政府主導の英国BIM推進史
建築・建設DXを牽引する技術であるBIM (Building Information Modeling)について、過去の記事(「オーナー視点がBIMの生み出す価値を変える」)では日本で普及が遅れている要因とその解決方法に関して言及しました。
一方、世界でBIM技術の導入をリードしている国は英国です。2019年の時点で日本の設計事務所におけるBIM普及率は17.1%と非常に低い数字であるのに対し、英国では建築に関わる専門家の70%以上の人がBIMを利用しています。
BIM先進国となるに至った英国の歴史的背景と、そこからの学びに着目をしてみたいと思います。
英国BIM推進史
2008年、世界がリーマンショックという未曾有の経済危機に直面していた頃、英国の建設業界は生産性の低さに悩まされていました。Construction Excellenceという団体が発信したレポートでは当時、建設プロジェクトの多くが工期的にもコスト的にも貧弱なマネジメントしかできておらず、そのために国の予算に多くの無駄が発生してしまっていることを指摘しています。英国内での建設事業の約40%が公共事業であるという事実が、政府の切迫感をさらに増大させる要因でもありました。
そこで2011年に政府がとった対応は当時としては非常に挑戦的なもので、BIM利用の義務化に関する提言を打ち出します。それは2016年までに全ての公共事業において、最低でもレベル2以上のBIM活用を義務付けるという内容でした。
ここでいう「レベル」とは「BIM成熟度レベル (BIM Maturity Level) 」のことです。今となっては国際的に使われているこの指標は「協業の深度」という切り口で定義付けを行っています。
2011年に英国政府が目指した2016年の建築業界は、全てのプロジェクトにおいてBIMモデルが使われており、プロジェクト関係者が共通のプラットフォーム上で情報を確認することができている、という世界でした。
この政策に関しては、2017年のNational BIM Reportでは「レベル2を促進する英国政府のプログラムは成功をおさめており、これにより建設業界のデジタル化において英国はグローバルリーダーの座を手に入れた」という評価を下しています。このような成功を収めた要因としては、政府が主体でBIM導入の重要性を発信したことで、まずは大企業が主導する形で普及率が上昇、それに連動する形でBIMを扱うことができる人材が増加したことが背景にありました(これが冒頭に述べた高いBIM普及率へと繋がります)。
この成功で英国政府は手を緩めませんでした。さらに2016年の3月、レベル2に止まっていた目標を2020年にはレベル3に引き上げることを発表します。共通の統合BIMモデルを使った高レベルの協業が全てのプロジェクトで実現されている世界を目指したのです。政府の政策に後押しされる形で、2016年の時点ですでに高い水準のBIM普及率に達していたからこそ、世界的には突拍子もないと言えるような目標を打ち出すことが可能であったと言えます。
BIM推進が英国の建設業界にもたらした効果とは
英国政府が主導したBIM推進は、もともと先進国の中でも低い生産性に対する問題意識が起爆剤となりました。実際、政府の政策が具体的にどのような効果をもたらしたのか、複数のレポートが作成されていますが骨子は以下の通りです。
1. 縦割りの文化が強かった建設業界において協業を重んじる意識改革の促進
設計者、設備士、積算士、ゼネコン、専門工事業者など複数の会社が複雑に関わり合う建設業界において、縦割りの意識が強いことは大きな課題の一つとなっていました。2018年に発行されたレポート(National Construction Contracts and Law Report 2018)では、設計段階に関わる45%の専門家が「BIMを取り入れたことにより、関係者間の関係性が改善し、プロジェクトにおいて協業を行いやすくなった」と答えています。政府によるトップダウンアプローチにより強制的に他分野の専門家と共通BIMモデルでの協業を強いられたことで、協業を主軸としたプロジェクト推進のメリットに多くの人が気付き始めたのです。BIMは単独で使用をしても、ただ3Dモデルを作る手間が増えるのみで大きなメリットを享受することはできません。そのため、BIMを通して他者とコミュニケーションを取ることに意味があると言う意識が芽生えたことで今後起こっていくであろう建築生産革命の大きな第一歩となったのです。
2. 施工段階の手戻りが減少することによる生産性の向上
高いBIMレベルを導入していくことで、設計段階での調整・協業にかかる時間が増加することが分かっています。初期段階から3Dモデルを使って情報を共有することで、立体的な検討や建築部材と設備の干渉チェックなど、従来であれば施工段階で行われていた調整業務が前倒しで行われるためです。このようにプロジェクト全体でかかる手間を前倒しすることをフロント・ローディングと呼びます。
十分な検討が設計段階で前倒しで行われることで、いざ建物が作られる施工段階になってからは、手戻りが減少し、無理なく工期通りのプロジェクト完遂が容易となり、同時にコスト面のコントロールもしやすくなります。フロント・ローディングにより、プロジェクト全体でかかる手間は減少し生産性が向上すると言えるのです。
見えてきた課題
一定の成功をおさめた英国政府主導のBIM導入政策ですが、同時に今後の課題も見えてきています。現状、導入を進めている会社は大企業に偏っており、中小企業に対する導入の度合いはまだ道半ばです。これは、BIMソフトウェアの導入費用が2Dのものより高額であるという点と、BIMを使いこなす人材を雇うための人件費が高額であるために導入コストがかかってしまうためです。冒頭で述べた通り、英国におけるBIMの普及率は日本に比べて非常に高く、人材の希少性と言う意味では極端な人件費の高騰は避けられるものの、BIMレベル2以上でプロジェクトを推進できる人材獲得となると一定の競争は働いている状況です。
また、民間工事においてはBIMの導入は義務化されていません。そのため、BIMのメリットを認識した民間企業が積極的に中小規模の工事における活用を推進することで、業界全体での浸透率が一気に高まるものと予想されます。
日本が学ぶべきことと今後の可能性
日本ではこれまでBIMモデルの提出が義務化されることはありませんでした。しかし、英国の例では、トップダウンで行われた政府の動きがシグナルとなり業界全体の文化や意識が変わり得ることが証明されたのです。大手ゼネコンの力が強い日本において、特に建築の分野における技術的な改革は政府よりゼネコンが力を持ってきたと言う特徴があります。市場圧力に晒されている民間企業にとってはBIMを導入した瞬間のコスト増加=利益圧縮に目を奪われがちで、長期のリターンを得るための投資を行うことはリスクの伴う決断ともなります。政府が動くことのメリットは、業界全体の競争力維持のために、長期的目線で政策を打ち出せることにあります。2020年3月には国土交通省からBIMの「標準ワークフロー」に関するガイドラインが発行され、設計・施工・維持管理の連携がパターン分けされ提示されました。ここに止まることなく、公共工事におけるBIMモデル提出の義務化を段階的に進め、並行してそれを補助するための財務的インセンティブ設計を整備していくことが急務なのではないでしょうか。