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未来が見えなくなった話 肝未分化胎児性肉腫・加茂あかりさん【後編】
今回の記事は、下記記事の後編になります。
突然、明日さえも確信できない状況になった
高校卒業後すぐにがんが見つかった・・・
・・・・幸運にも薬物療法の効果があり、根治手術にまでこぎつけた。
卒業後に予備校に通いだしたが、6月に激しい腹痛を自覚するようになり、病院を受診したところ、肝未分化胎児性肉腫という、希少がんと言われる中でも、非常にまれな病気であることがわかった。乳がんや大腸がんなどの場合は、検索すればたくさん体験談を目にすることができるが、加茂さんは自分の病気について検索しても、そのような記事は皆無だった。
手術をしたが、その後再発をして、化学療法を受けることになった。加茂さんは自分で医学情報にあたったそうだが、肝未分化胎児性肉腫が再発すると、根治に至ることができる可能性は絶望的な数字であったことを記憶している。彼女は理屈的死生観という表現を使ったが、死んでしまえば何も感じなくなるので、このころは死ぬこともそれほど怖いとは感じなかったそうだ。
※友人である国立がん研究センター中央病院腫瘍内科の下井辰徳先生が、わざわざ具体的なデータを教えてくれた。加茂さんと同様の病状の方が、5年間生存する確率は約10-30%と言えるそうだ。根拠は以下の2つの論文である。
2020年に報告した医学論文では、加茂さんと同様な状況の方の治療成績は、生存期間の中央値が1年程度、5年生存率は10%だった。
Long-term survival outcomes of undifferentiated embryonal sarcoma of the liver: a pooled analysis of 308 patients - PubMed
2021年に報告された論文では、5年生存率は30%程度とされている。
Undifferentiated Embryonal Sarcoma of the Liver in Children Versus Adults: A National Cancer Database Analysis
治療をはじめたころは、同級生に置いていかれる焦りがあったが、再発した後は、そういう気持ちはなくなった。小児がんの病棟で治療を受けていると、いっしょに治療をしていた仲間が、気が付けばいなくなっていたりするなど、死が日常に入り込んでくる。「健康な世界に居る同級生たちとは違うんだ」という表現から、生死の厳しい現実と向き合っている自分は修羅場をくぐっているのだ、甘っちょろく生きている君たちとは違うんだというふうに、自らを肯定しようとするニュアンスを私は感じた。
肝未分化胎児性肉腫が再発した場合の治療成績は絶望的ではあったが、加茂さんには化学療法を受けないという選択はなく、ベルトコンベヤーに乗っているような感覚で治療を受けた。ある日入院中に腫瘍から多量に出血したために意識が遠のいて、そこから記憶がない。そして、もうろうとしながらも意識が戻ったときに、ベッドサイドにお父さんがいた。そして、自分の心臓が止まった場合に蘇生措置は行わない旨の説明を受けていて、お父さんはその同意書にサインをした。
「死にたくない」と「死んで楽になりたい」
このとき、「自分の最後すら自分で決められないのか」とおぼろげながら思うとともに、「死にたくない」という感情が沸き上がったそうだ。理知的に考えれば、死ねばすべて終わりで意識もないのだから恐くないはずだが、その時は理屈では説明できない強い感情が沸き上がったそうだ。
絶体絶命のピンチを脱して、その後も化学療法を続けた。あまりにも副作用が強いときは、死にたくないという気持ちが、「もう死んで楽になりたい」という気持ちに容易に変わったそうだ。「死にたい」と「死にたくない」を行ったり来たりしながら、加茂さんはこの時期を過ごした。
苦しい副作用に耐えて繰り返し受けた化学療法は非常に良い効果を示して、根治治療を受けることができた。退院してからの1年は体力が著しく低下していて、最寄りの駅まで歩くのが精いっぱいだった。体力が回復してきたので、彼女は20歳のときに予備校に通うことにする。頭の片隅には自分のがんの絶望的な治療成績があったので、大学に合格して、その後社会人として生きていくイメージは描けなかった。しかし、それ以外の道を想像できなかったので、以前走っていたレールに戻ることにしたそうだ。
なぜ、友人は亡くなり自分は助かったのか
