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だから俺は官僚を辞めた。ーこんな時代だからこそ夢に素直に生きる。

現代は夢を追う人間があまりに少ない。
このままじゃ日本はどんどん暗くなっていくだろう。


私は今、夢中で夢を追っている。その夢を追いかける姿勢というものを確立し始めたのは紛れもなく大学受験のために浪人生活をしていた時だ。
2017年、私が大学受験予備校で過ごしたあの1年から、明らかに私の人生は劇的に変わっていった。

元偏差値37の凡人少年(なんなら物覚えなどはとても悪かった)が、勉強で人生を変えていく中で直面した、最も大きかった壁。
まずは、この壁を越えた話をしよう。



学生時代・大学受験時代(自分の芯をつくった大切な1年)

中学1年生の頃、あまりに勉強ができなかった。授業もまじめに聞いていたし、宿題だって真面目にこなしていたのに、テストは英語以外ほとんど平均点に届かずという結果。

見かねた母は私に学習塾に入ることを勧めた。
拒否する理由も特になかったため、入塾を決めて、入塾テストを受験。

そこで模試の成績表に書かれていたのは偏差値37

逆にとるのが難しい数字を当時の私はあっさりとってしまった。
今となっては衝撃的な数字だが、
その時の私は、事態の深刻さによくわかっていなかった。
とりあえず、せっかく塾に入ったので塾では真面目に勉強をしていた。
そんな日々の中で、好きなアーティストができた。そのグループなどのライブ活動を見ていると、私も頑張りたいと思うようになった。

推し活なんて言葉が流行しているが、私は肯定派だ。推しの存在で人生が好転していった人を何人も知っているからだ。
人生がおかしくなる人も一定数いるが、自己責任だろう。

推し活にも肯定派と否定派がいるが、そもそも私は人の好きなものを否定するような人間にはなりたくない。

私は勉強を頑張るようになり、気づけば偏差値は60を超えるように。それなりに優秀な高校には入れるレベルになってきた。
大口をたたいて無茶な目標を設定し、達成してかっこいい生き様を見せるのが当時から好きだった私はこんなことを思い始めたのだ。

よっしゃ、俺は更に成績を上げて地域でナンバーワンの進学校に行くぜ。

そう思い始め、毎日塾の開いている時間は塾の自習室に行き、勉強をしまくる日々。部活も全力で取り組み、成果を出していた自分は推薦入試で無事地域ナンバーワンの高校に合格した。中1のころ偏差値37だった男は、中3のころには偏差値73まで上り詰めていた。

しかし、高校時代ではまた苦労をすることになる。
地域ナンバーワンの高校というのは、周辺の地域の中学校のトップ層だけが集まってくるのだ。中学校でトップ層にいた人の誰かが最下層にならざるを得ない構造。

中学時代から人より勉強量を確保して道を切り開いていた私だったが、部活が忙しく毎日のように土日は1日中部活があった。そのため、人より圧倒的に多い勉強量というのが確保できず、正直あまり質も高くない勉強をしてしまっていたため、現役時代の大学受験は失敗。
しかし、当時憧れていた一橋大学が諦められずに浪人を決意。

浪人時代の模試では順調にいい成績をとってきた。誰もが私は合格すると思っていた。
毎日13時間ほど勉強。土日や祝日なんて概念はない。
休むことなくずっと勉強をつづけた。大晦日すら夜まで塾の自習室にいた。

浪人するというのは1年間で100万円以上をかけた人生の大勝負だ。
1秒も無駄にできない。だからこそ休むことすら怖かった。

無心で頑張り続けたが、神は試練を与えた。
国公立大学の1次試験に相当するセンター試験(当時の共通テスト)で大失敗。国語に足をすくわれたのだ。

1次試験の点数が低い場合、倍率次第では足切りになって2次試験を受けられない可能性すらあった。
その日から、ただでさえ休みもなくずっと孤独と戦いながら勉強をしていてメンタルも良好ではなかったのに、私の心は余計に追い込まれてしまった。

