なぜキャンセルカルチャーをキャンセルできないのか。
夏から秋にかけてのグラデーションが年々薄くなってきているような気がするのは私だけでしょうか。
金属以外のほぼ全てにアレルギーがある私は、季節の変わり目のこの時期は喋っている時間よりくしゃみしている時間の方が長い気がします。ハタナクションと呼んでください。
ところで日頃、深呼吸してますか。
現代人の身体的特徴として「息が浅い」というものがあります。
声は息に乗せて相手に届けますから、息が浅いと当然、声が人にかからなくなります。
芝居において「人に声をかける」「人に声をかけられる」という体感は、実~に大事ですが、現代では日常でもそういった体験をすることが少なくなってきています。体感を軸にした話なので、なかなか言葉だけで説明するのが難しいですが、実践・訓練を重ねていくとだんだんと明確にその違いが分かっていきます。
「人に声をかける」「人に声をかけられる」ことはイコール「人を満たす」「人に満たされる」ことと同義です。なんかスピリチュアルな匂いのする文言になってしまいましたが、実際的な身体の話なのよな~と実感する今日この頃です。
というのも、先週から演技ワークショップをやっておりまして、興味をもって参加してくれる方々が多く嬉しい限りです。
まだ空きのある回ございますので、ご興味のある方は、ぜひご参加ください☆
ところで、全然話題は変わるのですが、
SNSって疲れますよね。
私はmixi世代なのですが、あの頃のネットワークは現代に比べると平和だったというか、まだ『交流』の感じがあった気がしますが、現代のSNSにはもはや交流感はない気がします。まあ時代感を反映しているというんでしょうか。
SNSは拡散力に長けていて声が大きく感じますから、宣伝や広報に役立つ面もありますが、一方で最近はキャンセルカルチャーにおいての力が大きくなり過ぎたようにも感じます。
村上春樹さんが小説「1Q84」で同時代の根源的な悪的存在をビッグ・ブラザーではなくリトル・ピープルに置き換えたのは2009年ですが、それから15年近くが経って、いやぁマジ予言書~!というのが素直な所感でございます。
『キャンセルカルチャー』という言葉はSNSの普及に伴い、2010年代の中頃からよく使われるようになった言葉です。オンライン・ソーシャルメディアを用いて、誰かを社会的に排斥する運動/またそれを良しとする傾向を指すのに使われます。 この排斥の対象となった人々やモノが「キャンセルされた」ということです。
もちろん全てではありませんが、日常で目にするキャンセルカルチャーの多くは、ボイコットや声明文のレベルにはなく、〈組織からすれば〉既得権やシステミックリスクを回避するための批判同調であり、〈個人からすれば〉他者を使った憂さ晴らしのようにしか見えませんが、如何せんその実体のない"ドヨンとした雰囲気"は濃く世の中に広がっているように感じます。
集団リンチに同調したあとには傍観者を決め込むという態度では、良くなるのは当人の気分だけで別に世の中は良くなりません。
そんなことは言わずとも誰もが分かっているはずなのに、しかしながらどうも、キャンセルカルチャーの多くが、自分とは異なる見方をシャットアウトし、そもそも曲解・誤解に満ちているはずの人という生き物を、使い捨て可能な人工物のように扱っているように思えてしまいます。
これも私的にはキャンセルカルチャーの1つと感じてならないのですが、クリストファー・ノーラン氏の新作映画「オッペンハイマー」は、未だ日本の映画館で公開されません。
映画「バービー」と「オッペンハイマー」を掛け合わせたネットミーム『バーベンハイマ―』において、非公式のとあるファンアート画像に、映画「バービー」公式アカウントがSNS上で好意的な反応を示したことで炎上しましたが、確かにこれは『原爆やそれが引き起こした悲惨な歴史』をないがしろにしたと受け止められる、軽率な行為であったでしょう。
その後、ワーナーブラザースジャパン合同会社は謝罪とアメリカ本社への抗議文を発表し、 米ワーナーブラザース本社がメディアを通じてソーシャルメディア上での配慮に欠けたやり取りに対する謝罪文を発表しました。
私個人は、この迅速な対応は評価されるべきだと感じたのですが、その後も『バーベンハイマ―は悪』『オッペンハイマーは原爆を肯定した映画』という根も葉もない噂とその雰囲気は払拭できずに、ここまで来てしまったように思います。
