KENの長〜いプロフィール
こんにちは世界の指圧師KENこと
山元健です。
私の半生を自身の“反省”も込めてお話したいとおもいます。
だいぶ長くなりますがお付き合いくだされば嬉しくおもいます。
なにかお好きな飲み物をご用意していただき、ゆっくりと読んでくださいね!
■両親共に指圧師
1974年 11月14日
母の実家鹿児島県鹿児島市にて生まれる
私の父と母は名古屋にある鍼灸指圧マッサージの専門学校で出会いました。
父24歳、母25歳二人は結婚しました。
そして父の実家がある名古屋で暮らすことに。
両親とも指圧マッサージ師という恵まれた環境に生まれまた私は指圧師界のサラブレッドといってもいいかもしれませんね。(自分で言ってみた)
私が2歳のときに両親が離婚。
母親に引き取られることになります。
母一人子ひとりの「母子家庭」です。
私の母は16歳の頃より指圧マッサージの世界に身を置いている人間です。
幼い頃より母親が働く姿を見て育ちました。
私が幼い頃の母親の仕事の仕方というのは、ホテルや旅館の客室への派遣マッサージでした。
仕事の時間は夕方から深夜遅くまで。
その頃の私は夕飯を一緒に食べて母親が仕事に行く姿を見送るといった毎日です。
学校が無い日曜などは朝から母親と一緒にいられるので嬉しかったですね。
仕事から帰ってきて寝ている母親を朝早くから起こして、どこかに連れてってほしいとねだっていたこともあります。
今思うと、もっと寝かせてあげればよかったと思います。
物心ついたときには父親の存在はありませんでした。
それでも記憶の片隅に父親の影が少しは残っていました。
3人で父親が撮影した、母か映っている映像の8ミリビデオをスクリーンで見ていた記憶が今でも心に残っています。
【妄想ばかりしている好奇心旺盛な子供でした】
両親と過ごした名古屋から、母の姉夫婦(私にとっては叔母)がいる岐阜県に引っ越します。
叔母には3人の子供がいました。皆私よりも年下です。
男の子一人、女の子二人です。
この3人とは私が成人するまで一緒に過ごしたので兄弟のようなものです。
私は4人兄弟の一番上の兄貴的な存在ですね。
一人っ子だった私にとってこの3人はとてもありがたい存在でした。
幼いころの私はとにかく絵を描くのが好きな子供でした。
暇を見つけては広告用紙の裏や落書き帳などに好きな漫画の絵などを描いて遊んでいました。
本当に絵を描くことが好きで、小学校のときは自分で漫画を描いて友達に見せていたりもしていました。
母はそんな私の絵心を育ててあげたかったのか、絵の教室に通わせてくれました。
母も絵を描くのが好きだったので、毎週日曜日はお寺の幼稚園を教室にしている絵の教室に母と一緒に通うことになりました。
マッサージ師として旅館の派遣マッサージの仕事をしていた母。
夜はどうしても帰りが遅くなります。
帰ってくるのは毎日夜中。
私は寝ています。
母と子。すれ違いの毎日をおくる中で、日曜日の「絵の教室」に行くのが親子の時間でした。
■デブだった小学校時代
私はいわゆる“肥満児”でした。夜母親は仕事に出かけていているので夜は一人で家にいます。
テレビは見放題。お菓子は食べ放題。夜更かしもし放題という、子供にとってはまったく良くない環境でした。
そのせいか体重はどんどん増えていきました。それと同じく身長も伸びていきましたが。。
成長期によく食べたたせいか、立てにも横にもよく成長しました。
現在私の身長は183cmありますが、きっとこのときの栄養過多のおかげですね。
■不良に憧れていた中学校時代
私が中学生だったころに流行っていたものがあります。
たぶん今の若者にはわからないと思いますが、BE-BOP-HIGHSCHOOL(ビー・バップ・ハイスクール)という不良高校生を題材にした漫画が流行っていた時期でした。
ちょっとヤンキーに憧れをもっている子たちはだいたい太いズボン(ボンタン)を履いてイキがっていたものですが、私もその一人でした。
今考えると笑えますが流行とはそういうものです。
不良といっても何か悪いことをするということではなく、カッコだけのなんちゃってでした。
そんな感じで中学生時代はあまり勉強が好きではなく、
あまり勉強もしていなかったので入れる高校が全然ありません。
これはまずいぞっと感じた私は、何とかせねば!と猛勉強をすることに。
そしてなんとかしてこんな私でも入れる高校が見つかりました。
その高校はというと・・
■バイクに夢中だった高校生時代
なんとか進学した高校は定時制の高校でした。
昼は働き、夜に学校に行く。
あえて働きながら学ぶ道を選んだわけではありませんでしたが、入ったからにはなんとか卒業せねば!と、4年間通い無事に卒業しました。
入学してから最初の頃は、同級生から絡まれたり、怖い先輩に呼び出されたりと、とにかく大変デンジャラスな学校生活でした。
この学校というのがまた不良だらけのどうしようもないところでした。