気付けば食べ物がのどを通らなくなり、呼吸が苦しくなることも増えてきた。毎日龍角散ダイレクトを飲んで呼吸の苦しさをごまかす日々。
100万円も親に支払わせて、自分も毎日13時間以上勉強して、
一橋大学に合格できなかったらどうしよう。

その不安でいっぱいだった。センター試験にとどまらず、私立大学も志望順位も高かった大学は軒並み不合格。センター試験まで順調だったのに、全てが狂っていくのだった。

もう終わりなんだろうか。この1年は何だったんだろうか。

塾に行くと、一橋大学に不合格になる恐怖で発作が起こるように。
呼吸が苦しくなり、塾ついて数十分で早退。
緊急検査。特に何も異常はなし。
なのに、心拍数だけが異様に高い。

受験まであと1週間。親の助言もあり、最後の1週間は家でゆっくり過ごすことに決めた。

迎えた一橋大学受験当日、センター試験(今で言う共通テスト)でも私立大学入試でも報われなかった私に、最後の最後で神が手を差し伸べた。

一橋大学2次試験は英語国語数学社会の4科目。一橋大学社会学部の配点はセンター試験180点:2次試験820点なので、正直2次試験で勝敗が決まる。

2次試験当日、相変わらず拒食症だった私は何も食べ物がのどを通らず、ウイダーやチョコレートをつまみ、なんとか持ちこたえていた。

自分の勝負科目。かつ、大学受験最後の試験の日本史。得意単元、塾の直前講習でやった単元、出ることを予想し特に勉強を多めにしていた単元の3問構成。試験問題を見て合格を確信した。
私はガッツポーズしそうになる衝動を抑えて、最後に報われた喜びから泣きそうになりながらも、最後の120分の試験を心から楽しんだ。
その日の帰りの新幹線ほどやり切ったという気持ちに満ちた時間はこれまでの人生では一度もなかった。全く悔いを残さなかった。

その後、拒食症は本当に精神的なものだったことがわかる。入試が終わってから少しずつ食べられるものが増えていったのだ。カレーのような少し期待チックなものからつるっと食べられるうどんなど、少しずつ食べられるものが増えていったのだ。

そして合格発表日。そこに私の番号はあった。
一橋大学社会学部への進学が決まった。
両親の支えがあって、一緒に一橋大学を目指して切磋琢磨しあった仲間がいてくれたおかげで、自分の手で道を開くことができた。

決して頭が良い方ではなかったが、人の何倍もやって絶対に一橋大学に入るという強い意志がこうして形になった。

才能だけじゃ努力に勝てない。
努力だけじゃ楽しむやつには勝てない。

One stroke for freedom / UVERworld

私の大好きなアーティストUVERworldの曲にある歌詞。
まさにこのとおりだと思った。
私には才能なんて決してなかった。だから努力で才能のある人たちに勝つんだと決めていた。そして、努力をしていく中で、勉強を楽しんでいた。
だから浪人時代を乗り越えられたのだと思う。

一橋大学入学の切符を手にした私は、夢と希望をもって愛知から上京した。


大学時代・就職活動(夢を見つけ、追いかける)

「私が出会ってきた人たち全員幸せにする」
私の夢の根幹はこれだった。いくつかの夢を持つこととなり、夢に振れ幅は多少あるものの、この根幹は全くぶれなかった。

こんなことを思っていた当時の私が可能性を感じていたのは旅だった。
旅について研究をするという強い意志を持ちながら入学式を迎えた。

私は人が幸せを感じる場面について深く思考を巡らせていた時、
家族旅行、友達との旅行、恋人との旅行、一人旅…
人々がしているどの旅にも、幸せが存在していることに気付いたのだ。

