【勉強苦手なお子様でも大丈夫!】元偏差値37でも一橋大学に合格できたワケ(大学受験合格体験記・勉強法・教育・学校・予備校・塾)
講演家・作家として活動しております。
櫻井健太です。
今回の記事は以下のような方に向けてお届けしたい内容です。
大丈夫です。僕も昔は勉強が超苦手でした。
中学1年生のころはアメリカとカナダの位置がどっちかわかりませんでした。(笑)
学年で220人中190位でした。
高校時代には、一橋大学志望の学生が受験する模試で平均点もとれませんでした。
そんな自分でも、私は最終的な一橋大学に合格しました。
本記事は、私の著書より一部抜粋して追記したような内容となっております。もし興味ございましたら、ご覧になっていただけると嬉しいです♪
では始めます。
偏差値37からの下剋上の中学生時代。
小学校からバレーボールを始めた私は、中学生になっても相変わらずバレーボールばかりの日々を過ごしていました。
中1の最初の頃は、学級委員をやっている割に勉強は全然できない。でも、先生からは好かれていたのでテストの点数が低い割に内申点(通知表)だけ高い学生でした。内申は9教科で45が最高で、私は31くらいでした(オール3超え)。英語しかできなかったです。英語だけ90点台であとは全部40点とか50点とかでしたね。
そうですね...当時の私の深刻さをお伝えすると、例えば、社会で言えば、アメリカとカナダがどっちが上かをマジで覚えてなかったぐらいです。(笑)
一橋卒の人間でも中学生時代の最初はこんなんだったと聞けば、みなさんも安心するでしょうか...。
はっきりわかりますよね。こんな人間でも最終的に一橋大学まで辿り着いたのです。生まれつきの才能や地頭やスタートラインの位置だけでは、あなたの人生は決まりません。
そんな感じで、英語以外ほんと全然ダメでした。担任は女性の先生でしたが、先生も優しい方だったので特に怒られず、私がヘラヘラしていたところ、1学期の三者面談の後、家で母に怒られた覚えがあります。ヘラヘラしすぎだと。(笑)その日はなんだか気まずかったですね...。自分はそんなに危機感を感じていなかったので、尚更です。「通知表の評価も悪くないのに、何が悪いんだろう...?」と当時の私は思っていました。とんでもないですね。(笑)
そんなヘラヘラしていた私は、1年生の夏に塾に行き始めることになり、入塾の時に模試を受けました。
その模試の結果がズバリ『偏差値37』。
大切なことなのでもう一度言います。
『偏差値37』です。
当時は全然知らなかったのですが、高校生の時に、保管してあったこの時の模試結果の紙を見つけて笑ってしまいましたね。
ヘラヘラしていましたから全然緊張感もなく、自分はあまりその時の状況を深刻に捉えていませんでした。
そんな私は、塾でも指導者に恵まれました。面白くて、授業はわかりやすくて、叱る時はちゃんと叱ってくれる、そんな先生でした。私は塾に行っている間、真面目に頑張っていたので叱られることはありませんでしたが。(笑)
大事なことなのでもう一度言っておきます。偏差値37の少年も最終的に一橋大学まで辿り着きます。「地頭が...」と、諦めるのは早すぎます。大丈夫です、私は味方。大学受験に限った話ではなく、大人になってもそう。何かを始めるのに遅すぎることなんてないです。
『偏差値37の中学1年生』の当時のけんたんは、塾に行っている間、勉強もなんだか楽しくなっていました。何をしたらいいかが少しずつわかってきたからです。
塾に入る前は解いて終わりだった問題集。塾に入ってからはそこに印をつけたり、間違えたところだけをまとめたノートを作ったり。いろいろな方法を取り入れながら、たくさんの時間をかけて最善策を模索していました。
中学生はめちゃくちゃ楽で最高です。量でゴリ押せるからです。みんなあんまり勉強しないので、量をこなせば勝てます。私は特に量で戦う男でした。「うなぎのぼりしている状況」を体験して、勉強が楽しくなってきました。テスト期間などは塾の自習室でひたすら勉強していました。テスト期間の休日は1日10時間ほど勉強していました。中学生にしては結構多い方だったんじゃないでしょうか。
そして1年生の3学期の学年末テストでiPodTouchが欲しくて、親に話すと「学年末テストで学年10位に入ったら買ってあげる。」と言われたので、いよいよ本気の中の本気を出しました。とにかく量をこなす。塾のテキストも全科目3回くらいは解いていましたね。ずっと勉強していました。惜しくも13位でした。でも買ってくれました。数値目標は達成しませんでしたが、努力を評価してもらえたのでしょう。
『1学期のテストでは220人中190位くらいだったやつが3学期の期末テストで13位』
冷静に考えてもワクワクしませんか?