バイクで学校に来るのは当たり前で、上級生にもなると車で登校も。
実は私も学校に内緒でコッソリと二輪免許をとってバイクに乗っていました。
(きちんと免許を取って乗っていたのでまじめですよね)
学校は毎日6時から授業です。その前に学食で給食をいただきます。
学食のおばちゃんが作ってくれた手料理をいただくわけです。
毎日夕飯は学校で食べていました。
おいしかったな~
年度始めは新入生が多くいるのでメニューも豪華なんですよね。
生徒が多くいるので給食費が潤沢だからです。
私がいたクラスでも卒業式のときには約半数が退学しているというどうしようもない状況です。
春から冬にかけてメニューが寂しくなっていくのがとても残念でした。
【早くから社会を知る】
こんな感じで高校生活を送っていわけですが、
活途中で辞めそうになったときもありましたが、なんとか頑張って通っていました。
4年間の高校生活。
定時制高校というのは、
昼間は働くのが当たり前。
とはいうものの何もしていない人もいましたけどね。
私はというと、4年間でたくさんの仕事を経験しました。
ではリストアップしてみますね。
・お菓子工場
・板金工場
・写真店
・ガソリンスタンド
・建築現場
・鉄工所
・バーテンダー
まあ、どれもあまり長続きしなかったということなんですけどね・・
しかし、このときの経験は今思うととても良い経験だったとおもいます。
どこの職場でもだいたい自分が一番年下でした。
ほとんどの人は高校を卒業してから就職します。
そこから社会とのつながりが始まるわけです。
私の場合は16歳のころより社会に触れ、大人に触れる機会を得たのです。
最初のころはまったく社会の常識など持ち合わせていません。
自分では当たり前だと考えていることも、世間では通用しません。
仕事場の先輩方にはいろいろなことを教えてくれました。
私もいろいろなことを自分に吸収したい!と、たくさんのことを聞き、教えてもらいました。
このときに学んだことがあります。
「人は聞けば教えてくれる」ということです。
それは私が何もわかっていない若造でどうしようもなかったからかもしれません。
でも仕事場の先輩達はそんな私にたくさんのことを教えてくれました。
そして私も恥ずかしげもなくなんでも聞いていました。
子供の頃から母に言われていたことがあります。
それは、
「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」
とにかく私は、知らないことをそのままにするのが気持ち悪い性格になっていたのでしょう。
今でも分からないことはすぐ人に聞きます。
私は自分ができないことをできる人のことを素直に尊敬しています。
たくさんのことを素直に聞くことができた、この若いときの時間は、とても尊いものだったのだなと、今になって思います。
■怠惰なフリーター時代
高校は定時制で4年間あります。
卒業したのは現役高校生より一年遅れの19歳。
さて何をやろうか。というところですが、そのときの私には特にやりたいこともなく、
ただ毎日バイトをして消費して遊んでという、なんでもない日常を送っていました。
「今が楽しければいい」という、
何も目的の無い若者代表のような感じです。
“人生に目的のない若者” でした。
特に何も困っていることや、やりたいことがなければ、人には目標など生まれないものです。
何かに対して不満があるわけではなく。
社会に対して不満があるわけでなく、。。
特に何がしたいわけでもなく・・
私も世の中に多くいる“普通の若者”でした。
【目的を持たない若者】
夜学ながらも高校をなんとか卒業することができました。
その頃19歳の私は、
何も目的が無く、やりたいことも無く、ただなんとなく毎日を生きる…
「このままで自分はいいのだろうか…」
こんな感覚で毎日を過ごしていました。
目的が無いということは案外苦しいものです。
それは人間というのは「無いものねだり」だからです。
あれば、有難さを忘れ。
無ければ欲しがる。
本当に困った生き物です。
何もしたいことや夢がが無いということは別に不幸なことではありません。
生活ができていて、日常に何も不満がなければ本来人は幸せなのです。
生き物にとって一番の心配事は、自分が死ぬことです。
生き物としての自分の「死」が一番の
「毎日の生活に安心感がある」
寒さと暑さから身を守る住まいがあり、お腹が空けばすぐに何か食べることができる。
風邪などの病気になっても、すぐに医療を受けることができる。
「満たされている」ということが当たり前になると、人はその領域からなかなか出ようとしなくなるものです。
そもそも出る必要がありません。
でも人はそれだけでは満足できないのです。
満たされていなければ、満たされる環境を作り出すために動き出します。
何とか自分の欲求を満たしたい!と思うものです。
