制作を媒介に神話的世界へ。(要約)
制作を媒介に神話的世界へ。
上妻世海インタビュー
〈要約〉
■ 「奇形的なもの」をめぐる方法論的介入
(前編)
•ポスト・インターネット時代は「情報空間と物理空間の境目が曖昧になっているもの」ではなく、「情報空間と物理空間がフィードバックループを繰り返すなかで現実空間が再編成され続けることに特徴がある」と上妻は考える。
•モダニズムが影響力を持っていた時代では、カテゴリーの硬直性や明確性は意識的に選択され、そのなかで作家や批評家は純粋性を追求していた。
•しかし、今日ではカテゴリーの硬直性は、作家の属する界隈の文脈の解釈の問題に過ぎず、作品の「余剰性」は産まれにくく、縮小再生産に陥ってしまう。
•例えば、建築家の展覧会では彼らの共通言語で作品を解釈し、メディア・アートや現代アート界隈も彼ら特有の言語で解釈をする。
•解釈というのは、最終的には個人の好みであるが既存の文脈や枠組みの維持ために判断された瞬間、作品の持つ「余剰性」「冗長性」は切り捨てらてしまう。
•だが、「あえて」切り捨てることによって見えてくる表現もあれば、「あえて」複数の枠組みにはめることによってあらわれる作品もある。
•著者はキュレーターとして、近代的なフレームから外れたカテゴリーの「余剰性」=別の制作の足場=「プロトタイプ」となることを重視した作品として、「Malformed Objects」展(奇形的なもの)の出品基準とした。
•作家の自意識から離れた、意図せずとも世界(「モノ」「情報」「人間」)と繋がってしまった作品を著者は好む。完成品(安心)よりプロトタイプ(余剰と不安)を愛している、と語る。
•プロトタイプについて、哲学者エリー・デューリングの言葉を引用するなら「一連のつくるべき作品群の原理を示す唯一のピースとしての作品」をつくり出すことにある。(つまり、現代の自動車にとっての馬車となる作品と考えられる)
•上妻にとっての芸術作品とは「僕たちは安定した定点ではない」ということを教えてくれるものである。だからアーティストは完成品を目指すのではなくプロトタイプを制作するべきだと考える。
•「奇形的なもの」と「プロトタイプ」の違いは何か。
•かつての近代美術の客は『なんだこれは?』『わからない』と疑問を呈し、批評家がテキストによって導く関係が成立していた。
しかし現代では、客が『これは現代アートでしょ?』と『わかる』対象に変化していて(実際には理解が浅い例も含め)対して、批評家のテキストは難解で「わからない」ものになっている。※
•なぜなら、現在の成熟した社会構造では、過剰にカテゴライズされ「わかってしまう」(わかったつもり)しかし、芸術作品は、非芸術作品⇆芸術作品を往還することで自身を更新するものであるから、非芸術作品=「奇形的なもの」を経る必要があると、上妻は語る。
(「奇形的なもの」とは、「プロトタイプ」が持つ、作品群の原理を示す唯一のピースを抽象する際に捨象されてしまった「モノ」「情報」を含んでいるのではないか? 〈鑑賞者〉に「奇形的なもの」と「プロトタイプ」を往復させることで、「制作者」へと一歩進ませることが上妻の本展の狙いではないだろうか?)
※(例えばweekly ochiaiの佐藤可士和回で、落合陽一は「佐藤可士和のデザインを単純に丸と線で出来ている、と言ったら負け」と言う。何故なら、そのデザインされた企業ロゴが使われるシチュエーション(店舗の施工、パッケージデザイン、公共空間での機能)も含めてデザインされていて、むしろ単純な丸と線で出来ているロゴを経営者に納得させる一連の手法こそが凄い、『謎だ』と言う。)
(後編)
•なぜ上妻は展覧会という近代的な形式で制作を語るのか?
•「ギャラリーや美術館で展示をすることによって「これはだめなんだ」「これはいいんだ」ということに気が付いて、ネゴシエーションの技術が身に付いていく。そうやって積み上げていくことが、一見ラディカルに見えなくてももっともラディカルなことだと考えています。」と言う。(非合理的⇆合理的を往復することこそ、真のラディカルである)
•上妻にとっての「観客」とは何か?
「観客」とは、カテゴライズでしか想定出来ない「人間」である。(「わかる」≒「わかったつもりになる」関係である。) 「観客」は、それぞれの文脈と専門性を持つ。そして「作品」もメディア•アートや印象派、キュビズム、ポップアートと多様な枠組みがある。この枠組みをシャッフルし解釈していくことは豊かなことであり、それはアウトロー的な態度で示すだけでなく、具体的な方法論=展示として示すべきである。
近代の「観客」≒〈鑑賞者〉から「観客」⇆「制作者」へと進ませるためには何が必要なのかを上妻は考えている。
•上妻の考える「制作者」とは何か?
第1に、既存の文脈に捉われず「モノ」⇆「情報」を往復し「制作する身体(足場)」を組み替え続ける人である。
第2に、芸術作品とは「モノ」と「見る人」間に、立ち上がると指摘する。つまり、芸術作品とは、「モノ」⇆「情報」⇆「人間」によって生まれた余剰と「観客」が関係することによって、芸術作品としてのステータスを得るのであって、いきなり個人が作った「モノ」が「観客」にとっての芸術作品になることではない。
つまり、「私」(個人)と「誰か」(観客)が無媒介に接続するのではなく、「あなた」(「モノ」(作品)⇆「情報」(展示)⇆「人間」(アーティスト))という主体とも客体とも言えない、プロセスやネットワークを「制作者」と呼んでいる。
•上妻は多文化主義の事物の理解の浅さを、スローガンとしての人間理解の限界にあると指摘し、一人ひとりの振る舞い通して理解するプロセス、つまり「人間」⇆「人間」でなく「制作者」⇆「制作者」としての繋がりを見せる必要があると考える。身体(肉体、自意識)を柔らかくするプロセスはそれに似ている。