勉強以外にも、バレーボールの面でも大きな出来事がありました。中学3年生の頃に中学生の愛知県選抜強化合宿の招待状が来ました。大会でのプレーを見て愛知県バレーボール連盟の方々から評価されたみたいです。今私と同い年くらいで、プロでプレーしている人たちと当時の私は一緒に合宿でバレーボール漬けの日々を過ごしました。
最終選考の招待状が来たところで...
私は断りました。迷いました。もちろん迷いました。
やはり私はバレーだけで生きるのではなく、『勉強がしたかったから』です。
そして、3年生の頃には志望校を地域で1番の進学校にすることにしました。偏差値63の高校を視野に入れていましたが、偏差値72の高校に志望校を変更しました。
理由ですか?
「京都大学に行きたかったからです。京都大学に行ったらかっこいい気がしました。私はその高校に入って大学受験に向けてたくさん勉強して、たくさん努力して、京都大学に入りたいと心の底から思ったからです。」
相変わらずバカなんですよね。響きだけで京都大学というのも視野に入れてました。今だから言えますが、京都大学に何学部があるかもよくわかっていませんでした。(笑)
学校の英語の先生になるのが当時の夢だったので、京都大学である必要はどこにもないんです。なんならもっと教員養成に特化した大学でいいはずなんです。それでも私は全く曲がらず「京大だ!」と言っていました。
この頃から私は一度言い出すと自分が納得するまで曲がりませんでした。まわりの人たちに堂々と宣言して、目標を紙に書いて壁に貼り...といったところもこの頃から今まで何も変わりませんね。こうすることで、諦めにくくなるのです。だってダサいじゃないですか。散々大きな声で堂々とみんなに高らかと宣言しておいて、「難しそうだからやっぱやめます」なんて。だから自分にそう簡単に諦めさせないために、堂々と公言するんです。
高校は結局、推薦入試で合格しました。生徒会長の実績・部活の実績・バレーボールの愛知県選抜候補選手として選ばれた実績などがあり、推薦入試(内申点と実績と面接のみで合否が決まる試験)で無事合格しました。正直5科目の試験で受験する一般入試なら不合格だったかもしれません。
素行が非常に優秀で良かったなと思います。(笑)
そんな形で中学時代が終わりました。
『今自分が落ちこぼれてるいると思ってる人はラッキーだと思ってください。』
あなたにはごぼう抜きをする権利が与えられているわけです。最初からテストで学年5位なんてとってみてほしい。厳しい戦いをずっと強いられる上に、少しミスるだけで順位がガタンと落ちていきます。
一方で落ちこぼれはどうかというと...
そう。私は最初220人中190位。
少し頑張るだけで数十人順位を上げられてしまうんです。
これが快感です。この快感がクセになれば誰に指示されなくても勉強をするようになります。両親は中学時代から私に対して「勉強しろ」とは一切言いませんでした。勝手に塾の自習室に毎日行っていたからです。きっと教育の理想系なんじゃないでしょうか。勝手に勉強するようになるっていう形です。
「質が大事」とよく言われますがまずは量です。絶対。量できるようになったら質なんて後で軌道修正可能だからです。成功している人はやはりめちゃくちゃ量やってる人ばかり。異次元の努力をしている人ばかりです。
少なくとも中学生の私はテスト期間、朝9時に塾が開くと同時に塾の自習室へ入り、昼は近くのコンビニで買って済ませ、夜22時まで塾の自習室にずっといました。そこに誘惑はなかったし、先生も時々見回りに来ていたので、ちょうどいいプレッシャーでした。一緒に勉強している人たちもいましたし、本当にいい環境だったと思います。中学生のうちから慣れたおかげで、長時間ずっと勉強することがまったく苦じゃなくなりました。これは別に才能もいらないです。やるだけなので。
今何かしらの学習で成績が思うような形じゃない方々。中学生でも高校生でも大学生でも社会人でもいい。ラッキーだと思って、今度の試験でいつもより多めに量を確保してください。いつもより勝負を仕掛けてみてください。至ってシンプルです。
今うまくいってない人ほど伸び代がありますから。
騙されたと思って自分の常識を超えた勉強量を確保してみてください。『あなたの常識』はぶっ壊すためにあります。身体を張って人生を変えてきた私が言うので間違いないです。
私は当時実際に「ごぼう抜き最高〜。楽しい〜。」って口に出して言ってました。自分自身が心から楽しまなくちゃ、やはりうまくいくものもうまくいきません。ごぼう抜きを楽しんでください。そのために自分の常識を超えた勉強量を確保してみてください。正直、質は後でいいのです。
とはいえ、質の観点も、どういう勉強法が伸びるかも大事な観点です。
高校は地域で1番の進学校へ行きました。バレーボールを続けながら、勉強も頑張っていましたが、やはり地域1の進学校というのもあって、集まっているのは各学校のトップ層でした。そのため、高校に入っても、テストでそう簡単には上位を取れず、成績はあまり優れていなかったです。でも頑張ってはいたので、取り返しがつかなくなるような程度ではなく、最低限の成績は確保していたかなと思います。
さっきの章で言ったことを覚えているでしょうか?