「何の目的もなく、何もやりたいことがない」
そんな若者は世の中にたくさんいます。
私もその一人だったのです。
【やりたことが見つかる】
そんな感じでふらふらとした生活が3年ほど続きます。
気づけば23歳になろうとしていました。
ある日テレビを見ていて衝撃的な場面に出会いました。。
それは、当時一部の人たちに流行りだした若者文化。
TATTOO(タトゥー)
いわゆる刺青です。
幼いころから絵を描くことが好きだったこともあり、
「これは自分にとって向いている仕事だぞ!」
と、直感的になにか感じることがありました。
心から「やりたい!」と熱くなり、雷に打たれたような衝撃でした。
それからというもの、本屋に入っては刺青に関する本を物色するようになります。
当時はまだインターネットが普及していない時代です。
情報といえば「本や雑誌、テレビ」でした。
夢中でした。
しかしその夢は長くは続かなかったのです…
■引きこもりの暗黒時代
23歳。
このときの私は、実は“引きこもり”でした。
そのときに真剣にやっていたTATTOOアーティストになるという夢に破れ自暴自棄になっていました。
活動期間は約6ヶ月ほどでした。
なんだかんだといってまだ当時はこの業界自体が「反社の人たち」との繋がりが濃い世界でした。
どうしてもそういう人たちとの繋がりと付き合いが出てきてしまいます。
そういう関係を望んでいなかった私はこの世界から足を洗う決心をしました。
この時の刺青の師匠から言われた言葉が今でも忘れられません。
『俺たちの仕事は人から恨まれる仕事だ』と。
刺青を入れた本人は自分で決めて入れたのだから仕方がないが、
自分の子供が刺青を入れて嬉しい気持ちになる親なんていない。その親からは確実に恨まれる。
たがらこの仕事は人から恨まれる仕事なんだよ。と言われました。
タトゥーだアートだと言っても刺青には変わりありません。
人の体を傷付け、その親の心をも傷付ける仕事なのだということを軽く考えてはいけなかったのです。
私にはその業を背負う覚悟はありませんでした。
刺青を人に入れる仕事は、人様の体に傷をつけるわけです。だから自分でもその痛みを知る必要があります。
いきなり人の体を使って練習するわけにはいきません。
まずは自分の足を使って練習するのです。
今も私の足にはそのときの練習で入れたものが残っています。
これは私の歴史として一生付き合っていくつもりです。
そんなわけでして、こんな体では社会に出ることはもう無理だ!
と、何もする気にもなれずに自分を見失っていました。
自分のことがとても無意味な存在に感じられ、
「誰にも会いたくない、外にも出たくない」という状況でした。
もう社会復帰できないのではないか。。と考える毎日です。
自分の存在価値が分からなくなり死にたいと思おうこともありました。
今思うとそのときが私にとって一番の暗黒時代でした。
心配して友人なども連絡をしてくれることもありました。
自分の気持ちも落ち着き始めてきたころに友人に連れられて外に出ることが出来ました。
「今度皆で飲むからKENもおいでよ」
こんな感じの誘いだったと思います。これがとても嬉しかったです。
なんでもないようなことなんですが、なにか救われました。
自分のことを気にしてくれている人がいる。会いたいと思ってくれる人がいる。
このときに感じました。
「だれかに気にかけてもらえる」
「だれかに必要だと思われている」
これはとても大切なことなのだと。
“友人は宝です”
※この時期のことは今の私の価値観を育てる良い経験になりました。
この時のことはハワイに移住してからも気づくことになります。
それについては後半で・・
■鍼灸指圧マッサージ師の道に進む
約5ヶ月間の引きこもり期間を経て無事に心の収容所から出所した私でした。
さてどうしたものか。
いつまでも親に心配をかけるわけにも行きません。
そんな感じで悶々とした想いのなか、自分の中で新たな目標が生まれました。
散々心配をかけてきた母を安心させるためにも、
指圧マッサージ師になって母親の仕事を手伝うことに決めました。
これは自分にとってすごく勇気のいる決断でした。
なんとか試験に受かり指圧マッサージ鍼灸学校に入学することができました。
そうして新しく学生生活がスタートしたのです。
学校は3年間あります。
解剖学や生理学など、体のことや病理学のことなど勉強することがたくさんあります。
勉強は大変でしたが新しい友人も出来て毎日楽しく過ごしていました。
授業ではお互いの体を使って練習し合う実技の授業があります。
実習の時には、足の刺青はサポーターをして隠して授業を受けていました。
学校で知り合った何人かの友人には自分の足の刺青のことを告白しました。
最初は、
「そんなことを言ったら嫌われるのではないだろうか…」
「軽蔑されるのではないだろうか…」
と心配していたのですが、思い切って言ってみると。。