旅行を楽しみに生きる人・仕事を頑張る人がこの社会にはたくさんいる。
じゃあ私は旅行を通して人の幸せを創れないだろうか。
だから大学で旅について研究することに決めた。
大学生のうちに、自分も積極的にいろいろな場所を旅して回った。
貯金などは一切せず、とにかくに体験に投資してきた。
若いころの経験はその後の人生に活きていくからだ。
若いうちにいろいろな経験をすることで、未来の自分がどんどん面白い人間になるのだ。深みのある人間になっていくのだ。

大学生らしい遊びはあまりしてこなかった。
サークルにも入っていなかったし、大学でずっと一緒にいるような人も特にいなかった。正直大学は勉強をする場所だとしか思っていなかった。
授業はほとんど前から5列目以内で受けていた。成績もよかった。
大学の授業が楽しくて仕方がなかったからだ。

そんな私の、大学の卒業論文のタイトルは以下の通り。
なぜ人は旅を求めるのか
―旅・旅行・観光の今までとこれからー

人の幸せに貢献したいという思いから、「旅」というところに着目した。
私が大学に通っている時期は、3年生から新型コロナウイルスの流行にちょうど重なっている時期だった。
そこで、世の中では「旅行は悪」という風潮が広まっていた。
旅行が人々の幸せをつくる大切な要素だと認識していた私は、その世の中の雰囲気に違和感を感じていたのだ。

人の幸せに貢献したい私は、公務員を志望。
(コロナ禍で旅行業界の採用が厳しかったのもあるが)
国家総合職も含めて、試験は全て合格。
「俺観光関係の仕事がやりたいっす。」とすべての採用面接で言ってきた。

国家総合職の内定をもらったときは、多くの方から称賛を浴びた。
正直、都庁が第一志望で、国家総合職は記念受験で受けたらなんか受かってってくらいなので、そこまで誇らしげではなかった。

そして、観光産業で働くこと以外にもやりたいことがたくさんあった私は20代のうちには公務員は辞めて次のキャリアに進みたいと考えていた。
新社会人になる前から転職を意識していたのだ。いかにもZ世代って感じだろうか。

公務員はどうあがいても副業禁止だ。もちろん、届け出を出せば認められる種類の副業もあるが、公務員という身分が足かせになることは間違いなかった。やりたいこと・夢がいくつもあった自分は、いずれは公務員を辞めた方が次の夢を叶えやすいと考えていた。

夢はいくつあってもいい。皆さんも複数夢があるのであれば、どれか一つに絞ることなんてしなくていい。全部叶えに行こう。
夢の叶え方が多様になったこの社会であれば、すべて叶えるのだって不可能ではない。

未来を見据えながらも、何はともあれ社会人デビュー。
晴れて国家公務員になった。
願いが叶い、旅行に携われる部署に配属された。本当に嬉しかった。
願い続けた場所に1年目から配属してもらえるとは思ってもいなかった。
こうして私の社会人生活が始まる。

国家公務員時代(全ての夢を叶えるという決意が固まる)

公務員として働いた2年間は本当に楽しかった。
やりがいがとにかく大きかった。
上司にも恵まれて、全く不満なんてなかった。

しかし、私は人の幸せに貢献できているような感触を得られなかった。
さらに、部署異動もあるため、ずっとやりたかった観光の仕事をできるのは仕事人生のうちのごく数%だろう。

もっと直接的に人の幸せに貢献したくなった。
どうしても国家公務員というポジションは、大きな仕事をやらせてもらえる一方で、1人1人の人との距離が遠い。
少なくとも、志していた観光業界に携われる時間の短さを踏まえても、新しい道を選ぶことが賢明だと考えた。

そんな時に、私のやりたいことが明確に脳内にあった。
「死にたいと思っている人に、生きたいと思ってもらえるような生き様を見せる」
「自分の生き方や言葉を見て、前を向いて歩きだす人を増やす」