そうです。「私は京大に行く!」とずっと言ってました。なぜなら京大に行ったらかっこいいと思ったからです。(笑)
気合いを入れて高校1年生の最初のテストに臨みましたが、全然冴えないどころか、半分より下でした...(笑)京大に入るなら、せめて30番以内くらいには入っていないと厳しいにもかかわらず、200番くらいだった気がします。
しかし、ここが私らしいなと思うのですが「俺志望校京大だよ」とみんなに言いふらしてました。明らかに実力に見合わないんですけどね。そんなのどうでもよくて、私は「目標をとにかく口に出す」ことを大切にしていました。
そのため、バレー部で一緒だった東大や京大に入れそうな成績上位の友人に「こないだ授業で出てきた、あの京大の過去問の数学の問題解けた?」なんて聞かれていたものです。もちろん解けていないので、「あーあれね!」と苦笑いしながら適当に流していました。(笑)
旧帝国大学に入れるかもわからないくらいの成績でしたね。でもその3年後には一橋大学に合格してます。
つまり、当時どんな成績なのかは重要ではありません。思い続けることが大切です。今落ちこぼれであることは、一生うまくいかないことの証明ではないと思っているからです。
さて、私がこのパートで一番話したかったことを話します。生まれや育ち、どんな人生を歩んできたかなどの要因がその後の人生の全てを決めることは絶対ないです。いつだってやり直す権利が私たちにはあります。
高校時代、何も頑張れなくて本当は行きたかった大学に行けなかった人。今日からまた変わっていけばいいと思います。大学は再受験ができます。私は、40代くらいの年齢の人が大学や大学院に通ってる姿を見たことがあります。私はあの人たちのことを素直にかっこいいと思います。
何を始めるのにも遅すぎることなんて絶対ありません。いつだって、思い立った日がスタートでいいんです。
私も残念ながら生まれつきの才能なんて持ち合わせていませんでした。中学校時代は偏差値37からのスタート。高校時代も1年生の時のテストで学年の順位は半分よりも下。それでも、京大へ行くと言い続けて、最終的には自分がもっと行きたいと思えた一橋大学に入ることができました。本当にスタートラインとかどこでもいいです。
ここまででお話ししてきたような形で、京都大学へ行くことを公言しながら、与えられた課題や最低限の勉強を私はこなしていきました。自習のような勉強も、なかなか時間がない中で頑張って確保してきたつもりでした。そんな中で出会ったのが、あの場所でした。
高校2年生の時、私は「ライブやイベントが多くて羨ましい」という理由で東京に憧れ始めました。東京って素晴らしいですよね、どんなアーティストもライブツアーをやれば必ず東京を通ります。たまにいるんですよ。東阪ツアーとか、3大都市ツアーとか言って名古屋を飛ばして福岡に行っちゃうアーティストとか。意外と名古屋は干されてしまいます。
私の好きなバンドの「UVERworld」はちゃんと名古屋にも来てくれていました。しかし、昔好きだったももいろクローバーZさん。めちゃくちゃ名古屋飛ばしをしていました。イベントは東京ばかりでした。そのため、いつでもライブやイベントに行ける東京に行きたいと当時の私は思っていたのです。
そんな東京に憧れた自分は一橋大学のオープンキャンパスへ行きました。社会学部という学部に非常に興味を持ったからです。
