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30年前の希望と怨恨

 年末から読んでいてまだ三章しか行っていないけどこの本、でたらめに面白い!(まぁ、その後の展開、とくにウクライナにおける出来事を鑑みると「面白い」と言っては不謹慎なんだけど)「ドレスデンの二つの夜」と名打って1989年の12月のある晩KGBの中佐プーチンがドレスデンのKGB事務所でデモ隊と対峙するってのがのっけから描かれ、そしてプーチンはモスクワがなすすべなく沈黙してソヴィエトが崩壊しているのを目の当たりにしているのを後悔し、機密文書をせっせと燃やしていたってスパイ小説よろしく始まり、もう一晩は西ドイツのコール首相が東ドイツのドレスデンに訪問した12月9日にドレスデン市民が東ドイツの旗の中央の紋章を切り抜いて即席の西ドイツの旗を振って熱狂的にコールを迎えた...って感じで話が本格化していくんだけど、回想録、会談記録、日記、メモ、電話での会話記録など(550頁と浩瀚なんだけど、本文はわずか353頁であとは資料・参考文献のリスト、注釈、索引)多岐にわたって資料を使用し一つの出来事を記述している歴史の専門書なんだけど、英語は平易というかアメリカ語ふんだんで、本の題名も大概にしろって感じだけど第二章の題もTo hell with that(くそったれ)で、これはブッシュ大統領が1990年2月にコール首相をキャンプ・デイヴィッドによびドイツ再統一の青写真を完成させたときソヴィエトはドイツとNATOとの関係に口挟む筋合いはない、くそったれだ(To hell with that)って言い放ったところからとっている、躍動感あって、裏をちゃんと取っている司馬遼太郎の小説みたい。
 そんでこの本の題になったNot One Inch、ジェイムス・ベーカー三世国務長官のゴルバチョフとの1990年2月9日の会談で言い放ったと言われ、のちにそのことをプーチンが恨んで好戦的になった原因と言われる、NATOを現状維持させ一インチたりとも東方には拡張しないってことだけど、これ、ただのアメリカ国務長官の一会談での放談ではなく、ドイツ再統一のためのドイツのソヴィエトからその承認をもらう(東ドイツにおけるソヴィエト軍の存在及びソヴィエトの戦後続く様々な東ドイツへの法的権利をうっちゃってくれという要求)―甘言であって、いわばセールピッチで—もちろんnot one inchなんてドイツ語では見得を切ってないが―西ドイツの外相のゲンシャーが発信源でコールも大いに使い、さらにアメリカのベーカーも乗ったようなもの。その頃ぐらいから権勢に陰りが見え始めたソヴィエトのゴルバチョフはドイツ再統一を止めることは出来ず、でもNATO東方進出は回避できると思い、ところが権勢どころか狡猾さというか目配りにも欠いてしまったゴルバチョフはそこでNATOの東方進出回避を確約させることができず、結局ブッシュ大統領の慎重さで1990年時点ですでにどんどんと後退していき、その後は僕らが知っているように挑発するようにどんどんNATOは拡張されて行ってしまった。
 でもこの言葉が象徴するNATO不拡大のドイツ首相・外相、ベーカー国務長官の提案はこの本を読む限り確実にされており、個人間の約束だったら確実に西側が黒だね。作者のサロッティ先生は約束はなかったって結論付けているようだけど、それは三百代言の言い逃れの様で、むしろ彼女の徹底的な調査に基づいた詳細な記述は彼女の意志に逆らって西欧は、と言ってもドイツの首相、外相、そしてアメリカの国務長官だけだけど、NATO東方不拡大を売り文句にしてソヴィエトにドイツ再統一を飲み込ませた、というテクストになっている。もちろんそれでもせいぜいロシア国民の恨みを正当化するだけであって、ウクライナ侵略の正当化にはならないけどね。
 あとまぁ、個人的なことなんだけど、僕がパリにやってきたのは1990年の9月4日。ドイツ再統一が一か月後の10月3日。湾岸戦争が翌年の1月17日に始まり、多国籍軍という単独の国同士の戦争ではなく、西欧諸国が協力し合い—日本も90億ドルを献上―小さい国を大国の侵略から解放するという前提で始まったこの戦争はその前提だけではなくほとんどミサイルだけの空中戦でおわる新たな戦争のパラダイムを創出した、とヨーロッパの町に住む市民として僕は体験した。さらにこの戦争後すぐに始まったユーゴスラヴィアの民族紛争、すなわち遠いが決定的にヨーロッパにおける戦争がはじまった、と喉元に突っかかった骨のようにフランスのニュースは毎日その惨事を思い起こさせた。ヨーロッパに住む人々はこれらそしてその後も起こる紛争を―フランスは多国籍軍に参加し、各地の紛争では国連軍として監視に参加―間近に体験し、さらに旧ソヴィエトの崩壊とその後のアメリカとの蜜月(イェルツィン‐クリントンの好関係)、そしてこの紹介した本の副題で言及しているstalemate(行き詰まり)をまざまざと30年見てきたことになる。
 要はこの本で描かれるている東西ヨーロッパの変容及びその背景にあるソ連崩壊後その受け皿となったロシアとの関係は日本人としては僕は当事者とは決して言えないが、ずっとパリに住んできて、他人事とは思えず、体験してきた—2000年の夏ロシアの原子力潜水艦が沈没し、生き埋めになって犠牲になった船員を英雄として讃えていたプーチンの姿を学会で行っていたノルウェイのベルゲンのホテルのテレビで見たことを今でも覚えている...
 去年のクリスマスにどうやら岩波から『1インチの攻防』って翻訳が出たみたいだすね。


https://www.iwanami.co.jp/book/b654979.html
https://www.amazon.co.jp/1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%81%E3%81%AE%E6%94%BB%E9%98%B2%E2%94%80%E2%94%80NATO%E6%8B%A1%E5%A4%A7%E3%81%A8%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%88%E5%86%B7%E6%88%A6%E7%A7%A9%E5%BA%8F%E3%81%AE%E6%A7%8B%E7%AF%89%EF%BC%88%E4%B8%8A%EF%BC%89-%EF%BC%AD%EF%BC%8E%EF%BC%A5%EF%BC%8E%E3%82%B5%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3/dp/4000616730/?_encoding=UTF8&pd_rd_w=Gb2yc&content-id=amzn1.sym.f292ebb9-98b7-4055-8c75-29d36484b44d%3Aamzn1.symc.9473e197-1ae0-49a9-a264-2b4637782ba2&pf_rd_p=f292ebb9-98b7-4055-8c75-29d36484b44d&pf_rd_r=1B7VF35X2TSMW20A13JX&pd_rd_wg=6sfR1&pd_rd_r=7217adba-aecc-4c42-8665-8463774557cb&ref_=pd_hp_d_btf_ci_mcx_mr_ca_id_hp_d

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