意外と人は受け入れてくれるものですね。
「こんな硬い学校だからまじめな人ばかりだと思っていたけどKENちゃん面白いね!」
なんて言ってくれる人もいました。
こんな自分を受け入れてくれたのです。
このときは涙が出るほどとても嬉しかったです。(実際少し泣きました・・)
指圧マッサージと鍼灸の学校です。
こういう専門学校の生徒は年齢層がばらばらです。
下は19歳から上は50歳以上と、いろんな人がいました。
普段あまり接することのない年代の人たちとの学校生活は学校の勉強以外にいろんな刺激をもらえました。
■鍼灸指圧マッサージ師になって
3年間学校に通い、
国家資格に無事合格して指圧師と鍼灸師になりました。
しばらくは実家の指圧マッサージ鍼灸店にて、院長である母親と4人のスタッフの方々と仕事をしていました。
2年ほど経った頃に、ホテルの客室への出張マッサージに入っていたホテルが親会社の倒産で連鎖倒産になり閉鎖することに。
一年ほど閉鎖していたそのホテルですが、
新しい会社が入り運営を再開することになりました。
そのときホテル側から
「テナントとしてマッサージ業をやりませんか」
というオファーをいただきました。
最初は悩みました。「自分がお店をやるなんてことができるのか…」と。
しかし、条件がとても良かったのでやらせていただくことにしました。
このときのことは今でもよく覚えています。
お店をオープンさせるなんて初めてのことでしたが、周りの人の協力により何とか形になりました。
ビジネスをする。ということの大変さを学ぶ良い経験でした。
こうして新しく2店舗目として駅前のホテルの一階にオープンしたお店で仕事をすることに。
新しく始めた自分の仕事です。はじめはお客様などまったく来ませんでした。
チラシを新聞折込にいれたり、手配りで配ったり。いろいろとやりました。
でもどれもあまりぱっとしませんでした。
さてどうしたものか…
まず本をたくさん読みました。
ビジネス書を中心として、接客方法やお客様のホスピタリティを上げることに特化した内容のものをよく読みました。
接客業は笑顔!愛想! 無表情で愛想がないのは仕事をサボっているのと一緒!
このことを胸に置いて一生懸命にお一人お一人お客様へ丁寧な接客をしました。
具体的には、ご来店されるお客様へのお迎えとお見送り。
元気な対応と笑顔でお迎えする。
マッサージの施術ではお客様の好みがセラピストに言いやすいような雰囲気づくりをすること。
お客様お一人お一人の気持ちに寄り添うように、力加減なども丁寧にお尋ねし、お客様の満足度を上げるように努めました。
出来ることはいろいろとやりました。
これがお客様に気に入っていただいたようで、
お客様がリピートしてご来店してくれるようになり、お客様がお客様を連れて来てくださるようになったのです。
人のご縁は人が運んでくれます。
お金の縁も人が運んでくれます。
この時にも、人と人の繋がりの大切さを改めて学びました。
■ハワイで勉強する機会を得る
初めての海外旅行はハワイでした。
29歳で結婚
結婚式をハワイで挙げることになりそのためにはじめての海外渡航をしました。
そのときから毎年結婚記念日にはハワイに行くことに。
あるときです。
いつものようにハワイに旅行に行くとき、前から気になっていたことをやってみようと思いました。
それは、ハワイのマッサージスクールを見学してみよう。ということでした。
前々からハワイのマッサージ事情に興味を持っていたので、
一度ハワイのマッサージスクールに行って、体験入学をしてみたいと考えていたのです。
その時に行ったスクールはハワイではとても有名な学校である、【ハワイ・マッサージ・アカデミー】でした。
このときにお会いしたのが学院長であるタツコ・モリモト先生でした。
お会いしてお話しをさせていただき、タツコさんの人柄に触れ、その場で入学することを決めました。
とはいえ、日本での仕事はどうしたものか。と考えてましたが、
でも心配に及びませんでした。
すでに現場のことは店長とスタッフたちに任せていて、私が居なくともお店は回るようになっていましたし、母もお店を見てくれるということでした。
なので私自体はすぐにハワイに行くことができました。
その当時のスタッフには今も感謝しています。
2008年3月からハワイの生活が始まりました。
奥さんと一緒に新しい生活の始まりです。
いつかはハワイに住みたいよね。と夫婦でも話をしていたハワイでの生活です。
最初のころは毎日が楽しくて毎日が旅行気分でした。
このときに一つはっきりと自分の価値観が変わったことがありました。
ハワイはアメリカです。
ハワイに行ったことがあるかたはよくわかると思いますが、
ハワイの人は結構な割合で刺青、TATTOOを体に入れている人が多くいます。
これはハワイの文化に古くから刺青の文化がある影響もあるのでしょうが、やはりアメリカだから!
