見出し画像

炒飯に旗は立っていたか / しもつけ随想03

 お子様ランチのご飯は、炒飯チャーハンが普通なのだと思っていた。宇都宮へは、幼少期からよく家族に連れて行ってもらった。祖父母の買い物や、親戚が多く住んでいたこともある。
 二荒山神社へお参りし、境内でハトにポップコーンをやり、当時参道の両脇にあった百貨店で買い物をし、そこの上階にある中華料理店で食事をした。
 お店のメニューにはお子様ランチがあって、そのご飯が炒飯だったのだ。それが普通なのだとある時期まで思っていた。炒飯には確か、洋食のお子様ランチ同様に旗が立ててあったように記憶しているが、どうも不鮮明で自信がない。家族に聞いても、覚えていない、という。
 幾多の思い出の中には、苦手だったものも二つ浮かぶ。一つはその百貨店の一階の入り口付近のディスプレーに、頭部だけのマネキンがたくさん並んでいて怖かったこと。もう一つは、下りのエスカレーターにスムーズに乗るのが苦手だったこと。なので、入る時にはこの上なく勇気がいったし、帰りの降りエスカレーターに乗る瞬間は憂鬱ゆううつだった。楽しさと苦手は表裏一体だ。幼心に「都市」の多様性を体験してそう思った。ともあれ、積み重なって縦に伸びた暮らしや商い、街ゆく人々のにぎやかさの中に身を置くことは楽しかった。私が体験した最初の「都市」は宇都宮だった。

 さて、そんな30年以上前のノスタルジーとは裏腹に、まちは変化する。じわじわと、時には急に。
 行きつけのお店、お気に入りの場所などが無くなって寂しい思いをしたり、一方で新しいお店ができたり。これを繰り返すうちに、まちは変わっている。
 機能的に、経済的に、利便性の高いものへ傾き、流れる。1990年代半ば以降、「都市的なもの」が郊外のロードサイドにも急速に展開された。大きな敷地は実に機能的で、箱の中で何でも完結する。消費者の小さな幸福は自己完結し、人間関係の煩わしさも排除できる。郊外に現れた優秀な空間と比例して中心部はじわじわとスポンジ化していった。ネットでの流通や人口の減少に押されたこともあるだろうが、気がつけば、宇都宮は地方都市の典型例のようになってしまった。
 思い入れがある場所が無くなってしまってから嘆いても、もう遅いのだ。都市は暮らしの写し鏡なのだから。嘆いている私とて、郊外を含めた経済の仕組みの恩恵を受けている。

 郊外は優秀だ。だけど、私はやはり中心部がいとおしい。都市の中心部の魅力とは何だろうか。そういう重い問いの中で、まちを活気づけよう、楽しもうとする活動は増えている。中心部の楽しみ、ネットでは拾えない価値、それは、人の間に生まれる経済活動やコミュニケーションにしかないように思うのだ。

 ところで、あのお子様ランチの炒飯に旗は立っていたのだろうか。参道脇の百貨店は今はもう無いので確かめようもない。私をはじめ、夕暮れのオリオン通りをゆく人々の、その類の個人的でちっぽけな気がかりや思い出などを踏みつぶしながら、時間は流れ、まちは変わっていく。
 変わる街並みを嘆くべからず。

しもつけ随想_ okai_03r

[2021/10/06下野新聞掲載]

いいなと思ったら応援しよう!