生涯スポーツ社会を実現する為に

 どうも、ふじみスポーツクラブの上杉健太(@kenta_u2)です。埼玉県富士見市で、誰もがいつまでも、自分に合ったスポーツを続けられる地域社会の実現を目指して、総合型地域スポーツクラブの運営をしています。

 今日は、『生涯スポーツ社会を実現する為に』というテーマでお話ししたいと思います。大事なことは何度でも何度でも言うべきだということを思い出し、私が総合型地域スポーツクラブを普及発展させたい理由みたいなことについて、目指している姿について、お話ししたくなりました。


生涯スポーツ社会とは

 まず、生涯スポーツ社会とは何ぞや、ということですよね。生涯スポーツ社会とは、誰もが当たり前のように生涯にわたってスポーツに親しんでいるような社会のことです。

 今の日本が生涯スポーツ社会かと言われれば、たぶんはっきりと「YES!」というにはちょっと遠くて、どっちかというとスポーツは子どもの教育ツールの一つであり、あるいは限られた”スポーツマン””体育会系”の人だけが大人になっても続けていくものというイメージが強いと思います。

 私の描く生涯スポーツ社会は、本当にどの人に聞いても、当たり前のように「あぁ俺は月曜日にバスケをやっているよ」「私は火曜日にバドミントンをやっているわ」「わしは最近はテニスをやめて卓球に変えたよ」と言うような社会です。そこには”スポーツマン”や”体育会系”なんて言葉はありません。スポーツは誰にとっても当たり前のように自分の中にあるものです。

引退のないスポーツ

 恐らく、何のスポーツもやったことがないという人は一人もいないでしょう。それこそ、体育をスポーツに含めるとしたら、基本的には全国民がスポーツをやったことがあることになります。

 ところが、それをやめていってしまうのが日本のスポーツ。特に、”部活動の引退”というタイミングは大きいです。中学校や高校の部活動でスポーツを頑張って、受験が終わると、スポーツをやめてしまう。これは、スポーツ(部活動)を受験を突破する為のツールと考えている人も一定数いることと無関係ではないと思いますが、何よりもスポーツが子どもの教育ツールとして捉えられていることが大きく影響していると思います。

 スポーツは本来、子どもの為のものではありません。子どもにとっても、大人にとっても、スポーツは大事な遊びです。生活や人生を豊かにしてくれる、遊びです。
 それがなぜか(※たぶん戦争などがきっかけなのだと思いますが)、体を鍛える苦しみに変わり、集団行動を叩き込むツールに変わり、そんな苦しい思いをするのは子どもの時期だけで十分だとなり、多くの人が「もう十分だ」とスポーツを引退していくのが当たり前の社会になったのかなと思います。

 生涯スポーツ社会の実現の為に絶対に突破しないといけないのは、この『引退』です。やめてしまっては生涯にわたってスポーツに親しむというのは実現されません。やめてもまた始めればいいというのは全く正しいのですが、一度やめたものを再び始めるのは、やっぱり特別なパワーを要するものです。ずっと続ける方が、圧倒的に簡単です。これは習慣化の力とも無関係ではないでしょう。スポーツをやっている状態というのを当たり前にする。引退なんかない。それが生涯スポーツ社会です。

自分に合ったスポーツ

 スポーツが苦しみになってしまう大きな原因は、スポーツを強制させられることだと確信しています。強制させられるスポーツの大本命は、義務教育課程における体育です。義務教育は本来は、大人が子どもに教育を受けられる環境を整える義務なわけですが、実質的には子どもが教育を受けなければならないという雰囲気になっていて、体育も例外ではありません。子ども達は体育を強制的にやらされ、評価され、時に大勢の前で恥をかかされています。(※一部の子どもはヒーローになれます)
 そこで行われるスポーツ種目が自分に合っていないとしても、それは無視されます。一部のスポーツ種目だけでその子の運動能力などが評価され、”スポーツに向いている、向いていない”がなぜか決められていきます。当然、良い評価を得られず、「あなたはスポーツに向いていない」と言われた子は、その後積極的にスポーツをやろうとは思いません。

 本来であれば、もっと多くの選択肢がある中で自分にスポーツを選択できるべきなんです。種目の選択と言う意味でも、やり方という意味でも、『やり方の選択』とは、例えばプロスポーツ選手を目指してアスリートのように行うというものもあれば、ダイエットを目的にエクササイズとして行うというものもあるし、仲間との楽しい時間を目的に行うというものもあります。
 そういう多くの選択肢があって、それを自分に選択し、自分に合ったスポーツを楽しめる。それが私が描く生涯スポーツ社会の姿です。決して国民全員をゴリゴリのアスリートにしたいわけではなく、むしろアスリートも普通の愛好家も同等である社会です。プロスポーツ選手も普通の愛好家も、自分に合ったスポーツを行っているだけなんです。苦しみを乗り越えられた人がアスリートで、そこから挫折した人が愛好家、というわけではないんです。

