演技において個とはなにか
グラサンを掛けて出掛けると外国人にめちゃくちゃ道を聞かれるのですが、follow me!の掛け声と共に行きたくもない所へ向かう道中で日々の歩数を稼ぐことに疲れてたので「お前の手元にある電子機器は何の為にあるんだ?」という英語を覚えようと思う今日この頃です。
ところで皆さん個人主義ですか?
私はそれなりに個人主義寄りでございますが、資本や情報を要にしたグローバリゼーションが進みに進み、個人って何だっけ?人類補完計画中?みたいな時代に突入して参りました。ごめんなさい、こういう時どんな顔すればいいか分からないの。
個人主義とは、政治思想で捉えれば全体主義の対義に位置するイデオロギーですが、日常生活で用いる際はもっとカジュアルです。「1人が好き」とか「協調性がない」とか「ワガママ」とか「友達いなさそう」とか大体そんな感じのものを意味していたのであろう、これまで己に向けられた数々の的を射た悪口が思い出されます。
ところで個人主義は英語でいうとindividualismですが、この《individual》という西洋的価値観と、日本でいう《個人》はまた性質の違ったものであるかと思います。
日本では、《個》というものの定義がいまひとつ曖昧と言いますか、改めて強く意識しないと見えてこないものといったように感じることが多いのですが、
それは「個性を伸ばそう」みたいな貼り紙が小学校に掲示されていたり、言うまでもなくね?みたいなことをわざわざ全体に説く雰囲気が幼少期から漂っていたからでしょうか。
また反対に、日本人は『場に対する同調』力は非常に強いです。列にもちゃんと並びますし、むしろ何も言わずとも勝手に待ち列が出来てたりします。凄え。空気を読む力や、輪(和)を乱さないセンサーも鋭敏です。
因みに私は舞台公演の際に観客が拍手のタイミングを互いに牽制しあう終演からキャストの礼までの謎のアディショナルタイムを黙祷と呼んでいます。どうか皆さんこれからは、その場の全員を救う気持ちで終演したと思ったら率先して手を叩いて下さい。
つまるところ、日本人は場(フィールド)に対する親和性が非常に高い訳です。
例えばお墓というものも、日本人は『先祖代々のお墓』といったように大きくは捉えても、曾祖父・曾祖母以前の人のファーストネームは知らないという人も多いでしょう。
全体を集合体として大きく捉えることは得意でも、では何の集合体であるかを分解して確認するという行為は、何となく不得意な気が致します。
その"フィールド"は時に学校であったり、職場であったり、家庭であったりして、その区域内を便宜的に"全体"として捉えることで、逆説的にその中での個を認識し易くする作用もあるかもしれませんが、しかしそれはどこまで行っても位置取り(ポジショニング)です。人生を『椅子取りゲーム』のように比喩するのも正にそれですが、最適にフィットする自分用の椅子を探すことより、場の玉座みたいなものを盲目的に求め始めると、いよいよ個というものを捉えられなくなる気が致します。
ところで、『オリジナル』という言葉も、日本では"起源的なもの"の意ではなく、"独自的なもの"の意で使われることが多いですが、私は「オリジナルな感性」とか言われても正直何のことやらよく分かりません。自分の全てがそうである気もするし、全てがそうでない気もします。しかしまあ、何の経緯もなく突然この世に出現した訳でも、無人島で育った訳でもありませんので、"他者に影響を受けて他者から与えられたもの"で自分のほぼ全てが構成されているのだろうと考えています。
因みにフィールドへの親和性が高い、ということは決して悪いことじゃありません。性質の問題ですし、その力がポジティブな方向に発揮されることだって多々あります。
ほら文化祭とか体育祭とか、きっと多くの人は楽しかったでしょう。一丸!みたいな。学校大嫌いマンの私は自主欠席してたからその良さは知りません。ぴえん。
また、災害が起こった時には"日本全体で受け止める"という感じがありますし(政府の対応は別として)、民間での助け合い精神みたいなものは世界に誇るべきだと思います。
しかし同時に、連帯責任を受け止める度量はあれど、フィールドで起こる《個人のレスポンシビリティ》にはあまり目を向けられない印象もございます。個性を衆性の1つとして認知した場合には、個人責任を全体責任に転化/変容させたり、または反対に個人責任の解決/融解を自分1人というフィールドで孤独に背負い込む可能性が高まります。
やはりPTSDに対する個人セラピー等の普及力/質は海外の方が一歩先を行っている印象ですし、現代のメディアコンテンツでも多く見受けられる"共感"や"癒し"的作用は、「個の輪郭をぼかす」ことで一旦の小休止にはなるでしょうが、その後前進する為の助走にはなりません。
自分の心理や内面を掘れば掘るほど、自分という存在がわからなくなるのは当然で、
《個》は、外界と関係することで、追視的にその原始を認識できるものです。
自分という存在は、自分の内側ではなく、自分の外側にある、ということを改めて大事に生きていきたい所存です。
オリジナル(はじまり)を認知して、未来のために上質に触れ合おうぜ。
さて、こいつはさっきからグダグダと一体何の話をしてるんだとお思いでしょう。
演技ワークショップの話だよぅ!!!
という訳で、先週より私が所属する劇団COoMOoNOの主宰・伊集院もと子による「コモノノモコの演劇教室」WSが開催中です。
私は8/31のクラスを担当致します。
明日じゃねえか。
ということで告知でした。
お気軽にご参加ください。
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