遊びとしてのスポーツ
どうも、上杉健太(@kenta_u2)です。”誰もが、いつまでも、自分に合ったスポーツを続けられる”総合型地域スポーツクラブを広める活動をしています。これまで7年間長野県のクラブをマネジメントしてきて、現在は埼玉県富士見市で立ち上げにチャレンジしています。
今日は改めて、『遊びとしてのスポーツ』について考えてみたいと思います。
そもそも『スポーツ』とは
まず、そもそもスポーツとは一体何なのかというところから。
『スポーツ(sport)』の語源はラテン語の「deportare」と考えられています。「deportare」は、「日々の生活から離れること、気晴らしをする、休養する、楽しむ、遊ぶ」などを意味しています。
これが、「スポーツは遊び」とされている最大の理由ですよね。そもそもが遊びなんだということです。
ところが「スポーツは遊び」と言われても、どうもしっくりこない人が多いというのも事実だと思います。「スポーツは遊びじゃない」とはっきり言う人もいらっしゃいます。
そこにあるのは、『遊び』という言葉への誤解だと思うんですね。「スポーツは遊び」と言う人の『遊び』と、「スポーツは遊びじゃない」と言う人の『遊び』には、解釈の違いがある。
『遊び』とは
辞書的な意味の『遊び』は、以下の通りです。
1 遊ぶこと。「遊びに興じる」
2 酒色にふけったり、賭け事をしたりすること。遊興。「遊びで身を持ち崩す」
3 仕事がないこと。仕事ができなくてひまなこと。「受注がなくて当分遊びだ」
4 物事にゆとりのあること。「芸に遊びがある」
5 機械などで、急激な力の及ぶのを防ぐため、部品の結合にゆとりをもたすこと。「ハンドルの遊び」
6 文学上の立場で、対象を理性的に突き放してみる傍観者的な態度。森鴎外が示したもの。
7 「遊び紙」の略。
8 詩歌・音楽・舞い・狩猟などを楽しむこと。「―は夜。人の顔見えぬほど」〈枕・二一四〉
9 遊び女 (め) 。「―どもの集ひ参れる」〈源・澪標〉
10 《「神遊び」の略》神を祭るための舞楽。神楽。「豊の―をするが楽しさ」〈神楽・篠〉
~goo国語辞書より~
大体の解釈でもめる言葉には、このように多くの意味があるんですよね(^^;)
「スポーツは遊び」と言う人の『遊び』は、おそらく「物事にゆとりのあること」に近い意味で言っています。睡眠であるとか食事であるとか、仕事であるとか、そういった”やらなければ死ぬ”というものではなく、生活のゆとりの中で行う、ある意味では”やらなくてもいいもの”。それが遊びということです。
あるいは、「詩歌・音楽・舞い・狩猟などを楽しむこと」のような意味も含んでいるかもしれません。生きる為にやるのではなく、楽しむ為にやるものということですよね。
もう一方の、「スポーツは遊びじゃない」と言う人の『遊び』は、おそらく「遊興」とか「遊び女 (め)」というような意味合いで遊びをとらえているのだと思います。要するに、”悪い事”みたいなことですよね。あるいは”だらしがない”みたいなイメージですね。
『遊び』をそういう意味合いで捉えると、「スポーツは遊び」という言葉は、「スポーツはだらしがなくて悪いもの」ということになってしまう。それは私も違うと思います(笑)
もちろん私がよく言っている「スポーツは遊び」の意味は、「スポーツはゆとりの中で行う楽しみを目的にした活動」というようなことです。やらなければならないものではないけど、やると楽しいもの。それがスポーツだと思っています。
もう一つだけ、よくある『遊び』の誤解を説明しておきます。たまに”遊び=真剣じゃない”という捉え方をする人に出会うのですが、本当によく考えて欲しいんです。いつでも人間は、遊びを真剣に行ってきたんです。子どもの鬼ごっこも、大人の賭け事も、みんな真剣ですよね。『遊び』と『真剣』は対立する考え方ではありません。
(※賭け事はやっちゃダメ)
スポーツと遊びのイメージ
ここまでが基本的な「遊びとしてのスポーツ」の考え方です。しかし、やはりどうしても「スポーツは遊び」と捉えられない人もいます。