オープンキャンパスの際に受講した模擬授業がすごく楽しかった覚えがあります。内容は覚えていないですが...。「覚えてないのかよ!!」というツッコミが飛んできそうですね。みなさんも楽しかった大学の授業とかあったとしても内容まで明確に覚えていないと思います。そんなものですよね。
ちなみに、馬鹿な、そして無謀な目標を立てるのが好きな私ですら東大は避けていました。いくらなんでも自分は凡人すぎると思っていたので...。(笑)
そして、私は東大より一橋の方が響きがオシャレな感じがしていたのです。カッコつけたがるタイプなので音の響きを大事にしています。(笑)
一橋大学がある国立市に行ったことがあるでしょうか?ぜひ一度行ってみてほしいのです。東京駅、新宿駅からJR中央線で1本で行けます。街並みはどこか西洋の雰囲気があるのです。春には一本の大学通りという大通りが桜並木で埋め尽くされます。大学周辺の雰囲気も含めて、私は一橋大学、そして国立市に一目惚れしてしまいました。この日から私の口からは京都大学という言葉は出てこなくなり、ずっと一橋大学のことだけを考えてました。
京都大学は漠然とした目標だった一方で、一橋大学は実際に生で見て、明確な目標になっていきました。
みなさんも目指す姿や場所っていうのは絶対生で見た方がいいです。見た方がいいというか、絶対に見てください。これは間違いないです。モチベーションの上がり方が尋常じゃないです。
私も一橋大学の実物を見ないまま、受験勉強を続けていたら心が折れてどこかで妥協していたかもしれません。それくらい私にとっては惚れた場所でした。この感覚は憧れている対象には全て当てはまると思います。憧れの「人」でもそうです。
私は、ミュージシャンのライブが大好きでよく行くんですが、その中でも私の人生観を形成したUVERworldのライブに行くと魂が揺さぶられます。「まだまだ頑張らなきゃ」という気持ちになります。「俺もあんなふうにかっこよく生きたい。」と心から思うようになります。だから私にとってのUVERworldのライブは、楽しむ場所というより、夢を再確認してまた明日から戦う活力をもらう場所です。みなさんにも、そんな場所や存在を持っていてほしいなと思います。
この頃から、私は色々な人たちに「俺は一橋大学に行く!」と言いふらしてました。言いふらせば言いふらすほど、諦めにくくなるのです。私はそうやってどんな目標も諦めずに突破してきたのです。ただ、当時まさかけんたんが本当に一橋大学に行くって思っていた人は1人もいなかったと思います。模試の成績的にまず先生は無理だろうと思っていたと思います。全員。あ、先生ではないですが、1人だけいました。私が絶対に一橋大学に行くという確信を持っていた人。
「私です。」
「一橋大学は入試問題の癖が強いから、一橋に特化した対策をしていれば受かるだろう!」と思い、学校の勉強と切り離して独自路線で一橋対策を始めました。
ということで、この傾向にだけ合わせた勉強を独自路線で始めたわけです。勘のいい人は気づくかもしれませんがこれが全ての失敗理由です。基礎がグラグラな状態で応用問題に使うための小手先のテクニックを必死に覚えたり、特定の分野にヤマを張るようなことをしていたのです。
これではダメです。絶対にやってはいけません。
具体的にはどんなものかというと...
