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消費から参加へ、そして制作へ(要約)

消費から参加へ、そして制作へ

〈要約〉

■現代の情報技術が可能にした現実空間
•これまでポストインターネットアートの多くは、「情報空間」と「物理空間」という二つのレイヤーの移動を問題にしてきた。
•だが物理空間を情報空間へ、その逆に情報空間を物理空間へ移動することは、過去の想像力に依拠したもので何も新しくはない。
•現代社会の特徴は、「情報空間」と「物理空間」が入れ子状に情報を処理し「現実空間」を仮設する点にあると、著者は考える。
•この状況は現在のSNSプラットフォームが加速させただけに過ぎず、近代以前より実存(主体と客体とを分けて考える前の現実の状態)をめぐる問題は「個人」と「集団」の間で揺れ動いている。

■複数の虚構と実在性
•上記の傾向はIoTやブロックチェーンが生活空間に実装されることで、より可視化される。
例えば、冷蔵庫が無くなりそうな食材を感知し自律的にオンライン取引を行う未来もあり得る。
•モノ達が自律的に「物理空間」と「情報空間」を行き来している「現実空間」は、すでに今存在している。
•この「現実」を最も体現しているポケモンGoは、「情報空間」と「物理空間」を行き来するデバイスとして人間を扱う。この状況はポストインターネット時代の構造上の変化が先にあり、ポケモンGoはその現実を拡張したに過ぎない。
•Brexitやトランプの勝利は「一つ正しい現実と間違った複数の虚構」という環境から、「複数の虚構があり、各々がどの虚構に実在性を感じているか」という環境へと変化したことを示している。
•仮想通貨の登場は、現実の貨幣を相対化し「共有された虚構」としての貨幣の側面を強化した。
•そして虚構に信頼性が担保されれば貨幣として成立するということを示した。
•この構造上の変化を、「ポスト真実」(複数の虚構があり、各々がどの虚構に実在性を感じているか)と名づけることも出来るが、そもそも近代資本主義は資本家と労働者の関係を隠蔽することでまわってきた。

■世界を認識する為の枠組みとしての制作
•著者はこの状況を、全てのコミュニーケーションを可視化した単一価値を規範とするプラットフォーム(デジタルレーニン主義?)が解決するとも、単に多文化主義である態度が解決するとも考えていない。
•現代の環境を踏まえ、実装された武器を使い、上記とは違うやり方で、各々が規範や持続可能性を制作するべきだと考える。
•重要なのは現状把握だけでなく、実装された武器を使い、自分達が何を変えることが出来るかを考えることである。
•第一に「観察から制作へ」(客体から客体⇆主体へ)、第二に「人からモノへ」の図式を「人を含むモノが同一平面上で制作し合う」(主体から主体⇆客体へ=ポケモンGo)第三に、「近代における制度や文脈を前提にしていたありとあらゆる物事は、僕たちに再定義を要求する。」(主体+客体≒実在という概念自体の再定義?)
•「科学者←「物理空間」、工学者←「プロトタイプ」、美術家←他者の傑作。彼らは、この矢印の向きを即座に反転させる。「観察から制作へ」はいつの時代もあったはずだ。
•上記の流れは合理的に説明出来る領域ではない。
しかし、限界まで言葉を尽くし説明することで言語の限界を示すこと、その限界点から、再度モノを産み出すことをループし続けるのが「制作」である。つまり、
「モノ」(物理空間)→「情報」(情報空間)へとデコード(まさに本を要約する行為)され、
再度「情報」(情報空間)→「モノ」(物理空間)へとコード化(要約から創作を行なう行為)される。制作者は、このループから潜在的な形式や課題を引き出す。またこの矢印も反転可能である。

