なぜ全日本プロレスで「京平」コールが始まったのか?

 『真夜中のハーリー&レイス』(ラジオ日本)にゲスト出演したエルフ・荒川さんがポッドキャスト配信の延長戦で、「京平コールはいつから始まったのか?」という質問を清野茂樹アナウンサーにしていました。

 清野さんは時代的な背景を語っていましたが、それを聴きながら、元四天王プロレスマニアとしての血が騒ぎ、「そう言えば、昔、そんなコラムを書いたなあ」と思い出してデータを探してみると、その文章を発見。そこで、noteに公開しようと思います。

 この文章は当時僕が所属していたGスピリッツのモバイルサイトで数年間連載していたコラム『俺だけの四天王プロレス』で公開したもの。このコラムは四天王ネタだけで100回以上連載を続けた相当マニアックな企画で、数百人しか読んでいないと思います。サイトが閉鎖されたため、現在その原稿はどこにも公開されておらず、僕のパソコンにデータとしてひっそりと残っているだけです。

 いつ書いたが原稿に記載はないのですが、前後のコラムから推察するに、2011年秋だと思われます。今はさらに記憶が曖昧になっていますが、その当時、手元にある当時の映像や資料にあたって調べているので、それなりの信憑性はあるんじゃないかと。当時のコラムタイトルは『「ジョー」コールが起きたあの日』でした。なお、一部加筆・修正しております。


レフェリーの世代交代も進んでいた90年代の全日本

 今回のコラムでは90年代の全日本プロレスにおけるレフェリーについて書いてみようと思う。そして、特に誰も興味はないだろうが、「“ジョー”コール(同時に“京平”コール)」がいつから始まったのかを考察したい。

 2010年11月に亡くなったジョー樋口さんとは、NOAHオフィシャルモバイルサイト記者時代に何度もお会いした経験があるが、残念ながら個人的な会話を交わしたことはない。

 2009年3月発売のGスピリッツvol.11にジョーさんのインタビューが掲載されているが、写真はNOAHの日本武道館大会時に撮影している。撮影補助として僕も同席したが、この時も直接お話はしておらず、カメラマンとジョーさんが会話しているのを笑って聞いていた程度だった。それ以外にしっかりと取材をした記憶もないので、たぶん会場やNOAHの事務所で顔を合わした時にこちらから挨拶していたぐらいだろう。

 だから、僕にとってはファンの時に見ていた「ジョー樋口レフェリー」という印象が強い。僕がプロレスを見始めた90年代前半は、全日本プロレスにおいてレフェリーの世代交代が今まさに行われようとしている時期だった。超世代軍が日に日に勢いを増していて、それと同時に全日本のスタイルもよりスピーディに変化していく。そんな戦いに順応していったのが和田レフェリーだった。

 当時の僕はまだプロレスを見始めたイチファンでしかなく、レフェリーの立場などを考えもしていなかったので、細かい事情はわからない。だから、どのようなタイミングで、どのような順序を経て、メインイベントを裁くレフェリーが変わるのか知るよしもないが、僕が全日本プロレスにのめり込んでいく過程は、同時にジョーさんがレフェリー引退へと向かっていく過程でもあった。

 メインイベントやタイトルマッチを裁く回数も明らかに減っていっていたと思う。天龍同盟が全日本にいた頃からこのような動きはあったようだ。ファンとしての当時の感覚を素直に書けば、和田レフェリーのスピード感は四天王プロレスを盛り上げる大事な要素になっていたが、だからこそ余計にジョーさんのレフェリングはスローに見えて仕方なかった。実はジョーさんの方が基本に忠実で、和田レフェリーがそれを崩していたのだが、当時の僕は「ジョーさん=カウントが遅い」という認識だったのである。