という感じが強いとおもいます。
このときに自分の価値観がガラリと変わりました。
日本ではまだまだ、刺青=反社
という価値観が強いですが、アメリカでは、ただのファッションの一部なのです。
同じものでも、国や環境が変われば評価が変わるのだということを肌で(笑)感じたのです。
ものごとは捕らえ方次第でどうにでもなる。
見る角度によっても変化するし、時代と場所によっても変化します。
そして、すべては自分の考え方がそれを決めています。
人の悩みの大半は自身の思い込みから来ています。
すべては自分の考え方次第なのだということを学びました。
ハワイは日本人の観光客が毎日3000人以上も訪れる人気の観光地です。
私たちも結婚式以来毎年のように結婚記念日にはハワイに行っていました。
ハワイという土地はとても不思議な力を持っています。
人を魅了するんですよね…
そんな憧れの土地ハワイで、夢の生活をするようになります。
しかし、夢は長くは続きませんでした。。
学校が始まり毎日が勉強の毎日です。
マッサージは人の体に触れるお仕事です。
だから当然日本の学校と同じく、解剖学や生理学を学びます。
ハワイのマッサージ学校の勉強は英語です。
授業自体は日本人の先生が日本語で教えてくれるのですが、内容はすべて英語です。
当然ですよね。
ハワイ州のマッサージライセンスの試験はすべて英語です。
いくら4択のマークシートだからといっても、問題文が読めなければ話になりません。
私は英語が得意なほうではありません。
むしろほとんどできません。
なので必死に勉強して試験に合格するように頑張りました。
解剖学の知識は日本で学んだので日本語では理解出来ていましたが、専門用語を一から英語で覚えるのは大変でした。
約9ヶ月の学生生活を経て無事に「ハワイ州マッサージライセンス」を取得しました。(実は2回目で合格しました)
このときはとっても嬉しかったです。
時期が同じ頃、ハワイの友人からあるお話をいただいていました。
「ある指圧マッサージのお店を経営している人がいるんだけど、あとを継いでやってみないか?」
というお話でした。
ハワイ在住の友人が通っていたマッサージ店のオーナー73歳の日系の男性。
聞くところによると、そろそろ引退したがっているらしいので、そこの内装とお客様リスト含めてビジネスを買い取りませんか?というお話しでした。
そこで私に、一度会って話をしてみたらどうか?ということでした。
よく夫婦で話はしていたのです。
「ハワイで仕事ができればいいよね」と。
このお話が来る前からハワイで起業するためにいろいろと下調べをしてはいました。
新聞に良さそうな物件があったら見にいってみたり、弁護士さんとお話してビザ取得のお話を聞いたりと。
お金と時間をかけていろいろと情報収集をしていた頃です。
そんなときに突如とやってきたこのお話。
条件が良かったのですぐに決めました。
■ハワイでの起業と挫折
ハワイで起業するためにたくさんのことをしなければいけません。
まったく初めてのことだらけなので弁護士の方が頼りです。
外国人である私がハワイで仕事をするとなると、まずはビザの取得をしないといけません。
アメリカで仕事をするには働くためのビザである「就労ビザ」を取得する必要があります。
この“ビザ取得”に皆んな大変な思いをするのです。
日本人がアメリカに住むにはビザを取得しなければいけません。
「ビザは命」と言っても過言ではありません。
私の場合は日本に会社があったので、
その会社のハワイ支店に企業内転勤者としてのビザを取得しました。
ビザの期限は最初の年が1年間。非常に短いビザです。
2009年6月に、ハワイのカイムキという地区で指圧マッサージ業を起業しました。
この地区は地元の人たちがよく訪れるところで、レストランなどもたくさんある地域でした。
ハワイベストレストランに何度も輝いたことのある「ハレ・ベトナム」も近くにあります。
ここにはよく通いました!
