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未来が見えなくなった話 肝未分化胎児性肉腫・加茂あかりさん【前編】


将来の計画に、「死」が入るとき


  私は50を過ぎた今になって、やっとといってよいかもしれないが、自らの死をリアルに考えるようになった。年々老いていく確かな実感がある中、下降線の終着点には死があることを意識する。しかし、それも「いずれそれが確実にやってくる」という感覚に過ぎないのだとも思う。なぜなら、私は10年先に自分が存在することを前提にして様々な計画を立てている。なので、平均余命が1年というような進行がんと向き合っている人とは、死との向き合い方は大きく異なるだろう。ましてや操縦が困難になった航空機の乗客の恐怖などは、想像を絶するものだ。

 もっと若かったころ、たとえば私が18歳だったときには、自らの死は意識の中に存在すらしなかった。おそらくそれは私だけのことではないだろう。戦後80年にわたって戦争がなくて、比較的豊かな日本に暮らしている18歳の青年の多くにとって、将来に対する不安と希望はあるだろうが、健康は当たり前のものだと思う。それが近いうちに失われるかもしれないということは、考えもしないのではないか。
 しかし、若くしてそうではない現実と向き合っている人もいる。今回は、18歳のときにがんに罹患し、明日生きていることにさえも確信が持てなかったある女性のことを書きたいと思う。彼女が当時の体験を赤裸々に語ってくれた時に、自分自身は未だ直面していない人生の真実を、強烈なインパクトを持って教わったような気がした。彼女は病気や自らの死と必死に向き合ったのだろう。その経験をした彼女に畏敬の念を感じるとともに、私が死との向き合い方を考えるうえで、たくさんの示唆をもらった。
 


加茂あかりさんとの出会い

 加茂あかりさんは高校3年のときに体調が悪くなり、その後「肝未分化胎児性肉腫」という、非常に希少ながんに罹患していることがわかった。約1年間にわたる治療を受けたが、そのあいだにはほんとうにいろいろなことがあって、あと一歩のところで死に至っていたかもしれなかった。
 治療が終わり、やっと体調が戻ったため、彼女は20歳のときに大学を目指して予備校に通いだした。そのとき高校で机を並べていた同級生のほとんどは大学3年生になっていた。
 予備校に通いだしてしばらくたった時、彼女が私の外来を初めて受診した。それが加茂さんとの最初の出会いだった。
 
 診察室に入ってきた彼女は、髪は明るい色にカラーしてあり、ファッションに興味がない私にはよくわからないが、とってもオシャレな若者という印象を受けた。不思議だったのは、自ら希望して受診したはずなのに、ぶっきらぼうな様子で、私には視線もあまり向けなかったことだ。
 その時のやりとりを詳しく覚えてはいないが、心境を尋ねても、「別に~」、「大丈夫ですよ~」などと軽くかわされたような感じがあった。この人は何を求めてここに来たのだろうかという疑問がうかび、私の気持ちは「???」という感じだった。

 しばらくこのような不可解なやりとりが続いたあと、加茂さんから「精神腫瘍科って変な名前ですね」などと、軽いジャブのような、ディスる(=揶揄する)言葉があった記憶がある。
 実は私も、「精神腫瘍科」という名前にはコンプレックスがあった。私が勤めている病院に通う患者さんは、自分にとって最良のがんの治療を受けることは強く希望しているが、こころのケアについては希望しない人も多い。しかし、本人が望んでいなくても、主治医が本人のメンタルの状態を心配して精神腫瘍科を勧めることがある。そうすると、主治医の行為を無にしたくないと、患者さんは気乗りしないのにしぶしぶ受診するのだ。そのような人にとって私は招かれざる客であり、最初に「精神腫瘍科の清水です」と名乗ると、「ついに俺には精神にもがんができてしまったのか」と皮肉交じりに言われた経験が何度かあった。