日本は『遊び』というものをどこか”悪いもの”として扱ってきたからです。「遊んでないで勉強しなさい」とは本当に子供の頃によく言われたセリフですよね。私たちは子供の頃に、「勉強はいいもの」「遊びはよくないもの」と刷り込まれ続けてきたのだと思います。
(※別に親世代が悪いと言っているわけではなく、文化と歴史の問題です)
一方で『スポーツ』はというと、「スポーツは心身を鍛えられるいいもの」(ほぼ『体育』の側面)として扱われてきましたから、当然『スポーツ』と『遊び』が同じわけがない、となってしまうんですね。
なので、「スポーツは遊びではない」と思うのは、ある意味では仕方のない部分で、意識を変えるのには時代的な変化が必要なのかもしれません。でも実際に今、”遊びではないスポーツ”によって苦しんでいる人も大勢いるわけです。その人たちのことは救わなければならないと思うんですね。
そうでないと、”強制されたスポーツ”によってスポーツが嫌いになり、それこそスポーツ界にも損です。
スポーツを分けるというベター案
であればいっそ、「スポーツは遊び」という解釈はいったん諦めるというのも手かなと思います。「スポーツは真剣にやるもの」。これをベースにして、その一方で、「楽しくやるスポーツ」というものちゃんと用意していく。ある意味ではスポーツを分けるということですね。(※繰り返しますが、遊びはそもそも真剣にやるものです)
分かりやすいのが、総合型地域スポーツクラブでいうところの、『競技志向』『エンジョイ志向』『健康志向』『コミュニティ志向』のように、スポーツを志向で分けるということかなと思います。
もちろん本来は、どの志向においても、「スポーツは遊び」は本質的なものとして存在しているわけですが、表面的な解釈としては、
「競技志向=スポーツは真剣にやるもの」
「エンジョイ志向=スポーツは楽しくやるもの」
「健康志向=スポーツは健康的にやるもの」
「コミュニティ志向=スポーツはみんなでやるもの」
とするのもいいのかなと思います。もちろん間違ったことを言っているわけではありませんからね。
(※ベストを目指しているベターは一時的には認められる)
そうすると、”遊びでないスポーツ”で苦しんでいる子が、”遊びのスポーツ”で気晴らしができたりもします。例えば所属している競技志向の部活でしごかれて、週1回のオフの日には”遊びのスポーツ”をやっているクラブへ遊びに行くとか。
(※スポーツは遊びじゃない!と怒っちゃう指導者がいる場合、”遊びのスポーツ”と思われるところへは行かせてくれないというパターンも考えられますが・・・)
いずれにせよ本質は、スポーツには気晴らしとしての機能があるということです。生物として、動物として、生きていく為にどうしてもやらなければならないことがある一方で、私たちは幸せになる為に生きているという側面もあるわけです。やらなければならないことだけで生きていくのはしんどい。人生楽しみたい。それでスポーツをする。基本的にはそれでいいと私は思っています。スポーツの教育的な効果に期待をし過ぎるのは、本質を見失うので本当に注意したいものです。
ということで今回は、『遊びとしてのスポーツ』をテーマにお話しました。スポーツの寛大さ、寛容さ、ポテンシャルの高さを活かしきれるような社会にしていきたい!と心から思います。
今回もお読みいただきありがとうございました!
ではまた!
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総合型地域スポーツクラブ研究所
総合型地域スポーツクラブのマネジメントをしている著者が、東京から長野県喬木村(人口6000人)へ移住して悪戦苦闘した軌跡や、総合型地域スポ…
総合型地域スポーツのマネジメントを仕事としています。定期購読マガジンでは、総合型地域スポーツのマネジメントに関して突っ込んだ内容を毎日配信しています。ぜひご覧ください!https://note.com/kenta_manager/m/mf43d909efdb5