私が観光産業で働くという夢をまず叶えた後、次にやりたいことはこれだ。
私は抱いている夢をすべて叶えると決めている。

実は、私は大学時代からずっと言葉をつづってきた。
noteやX(旧Twitter)で言葉を書き続けていた。

けんたんの言葉を見て、進路について真剣に考えるようになった。
けんたんの言葉を見て、生き方を考え直した。
けんたんの生きざまを見て、新しいことを始めた。
けんたんのnoteの文章をスクショして受験生時代に携帯の待ち受けにしていた。

これはすべて私のもとに寄せられた言葉。

嬉しかった。自信になった。
「俺、書くこと・話すことを仕事にしたい。」
そう強く思うようになった。

勇気を振り絞って、言葉を発信することを仕事にすることにした。

明日死ぬかもしれないじゃん。来週死ぬかもしれないじゃん。
やりたいことをやってないと後悔して人生が終わってしまう。

公務員を辞めることを決意し、上司に報告に回り始める。
「一切迷いはないです。」
私は上司にはこのように言い続けた。
あまりの意志の強さを前にして、上司は何も言わず。

心配をしてくれた上司の懸念は以下のようなもの。
「物書きとしての人生は応援したいけど、生活が心配。今のように毎月一定額のお金が入ってくるわけじゃないからそれだけが心配。」

私はこう答える。
「あ、僕生命力あるんで大丈夫です。(笑)」

大丈夫じゃないだろ。いい加減にしてほしい。

私は大学時代「体験」にすべてをかけていたので、貯金は0からの社会人生活のスタートだった。公務員を始めて1年で100万円ほどは貯金できた(100万円のうち多くはNISAへ)。あまり高い買い物をしないからだ。

それに、私は車や家・子どもを全くほしいと思っていなかった。
だからこそ、とりあえず夢を追いかけながらその時々を生きていければそれでいいだろうと思っていた。

私はKindle出版デビューから目立っていきたい、いい作品を作っていきたいと思ったため、Kindle出版とその後のビジネス展開をサポートしてくれるコンサルを受けることに。人生で一番大きな決断と支払いだった。

そして、仕事を辞めればもう通勤が不要になるうえに、パートナーと暮らす方向にもなっていたため引っ越しを決意。

人間が変わるためには、「環境を変える・人付き合いを変える・時間配分を変える」しかない。

経営コンサルタント 大前研一さんの言葉

まさにこれだと思った。「そうだ、環境を変えよう。」
私は一度決めたら突っ走るタイプ。
引っ越し先は、パートナーと一度遊びに行った時から、引っ越すならここにしようと決めていた湘南エリア。3月は引っ越し費用が高いため、2月1日入居で引っ越し。

でも引っ越し費用って高い。特に初期費用。
私の貯金額は目に見えて減っていった。
これからただでさえ収入が不安定になっていくのに。

俺、大丈夫かな。

親友にも親にもパートナーにも、誰にも言ってこなかった不安が明確に頭の中にはあった。
しかし、自分は強い人間でいたかったから、常に吐く言葉は「大丈夫」だった。
私は、実は別にそんな強い人間じゃない。
大学時代にも、落ち込むことがあるたびにストロングゼロを体に流し込んで気絶することで無理やり寝たり、現実から目をそらすのに必死だったり。アルコール度数9%のお酒を毎週欠かさず飲んでいた。

「けんたんは強い人間だね。」
「毎日のようにランニングしててすごいね。」
「迷いなく夢に向かって突っ走っててすごいね。」

たくさんの人が言ってくれる言葉。

でも実際は、全然そんなことない。
ランニングを始めたのだって23歳の時。
それに、夢に向かう決意をしたのも、
「今すぐ自分が死んだら俺はどう思うか。まわりはどう思うか。」
ということを、ある時期に毎日考えていた時、頭の中で後悔が浮かんだから。

でも、そこに浮かんだのは自分が人生に後悔を残す恐怖だけじゃなかった。
「後悔をして死んでいく人がこの世にはたくさんいるんじゃないかな」
こんなことが頭の中に浮かんだ。