 ただ、それでも「クリーンなプロレス」というイメージを全日本が作り上げられたのは、ジョーさんがレフェリーとしての威厳を持っていたからほかならない。

新日本ではなく全日本を追いかけるようになった大きな理由

 僕は新日本と全日本のテレビ中継をほぼ同時に見始め、実際にプロレス会場に行くようになっても、どちらか一方に偏ることなく観戦していた。G1クライマックスの両国5連戦を見に行ったこともあるし、チャンピオン・カーニバル決勝戦とJ-CUP第1回大会が同日開催となり、どちらを見に行くか迷ったこともある。

 そんな僕が最終的に全日本ばかり見に行くようになった大きな要因の1つはレフェリーの存在だった。新日本の試合を見ていると、選手がせっかくいいファイトをしているのに、レフェリーのカウントの取り方が微妙で試合全体を壊してしまうことがあったし、不可解なレフェリングも多かった。

 それは団体の方向性のせいでもあり、一概にレフェリーが悪いとは言えないのだろうが、当時の僕にとっては大きな問題だった。当時高校生だった僕が自由にできるお金は少ない。なんとかお金をやり繰りして観戦できた興行なのに、選手以外の原因で微妙な内容になってしまうのが我慢ならなかったのである。

 反対に全日本ではレフェリーが試合を壊してしまうことはほぼ皆無で、レフェリー自体が目立つこともなかった。そのクリーンなイメージは、あくまでもレスラーが中心とはいえ、僕が全日本にハマっていった理由の中に含まれていると思う。

(※まあ、この辺りの事情は時代によって違うので、僕より上の世代からすると、全日本のレフェリー、特に失神する姿が印象的だったジョーさんに対して悪いイメージを持っている人が多いかもしれない)

「ジョー」コールから「京平」コールに派生した

 レフェリー紹介時に「京平」コールが起こるのは、もはや当たり前の現象だが、これはもともとジョー樋口レフェリーへの「ジョー」コールから自然と派生したものだ。前述した通り、和田レフェリーがメインを裁くのが日常的になっていたため、「ジョー!」だけでなく、自然と「京平!」という声援も飛ぶようになった。ちなみに当時、僕は友人たちと一緒に客席から「(福田)明彦!」とか「(西永)秀一!」とも叫んでみたことがあったが、そこからその声援が広がることはなかった。つまり、ファンの意識としては、ジョー樋口&和田京平と、他のレフェリーとの間には、大きな差があったのである。

 では、いつから「ジョー」コールが起きたのか。それについて考えてみたい。今回書く答えは、あくまでも僕の記憶と当時の試合映像から導き出したものなので、「絶対に正しい」と断言できないというのを先にご了承してもらいたい。当然住んでいる地域によっても違うし、「俺は前から叫んでいた」なんて方もいるかもしれない。あくまでも1つの説(それはかなり正確な答えだとしても)だと思って読んでほしい。

 90年代初期の映像を見ていると、レフェリーコール時に声援は起こっていない。リングアナのコールに合わせて選手名を叫ぶ行為自体は珍しくなかったので、レフェリーに対して声援を送る観客も散発的にはいたと記憶しているが、それが「当たり前」という発想にはなってなかった。

運命の1994年12月10日、日本武道館大会

 では、なぜ観客が「ジョー」と叫ぶようになったのか。それは単純にジョーさんがそれだけの活躍をしたから、観客はその行動に対して声援を送ったのである。

 1994年12月10日。『94 世界最強タッグ決定リーグ戦』の最終戦が日本武道館で開催された。セミファイナルでは最強タッグ公式戦として「三沢光晴&小橋健太vsスティーブ・ウイリアムス&ジョニー・エース」の一戦が組まれていた。

 優勝の可能性を残していた両チームは序盤から気迫を前面に出したファイトを展開していた。その気迫が“出過ぎた感”のあるウイリアムスは、三沢と対峙した際に、攻防そっちのけで三沢の額に自分の額を付けて、睨み合いを仕掛けていった。三沢も一歩も引かず、リング中央で睨み合いを続ける2人を見て、試合がこう着してはいけないと、ジョーさんが無理矢理に間に割って入った。