退院してしばらくしてから共に入院していた友人達が相次いで亡くなった。
・・・・・自分がどこかおかしくなってしまった自覚があった。
友人の死は、その直後はあまり実感が湧かなかったが、半年ぐらいしてじわじわとこころの中に侵入してきて、しばらく友人のことを考えずにはいられなくなった。
厳しい病状の友人に会いに行くべきか迷ったこともあった。しかし、ある友人の「元気にしている人には会いたくない」という言葉を人づてに知り、会いに行かないことにした。また、別の友人にも、もし今会いに行けば、なぜ会いに来たのかと疑問に思うだろう。特別な面会者が来たという事実から、死期が近いことを悟らせてしまうことになるだろう。そして、彼女は迷った末、会いに行かなかった仲間が何人かいる。その選択は正しかったのか、今でも悩む。
彼女には冷静に考えれば何の罪もないわけだし、「元気にしている人には会いたくない」という友人の心情も理解できるものだが、複雑な気持ちになるのも無理がない。
サバイバーズ・ギルトという概念があるが、「友人は亡くなったが、自分は生きている」ことに対して、罪の意識を感じる人は、がんの体験者の中にも多くいる。
同じ治療をしていたのに、自分は今のところ助かっているが、なくなった友人がいる。なぜ自分は助かったのか、その理由はわからないし、もちろん自分の努力とは関係ないところにそれはある。
自分の未来にも決して安心できない。肝未分化胎児肉腫の治療成績からすると、いつがんが息を吹き返すかわからない。自分の生死も含めて、すべては運で、コントロールすることができない。
ここに来て、病気になる前の未来が見えていた感覚は、まったくなくなった。同じ教室で勉強している予備校生は、未来があることを信じて疑っていないようだったが、自分には未来が全く見えない。そんな心境のもとに、予備校の窮屈なスペースで勉強を続けることは無理になっていた。
私はこのころの加茂さんに、「『Must』ではなく、『Want』で生きてもいいんだよ。嫌なことをやめることから始めてもいいんだよ。」と言った記憶がある。
選択することの結果を引き受けるのは本人なのだから、進む方向をアドバイスすることはおこがましいとは、わきまえているつもりだ。それでも私が彼女の選択に個人的な意見をもって踏み込んだのは、よっぽど当時の彼女はつらそうに見えたからなのかもしれない。そして加茂さんは予備校をやめることとなった。「その選択をしたのは、先生がやめていいと言ったからだよ」と言われると、責任を感じるが、そう伝えてよかったと思っている。
半年先、1年先はあるのではないか
今もまだ未来が見えない。
・・・・・・・・・・・未来に明かりがあることを信じて。
彼女が予備校に通っていて精神的にもがいていた時、突然私の外来に、加茂さんのお父さんがふらっと現れたことがある。私よりいくつか年上だったが、すらっとしていてスタイルがよかった。加茂さんはお父さんのことを誇らしげに話すことが多かったが、なるほどなかなか素敵な人だなと思った。「私みたいにお腹が出てなくていいですね!」と、冗談ぽくお父さんのスタイルがよいことを指摘すると、笑っていた。
「娘は大丈夫ですか?」とお父さんは尋ねた。ニコニコしながらお父さんは話していたが、ほんとうはとても勇気を出して、私に会いに来たのだろうと思う。私は、「守秘義務があるので詳しいことは言えないが、大丈夫だと思っている。あかりさんは、今はもがいているかもしれないが、いずれきっと自分らしい道を見出すだろうと信じている。」みたいなことを伝えた記憶がある。
お父さんが外来に来たことは、ひょんなことから加茂さんの知るところとなった。彼女が自分の歩んできた軌跡をきちんと見ておきたいという理由でカルテ開示を申請したのだ。そして、私の記載の中に、お父さんが来院したことを発見した。
「パパ、来たんだ!面白い。」と加茂さんは笑っていた。お父さんは、つらい感情をあまり表にださない性格だそうだが、加茂さんが厳しい状況になったときに逆流性食道炎になったそうだ。父親として当然かもしれないが、どれほど娘のことを心配していたことだろうか。
加茂家全体に、深刻なことは話さない雰囲気があるそうだ。加茂家だけでなく、気持ちにふれないようにしいている家庭のほうが多いのではないかと、精神科医をしていると思う。余計なお世話だろうが、私なんかに聞かずに、「あかりちゃん、大丈夫かい?」と話して、いっしょに不安な感情を共有できたほうが楽なのにと、思ったりする。