※例えば脳腫瘍は脳にできた腫瘍、乳腺腫瘍は乳房にできた腫瘍を意味するように、〇〇腫瘍というと、〇〇にできた腫瘍という意味合いでとられることがある。しかし、精神腫瘍という言葉はPsycho-oncology(psychoはこころ、oncologyはがんを意味する)の訳語というルーツがあり、もちろん精神にできた腫瘍のことではなくて、がんとこころについての学問を指す。

信頼できる大人たりうるか

 加茂さんに自分のコンプレックスをズバッと突かれて、私は一瞬傷ついた。ただ、精神科医として本心を隠すトレーニングはずっとしてきたので、そのことはこころの奥にそっとしまうことができた。
 そして、加茂さんの言葉や態度は、思春期には時々ある、大人に頼りたい気持ちと、信頼できないのではという猜疑心が同居しているからなのだろうと冷静に租借したうえで、「精神腫瘍科という名前、確かに変かもしれないね」と穏やかに返事をした。
 おそらく彼女は、私が自分のことを傷つけない人間なのか、気持ちを安心して打ち明けられる人間なのかどうかを試したのだろうと想像する。そして、このとき私が苛立たずに、彼女の言葉に応じることができたからだろうか、その後も私の外来の通院を継続することになった。そこからかれこれ5年以上がたつ。
 彼女の少し尖った感じのトーンは変わらないし、「今日は何もない。薬ちょうだい」みたいに短く診察がおわることも多い。一方で時々だが、「最近マジつらい」とか、「友達と食事に行くと体調悪くならないか心配」などと、徐々に自分の気持ちを話すようになった。
 
 そして、私が加茂さんの話をよかったらnoteに描いてみたいと伝えたことがきっかけだったと思う。彼女の今までの気持ちをのせた詩を、ある日私に見せてくれた。

「未来が見えなくなった話」

私には未来が見えていた。
どうしても行きたかった高校に通っている自分の姿、家族旅行で楽しんでいる姿、楽器の演奏をしている姿、見える未来は全て実現できた。
私には未来予知能力があるわけではない。
日常の中で未来の自分の姿を想像する瞬間がある。
その中でもよりはっきりと想像できる姿があった。
それが私にとって未来が見えるということだった。
 
高校卒業後すぐにがんが見つかった。
医師も知らないと言うような希少ながんだった。
ネットで病気について調べたが希少な病気ゆえに情報は乏しく、閲覧できる数少ない情報にも絶望的な記述しかなかった。
手術をしたが、数ヶ月後にすぐ再発した。
初発の時とは違い根治は難しいかもしれないと言われた。
がんによってお腹は妊婦の様にぽっこりと出て食事も取れなくなった。
入院中に倒れてこのままでは死にますと言われた。
万一のときは遺体を傷つける結果になるだけだからと、次は心臓マッサージをしないと父が同意書にサインをした。
 
この頃から未来が全く見えなくなった。
明日生きてご飯を食べている、テレビを見ている、ゲームをしている、そんな些細ことすら想像できなくなった。
無論1年後、5年後、10年後自分が生きている姿すら全く見えなくなった。
今寝たらもう2度と目覚めることはないのではないか、
どこに進むべきか何をすべきか何も分からない。
幸運にも薬物療法の効果があり、根治手術にまでこぎつけた。
 
退院してしばらくしてから共に入院していた友人達が相次いで亡くなった。
実感がわかなかったが、それから半年経ったころに突然眠れなくなった。
急に涙が溢れてきて止まらなくなった。
一日中ベッドの上で壁を見てすごした。
トイレに行くのもご飯を食べるのも全て面倒くさくなった。
スマホを触る気力すらなかった。
電車に乗ると震えが止まらなくなった。
毎日亡くなった友人の顔が浮かんできた。
自分がどこかおかしくなってしまった自覚があった。
 
