことへの想いが篭っていた。
目が覚めると、やっぱり今まで見ていたのは夢だったと翔は理解し、自分の身体の中に入っている臓器が結衣と守のものであったことを確かめるように、右手を腹に当てていた。「大切にして生きていこう」と自分に対して決意表明のように翔は強く思った。
窓の外を見ると、まだ空は暗い部分もある中で、東から少しずつ明るい日差しの面積が増えてきていた。消灯台に置かれた時計に視線を向けると、五時を過ぎていた。ただただ天井を見つめながら、胸の鼓動を確かめるように右手を左胸の上に当てると、ドクドクと一定のリズムを刻む心臓の鼓動が伝わってきた。
「綾瀬さん、おはようございます」と主治医の声が聞こえ、声がする方を向くと、主治医と看護師が部屋の中にいた。「体調はどうですか?昨晩はゆっくり眠れましたか?」と翔に尋ねてきた。翔は「はい」と出せる限りの大きな声で返事をした。
「昨日の手術について、ご説明をお母様と翔さんにお伝えしたいので、お母様が病院へいらっしゃったら、看護師から私の方へ声を掛けるよう伝えておきます。一緒に話を聞いてください」と主治医が言った。翔は顔を縦にゆっくりと動かし、「わかりました」と態度で意思表示をした。
「それでは、ゆっくり安静にしていてください。三十分ごとに看護師が診に来ますので、何かありましたら遠慮せずに看護師に言ってください」と言い残し、主治医と看護師は部屋を後にした。
主治医と看護師が部屋から出ると、翔は一人の時間になった。手術前は時間が許す限り勉強に取り組んでいたが、まだ自分で身体を動かすことも、勉強を行う体力も戻っていないため、ベッドの上でただ天井を見つめ、時間が過ぎるのを待つしかなかった。三十分ごとに訪れる看護師の「大丈夫ですか?」という問いかけに対して、頷いて返事をすることで一日が過ぎていった。
手術から一週間後、翔と母親、主治医と看護師が集まり、翔が受けた臓器提供手術に関する報告と、その後の経過観察を受けてのこれからについて話し合われた。
「結論からお伝えしますと、手術は成功です。一週間の経過観察で現在のところ、翔さんの身体に異常は見当たらず、体調も良好に安定していますので、我々としても安心しています。念のため、あと一ヶ月ほど入院してから退院してもらう形にしたいと考えています」と主治医は、手術の経過や血液検査の結果を説明した。
母親は主治医に深々とお辞儀をし、「ありがとうございます」と伝えた。翔は「わかりました。手術、本当にありがとうございました」と主治医の目をしっかりと見つめ、いつもより大きな声でお礼を言った。その姿は、母親の目には堂々としており、今までの子供っぽい顔から凛とした顔つきへと変わったように映っていた。
その後、翔の身体は少しずつ自分の意思で動かせるようになり、食事も点滴から口から食べるように戻っていった。日中の時間のほとんどを勉強に取り組む時間や、ベッドの上で足を動かし筋肉を付けるトレーニングに使い、退院してサッカーをするために毎日行っていた。
勉強やトレーニングを行う際、翔はいつも結衣と守のことを考えながら取り組んでいた。夢の中で二人から言われた「僕たちがやり残したことが君の夢を叶えることが僕たちの願い」という言葉を思い出し、自分の夢であるサッカー選手として世界でプレーすることに向かって、自分ができる努力や学ぶべきことを考えながら行動していこうと強く思った。
「自分の夢を叶えることが、人の夢を叶えることにつながる」と考えるようになり、その考えが衝撃的であると同時に、他人から譲り受けた臓器で生きて夢を叶えるために必要な努力や知識を積んでいこうと翔は強く思っていた。
ベッドの上に敷かれた白いシーツに、窓の外から暖かく優しい太陽の光が差していた。ベッドから床に足を出し、前後に動かしている足の影を翔は目で追いながら、窓から差す太陽の光がこれから待っている明るく楽しく希望に満ちた生活を表しているように感じ、翔の心も太陽の光のようにポカポカと暖かく柔らかくなっていた。
手術を終えてから一ヶ月が経過した。この間、翔の身体には大きな変化はなかったが、点滴が外れて自分の口で食事ができるようになった。それによって体力が回復し、経過観察の中で主治医から「私たちが想像していたよりも大きな変化がないので、このままいけば一日だけ自宅へ戻っても良いかもしれません」と言われた。母親と翔にとって、それはまるで“神様からのプレゼント”が届いたかのようだった。