加茂さん自身は、自らの詩に書いているように、自分の気持ちを少しずつ話すようになった。私の外来を彼女が安心な場と感じているのなら、それは私にとってもうれしいことだ。
新しい時計と共に時を歩む
治療の真っただ中のころは、1か月先に自分が存在することにもまったく自身が持てなかったが、今は1年先はやってくるんじゃないかという感覚は出てきたそうだ。長い計画は立てられないが、それまでよりも将来を見据えた行動にやる気が出るようになった。
未来が見えてきたからなのか、2024年の2月、最初の手術から7年経った記念すべき日に、彼女は時計を新調することにしたそうだ。最初に行った銀座店が休みだったので、表参道の店まで行った。どうしてもこの日に時計を買いたくて表参道まで来たことを店員さんに伝えると、特別な想いを感じたのか、「今日からまたこの時計と共に時を歩んでいくのですね」と言ってくれた。その言葉は時計を買う人によくかける言葉なのかもしれないが、その時の加茂さんのこころには深く刺さった。その言葉をきっかけに、少し未来の見え方が変わった。まだ確信は持てないし、それが何だかわからないが、未来に「あかり」があると、希望が持てるような感覚が湧いてきたそうだ。
「同じだね」と言いたいだけ
加茂さんが今行っている活動のひとつに、体験者として自分の経験を伝えることがある。その活動をしている理由を尋ねたところ、次のように答えてくれた。自分が肝未分化胎児性肉腫に罹患したときに、乳がんなどの体験談はたくさん見つかったが、同じ病気の人の話はひとつも出てこなかったそうだ。それは当時とても苦しいことで、強い孤独感があったのだと想像する。
彼女はタイムリープという表現を使ったが、今の自分が、当時の自分を救うような気持で、同じ病気の人が検索したときに、自分の体験談を見つけてもらえるよう、活動しているそうだ。
彼女にはひとつ夢があって、同じ病気の人と一度会って話したいということだそうだ。会って何をしたいの?と尋ねたら、次のように応えた。「何したいとかはないのよ。ただ、『あ~同じだね~。』『同じですね~』って言いたいだけ。」と、いつもの軽い調子で笑って言った。私もそれにつられて笑った。天涯孤独な人が、血のつながりがある人をさがし続けるような心境なのだろうなと、私は想像した。
未来が見えるとはどういうことか
加茂さんは18歳で、未来が見えなくなった。一時期は一寸先もわからないような状況だった。そんな時は、先の目標もたたず、その日その日を生きることにしていたそうだ。当時の加茂さんにとって、過去と今は存在するが、未来を考えることはできなかったのだろう。
今はおぼろげながらだが、未来が見えるようになったそうだ。友達とごはんに行く計画を立てれば、その少し先の未来はやってくると思えるし、半年先のバンドのライブもいけるだろうと思えている。そして最近は、「病気になる前のように、だいぶ先の未来が見えるかもしれない。」という希望を持つようになった。そんな自分のこころを勇気づけようと、加茂さんは記念すべき日に時計を新調したわけだ。
現代の平和な日本に住んでいれば、多くの人は未来がやってくることが当たり前という感覚を持つだろう。地に足がついているように感じられるその感覚が、どれほど安心と希望をもたらしていることだろうか。当たり前だと思っていることが、突然失われることもありうることを知ると不安になるかもしれない。しかし、それは人生の真実であると思うし、今自分が未来の計画を立てられているとすれば、そのことに感謝の気持ちを持つことができるのだ。
加茂さんは、その安心安全な感覚を突然失ったわけだ。当初は明日のことすら考えることすらできず、その日を生きることに気持ちをフォーカスした。それは、その状況でこころが均衡を保つための、必要な手段だったのだろう。
少し先が見えてきたら、短期的な目標を立てられるようになった。今、長期的な目標を持てるようになる未来に希望を持っている。明日を考えられなかったときから、少しずつ未来の見え方は異なってきていることを彼女は話してくれたわけだが、その時その時の未来が見えなくなった感覚と、今に至るまで向き合ってきている加茂さんの道のりに、私なりに思いを馳せた。
インタビューを終えた後、病院の最寄りの駅で加茂さんは具合が悪くなり、がん研の救急外来を受診することになった。幸い身体的には問題ないとのことで、しばらくしたら回復して帰宅の途に就いた。
いつもどおり一見ひょうひょうとした様子で語っていた加茂さんだが、命に関わる体験を、思い出して言葉にするには大きなエネルギーが要ったのだろう。わたしは語ってくれた加茂さんにこころから感謝した。