病院のホームページを見るとがん患者のための精神科があることを知った。
自ら主治医に電話して予約をとってもらった。
先生は何も聞かずに予約をとってくれた。
精神科に通い始めて薬の力で寝られるようになった。
話を聞いてくれる人もできた。
先生がやりたいことをやればいいと言ってくれたのでやりたくないことは全部やめてバイトを始めた。免許もとった。
 
今もまだ未来が見えない。
5年後、10年後に自分が生きている想像は全くできない。
それなのに再発して転移して死にゆく自分の姿は容易に想像ができる。
ただ、明日友達とご飯に行っている光景、半年後好きなバンドのライブを楽しんでいる姿、少しずつ想像ができるようになってきた。
 
最近時計を新調した。
7年前手術をした特別な日だった。
その時の店員さんが今日からまたこの時計と共に時を歩んでいくのですねと言ってくれた。
ありふれた言葉だろうけどもとても嬉しかった。
まだ私の時間は進むんだ、生きていけるんだと思えた。
 
いつかまた未来が見える日がくるのだろうか。
あるいは二度とないのかもしれない。
それでも私は生きていく。
未来に明かりがあることを信じて。
 

「未来が見えなくなった話」加茂あかり


 私はこの詩に、彼女の今までの物語を感じた。そして、その物語をもっと詳しく知りたくて、「これはどんなことを指しているの?」などと詳しく質問を重ねていった。
 

将来が予測できなければ、「自己効力感」を持つことはできない

私には未来が見えていた・・・・
・・・・それが私にとって未来が見えるということだった。

「未来が見えなくなった話」加茂あかり

 未来が見えていたということに込められていた意味は、次のようなことだった。

 加茂さんは、公立の中学を卒業しているが、学校生活はかなり過酷だったらしい。その学校は上下関係が非常にきびしく、たとえば「セーラー服のタイは上級生にならないと短くできない」といったような、謎のルールがあったそうだ。もし下級生がそのルールを破ってタイを短くしていると、上級生に呼び出され、「お前なに調子に乗ってるんだ」と、きつく脅迫されるような環境だった。
 その状況の中で、彼女は天然パーマが強く、まったく願っていないことだったが、その身体的特徴からとても目立つ存在だったそうだ。
 自分には何も落ち度がないはずなのに、うまれつきの容姿で上級生から目を付けられ、「バカ」、「死ね」などのひどい言葉を投げつけられ続け、空き缶を投げられたこともあった。
 
 彼女はそんな理不尽な環境から脱出したくて、自由な校風の学校にあこがれた。ほんとうは海外の高校に行きたかったが、経済的にさすがに難しいとのことで、国際交流も活発な某高校を目指し、見事そこに合格した。
 
 心理学には「自己効力感」という概念がある。これは、人がある目標を持ったときに、「自分は必要な努力をすれば、それを達成できる」と思える力を指す。
 自己効力感が高い人は、新しい仕事、趣味、資格の取得など、様々な場面において、少々の困難が予測されても、「自分ならきっとうまくやれることができるだろう」と考えて、楽観的に取り組むことができる。一方で、自己効力感が低い人は、困難な課題があると、「きっと自分はうまくできない」と悲観的に考えてしまって失敗してしまうか、あるいは挑戦自体を避けてしまうかもしれない。
 
 きっとこの頃の加茂さんは、「自己効力感」があったのだろう。勉学だけではなく、中学では吹奏楽でクラリネットを担当していたそうだが、「自分が努力すればこれぐらいのレベルには行けるな」という予想をたてることができて、実際に結果もそのとおりになることが多かったそうだ。
 
 彼女が進学した高校はある大学の付属高校であったが、行きたいと思った別の大学を目指して、受験をすることにした。しかし、高校3年のときに体調が著しくなり、発熱、腹痛、食欲不振に悩まされた。
 そして、それまでの経験とは異なり、彼女の受験の計画は思い通りには進まず、浪人することになった。(後半へ続く)