二人とも満面の笑顔になり、「よかったね!」と翔を抱きしめ、大粒の涙を流しながら母親は喜んでいた。その喜びの姿を見て、翔はどのように喜びを表現したらよいのか分からない気持ちになりながらも、心の底から喜びに満ち溢れていた。結衣と守の顔を思い出し、二人に対して感謝の気持ちでいっぱいになった。これからを、今まで以上に大切にし、一歩ずつ夢に向かって努力していこうと改めて強く決心した。
その後の一ヶ月も、翔の身体には特に悪い変化はなかった。主治医が言っていた通り、約三年過ごした部屋で翔が使っていた荷物や、大切に飾っていたサッカーボールなどを母親が持ってきた大きなスーツケースに詰め込んでいた。
部屋の扉が開き、主治医と美しい花を持った看護師が入ってきた。「本当に退院おめでとうございます」と主治医が言い、看護師が花を翔に手渡した。大きくて美しい花を受け取った翔は、母親と同じように深々とお辞儀をした。今まで人前では絶対に流したことがなかった大粒の涙を流し、「本当にありがとうございました」と主治医と看護師、そして母親に対して心の底から感謝の気持ちを言葉に乗せて伝えた。
約三年使っていたベッドや消灯台などは、翔の荷物が綺麗に片付けられた。シーツが窓から差す太陽の光で白く照らされ、そのベッドの上で起きた様々なことが翔の頭の中でスライドショーのように駆け巡っていった。
母親が一階の“退院手続き”と書かれた窓口で退院に必要な手続きをしていた。翔はロビーのベンチに座り、エレベーターの前で一階に降りてくるのを待っている車椅子の男性と看護師の姿を横目に見ながら、あの時の自分と結衣の姿が重なり「きっと大丈夫だから」と小さく呟いた。
退院手続きを済ませた母親が「車を病院の前まで持ってくるから」と言い、早足で自動扉から外へ出て行った。その後ろ姿を見て、翔はふと空を見上げると青空の中に一つだけ浮かぶ雲が、四葉のクローバーの形に見えた。それは、これからたくさんの幸せな出来事が待っているかのように思えた。
翔は空に向かって大きく背伸びをし、ふぅーと深呼吸をして「二人とも見ていて、二人の分までしっかり生きて絶対に夢を叶えてみせるから」と空の向こう側の結衣と守に対して誓うように言葉と共に一歩を踏み出した。

 
 

