『投票に行かない』合理性について
先月末に階段を踏み外して右足首を捻挫し、注意力と筋力と治癒力の低下すなわち"老い"を切実に感じながら杖をついている今日この頃です。
本番前に体調を崩すのは慣習になっていますが、怪我は初めてでございます。本番には間に合う見込みだと言うと「流石だね」と励ましてくれる人もいますが、恐らく流石な人は初めから病気も怪我もしない訳でどの角度から考えても自分の落ち度で無惨な状態に陥ったことへの羞恥心と絶望感。せめて落石から小さな子供を庇ってとか、淑女を暴漢から守った際にとか、そういう感じで傷を負いたかった。誰に気付かれることもなく階段の隅で残り1段を踏み外して静かに悶絶するあの気持ち。咳をしても一人とはこのことか。二十億光年の孤独に僕は思わず捻挫をしたー。
それはそれとして、10/27(日)は衆院選ですね。期日前投票はもう始まってますけども、皆さん投票には行きますか?
私は行きますし、周りにも「行けや」と思う訳ではございますが、
だがしかし『投票に行かない』という行動を取る人の気持ちも分かるというか、そうなってもおかしくないわなと正直思ったりもする訳です。
昔はそんな人に対して「なんだこの無気力人間は」とドン引きしたり喧嘩したりしてましたが、だからと言って「行ってもムダじゃん」という彼等の多くが唱える主張に対して「ムダじゃないよ!」と反論することも出来なかった訳です。
で、それは何故かというと
『合理的観点から考えると、投票に行かない方が正しい』とも言えるからです。
「自分の一票では何も変わらない」と言う人は、たとえ行動を起こしたところで、それが与える効果が限りなくゼロに近いことを理解しています。ゆえにその行為はムダであるという理屈は、そりゃあ正しい。むしろそんな状況下で時間や労力を割いて政治について調べたり参加しようとしたりしている人の方がおかしい。合理的判断から見れば狂気の沙汰です。
そんな中で『ひとりひとりに与えられた、政治に参加する権利を行使しよう!』と呼びかけられても、まあ響かないでしょう。むしろ1人1票しかないのが問題なんですから。全体の中で自分の1票なんてあっても無くても変わんねえだろと。
確かに。
しかも1人1票入れたところで、若年層はそもそも絶対数が少ないんだから圧倒的に高齢者有利じゃねえか。
確かに。
しかも組織票なんかも普通にある訳だし、倫理的に正しいこと言っても現実的に実現不可能なら何の意味もないじゃんと。
確かに。
政治に参加すること・投票所に行って票を投じることが『合理的な行動じゃない=ムダだ』という考えは、確かに正しい。言わば究極に合理的です。(特に若い世代の)投票に行かない人って、ただ面倒くさいというよりも合理的に判断して行かないことが多いんじゃないかと思います。だって紙に字書いて箱に入れるだけですよ。どう考えても風呂掃除とかの方が面倒くさいだろ。
で、何が言いたいかって、
そうやって合理的な判断を下せる人こそ、客観的に冷静に正しく判断して票を投じられるのに、その人が投票に行かないことが、すでに合理的じゃない
ってことです。
例えば、『凄く綺麗だけど着た瞬間に破れる服』とか『美しい配膳でクソまずい飯』とかあったとして買います?買わないでしょう。その商品としての質の良し悪しや外見と中身のギャップとかを、ある程度リサーチして合理性を以た損得勘定で、消費者は判断をしている訳ですが、選挙時にはどうもそれが能動的に働かず「何となく」とか「見たことあるから」とか「雰囲気的に」とか「勧められたから」とかで中身を見ずに買っちゃったり、或いは「関係ないから行かない」とかになることは多々ある訳です。
合理的な人が必要な市場なのに、合理的な人はその合理性ゆえに参加しない、というアイロニカルな状況ですな。ロシア文学かよ。
しかしながら選挙で厄介なのは、自分が選択して注文した覚えはねえのに、破れる服もクソまずい飯もしっかりと自分のお手元に届くところです。遠いもののように見えて、実際は自分達の生活にダイレクトアタックしてきます。
そして当然ながら、タチの悪い服屋や飯屋にとっては、合理的な判断をする消費者が来ないことは、この上なく都合が良い訳です。来ないでほしい、来るな、変化を求めるなと。そりゃそうです、既存の立場を守ることが彼等の第一目的なんですから。
