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僕が英語を話せるようになったのは。
「けんたさんは英語を話せるからいいですね。」
と言われることがあります。
たしかに英語を話せることで世界中の人たちと会話ができます。
仕事の幅も広がります。
世界を旅行していても基本的に困ることはありません。
昨今では、英語のレッスンを行う企業が上場するほどの市場があります。
それだけニーズがあるということです。
2020年から英語の授業が義務化もしましたし、
英語を学ぶことは素晴らしいことかと思うのですが
僕にはこの現象にちょっと違和感を感じてきました。
聞くところによると、レッスン企業の受講者はキャリアアップのため、海外駐在のためなどお仕事周りの目的が多いと聞きます。
また、小学生から英語を学ぶ目的に関しては「将来きっと役に立つからね。」「グローバル社会で活躍するため。」などふわっとした回答しか出せないのが教育現場の実情ではないでしょうか。
この違和感を言語化するにあたり、すこしだけ僕が英語を話せるようになったきっかけを話します。
・・・
英語との出会い。
僕が中学校二年生のときの話です。
僕が生まれ育った当時の北海道札幌市は、今でこそ世界中から旅行客が訪れていますが、小さい頃はそんなに海外の方と出会う機会はなかったように思います。
ですが、中学二年生の夏休みに友人に誘われたイベントでアメリカから来た方と出会う機会がありました。
もちろんそのときは英語なんて話せません。
だけど、本当にアメリカから来た人なんだ!わくわくして、緊張しながらもHow are you?と一言話してみたことを覚えています。
そうするとニッコリと笑顔でI’m good!と返事をもらいます。
その返事をもらえた瞬間、僕は本当に飛び上がり喜んでいたと思います。それは英語が通じた、という感動もありますが、海を超えて異国に住んでいる人たちとつながることができた事実に喜びを感じました。
将来、絶対に英語を話せるようになる、と決めたのはそのときです。
その翌朝。
そのイベントに誘ってくれた友人と二人で、英語の先生だった南部先生に会いに行き、「先生、朝のホームルームの前に僕らのために英語のレッスンをしてください。」とお願いをします。
南部先生は嫌な顔を一つすることなく「お、よしやろうか!」と返事してくれました。今考えると先生はやることがたくさんあったはずだろうに本当に感謝です。
8:30から始まるホームルームの30分早く、8:00からスタートする僕ら二人のためだけのプライベートレッスンがそこから始まります。そのときからとにかく英語を勉強することが楽しくて、大好きな時間でした。
時たま「ごめ〜〜ん!遅れた〜〜!」と、手を合わせながら走ってくる南部先生の顔を今でも思い出す。
それからと言うものオーストラリアに短期留学したり、大学から正規留学でアメリカに住む機会を両親にもらい、毎日たくさん勉強をする中で英語を話せるようになりました。
・・・
「◯◯のための教育」
さてちょっと自分のエピソードが長くなってしまったのですが、僕が問題提起したいのはキャリアアップのため、給与を上げるため、世界で活躍するため、などの「◯◯のための教育」は生きる上でどれだけ大事なのだろうか、という疑問です。
もちろん外国語を習得することは素晴らしいことだと思います。否定はしませんし、僕自身も「◯◯のため」で学んだことはたくさんあります。一方で日本では英語に関して意識しすぎているのではないかと思ったりしています。
◯◯のため、という目的意識が強すぎると生きる喜びが無くなるというか…なんかちょっと生きる上の大切なものからズレている気がしてなりません。
つまるところ「◯◯のための英語」を学ぶよりも、自分の心が喜ぶことを見つけて、そこに時間を使ったほうがよっぽど豊かな生活になっていくと思うんです。
英語を学ばなくても、石を集めることでも、四葉を見つけることでも、昆虫を探すでも、心が豊かになることであればそれを探求していいはず。僕はそういった自分の豊かさに向かっている人がすごく好きで、きっと社会からは「変わり者」として扱われることもあるのかもしれないけど、本当に素敵だと思うし魅力的に見える。
日本の「英語英語!」と叫ばれる社会には自由がない気がします。
それってあなたが本当にやりたいことですか?
子供たちが本当にやりたいことですか?
と思ってしまう。
手段としての英語が話せるようになった上でその先に豊かさがあるんだ!と反論もあるかもしれませんが、、、コト英語に関しては、ちょっと意識が強すぎるように感じるのです。
・・・
楽しいから、やる。
僕が英語を話せるようになったのはシンプルにそれが喜びだったから。
将来役に立つとか、キャリアアップとか少しも考えたことがないですし、全く興味がないです。
英語を話せることが嬉しいから、楽しいから。それだけ。
砂場で遊んでいる子どもたちと何ら変わりません。
道を迷っている人に声をかけて仲良くなったり、英語のメニューがなくて困っているお客さんとレストランでお話できたり、海外で友達が作れたり、そんな些細なことが僕にとっての幸せです。
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みんな国籍が違うし、違う言語を話すし、違う宗教観を持っている。
英語を学ぶことは自分らしくある手段の一つだったわけで、南部先生にプライベートレッスンを頼んだのも、留学をしたのも自分が楽しい生活を送るために行動しただけです。それが英語を話せるようになったたった一つの理由。
高尚な理由は何もありません。
留学経験や起業経験があると、つい小さい頃から高い意識を持っていたんでしょうと思われがちで、それがとても嫌でした。何度も書く通り、高い意識ではなく、砂場の子どもたちと同じ意識だと思います。
・・・
心で感じる物事は人生の拠り所になってくれる。
英語を勉強し始めてから10年以上経った今でも、僕にとっては「英語を話せる。世界の人と繋がれる。」ということが心の拠り所です。
大げさではなくそんな気持ちを感じられるだけで生きる力が湧いてきます。嫌なことがあっても耐えることができます。
だから「けんたさんは英語を話せるからいいですね。」には、少しいつも違和感を覚えます。それはどことなく、「英語を話せるから(◯◯ができて)いいですね。」に聞こえてしまうからなんだと思います。
「将来◯◯のためにこれを勉強するんです。」ということもいいけれど、「なんか楽しいんですよね。」「ついやめられなくて…。」みたいなことも沢山追い求めてほしいなと僕は思います。大人はそういった子どもたちの衝動を応援してほしいなと思います。
ん〜、表現がむずかしい。
何度も書く通り、英語を勉強することを否定するわけではありません。目的のために勉強することはかっこいいし、止めなくてもいいと思います。
ただそれによって日々感じられる豊かさを失ってはいけない、ってことなのかもしれないです。
それを教えてくれる大人が少ない気がするし、実践している人もなかなか見えません。
だから敢えて自分はもっと自分の心のために生きようと言いたい。
自分の感性を満たすことに時間を使おう。
誰にも望まれていないけどやってしまうことに、
豊かさっていうのは眠っていると思います。
最後に、南部先生ありがとう。
ー僕が英語を話せるようになったのは。
金田謙太