努力とスポーツ

 子ども達は夏休み。

 どうも!上杉健太です!
 埼玉県富士見市の総合型地域スポーツクラブの代表やスポーツ推進審議会委員、長野県のクラブのアドバイザーをしながら、生涯スポーツ社会の実現を目指して活動しています。総合型地域スポーツクラブのキャリア10年目になりました。

 今日は、『努力とスポーツ』というテーマでお話したいと思います。努力とスポーツは、わりとセットで取り扱われることが多いと思うのですが、今日は、比較的スポーツが得意な僕が、一体どれだけスポーツにおいて努力をしてきたかを振り返りながらお話してみたいと思います。


 まず僕の最も古い記憶の話をしたいと思います。
 それは幼稚園に通っていた時期です。地域柄なのか、家柄なのか、僕特有の”やんちゃ性”なのか、幼稚園に通っていた頃の僕は、迎えに来た親を置きざりにして一人で家まで帰っていた記憶があります。特にトイレを我慢していた時などは、「お母さん!鍵ちょうだい!ウ○チ漏れるから先に帰る!」と鍵を奪って家まで猛ダッシュしていました。なぜかこれについては結構鮮明に覚えています。僕は本当に胃腸が弱いから、こういうことは頻繁にあったのだと思います。スポーツと関係のない記憶から入ったのは、幼少期の僕が”そういう人間”だったことが伝わった方が何となくいいかなと思ったからです。要するに僕はやんちゃで活発だったんです。常に動いていたんです。きっと親は一人で帰ることを最初は良しとしなかったでしょう。でも、一緒に走るのもしんどいし、やがて「ま、いいか」となっていったのだと思います。

 幼稚園の頃の記憶がもう一つあります。こちらはスポーツシーンです。
 同学年のみんなでリレーをやることになりました。たぶん先生が呼び掛けてやる、”オフィシャルな”リレーでした。そこで、チームを分けようということになったのですが、かなり大勢の人が僕と同じチームになることを望んで群がってきました。きっと僕はそれが嬉しく、誇らしかったのでしょう。今でもそのシーンが記憶に残っているんですね。このことから分かるのは、僕はもう幼稚園時代から既に、走るのが人よりも速かったということです。(※誰よりも小さかったけど)

 さて、僕にはこれ以上の幼稚園の頃の記憶はあまりありません。毎日何をして過ごしていたとか、そういう記憶はほとんどないんです。だから実は、なぜ僕は走るのが速かったのかというのは、よく分からないんです。ただ冷静に思うのは、さすがに速く走るトレーニングなどはしてないだろうということです。努力なんてしていないだろうということです。であれば僕の運動能力は、その時点では努力で獲得したものではなかった。遺伝による才能なのか、環境なのか、いずれにせよ僕の意思によるものではなく、何となく自然と獲得したものだったということです。

 僕は、努力という言葉をあまり使いません。あまりにも人に努力を強いる人が多く、あまりにも”見た目重視の努力”をする人が多く、ウンザリしているというのもその理由ですが、幼少の頃を考えれば、努力というものの効果がそれほど大きいとは思えないからなんですね。自然にやり続けること。それが一番で、言ってしまえば”不自然性”を含んでいる努力というものは、努力と認識してしまった時点で、もう効果が少し薄らいでしまっているのだろうなという気がしているんです。(※分かりにくいでしょうが、これ以上は説明する気はありません(笑))


 さて、記憶を小学生時代に進めたいと思います。
 ここではスポーツ活動に関する2つの記憶をお話したいと思います。
 僕は小学3年生から野球を始めました。僕は本当に野球が大好きで、当時は巨人の川相昌弘選手に憧れ、プロ野球選手を夢見ていました。僕はテレビゲームも好きだったし、学校の勉強もする人だったし、何ならサッカーとかも好きだったので、24時間・365日ずっと野球をやっていたという感じの子ではありませんでしたが、それでも野球には多くの時間を費やしていました。
 そんな僕がずっとやっていたことの一つに、『壁当て』があります。当時は家の周りの道路や公園でボール遊びをするのが許されていた時代だったので、とにかく色々な壁を使ってボールを投げていたんです。その中でもよく覚えているのが、当時住んでいた集合住宅の倉庫っぽい建物の壁です。その建物は、1階建てで、縦横が10m×5mくらいのほんとうに小さなものでした。ボロボロの木でできたドアが2つついていて、ドア以外の壁の部分なんてほとんどなかったのですが、僕はそのわずかなスペースにボールを投げてよく遊んでいました。木のドアの部分に当たらないようにボールをコントロールして。当時の僕がこれを遊びと認識していたのか、練習と認識していたのかは、もうまったく覚えていません。でもとても夢中になって何度も何度もやっていたのを覚えています。あれは努力だったのでしょうか?遊びだったのか、練習だったのかも覚えていないし、よく考えればただの暇つぶしだったような気もするのですが、確実に僕の野球に関する技術向上に大いに貢献していた行動だったのは間違いありません。でも、あれを努力と呼ぶのには、僕には違和感があるんですね。当時の僕がどういうつもりだったかは分からないのですが・・・。