本来『バーベンハイマー』という造語は、同時期に公開された2つの作品がアメリカ国内で大ヒットを遂げたことから作品名を合わせて非公式に生まれたネットミームで、そもそも炎上騒動の起こる前から、メディアやSNSで使われており"「バービー」と「オッペンハイマー」を映画館で二本立てで見よう”という一種のキャンペーン的に使われていたものですが、日本では『原爆を揶揄している米国文化』というような主語の大きい、いかにも”踏み絵”的な印象が付いてしまったように思います。
そんな中でも「バービー」は日本公開されましたが、「オッペンハイマー」は未だ日本公開の目途が立っていません。このまま映画館での配給は行わずに、配信サービスで公開されるのでしょうか…。
何れにせよ、クリストファー・ノーランという偉大な監督の映画について、ここまで何のインフォメーションも無く、沈黙の状態が続けられていていること自体に違和感を覚えます
この”黙殺的”扱いは、ひとえに「原爆を扱っている映画だから」というタブー視から来ているようにしか思えませんが、オッペンハイマーという人物や、またクリストファー・ノーランがこれまでどんな映画を作ってきたかを考えれば、この映画が決して『原爆肯定』の映画でないことは想像に難くないと思いますし、もし仮にそうだとしても、観なければその判断自体が出来ません。
個人的にもっとも危機感を抱くのは、こうした事態が、逆説的に言えば『”反戦”や”平和”を唱えていれば公開する価値がある』という価値観を流布しかねないことです。
たとえば映画であれば、評価されるべき対象はその".映画表現そのもの"であって、テーマやメッセージというものは、表現そのものに(意識的もしくは無意識的に)内包されたものであり、便宜的に言えば表現そのものに対する副次的なものに過ぎないはずです。
テーマやメッセージが大事でないわけではないですが、もしテーマありきで、表現そのものが副次的なものとして判断されるようになれば、もはや作品を作ること自体が意味を成さなくなりますし、むしろ作品作りに携わった人々を馬鹿にすることと同義な気がします。
たとえば極端な話、『戦争賛成』や『殺人万歳』を主張するテーマで作品を作っていいのかと問われれば、ロジックで言えば全く構わないと思います。
しかし、恐らくそんな作品は生まれないし、生まれたとしても強い力を有するものではないと考えます。どんな思想やアイデアも、それだけではモノは作れず、結局のところ実際的な行為でしかモノは作れないからです。
一人きりならともかく、他者と関わって協力し合いながらモノを作ることには多大な労力や時間がかかります。
なんの裏付けもないですが『他者と時間や経験を共有しながら、人間を否定するテーマで互いに健康な精神を保ったまま良い作品を作ることは不可能だ』という結論に早々に辿り着くはずですし、そう信じるところからでないとモノは作れない気がします。
反対に、たとえどんなに聞こえの良いテーマであっても、それが綺麗事で終わるか、魂に響くものになるかは、それこそ表現そのものに対して問われることで、その前段階でシステムが流れを堰き止めることは、非常に不健康であると感じます。
ぐだぐだとボヤキましたが、とにかく叫びたいこととしては、
俺はキリアン・マーフィの芝居を見てえんだよ!
それだけを楽しみに去年を生き抜いたんだよ!
ふざけんな!
うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉん!!!(号泣)
ということです。
映画館で見てえ…。うう…。
そんなこんなで色々楽しくないことも起こりますが、そこかしこで叫ぶ訳にはいきませんから、自身のバランスを保つためにも鬱々としたときには深呼吸してみるのをおすすめします。
私は友人に「俺がタバコやめられないのは、深呼吸する時間を無理やりにでも作りたいからなんだよね」とキメ顔で言ったら「馬鹿なんじゃないの」と真顔で返されたことがあります。たぶん馬鹿なのでしょう。小出し小出しで馬鹿になるというのも無意識なサバイブの秘訣なのかもしれません。
すーはー。
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