 ヘビー級のレスラーを力ずくで分けようとするが、もちろんジョーさんの身体は2人ほどは大きくない。しかし、その毅然とした姿に、全日本プロレス年内最終戦ということもあってすでに完全に出来上がっていた観客から、図らずも「ジョー!ジョー!ジョー!」とコールが巻き起こった。

 これで話は終わらない。その数分後、今度はコーナーに控えた小橋とエースもリングに入り、4人がリング中央で睨み合う展開になってしまう。その迫力だけで場内は大盛り上がりだったのだが、ここで再びジョーさんが登場。その中央に入り、身体を張って4人を分けようとしたのだ。ここで、再びジョーコールが発生。歓声が武道館中に鳴り響いた。

 2度も同じような展開となっただけに、観客たちに「ジョー」コールという概念が刻み込まれたはず。ましてや、このタッグマッチは三沢&小橋組が最強タッグ2連覇を達成した記念すべき試合であり(ちなみにこの試合はセミファイナルで、メインイベントでは「川田利明&田上明vsジャイアント馬場&スタン・ハンセン」が激突。馬場組が勝利して、三沢組の優勝が決まるという結果だった)、なおかつエースの出世試合でもあった。

 終盤でエースがムーンサルトプレスを久々に解禁したシーンがこの試合のハイライトであろう。実力的にも実績的にも完全に先を越されていた、かつてのパートナーである小橋へのライバル心を爆発させたエースは、最終的には試合に敗れたとはいえ、猛アピールに成功した。観客は「エースが世界タッグや三冠に絡むことがあってもおかしくない」と感じ始め、エースの存在感も明らかにこの日を境にランクアップした。つまり、「ジョー」コールだけでなく、試合内容という部分でも観客の心に残ったはずなのだ。

3ヵ月後の日本武道館でも巻き起こった「ジョー」コール

 そして、「ジョー」コールが定着したもう1つの要因は、この試合で生まれた熱が次に繋がったからだ。この日本武道館大会は年内最終戦。全日本プロレスの当時の年間スケジュールは武道館大会が計7回行われており、年内最初の武道館大会は2月下旬or3月上旬に行われるのが通例だった。

 そして、翌95年3月4日。その年最初の武道館大会で、今度は世界タッグ王座を懸けて、「三沢&小橋vsウィリアムス&エース」が実現したのである。つまり、間に新春ジャイアントシリーズがあったとはいえ、武道館に限定して考えれば、2大会連続で同一カードを組んだのだ。この「盛り上がった試合はすぐ次に繋げる」というのは当時のマッチメイクの基本方針と言っていいかもしれない。

 この試合もジョーさんがレフェリーとして試合を裁いている。年末の「ジョー」コールを思い出した観客が、ここでも「ジョー」と叫んだ……と考えるのはそれほど間違っていないんじゃないかと思う。

 当時は「後楽園ホールと日本武道館は全部観戦する」という全日本マニアも多かったため、新春シリーズあたりから一部で起こっていた可能性も高い(僕自身が都内興行を全部行くようなマニアでしたが、16年前のため、残念ながら記憶があいまいです)。その一部の歓声が導火線となり、武道館で大きくなって、それ以降は一般化したというのが僕の結論だ。

 一部のファンが執拗に叫んでいたわけでもなく、本当に自然発生的に広がったのは、やはり当時の全日本にそれだけの熱があった証拠だろう。そして、ジョーさんが威厳のあるレフェリーだったからこそ起こった現象だと言える。観客がふざけて野次ったわけではなく、ちゃんとリスペクトを込めてコールを送っていた。僕はよく「プロレスの魅力は感情だ」と言うけれど、あの頃の全日本系レフェリーはちゃんと黒子に徹しつつ、それでいて「レフェリーの感情」というものもしっかりと表現できていたんじゃないかと思う。レスラー&レフェリーと全日本の観客たちとの間にしっかりとした信頼関係(しかもそれは作られた感がなく、自由度も高かった)があったからこそ、「ジョー」コールが起きたのだろう。もう2度と「ジョー」と叫ぶ日がこないことはとても寂しい。

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