人の心配してる場合じゃないのは私が一番わかってる。でも私は、自分以上に他人のことを救いたくなってた。

「まだ死んでられない。俺はだれかの人生を変えてから死ぬんだ。」

これが私の生きざまの根幹。
私にとって話すことは、そして、書くことは確かに仕事。
でもビジネスなんて言葉で絶対片付けたくない。

私の書く言葉、話す言葉の全てが世の中に投げかける遺言だ。
人間である以上、いつ死ぬかなんてわからないから。

いつ死ぬかわからないから、今日という日に今やりたいことを全力でやるって決めた。
何が老後2000万問題だよ。
今幸せに生きれないやつが、どうやって老後幸せに生きるんだよ。

今幸せを感じられない人に、あなたのまわりにある幸せに確実に気づいてもらう。今死にたいと思っている人に、「まだ生きたいかも」って思ってもらう。

これが私の人生のテーマ。私の呼吸が止まるその瞬間まで俺はずっとこれだけを求めて生きてやりたい。それが俺の幸せ。

3月末を迎えて、フリーランスとしての生活が始まった。


フリーランスの現在(私は夢を叶えて、ミッションを達成して終わりたい)

フリーランスとしての生活・電子書籍作家としての生活・講演家としての生活が始まった。

2024年4月1日に早速開業届と青色申告承認申請書を提出し、新しい生活がスタート。

4月6日には、Amazon Kindleにて電子書籍デビュー作『現状の不満を壊す・新マインド大全』を出版して、大きな反響があった。出版して2日間で117人の方から購入していただいた。会ったこともない、顔も知らない人から数千字の感想がDMで届いた。

・人生諦めかけてたけどまだ終わってないと思えた。
・救われた気がした。
・自分は自分のままでいいんだと思えた。
・もう一度頑張ってみたいと思えた
・自分も同年代として負けてられないと思った

そんな言葉が彼らの感想には並んでいた。自分の想いが届いているようで、すごくグッときた。

現状に不満を抱えながら、「もう自分の人生なんて」って思ってる人がたくさんいる。だからこそこの1冊を書き上げた。

あなたの人生は決して終わってないよ。ていうか俺が絶対終わらせない。
あなたの人生変えるために言葉書いてるんだよ。
私でよければ何回でも何十回でも救わせてくれよ。

決して強い人間じゃないし、もともと別にそこまでモテる人間でもなかった。頭だって別に良くないし、運動神経もよくない。
でも、あなたが幸せで生きてほしいって思う心ならマジでそこら辺の人たちには絶対負けないって思ってるから。いつか誰かを救える強さを持っていたいからランニングをしている。

そして、出版社での講演会に登壇。
17名の方が現地まで駆けつけてくれて、10名の方がオンラインで動画視聴をしてくれた。
会場は大盛り上がり。毎週かなり多くのイベントを開催している出版社さんの担当者さんからは、
「初めてとは思えないくらい話すのがうまいですね。」「お話しするお仕事されていたのですか。」とまで言っていただけた。

仕事では基本的にパソコンを開き、Wordでずっと文字を打っていた私は、「いや、ちょっと練習しただけですね~」としか言えなかった。(笑)

しかし、たくさんの人から「元気がもらえた」「自分も頑張ろうと思えた」といった感想をいただいた。素直に嬉しかった。

何よりも、人に話をするのが何よりも楽しかった。
私はこれを仕事にして生きていきたいと心から思えた。

こうしてKindle本デビュー作と講演会デビューを経て、作家・講演家として生きていくと固く決意した。

それからは、Kindle作家として執筆活動や人の出版のサポートをし、講演家として言葉を届け、クロスメディアマーケーターとして活動している。

理由は以下の3つだ。
まず、自分の生きざまを発信することで誰かに勇気を与えたいから。
そして、それぞれの人が持つメッセージを世の中に届けるサポートをすることで、また誰かに勇気を与えていきたいから。そこで有効だと考えたのがKindle出版とSNSだった。
最後に、いろいろな人に出会いながらこれからの人生を歩んでいきたいから。