ベジタブルイエローカレーは絶品です。
マッサージ店の名前は「憩い指圧」
前オーナーは20年のキャリアがあり、お客様もたくさんみえます。
私はそのお客様を引き継ぐことになりました。
前オーナーのリチャードさん。
リチャードのお客様に気に入ってもらえるようにリチャードの指圧マッサージのやり方を覚える必要があります。
完全にコピーするのは難しいですが、なんとか習って覚えました。
私がいつも講座の生徒さんに伝えていることなんですが、
「技術は最低限あれば良い」というのがあります。
これは、マッサージという仕事は技術が上手なのも大切なのですが、それよりもまずは先に、人間性と人となりが大切だということです。
あと大切なのは「相性が大切」です。
なので、私のことを気に入ってくれるお客様もいれば、離れていくお客様も若干みえました。
このときのハワイでの仕事は、とてもたくさんの学びと気づきを私にもたらせてくれました。
一年なんてあっという間です。
2010年5月
ビザの更新時期になりました。
私が取得したビザは最初の年に1年間。それから3年間・・と更新していくものでした。
最初の更新時期を同じくして、日本に帰る決心をしました。
いろいろなことがありました。
・夫婦の問題
・日本の会社の問題
・自分自身の心の問題
いろいろな事を考えて、考えて、ビザの延長をすることはせず、
日本に帰国する決心をしました。
今思うとその決断が正しかったのか間違っていたのかはわかりません。
しかし人はいろいろなことを言うものです。
「なんだ、やめちゃったの?」
「あれ、帰ってきたんだね!」
そうです、やめて帰ってきました。
すべて自分の意思で行動して、
自分の意思で決定したことです。
誰かのせいにするわけでもないですし、すべて自分なりにやってきた結果です。
誰の責任でも、誰が悪いわけでもありません。
すべては自分の責任です。
とはいえ、 人というのはいろんな事を言うものですが、そんなことにいちいち気にしてはいられません。
岩にかじりついてでもハワイでのビジネスをなんとか頑張っていればまた違う未来もあったかもしれません。
ハワイでの起業は一年という短い期間でした。
他人から見れば、私のハワイでの起業は失敗に終わったのです。
自分で決めたことなので後悔はありませんが、一つだけ心残りがありました。
それは、
後継者を育てていなかったということでした。
短いハワイでの起業でしたが、私のことを気に入ってくださり毎週通ってくださっていた、89歳の女性のお客様がいたのです。
その方は日系人だったので少し日本語ができたので、日本語でお話しをしていました。
よく、「KENさんもっとイングリッシュ勉強しなさいね」と言われていたのを思い出します。
私がハワイのお店を閉める時に、その女性のお客様から言われたのです。
『KENさんが居なくなったらだれにやってもらえばいいかね』と。
その時の私は私の代わりになる後継者を育てていませんでした。
とても申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。。
セラピストは自分がやがて仕事ができなくなる時がやってきます。
それは怪我であり、年令のことであり、環境が変わることでもあります。
自分がやめるのは勝手です。
でも残されたクライアントはどうしたらよいのでしょう。
また自分に合うセラピストを探さなくてはいけません。
なので、指名が多いセラピストは、最終的には自分の代わりになる人を育ててから辞めるのが、自分のことを信じて通ってきてくれたお客様への最後の仕事なのです。
この時に経験したことが元になり、
悩めるセラピストのためのスキルアップ講師としての活動をすることになったのです。
■離婚を経験する
ハワイでの起業と廃業。
このときの私はけっこう精神的にも大変な時期でした。
まあ、今となってみれば大したことなどほとんどないんですけどね。
このころの私たちの夫婦関係はというと、正直うまくはいっていませんでした。
海外で生活をするということは、いろいろな障害が待ち受けています。
私の奥さんは日本で仕事を持っている人で、レストランの経営をしていました。
お店にはたくさんのスタッフがいます。
数ヶ月に一度は日本に帰らないといけません。
私も日本の会社とのやりとりと、ハワイのお店のことなどがあり精神的に疲れていました。
夫婦の関係も、すれ違いや求める生活環境の違い。
お互いを思いやる気持ちの欠如など。
このまま夫婦関係を続けるのは難しいということになり、
日本に帰ったタイミングで話し合った結果、離婚することにしました。
幸いと言って良いのであれば、私たちには子供がいなかったので離婚するのもそれほど問題はありませんでした。
私が日ごろ心がけている価値観があります。
それは、
「人は環境の奴隷」だということです。
人の価値観や感覚というものは、そのときの環境しだいでどうにでもなるし、変わるものです。
その渦中にいるときは自分は不幸のどん底だと思っていても、時が経てば、
「ああ、なんであんなつまらないことで悩んでいたのだろう」
と前向きになれる日が必ず来るのです。
なので人は、自分の感覚をも疑って考える必要があります。
自分自身の感覚を真に受けてはいけないのです。
自分の価値観や、物事の判断基準というのも、実は誰かの「価値観」を継承しているだけの場合が多いからです。
その価値観はどこからやってきたのか?