 自分に合ったスポーツを続けられる為には、何よりも環境が必要です。身近なところに多様なスポーツ活動を行っている場が必要です。それを学校体育に任せる気は私にはありません。学校で行った瞬間に、それは評価の対象になってしまうからです。私はそこは絶対に外すべきところだと思っています。だから総合型地域スポーツクラブなんです。
 学校ではなく地域で。特定の種目ではなく、複数の種目がある。子どもだけの場ではなく、お年寄りまで多様な世代がいる。みんなで一つの目標に向かって努力するのではなく、自分に合ったやり方が認められる。そういうクラブが必要なんです。それが総合型地域スポーツクラブの目指す姿だと思うからこそ、私は総合型地域スポーツクラブの普及・発展に努めているわけです。

常に選択できる=変えられる

 もう一つ大事な点は、いくら環境が整っていてもそれを選択できなければ意味がないということです。今の日本で非常に厄介な価値観をあげるとするなら、「首尾一貫」とか「初志貫徹」みたいなものです。一度始めたものを途中でやめることを、私たちはなぜか悪いことだと思ってしまう傾向があると思います。これは長い日本の歴史の中で培われてきたものだから、なかなかすぐには抜けません。日本人は、『やめる』ということをダメなことだとしてしまうんです。

 もちろん、首尾一貫や初志貫徹が悪い考え方というわけではありません。でも、生涯スポーツ社会という観点で考えた時に、一度始めたスポーツを生涯にわたって変えられないとしたら、何が起きるでしょうか?そう『引退』が起きるんです。例えば、ずっとサッカーを続けてきた人が、怪我や障害などによって速く走ったり、長い時間走ったりするのができなくなったら、それでもサッカーを続けるべきなのでしょうか?もちろん、何らかの形でサッカーを続けるという選択肢も尊重されるべきでしょうが、そうなったらあまり走らなくてもできるスポーツに転向するという選択肢も当然のように尊重されなければなりません。
 怪我などが理由でなくても、長い人生においてはスポーツを変えたくなる瞬間はいくらでもあります。その時に気軽にスポーツを変えられることが生涯スポーツ社会の実現においては非常に重要です。それが認められない雰囲気が社会にあるから、人はスポーツをやめる時に、「引退します」などとすごい覚悟を示さなければならなくなっています。

 複数の種目がいつでも目の前に選択肢としてあり、それをいつでも選べる環境。それも総合型地域スポーツクラブが実現しやすい社会の形だと思っています。総合型地域スポーツクラブからすると、その人がサッカーをやろうが野球をやろうが、言ってしまえばどちらでもいいんです。合っていると思える方をやればいい。変えてもいい。何でもいいからずっと続ける。それこそが総合型地域スポーツクラブが求めること。総合型地域スポーツクラブは常にスポーツを変えられるクラブを目指していると言っても過言ではないと思います。


 というわけで今回は、『生涯スポーツ社会を実現する為に』というテーマでお話ししました。何となく私が目指している社会の姿が伝わったでしょうか?本当にこれを実現しに行こうとすると、もっと社会的な大きな動きにしていかないといけないし、クラブ自体ももっと大規模なものにしていかないといけないので、本当に長い長い挑戦の道のりになります。だからこそ、死なないで長く挑戦するというマインドが私には必要なんです。焦らない焦らない。人生は長い。

今回もお読みいただきありがとうございました!
ではまた!

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総合型地域スポーツクラブや筆者の挑戦のリアルな実態を曝け出しています。自ら体を張って行ってきた挑戦のプロセスや結果です! 総合型地域スポーツクラブをはじめ、地域スポーツクラブの運営や指導をしているかた、これからクラブを設立しようとしているかた、特に、スポーツをより多くの人に楽しんでもらいたいと思っているかたにぜひお読みいただきたいです!

総合型地域スポーツクラブのマネジメントをしている著者が、東京から長野県喬木村(人口6000人)へ移住して悪戦苦闘した軌跡や、総合型地域スポ…

総合型地域スポーツのマネジメントを仕事としています。定期購読マガジンでは、総合型地域スポーツのマネジメントに関して突っ込んだ内容を毎日配信しています。ぜひご覧ください!https://note.com/kenta_manager/m/mf43d909efdb5