本当に浅はかでしたね。
今思うと笑えてきます。受験勉強に限らず、ビジネスなどでもそうですが、自己流でやるのはやはりうまくいきません。成功している人からやり方を学ぶことが大事です。
受験で言うならば、実際に一橋大学の入試に精通している人に対策を聞かなければいけないと思います。特に、大学受験で言うならば、予備校の夏期講習・冬期講習などにはお金を払う価値があります。既にその道を進んだ人、研究した人、試した人にしかわからないことというのがあります。実は私も自分の経験を活かして、オンラインで様々なサービスをやっています。ここで宣伝すると長くなるので最後にお話ししますね。
そんなところで、勉強はそれなりに頑張っていたものの、模試等の成績は、「東大京大以外の旧帝大ならだいたい手が届きそう」というくらいでした。文系の偏差値ランキングだと東大京大の次に位置する一橋大学は、遠い雲の上の存在でした。
一橋大学の本番さながらの問題形式で、一橋志願者だけが受けるという恐ろしい模試があるのですが、私はその模試を受けました。そこで私はC判定以上どころか、平均点すら取れなかったんです。日本史はヤマを張っていないところが出たのでもちろんまともな解答を書けず、数学も一問も完答できませんでした。英語くらいでしょうか。まともに平均点を超えたのは...。
しかし、私は正しい勉強法をこの時期にやっていたとしてもこのタイミングで始めていても現役での合格は難しかったと思います。今思えば、勉強量も足りていなかったのです。
そして、自己流とは、言い換えれば「自分の都合のいい楽な方法でやること」でもあります。その方がお金もかからないです。しかし、やはり楽な道に逃げてもうまくいきません。
3年生の頃、憧れていた一橋大学はずっとE判定でした。一橋専用の対策をしてきたのにも関わらずです。あまり心を開けなかった担任(考え方が自分と合わなかった)から志望校変更を提案されました。名古屋大学に変えれば問題なく現役合格を狙えるとのこと。名古屋大学ももちろん立派な大学なのはわかっています。
ただ私はなんと言ってもバカなんです。一橋大学しかカッコよくないと思っていました。名古屋大学だって現役合格を「狙える」だけで全く余裕なわけではなかったです。クソ生意気ですよね。(笑)ちなみに第二志望は私立の上智大学でした。「なんで早稲田大学や慶應義塾大学じゃないか?」だって、上智大学のほうが、名前の響きが一番かっこいいじゃないですか。私、かっこいいと思ったものを追いかけたくなってしまうんですよ。
担任の先生に対しては、「志望校変更の提案とか、私を舐めないでほしい」という気持ちでいっぱいでした。浪人してでもいいから妥協をしたくなかったんです。一橋か上智に入らないと納得いかなかった。私は決めたことを曲げられない人間なのです。
それがかっこいいと思っていましたし、人生は自分が主役の映画だと思っていました。とにかくかっこいい台本で物語を進めたかったのです。
しかし、担任の言う通りで、やはり、一橋大学は無理でした。上智大学もダメでした。結局浪人しました。奇跡は起きないですね。今思えばまだ努力が甘かったですね。奇跡を起こせるだけの行動量ではなかっただけだったんですね。まぁ当然の結果だったのかもしれません。
さっきのパートで、正しい勉強法を一橋大学を目指し始めたタイミングでやり始めても、現役合格は難しかっただろうなと言いましたが、ここでその理由を話します。
「中学と違って、【量】でゴリ押せないから。」
もう高校くらいになると、有名大学に入りたい人たちはみんな早い時期からかなりの勉強量を確保してるからです。凡人なら常識を超える勉強量を確保しないといけません。部活動も忙しい部には入らない方がいいですね。私は、運悪く忙しい部に入ってしまっていたため、高校3年生の時、せめて、体育祭の応援団みたいなものには参加せず、なるべく自分の勉強時間を確保できるように自分なりに工夫していました。それでも無理でした。
よく、学校の先生に「文武両道が〜」とか「メリハリをつけて部活も頑張っている人の方が合格する可能性が高くて〜」とおっしゃる方がいますけど、あれ嘘ですからね!あれ嘘です!まぁ嘘と言うと言い過ぎですが、半分本当で半分嘘です。凡人なら、ある程度の運要素に背中を押されない限り最初は物理的に常識はずれの勉強時間を確保できる環境が必要です。強豪の部活とかに入っていて練習で土日ほぼ潰れるみたいな環境だとやはり厳しいと思います。睡眠時間を削るなどの方法はあるかもしれませんが、過度なものは推奨できません。要領がいい人とか、地頭がいい人はいいのですが、私みたいな地頭良くない大凡人にはやはり厳しかったですね。
奇跡って偶然起こるものではなく、やはり必然で起こるものだと思います。
でも私は、凄まじく忙しい部活動の中で、体力をつけられたと思います。大切な仲間もできました。その仲間に刺激を何度ももらいましたし、ここで得た体力は浪人生活に活かせました。やはり無駄なことなんて何一つないですね。全てが人生の糧になります。
浪人時代、一橋合格はまぐれでもなんでもなく、起こるべき奇跡が起きただけなんです。次の章で話しますね。
一橋に受かるための勉強に対する姿勢の改善
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