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死刑になりたくて

 死刑って抑止力があるかないかって昔から言われていますが、それはあくまでも死刑にみんななりたくないというのが前提だったはずですが、死刑になりたいと積極的に思い、殺人を重ねる人たちが最近たくさん出てきている(たとえば東海道新幹線車内殺傷事件、京王線内のジョーカー模倣放火事件、大阪・北新地精神科クリニック放火事件)。
 新聞やニュースで評判になっているからこれら事件を知っていると思いますが、どうやら死刑願望が動機の大量殺人事件は大教大付属池田小学校事件の宅間守氏が始まりで(もっと系譜をたどれば昭和43年の永山則夫にたどり着くかもしれません)、そのあとつい最近処刑された秋葉原で7人殺し、10人を傷つけた加藤智大くんなどが見本となりここ何年かは死刑になりたくて大事件を起こすというパターンが出てきてしまったようです。
 彼らはだいたい男の子で家庭で虐待経験があり、さらに途中までは成功していて―高校は進学校に入るなど―、でもある時期に挫折し、それによって傷つき、自殺念慮が出てきて、それでも自分では死ねないから国家に殺してもらう、または社会的に目立つように大勢を巻き添えにして今までの屈辱の生活を一発逆転したい思いで何人も殺すそうです。つまり量刑が死刑にあたるように複数殺め、死刑による自殺を願うのが昨今の死刑を望む大量殺人事件のようです。
 このような動機で何人も殺人を重ねる人がいることが衝撃的でした。僕は加賀乙彦の愛読者で彼の死刑囚に対するドストエフスキーの『罪と罰』や『死の家の記録』に影響されながらも、その上を行く細緻な描写で殺人者と彼らが起こした殺人に肉薄する小説『宣告』や犯罪学者でもあった彼がノンフィクションとして書いた『死刑囚の記録』を通して死刑囚に関しては通暁していた、と自惚れていました。そこで描かれている何人もの人を殺した人たちは抑えられない衝動としての過剰な攻撃性の表出として人を殺める、言ってみれば横溢する生といってもいい人達でした。
 ところがこの本で語られる殺人者は犯罪的性向はなく表面的にはまじめに目立たなく生活していた人たちです。
 本書が興味を引くのはその様な人たちを取材しているのではなく、彼らの周辺にいるー加害者(!)家族を救う会の代表、秋葉原事件の加藤智大くんの友達、刑務官などを取材してこのような殺人者はどんな人たちであったかに迫ります。彼ら全員、このような殺人者に理解を示し、普通と言われる人たちと、それにどんなファクターがかさなることで行為に至るかを彼らなりに推察します。
 そこから漠然とした形ですが、作者は社会の生きづらさ、つまり普通でいなければならない大変さにあるのではないかと見ています。とくに男は男尊女卑が残存する世の中で挫折することが女性より深刻に受け止めさらに、男らしさゆえにその弱さを共有できないのではないかと推察します。
 その様な結論を読むと以前読んだ熊代亨先生 @twit_shirokuma  の著作『健康的で清潔で道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』を思い出し、平成以降の日本の社会の快適さを支えるかなりの努力が逆説的に生きづらさを生んでいるのではないか、と言っていることを思い出しました。
 僕の個人的体験に照らし合わせて考えると、僕がこっちに来るまでの1980年代―昭和後期―の日本の社会の隅々には特に東京には一癖も二癖もあるようないやなジジィやイヤミなオバサンがたくさんいたような気がします。町ももうちょっと汚かったですし(昭和40年代ぐらいまでは族でもない普通のおじさんが痰やつばを路上で吐いてました)。
 翻って僕が住んでいるフランスは、気分で対応する人ばっかのいい加減で、平気で小さなごみをポイする汚いとこなんですね。物事が全然進まない苛立ちはパリではたくさん遭遇し、仕事が滞りなく進ませるには一苦労ですが、生きづらさとは違った、もっと怒りや喜びという明確な感情が持てるところだと思うのです。
 日本の安全で快適な空間では変な人が生きづらく、その病理的ケースが加藤智大くんとか東海道新幹線殺傷事件の小島一朗くんなどを生んでいるのかもしれません。

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