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【小説】クラマネの日常 第8話「鉄の女」

 僕はひょんなことをきっかけに、小さな村にある総合型地域スポーツクラブのマネジャーをすることになった。
 竹内隼人。それが僕の名前だ。郷田さんという役場職員のかたに強引に誘われて、この仕事をすることになった。仕事には慣れてきたと思う。でもクラブの関係者には変わった人がたくさんいて、僕はいつも戸惑ってばかりいる。

 僕たちのクラブは、元々は千賀村の教育委員会が立ち上げたと言っても過言ではない。今では、小さなクラブハウスではあるけど自分たちの拠点を持ち、村からの補助金もゼロで自主運営ができている。でもクラブが設立された当時は、教育委員会の中に事務局があり、人員の面でもお金の面でも、ほとんど教育委員会に頼り切っていたと思う。もちろん当時の僕にはそれが当たり前に思えていたのだけど、「こんなのおかしいだろ!」という中山さんの勢いに押され、クラブはあれよあれよという間に自立への道を歩みだした。中山さんと言うのは、僕と一緒にクラブマネジャーをやっている人だ。
 千賀村教育委員会とは、それ以来付き合いがずっと続いている。事業を委託してもらったりもしていて、かつての依存状態ではないが、協力し合っているというところだ。
 今日もこれから、委託してもらっている事業についての請求書を村に提出へ行くところだ。四半期毎、つまりは3か月毎に請求を行っている。僕はクラブハウスを出て駐車場を横切り、役場とクラブハウスを隔てている唯一の道路を渡る。横断歩道を渡る直前に車道の車が停止をしてくれたので、僕は渡り切ったところで振り返って深くお辞儀をする。もう大人なのだし、そこまでしなくてもいいのかなとも思うが、子供の頃から染みついた習慣はなかなかとれなかった。
 役場の敷地に入ると、また駐車場を横切り、役場庁舎の隣にある建物へと向かう。教育委員会の事務局が入っている建物だ。一般の人も利用が可能で、お年寄りの団体がよく出入りをしている。その為か大きなスロープが玄関前にはついていて、2階建ての建物だが、ちゃんとエレベーターも設置されている。僕はクラブ設立当時はここに勤務させてもらっていたから、馴染み深い場所だ。最近は月に1回か2回くらいしか来ない場所となったかつての職場に、懐かしさを感じながら足を踏み入れる。
 玄関の自動ドアを抜けると、靴を脱いで下駄箱に入れ、靴下のまますぐ横にある『教育委員会事務所』と書かれたガラスドアを開ける。目当ての人はすぐに見つかった。
「こんにちは。お世話になっております。竹内です。斉藤さん、お願いします」僕は受付カウンターから、一番遠くにいる斉藤さんに聞こえるように言った。斉藤さんは教育委員会の事務局長で、とても腰の低い話しやすい人だ。前の郷田さんほど頼りにはならないけど、凄い引力で周りのものを全て巻き込んでいく郷田さんとは違って、斉藤さんとは安心して話ができる。総合型地域スポーツクラブの担当ということでいうと別の人がいるのだけど、どの人はどうも僕は少し苦手で、斉藤さんがいる時は斉藤さんに話しかけるようにしている。
「あ、竹内さん。はいはいお待ちくださいねー」そう言いながら斉藤さんは小走りでカウンターへ向かって来た。
「どうしました?」斉藤さんは、年下で立場的にも遥か下である僕にも丁寧語を使ってくれる。
「あ、いつもの請求書をお持ちしました。ご確認ください」僕は持っていた請求書の向きを変えて渡す。
「はい。いつもありがとうございます」斉藤さんは受け取ると、中身を確認し始めた。
「うーん。これいつも僕がもらってもよく分からないんですよね」斉藤さんはそう言うと、頭をポリポリ掻いて、そのまま後ろの方を見た。
「塩田さん。ちょっと今いい?」斉藤さんが呼ぶと、塩田さんが立ち上がって、「はい」と言った。塩田さんは、僕たちのクラブの担当だ。僕たちに何か行政から知らせたいことがあるときは、いつも塩田さんが連絡をくれる。本来であれば、僕が請求書を渡したり、相談をしたりするのは、まずは塩田さんであるべきなのだが・・・。塩田さんは、ストレートの黒髪は肩の長さほどで艶があり、顔は欠点が一つもないと言っていいほど整っている。アクセサリーの類はつけていない。カーキ色の細身のパンツに黒いカーディガンを羽織っていて、スタイルもいい。一般的に言う美しい女性に確実に入ると思う。ただ僕がそれでも苦手だと思うのは、その性格ゆえだった。
 塩田さんはカウンターに来ると、「何でしょう?事務局長」と感情の一切こもっていない声で言った。
「忙しいところ悪いね。これ、スポーツクラブさんからなんだけどさ、見てくれるかな?」斉藤さんが言うと、塩田さんは「今じゃなきゃダメですか?」と温度のない声で言った。噂では、塩田さんのことを「鉄の女」と呼ぶ人もいるらしい。僕は、ピッタリのニックネームだなと思っていたが、本人には絶対に言えない。
「あ、いや、今じゃなくてもいいんだけどね、僕じゃちょっと分からないから」
「じゃあ預からせていただいて、後ほど拝見します」塩田さんはそう言うと、今度は僕に向きなおして、「よろしいでしょうか?」と言った。僕は1つ唾をゴクリと飲み込み、黙った頷いた。僕は自分自身のことにもかかわらず、「蛇に睨まれた蛙とはこのことですね」などと考えていた。
「では、もうよろしいでしょうか?」斉藤さんから請求書を奪い取るように受け取った塩田さんは、身を翻しながら言って、僕と斉藤さんが何も言わずにいると、スタスタと自分の席に戻っていった。
「じゃあ確かにお預かりしましたので。お疲れさまでした」斉藤さんは僕に向かってそう言うと、自分も席に戻っていった。僕も、「よろしくお願いします」とだけ言って事務所を出ようとした。
 その時だった。
「キャー!!」という声が聞こえた。塩田さん!?そう思って僕が振り返ると、悲鳴を上げて床に座り込む別の女性職員が目に入った。まわりの職員も立ち上がって女性職員の方を一斉に見ている。
「どうしました?」斉藤さんがいち早く駆け寄った。すると女性職員は、「ここに」とだけ言って、机の下を指さしている。すると、「ギャー!」と今度は覗き込んだ斉藤さんが叫び声を上げた。これはただ事ではないと、僕も「大丈夫ですか!?」と、カウンターに身を乗り出して事件の発生現場を覗き込むようにした。
 すると、カウンターを横切り、スタスタと現場を向かう人影があった。塩田さんだった。集まっていた数人の輪が塩田さんが近づくと割れて、事件現場へ塩田さんは足を踏み入れる。机の下に向かってスッとしゃがみ込むと何かをガッと掴み、すぐにまた立ち上がって裏口の方へと歩いて行った。その後ろ姿は戦争へ向かう勇敢な兵士のようにも、一仕事を終えた殺し屋のようにも見え、僕は鳥肌が立った。裏口から出て行った塩田さんは、すぐにまた裏口から戻ってきた。事務所に入ると給湯室の方へと方向を変えて姿を消し、そしてすぐまた戻ってきて、今度は自分の席の方へ向かって机の島を2回キュッキュッと曲がって、席に着いた。行っては戻り、違う方向へ曲がる。そしてまた戻って、また方向転換をして進む。それを見て僕は、珍しいものが好きなオタクの友人の家にあった、直角にしか曲がれないゲームの主人公みたいだなと思った。
 何事もなかったかのように仕事に戻った塩田さんをよそに、他の職員のみなさんはまだソワソワしていた。事件の被害者だったはずの女性職員は、腰を抜かしたのか、まだ床に尻もちをついたままだった。斉藤さんは女性職員に手を貸して立ち上がらせようとしていたが、女性職員はその手を取ろうとしなかった。斉藤さんは空中にポカンと浮かんだ自分の手を自分の領域に戻し、そのままポリポリと頭を掻いた。
 その時だった。事務所の裏口の方から、「ゲロゲーロ」という鳴き声が聞こえた。僕はその瞬間、キッと裏口を睨みつける塩田さんを見た。