好きなことを本気で仕事にしているが、まだ収入面は決して余裕があるとは言えない。
今だから言えるが、4月に上げることのできた収益は5万円程度。当たり前だがこれでは生きていくことはできない。副業で塾講師をしているが、始めた4月の給料は3万円ほどだった。1日派遣バイトなんかも気晴らしにして、1万円程度。
4月は公務員の退職金と、3月の残業代が入ったため無事生きていけたが、この退職金と3月分の残業代がなかったら余裕で破産していた。

5月はどうだったか。私が提供するオンライン家庭教師のサービスやSNS運用コンサルのサービスが多くの方に注目していただけるようになり、オンラインでの収入は15万円ほどに。塾講師としての収入は7万円ほど。

まだ余裕はないが、この調子であれば生きていける、手ごたえを感じながら、執筆時点でもがむしゃらに進んでいる。

余裕そうな顔をしているが、実は公務員時代に積み立て投資をしていたつみたてNISA・新NISAからもほとんどのお金を引き出した。知っている方も多いが、複利の力を働かせるためにも「引き出さない」というのが鉄則だ。
そもそも、投資というのは半年分くらいの生活防衛資金を貯めてからするというのが鉄則だ。iDecoじゃないからいつでも引き出せるしいいやという理由で私は初任給が入った時から積み立て投資を始めていた。

しかし、間違いなくNISAでの投資をやっておいてよかった。80万円ほどの投資でプラス15万円ほどになったからだ。本当にNISAに入れておいてよかったと心から思った。大学時代からお金の勉強をしておいて正解だったと改めて自分の積極性をほめたたえていた。

正直、2024年6月現在決して余裕のある生活などはできていない。ようやく分割支払いだった引っ越しの初期費用は払い終わったものの、今度は住民税などが重くのしかかる。人生というのは儚い。

お金に余裕ができたらパートナーもずっと飼いたがっているウサギをお迎えしたいし、パートナーを旅行にも連れて行ってやりたいし、両親にも恩返しをしていきたい。
だが、正直今は現在を生きるのに必死だ。しかし、SNSコンサルが好調であったり、外部からSNSセミナーの依頼がきたりと確実に一歩一歩前へ進んでいる感触がある。今は踏ん張りどころ。夢を叶えた先で、必ずまわりの人たちに還元していきたい。

夢は始まったばかり。
私は自分の言葉と生きざまで、誰かの人生を好転させていきたい。
その誰かが、また誰かの人生にいい影響を与えていくといったプラスの連鎖を作り上げていきたい。

私が何者になるか、楽しみに見ててほしい。
これから私が描く道のりに、期待を込めていてほしい。

夢を持っている人、胸張って追いかければいい。
全員に反対されても、私だけは絶対背中を押す。
そんな人間でいます。

夢を追いかける大人が増えていけば、
きっと日本はもっと明るくなるだろうな。

あなたが堂々と夢を追いかけられますように。
そんなあなたを見た人も勇気を出して夢を追いかけられますように。

ここまで読んでくださったみなさん。本当にありがとうございます。

もしいつかこれを読んでいるあなたに会えることがあれば、
絶対笑って会いたいな。あなたの夢を聴きたいな。
あなたが道に迷ったときに、道筋を照らせる人間でいられるようにまだまだ強くなるよ。

今まで出会ってきてくれた人たちが一人残らず幸せに生きていることが私の夢だ。もちろん、今これを読んでいるあなたも含めてね。
泣けるくらい辛いことがあった時、自分が何かあなたの支えになれたらいいな。

絶対。笑って会いましょう。それが私の幸せだ。
あなたもその瞬間幸せだといいな。あなたが笑っていますように。





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櫻井健太(けんたん)|SNS・ビジネス発信
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