 
全長百二十メートルのフィールドに緑色の芝生が広がり、その周りには白いラインが引かれている。大きな歓声とともに何万人もの観客がひとつの場所に注目し、それぞれのタイミングでジャンプしたり、椅子に座ったまま喉が潰れるほどの大きな声で「KAERU!!」と叫んだりしていた。
その声援の先には、赤と黒のユニフォームを着た翔が、背中に十番と書かれた番号を背負い、一人、また一人と相手チームの選手を華麗なドリブルで躱しながらピッチ上を駆け回っていた。あれから六年が経過し、中学を卒業後は高校に進学し、勉強よりもサッカーに専念。Jリーグのプロサッカーチームにスカウトされ、高校卒業後、十八歳でJリーグでプレーを始めた。
プロ二年目で翔のサッカーに対する情熱や技術が代表監督やスタッフの目に留まり、高校に入るまで止まっていた針が、一気に進み出すように、二十二歳でJリーグから夢だったACミランでプレーできるまで成長していた。
ACミランと同じイタリアリーグのインテルとの試合、通称“ミラノダービー”の第三戦。スタンドのサポーターの熱気は最高潮に達していた。VIP席には翔の母親もおり、ピッチでプレーする息子の活躍と怪我をしないことを願い、応援していた。
翔は試合開始からスタメンで出場し、チームメイトからもプレーの技術だけでなく、その優しさや気遣いにも信頼を寄せられていた。この試合だけでなく、全ての試合においてゴールは「KAKERU」のものだという意識がチーム全体にあり、ACミランにおいて翔の存在は必要とされていた。
ゴール前までボールを巧みに捌きながら、翔は電光掲示板に示された試合の残り時間を確認した。ここでゴールを決めて一点でも多く取ることがチームのためになると同時に、ゴールを決めたいという気持ちで翔は燃えていた。
試合は残り三分で、スコアは二対二の同点。チームのどちらかがゴールを決めれば勝ち、そのままのスコアであれば延長戦に突入する場面で、翔のチームメイトがゴール前で相手チームからファウルを受け、フリーキックのチャンスが巡ってきた。
翔を含めた数人がボールの近くに集まり、誰もが自分がフリーキックを蹴ると譲らない状態で、翔も片言の英語とジェスチャーで「自分が蹴る」とアピールしていた。その間、主審から「早く決めろ!」というプレッシャーとインテルのサポーターの大ブーイングがスタジアム中に響き渡っていた。
何とか翔がフリーキックを蹴ることになり、主審がホイッスルを吹く直前まで、翔はどのコースでゴールネットを揺らすかを冷静に考えていた。先程まで暴動のようにスタジアム中に鳴り響いていたサポーターの声が翔の耳に聞こえなくなった。
フリーキックの位置から、チームメイトやインテルの選手が翔とゴールの間に立っているにも関わらず、「ここに蹴ればゴールネットを揺らすことができる!」と、まるでボールの軌道が見えているかのように感じた。主審がフリーキックの合図のホイッスルを鳴らし、翔はゴールまでの軌道に近いコースに向かってボールを蹴った。
いつもよりも力強く蹴られたボールは、狙ったコースを辿り、ゴールキーパーがジャンプしてもギリギリ届かない位置を通ってゴールネットを揺らした。その瞬間、まるで風船を針で刺して破裂させたかのように、ACミランのサポーターの歓声がスタジアム中に轟き渡った。
翔の鼓膜がその歓声で振動し、客席は盛り上がり、サポーターたちは抱き合ったり、持っていた飲み物をこぼしながらもジャンプしたり、ACミランの勝利を喜び合いながら歓喜の大合唱でスタジアムが包まれた。誰が見ても文句なしの鮮やかで力強いシュートが決まったことで、チームメイトたちが一気に翔の元へ駆け寄り、翔の背中や頭を笑顔で叩きながら、数分後に終わる試合にそれぞれのポジションへと戻っていった。
翔は空を見上げると、大きく絵に描いたようなキラキラと輝く星に向かい、右人差し指を高く上げた。これで二人が喜んでくれるのであれば、それで良いと翔は思った。試合終了までの残り時間が過ぎていくのを、自分のポジションまで移動して最後まで集中を途切らせずにプレーし、サッカーを楽しんでいる喜びを全身で感じていた。
どんなに苦しいことがあっても、この世界には必ず自分を理解してくれる人がいると確信し、試合終了を告げるホイッスルがスタジアム中に鳴り響いた。翔は身体から力が抜け、大の字でピッチ上に横たわった。夜空を見上げながら、結衣と守の姿を思い出し、ピッチ上に立ち上がると、ゆっくりと控え室へと戻っていった。その後ろからは「KAKERU!!」とサポーターの声援が聞こえ、翔はすでに次の試合に意識を研ぎ澄ませていた。

 

空は大地や海と違って、どこまでも繋がっている。快晴、大雨、厚い雲と、季節や日によって様々な顔を持っている。それはまるで人生と同じである。楽しい時、悲しい時、辛い時、人の心も空と同じように、いろいろな日々や人との関わりの中で様々な気持ちを抱える。
空には終わりがないが、人生には死という最期が訪れる。空と人生は全く違うようで、どこか似ている気がするのは気のせいだろうか。ホテルの部屋で食事をしながら、窓から見える黒い空と、シャンデリアの灯りのように輝くイタリアの街並みを眺めながら、翔はそのことを考えていた。



 

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