■魅惑するモノ達の声
•上記の構造上転回が一般化すると、「モノ」(物理空間)「情報」(情報空間)「人間」(制作者)は水平的な存在になる。つまり、芸術作品は近代の制度と文脈では意味をなさなくなる。なぜなら、IoTは「モノ」が自律的に「情報」と繋がり、科学者は「モノ」たちが増える声に動かされ「彼ら」を培養する。(乳酸酵母実験の引用)
つまり「モノ」は物理空間に留まらない。「彼ら」の無数の声は、無数の情報であり、無数の虚構である。
•その声は反復可能(デコード、言語化)され、工学者はその声を工学的に利用可能(コード化、情報化)にする。
•情報は、図書館の一室(物理空間)あるいはネット(情報空間)へと蓄積されていく。
•そうして「モノ」は機能と目的を拡張させていく(乳酸酵母が科学者を誘惑し生存地域を拡大させ、科学者と結託し自己改良を図った、という虚構もあり得ることを示している。)
•歴史上「モノ」と「モノ」は協同しあっている。なぜなら人類は今の形で自動車を知っていたわけではない。人間(制作者)→蒸気自動車(モノ)→ガソリンエンジン(モノ)→冷却技術(モノ)+コンピュータ(情報+モノ)=現在の自動車を産んだと言える。

■近代的な制度と文脈の死
•「モノ」からいかなる潜在的な情報が引き出されるかは未知数である。自動車の最終目標や究極の形相は存在しないのだから、自動車の究極の本質も存在しない。(著者いわく『関係性』が発生すれば『質』が定まり『量』へと数値化出来る)
•近代的な制度は、「人間」を主とし動物、植物、無機物を従属する図式を必要としてきた。
•今や「モノ」「情報」「人間」は同一平面のもと自己制作的であり相互制作的である。
•それは同時にあらゆる領域における定義の再編成を僕たちに要請する。
•なぜなら「人間」の理性や感性といったシステムは「人間」主体に閉じられた機能であり、「人間」が「情報」を観察し、確定し、記述し、扱うものと定め、その外側を人知が及ばぬ神秘的な「モノ」と定めてきたのが近代的な制度だからである。
•近代的な枠組みの死は〈近代の人間観の死〉と同時に「鑑賞する」という「人間」の特権的な態度の死を意味する。(「人間」は制作の媒介者として「モノ」や「情報」と関わっていくべきである。乳酸酵母に誘惑された科学者のように)

■ 無数の異なる身体のためのブリコラージュ
•「これからの芸術は、既存の制度や文脈を前提にすることはできない。それにも関わらず、歴史や文脈は悠然と存在している。」
「人々は「分からない」というよりも先に、既存のカテゴリーに基づいて「分かる」と発してしまう。あらゆるモノたちが既存のカテゴリーに安易に収められてしまう状況はアートにとって、非常に困難な状況である。その状況下では、奇抜な行動や新しい試みは素朴に存在することができない。僕たちは、素朴な神秘主義者として振る舞うことができない。」
(つまり、誰もが制作へ向かえる状況にあって、人々は消費を続けるばかりなのだ。特権的な立場で「鑑賞」を続ける傍観者のように、説明を怠り〈合理的)であろうとする。)

•「しかし本来、芸術作品は「非芸術作品」を経由することでしか芸術作品になることができないのだから、現代のアーティストも説明のつかない未だ認識できないモノへと歩を進めなければならないのは、過去のアーティストと同様である。僕たちはあらゆる行為がカテゴライズされてしまう時代を引き受け、まずは頭をクールに保ち、そして様々なダンスを身につけることにしよう。徹底的に説明すること、そして余剰への愛を捨てないこと。過去の文脈や制度を学び、しっかりと整理すること。シャーマンのように、動物や植物、モノたちとの交流の道を絶たないこと。複数の環世界を横断するための身体を開発することだ。「分かる」ことから「分からない」ことへと進むために。理由律による世界から非理由律による世界へと進むために。」
(ここまでの説明によって、芸術作品⇆非芸術作品の往復に疑問は生じない筈だ。今や、全ての「モノ」「情報」「人間」の誰もが矢印の向きを自由に変えることが出来る。僕らは徹底的に説明し、言語の限界に接近し、そこから拡張される余剰=更なる制作の足場への愛を捨ててはいけない。「分かること」(説明不用の合理的な文脈)から「分からないこと」(説明限界の合理性を超えた余剰)へ進むために。)


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