 その日の夕方、クラブの事務所で仕事をしていた僕に、一本の電話がかかってきた。
「はい、スポーツクラブの竹内です」
「千賀村教育委員会の塩田です」と電話の相手は言った。
「あ、お世話になっております」と言いながら、僕は昼間の出来事を思い出し、頭の中はすぐにカエルでいっぱいになった。
「本日いただいた請求書ですが、掛け合わせる日数が間違っているように思います。お戻ししますので、修正をお願いします」と塩田さんは相変わらずの淡々とした言い方をした。
「それはすみませんでした!お戻しいただくのも申し訳ないので、こちらで作成し直してまたお持ちします。修正版と差し替えるのは可能でしょうか?」と僕が言うと、少し間が空いた。
「・・・・・・」
「あの、提出したものを修正した方がよろしければそれで・・・」と僕が言うと、「差し替える?」と塩田さんは言った。僕は意味が分からず黙ってしまう。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・カエル!!?」僕は思い付いたことがそのまま声に出てしまい、顔が熱くなる。
「あ、いや!すみません!差し替えません!直しに行きますので!」慌てて弁解するように言うと、塩田さんは「いえ、確かにその方がきれいな請求書になりますし、手間を考えてもいいかもしれませんね。では修正版を作成してください」と言った。
「はい!すぐにお持ちしますー!」僕はそう言うと、慌てて電話を切った。 すっかり変な汗をかいてしまった僕は、微かな吐き気を覚え、ゲロゲーロとつぶやいてから、請求書の修正作業に取り掛かった。

総合型地域スポーツのマネジメントを仕事としています。定期購読マガジンでは、総合型地域スポーツのマネジメントに関して突っ込んだ内容を毎日配信しています。ぜひご覧ください!https://note.com/kenta_manager/m/mf43d909efdb5