Think Globally, Act Locally.
noteを更新していなかった理由と致しましては毎年恒例の5月病に因るところと謎の後頭部神経痛に侵されて意識朦朧としていたところでギリギリでいつも生きていたいから さぁ 思いっきりブチ破ろう リアルを手に入れるんだ
掲題の言葉は環境保護活動で使われるスローガンで、翻訳すると『地球規模で考え、地域規模で行動する』というところでしょうか。誰が最初に唱えた言葉かは定かではありませんが、60年代辺りのアメリカでは既に市民活動の中で普及していたとされています。
私が敬愛するラッパーのSHING02氏がこのスローガンをもじって作成した〝THINK GLOBALLY RAP LOCALLY〟が刻印されたTシャツを、大学生の時は毎日のように着ておりました。ラッパーじゃないのに。
私は「Think Globally, Act Locally.」という意識を、環境問題だけではなく、日々の生活上だったり、或いは演技をするうえでも昔からモットーとして抱いているところでありまして、精神的指針になっている言葉でもあります。
しかしながら何となく、世情は反対に「Think Locally, Act Globally.」に寄っているように感じることが多い今日この頃です。
『身近なことに思いを巡らせ、それを世間に発信する』ことは現代では容易に行うことが出来ます。SNSが普及したことで、現代は自分の主張や意見を、手軽に多数の人に発信することが出来て、実際、オンライン上でのアナウンスは、知らなかったことを知るきっかけになったり「機会・チャンス」みたいなものを生むことに何役も買っていることは間違いないでしょう。
このnoteも読者が多数とは言えませんが(あ、目から汗が……)、読んでくれる方や反応してくれる方がいる、というのは自分にとっての喜びを生んでくれています。限られた読者たちよ、俺たちはファミリーだ。
ところで、パブリックなソーシャルネットで言葉を扱う場合には、発信者は『オフラインよりも意図が読み取られにくいこと』、受信者は『その言葉が示すものの真実性を疑うこと』への意識が大事になります。言葉を吐く前に、自身で自身にモラルを問うことが肝要でさあね。
個人の気配を察することが出来ない、不特定多数を対象にする環境下では、言葉はcontrol(抑制・管理)ではなくagitation(扇動・挑発)の方向に力が強く発揮されます。「駆け込み乗車はおやめ下さい」のアナウンスに殆ど効力はありませんが、「へいへいピッチャーびびってるー!」的な野次は簡単に伝播します。
別にそういった現象自体が悪いわけでは無く、要は使いようだと思いますが、忘れてはいけないのは、言葉は自分の所有物ではなく、他者との共有物である点です。私達はふだん友人同士の下らない会話でも、けっこー慎重にその場を探りながら(感じながら)言葉を取り扱っています。要は《言葉をブツとして対象化》するわけです。
しかしSNS、特に気軽に投稿することが前提のツールを使う際は、この対象化が非常に困難です。他者と対面して言葉を発する時よりその緊張感は格段に薄れますし、言葉を『渡すのでなく放る』『受け取るのではなく拾う』という行為は双方向性ではなく一方向性ですから、『間合いを読む』というアクションが不要です。それは精神的にも肉体的にも、対面時のプレッシャーに比べて遥かに単純で楽なアクションになることを意味する訳で、このSNSの『手軽さ』から生じる弊害的な側面に、意識的に防衛線を張っていないと、簡単に心は損なわれるなと強く感じます。
ところでオリンピックが開催中ですね。
委員会やシステムに問題はあれど(問題のないシステムなんて見たことありませんが)、個々のアスリートに対しては畏敬の念しかありません。ケツが締まっている顔は非常に美しく感動的で、とても素直に自国の選手を応援しています。
そんな中、女子ボクシングではアルジェリア代表のイマネ・ケリフ選手がSNS上で話題にあがっています。嫌な予感はしていましたが「元男性」「トランスジェンダー」という言葉が飛び交い、非難の対象になっていますね。こえー。
同選手は性分化疾患によりXY染色体を有していますが、出生時に割り当てられた性別は『女性』です。
事実誤認も甚だしく二次被害・三次被害を生み出す上に、そこで飛び交っている言葉は一個人のこれまでの歴史や尊厳を破壊する最悪なもので、スポーツにおける性区分の話題からはとうに外れています。
公式に出場が認められている以上、選手に罪はなく、対戦した選手もそれを同様に表明している中、どうして外野が噂話で好き勝手に盛り上がれるのか甚だ疑問ぢゃ。そもそも東京五輪に出場していた時に殆どスルーしてただろ。
"これまで勝手に女性として扱われ、いきなり勝手に男性として扱われる"人の立場には誰も立てませんし、理解は出来ません。
そもそも、身近な人でさえ、その人の立場に立つことや理解することは困難ですが、別段それは悲しいことではなく、叡智への一歩だと思いますし「だから何も言うな」ということではなく「だから何を言うか」に責任と自由を持ちたいところです。
意思のない同調は、間に合わせの自尊心を保持する為の憂さ晴らしに他ならず、いじめやゴシップ誌がこの世から無くならない理由がモロ出しで、恥部を隠す白タオルを投げ込みたいところであります。大して意見がないならほっとけよ。知らぬがホットケーキ。
そんなわけで『他人事を自分事に変換しちゃう』傾向の強い令和事変にどうスタンスを構えて対峙していくかが問われるところでありますが、
『手の届く範囲で感じたことを、自分の及ばない範囲に確認する』
のではなく、
『自分の及ばない範囲について考えたことを、手の届く範囲で点検する』
方が、いくらか健全だと私は思う次第であります。
鈴木敏夫さんの著書『仕事道楽 スタジオジブリの現場』で、「企画は半径3メートル以内に転がっている」という宮崎駿さんの言葉を紹介しています。
「ジブリで起きていることは東京でも起きている。東京で起きていることは日本中で起きている。日本中で起きていることはたぶん、世界でも起きているだろう」
Think Locally, Act Globally.
Think Globally, Act Locally.
果たして、これはどちらの意でしょうか。
『そこを世界と思う』ことと、
『そこに世界を見る』ことは、似ているようで異なります。
後者の方が希望を感じる身としては、
世界を思考し局地に行為することで、足元を見失わずに重心を低く保ちたい所存です。
そんなわけで、実はあと10日余りでアトリエ公演なんです。肉体と頭脳の衰えを感じ始めた今日この頃、そもそも私は台詞を覚えることが出来るのか。
乞うご期待。
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