『投票に行かない』『政治に参加しない』ことは、残念ながらボイコットやサボタージュの様には作用しません。それは何かにNOを突きつけた行動ではなく、自らが不在の間に決定されたものは中身がどんなものであれ全面的に賛同・支持をしますという降伏のYESを掲げたことと変わらない訳です。
合理性を追求すると、ある種の個人的コストは省けますが、それで何かが豊かになるかというと別にそんなことはありません。獲物を狩る為の道具を作ったり、木の実を探しに森に出かけるより、そもそも穴蔵に居た方が疲れなくて良いよね、みたいな話です。無駄に疲れることはありませんが、空から魚が降ってきたりしてくれないと死にます。
獲物も木の実も無いかもしれないけれど、手を動かしたり足を動かしたりすれば、身体は鍛えられるでしょう。そうすれば少なくとも捻挫はしないかもしれない。
合理的な判断が出来るなら、それに則って何かを『選択』した方が余程豊かであると思うのです。『選択しないことを選択する』ことと『選択することを放棄する』ことは似ているようで違います。そして投票の場では、前者のつもりで取った行動は自動的に後者の行動へと変換されます。
つまり『選択しない』ことは『無』として扱われ、行っても行かなくても同じどころか、そもそも存在していないものとされる訳です。
それでももし「自分は存在していないのと一緒さ、構わないよ」と矜持を貫くのなら、いやあ立派です。拍手。キミの潜みに乾杯。でも残念ながら自分でそう思ったところで側から見ると、めちゃくちゃ存在しているんですよね。その存在は他者が担保するし、反対に他者に無視をされることで、便宜的に非存在として扱われたりする訳で、本人が本人の非存在を立証するのは無理です。ならば諦めて存在しましょう、と私は僭越ながら考える次第であります。
それぞれの党の政策を調べるのなんて、大して面倒じゃありません。ちょっと面倒ですけど。面倒くささレベルで言えば行こうと思ってた飲食店が空いてなくて新たに適当な店を探さなきゃいけない時くらいの感じです。でも仕方ないから探すでしょう。仕方ないから調べましょう。
何から何まで自分の思想と合致する政党は無いかもしれません。しかし、そりゃ仕方ない。言うて他人だもんよ。ただその中でも、"強いて言うなら"のレベルであっても、選択は出来ます。
私も支持する政党の政策について何から何まで賛同している訳ではありませんが、しかしその中で、"現状、優先すべきポイントは何か"で決めています。私の場合は、まともな財政感覚を持っているかどうかですが、もし暇だったらば私が過去に書いた消費税くたばれ記事でも読んでみてください。
何か難しそう・よく分かんない、と感じて引いてしまう位ならば、自分が日常生活を送る中で不満だったり疑問を感じているところをポイントにしても構わない。「それやってくれるなら助かるわ!」「やろうとしてくれるなら応援するわ!」位で良いと思います。
「ほら、やっぱり自分が1票入れたところで何も変わらなかった」
結果を見ればそう思うかもしれない。
元も子もないですが、そもそも自分の投票用紙1枚のみに社会を変える力は込められてないですよ。神様じゃないんだから。いや、紙様じゃないんだから!!!(渾身)
しかしですね、変な話ですがとりあえずそれでも「ムダだったじゃん!くそ!」という判断は行動したことによって自分自身で下せた訳です。少なくともダサいことはしなかった、そう自分に対して思えることは豊かさへの第一歩だと私は思っています。
大人になればなるほど変革や変化を嫌い、現状維持の方向に行きがちですが、今は本当に維持したいと思える程の現状なのか?ということに、真っ直ぐ目を向けることも大事だと思います。
貧して鈍さず、窮すれば通じていきたい所存です。
そんな訳で、noteの存在をすっかり忘れていたので書き殴ってみました。いや、書き撫で回してみました。
ところで上記の話とは関係なく、私は私で追い詰められています。
そう、舞台公演の本番が近付いているのに捻挫が治らないからだ(ドン!!!)
とっても良い作品です。
猫だと思って撫でてみたら鬼だった、みたいな何かそんな感じの作品です。
どうぞ皆様、奮ってご来場下さい。頑張るぞお。
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