大体が、親や教師、友人たちです。
なので、
離婚=不幸
では無いのです。
このときのことは自分の感覚だけでものを言うのは間違っているかもしれません。
彼女にも言い分はあることでしょう。
そのときはいろいろと大変でしたが、今では離婚して良かったのだとも思います。
■日本に帰ってからの活動
2010年7月
ハワイの会社を整理して日本に帰る
このときの私の気分は、
「いつかまたもどってくるぞ!ハワイ!!」
でした。
私はまだハワイでのビジネスをあきらめたわけではありません。
以前のように
「お店を持ってそこでマッサージ業をする」
というわけではありませんが、ハワイでの活動が終わったわけではないのです。
日本に帰ってからもハワイとの関係は続きました。
ハワイではたくさんの出会いがありました。
中でも印象的なのは、リッキーとの出会いです。
【天才画家リッキーとの出会い】
リッキー、浅井力也
世界中で活躍する画家です。
彼との出会いはハワイにある聖マキキ教会というクリスチャンの教会でした。
幼い頃より脳性まひで体が不自由な彼。
しかし彼にはとてつもないパワーがあるのです。
それは彼の作品を見ればすぐにわかります。
彼は自分で自由に歩くことや話すことができません。
食事をするときもほとんど飲むようにしてしか食べることができません。
健常者には当たり前にできることがリッキーにはできないことが多いです。
だからといってリッキーは不幸ではないのです。
毎日を楽しく、笑顔で生きています。
それはリッキーが人生を楽しむことに関してプロフェッショナルだからだとおもいます。
リッキーは今まで怒りの感情を出したことがありません。
人は怒りの感情で自分自身を傷つけます。
人を傷つけるのと同時に、自分のことをも傷つけてしまうのです。
リッキーに出会い教会に通うようになり、
私自身の心もいつしか穏やかになっていくのがわかりました。
やはり人は人でしか救うことはできないんですね。
リッキーは私にとって心の師匠の一人です。
■洗礼を受けクリスチャンとなる
2011年 3月27日
ハワイマキ教会の黒田朔牧師の最後の洗礼者として、アラモアナビーチにて洗礼を受けクリスチャンとなる。
なぜ洗礼を受けたのかというと、何か自分の中で変化を起こしたかったのだとおもいます。
洗礼というのは、主に水を使うのですが、
水に全身を浸けることで一度死んだことになり、そこから出て再び生まれ変わったことになります。
私には、
「世界中の人をセラピストにしたい!」
という目標があります。
人は、
人に必要とされたときや人に感謝されたときに、自分の存在価値を感じることができます。
私は、自分の得意分野である指圧師としてのスキルで人を幸せにすることが、自分の使命だと信じています。
多くの人に『マッサージスキル』を身につけてもらい、いつでも誰かを癒せる人になってもらいたいのです。
マッサージって本当に不思議なんです。
初めて会った人同士でも、マッサージをする。される。という状況になると、
お互いに触れること、触れられることが自然と許せてしまうのです。
それは私たちがまだ原始の人類の時から、触れ合うことによりお互いの心と体を治し合い癒しあってきたからです。
人間のDNAの中に、太古の昔から人類はお互いに触れ合ってコミュニケーションをしてきた歴史があるのです。
私はこの、お互いに自由にマッサージをし、癒し合えるマッサージのことを
『フリーマッサージ』と呼んでいます。
フリーマッサージ®︎ は、「フリーハグ」からヒントを得て私が作った造語です。
■フリーマッサージとの出会い
私が初めてフリーマッサージをしたのは、ハワイのワイキキビーチの前、サーフィンの神様であるデューク・カハナモク象の横でした。
道ゆく人で興味を持ち立ち止まった人に10分の肩もみによるフリーマッサージをしたのです。
フリーマッサージの活動は、フリーマッサージプロジェクト®︎ という名称となり、
一般社団法人フリーマッサージプロジェクト®︎協会として協会も設立しました。
今までにハワイ、韓国、台湾、上海、ロンドンなど、海外でもフリーマッサージ活動をし、
セラピストではない人たちにもマッサージによる触れ合いのコミュニケーションの素晴らしさを伝える活動をしています。
人は人でしか救うことはできません。
人にマッサージをしてあげると自然と喜ばれ感謝されます。
その感謝の言葉と気持ちに、あなた自身が癒れるのです。
マッサージをする。される。というのは「幸せホルモン」の「オキシトシン」が分泌されます。
このホルモンは《絆ホルモン》とも言われ、人が生きていく上でとても大切なものです。
この素晴らしい、「マッサージをする」というものを、セラピストだけのものにするのはもったいない!と真剣におもっています。
私たちはもっとお互いに知ることができるし、触れ合えることができます。
あなたにも誰かを癒し、幸せにする力があります。
たとえ国や人種や言葉が違っても、私たちは一皮剥けば皆んな同じ。赤い血が流れている同じ人間です。
英語がほとんど話せなかった私でも、ハワイでマッサージセラピストとして、指圧師として仕事ができたのも、
マッサージが世界の共通の価値観であり、普遍的なものだったからです。
マッサージは国境も人種も言葉の壁も超えて人と人を繋げてくれる最高のギフトなのです。
【病の原因は小さな心身のストレスです】
人はいきなり病気にはなりません。