 一方で、僕が明確に「あれは努力だった」と認識している記憶もあります。あれは小学6年生の時でした。来年度に中学入学を控えていた僕は、やたらと集合住宅の周りを走っていたんです。日が暮れても何周も何周も走っていました。喉から血の味がして、やがてそれも過ぎ去り、疲れすら感じなくなるようなこともたくさんありました。ただ、僕は長距離走が嫌いだったし、得意ではありませんでしたから、実際には大した距離は走っていないのかもしれません。いずれにせよ当時の僕は、中学生になった時に野球で活躍できるように、努力の方法としてランニング(長距離走)を選択して行っていました。(※もしかしたら筋トレとかもセットでやっていたのかもしれませんが、そこは覚えていません)

 実は僕には人生で2つだけ、後悔していることがあります。
 一つは若い頃から資産運用を始めていなかったこと。そしてもう一つがこれなんです。小学6年生というゴールデンエイジの時期に、長距離走というトレーニングに多くの時間を費やしてしまったことです。本当はもっと技術的なもののトレーニングに時間を費やすべきで、体力・筋力のトレーニングなんてもっと後でよかったし、何なら技術的なトレーニングをたくさんやった結果として身に着く程度でよかったと今では思うのですが、そういうことを指摘してくれる大人は僕の周りにはいませんでした。


 さて、これらの記憶を解釈した時に、僕が至った結論が、『努力というものは怪しいものだ』ということなんですよね。最後の長距離走の部分でいうと、僕はあれは、「努力をしよう」と思ってやっていました。誤解を恐れずに言うなら、”努力ありき”でした。「中学生になる前に何か努力をしなければならない!よし!長距離走だ!」という感じです。そしてたぶん、長距離走を選んだ理由は、分かりやすかったからです。走るという行為が、努力と結びつきやすかったのだと思います。

 一方で、もっと幼少の頃にやっていた家までのダッシュ(笑)や壁当ては、努力ではありませんでしたが、たぶん僕の運動能力向上に大いに貢献していました。

 要するに大事なのは、”努力をすること”ではないんですよね。何をするか、が大事なんです。それを努力と呼ぶかどうかは本当にどうでもよくて、それはどういうつもりでやっているかもあまり関係なくて、何をするかが大事。遊びのつもりでやろうが、練習のつもりでやろうが、努力としてやろうが、効果があるものはあるし、ないものはない。

 怖いのは、『努力』そのものが評価されることです。当時の僕がそうだったように、努力さえすればどうにかなると思っていたり、とにかく努力をしていれば許されるみたいな価値観で生きていると、何をするにも”努力っぽく”しなければならなくなります。そうすると、笑顔よりも、苦しい表情などが優先されるようになるんです。(※何となく分かりますよね?) 脳や身体への効果を考えると、むしろ笑顔でやった方がいいことが多いと思うのですが、それが”努力として認定されるかどうか”という点で考えると、たぶん笑顔よりも苦悶の表情の方が相応しいと言うことになるし、少ない動きよりも多い動きの方が歓迎されることなるんですよね。僕が長距離走を選んでしまった理由は、まさにここにあるように思います。長距離走から得られるものがどういう効果を生むか、よりも、努力っぽいか、を優先させてしまったということなんです。

 僕の場合は、誰に言われたわけでもなく、勝手に間違えただけなのでいいのですが、これが人から求められた場合が地獄なんです。他人から”努力”を求められた場合、仮に間違っていそうだと思うことでも、苦しいことや動きが多いものなどを選択してしまうと思うんですね。「努力しろ!」と言われた時に、「じゃあイメージトレーニングします!」とか言ったら怒られそうだと思ってしまうのが僕たちに染みついてしまった習性(?)なのだと思います。そうなると、努力を求める人を前にすると、僕たちはひたすら間違った行動を選択し続けるという悲劇が起こってしまうんです。


 最後に僕が今日言いたかったことをまとめると、

  • 努力が大事なわけではないし、努力としてやったことが間違っていることは往々にしてある

  • だから人に”努力”を求めてはいけないし、”努力”を評価してもいけない

ということです。
 決して努力なんてするなと言っているわけではないですからね。自分の行動を『努力』と認識するのは全然構わないと思うし、そうすることでモチベーションが上がったりもするから、良いことの場合もあると思います。ただ、それが間違った方法である場合があるし、それが『努力』という一見してキレイな言葉で隠れてしまうことがあるから気を付けた方がいいということと、人に求めてはいけないということです。


 ということで今回は、『努力とスポーツ』というテーマでお話しました。何かの参考にもなれば幸いです。

今回もお読みいただきありがとうございました!
ではまた!

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総合型地域スポーツクラブや筆者の挑戦のリアルな実態を曝け出しています。自ら体を張って行ってきた挑戦のプロセスや結果です! 総合型地域スポーツクラブをはじめ、地域スポーツクラブの運営や指導をしているかた、これからクラブを設立しようとしているかた、特に、スポーツをより多くの人に楽しんでもらいたいと思っているかたにぜひお読みいただきたいです!

総合型地域スポーツクラブのマネジメントをしている著者が、東京から長野県喬木村(人口6000人)へ移住して悪戦苦闘した軌跡や、総合型地域スポ…

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