ほとんどの病気には、その因(もと)となるものがあります。
それは、ほんの小さなストレスと疲労です。
それがやがて雪だるまのように大きくなり、病の因となるのです。
人の疲れには3種類あります。
・肉体的疲労
・頭脳疲労
・精神的疲労
肉体的な疲労は主に肉体労働の人の疲れです。
でも肉体的な疲れといのは、適度であれば逆に心地良いくらいです。
現代人の多くは、肉体的疲労よりも、頭を使うことにより疲れる【頭脳疲労】や、
人との関係や自分との関係による疲れである、【精神的疲労】が圧倒的に多いです。
特に現代においても問題になっているのは精神的疲労です。
現代社会では、精神的疲労により心を病み、心を壊してしまう人が多くいます。
鬱になり、最悪の場合は自ら命を絶ってしまうこともあります。
人が自ら命を絶ってしまうのはどんな時か。
それは、一人きりになっている時です。
人は弱っているときこそ、誰がと一緒にいないといけません。
誰かと心を触れ合うこと、体に触れてもらうこと、そして自分も触れること。
人には、誰かと触れ合うことが必要なのです。
■日本に帰ってからの活動
ハワイから帰国し、岐阜にあるお店に戻り、指圧師としてセラピストをする傍ら、
お店の定休日を利用して講師としての活動を始めました。
最初の講座は、お店の求人に来てくれた方で、定員により採用出来なかった7人に無償で10回の講座をさせてもらいました。
この頃から、どうせならば悩める多くのセラピストに知ってもらいたい!と考えてYouTubeで自分の指圧マッサージスキルを紹介した動画を発信するようにしました。
その頃はまだYouTubeで自分の技術を披露している講師はほとんどいなかったので、
よく知り合いから
「そんなことして真似されたら損じゃないの?」と言われたことを思い出します。
私としては真似されることが目的だったので正に狙い通りです。
YouTubeを見てくれた方に、毎日のように更新していたブログも見てもらい、メルマガにも登録してもらえるように発信していました。
まずは自分のことを知ってもらうんだ!
そして、「KENのスキルは価値がある!」と感じてもらい、
施術スキルに悩めるセラピストの悩みを解決に導けるように!と、意識して活動していました。
そのように一年活動をしたころにはメルマガ登録者が3000人以上になっていました。
そのメルマガに『KENの指圧マッサージ動画をまとめたDVD』販売したところ、
1ヶ月で500万円以上の売上となりました。
この時に、自分の指圧マッサージのスキルはコンテンツビジネスとしても成功した!という確信を持ちました。
現在ではDVDからオンライン動画の販売に切り替えて、今でも売れ続けているロングセラー商品となっています。
【リラクゼーションは医療のフロント】
私は、悩めるマッサージセラピストに何とかしてこの業界で活躍してもらいたい!と真剣に考えています。
そして同時に、人が人を癒すことの素晴らしさを、セラピスト以外の人にも、マッサージの素晴らしさを伝えることに情熱を注いでいます。
私には夢があります。
世界中の人をセラピストにする!という夢が。
『リラクゼーションは医療のフロント』なのです。最前線なのです。
人は皆、だれでもいつか死にます。
皆、何かしらの病気で死にます。
人はいきなり病気になるわけではありません。
確かに突発的なものもありますが、ほとんどの病気には、その因(もと)なるものがあります。
それは何か。
それは、ストレスです。
心身ともに過剰に受けるストレスです。
ストレスも、適度な緊張感というのは人間が生きていくうえで必要なものなのだそうです。
あまり刺激の無い人生というのもなんだか味気ないものですからね。
ガス抜きが出来てストレスとうまく付き合える人は良いのですが、それがなかなか出来ない人も多くいます。
人には愚痴や弱音を吐きたいときもあります。
子供が親に甘えるように、大人だってだれかに甘えたいときもあります。
心身ともに疲れた自分を受け止めてくれる。
そして受け入れてくれる。
そんな癒しが必要なんです。
セラピストは人の体に触れます。
人の体に触れるということは、その人の心に触れていることと同じです。
マッサージ体に触れることにより、
“人の心に触れる”ことなのです。
私はそんな『マッサージ』という素晴らしいものを、もっと世界中の人に伝えたいと考えています。
【世界中の人をセラピストにしたい!】
それが私の夢です。
私はこれからも世界中の人をセラピストにする活動を全力でやっていきます。
いつかあなたと会えることを楽しみにしています。
最後まで読んでいただきましてありがとうございました。
世界の指圧師KEN
山元 健
【最後に】
もしあなたが、
いつでも、どこでも人を癒すことができる
「フリーマッサージセラピスト」になってみたい!と思うのならば、
ぜひ一度、全国で定期的に開催している「カタモミサークル」にご参加ください。
詳細はこちらです
■フリーマッサージとは?
https://youtu.be/ol145W8pdbg
あなたがセラピストで、もしご自身の施術スキルに悩まれているのならば、【KENSHIATSUスクールオンライン動画講座】シリーズを見て頂ければとおもいます。
■世界の指圧師KENショップ
https://thebase.page.link/dp83
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