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観光か信仰か、という問い。〜アインシュタインからの宿題〜

本年もよろしくお願いいたします。
筆不精?故に、引き続き投稿数は期待できないものとして、せめてクオリティは上げていきたいわけですが。。。精進いたします。


初詣は、“日光の社寺”へ。
年が明けて30分くらい経ってから出発。二社一寺に参拝して1時間ほどで帰宅。
これを、自分と家(家族)の毎年の決まり事としている。
たしか10年くらい前から、家族の代表として一人で出かけている。その前までは親父が出かけていた。
年によっては、極寒だが今年はそこまでではなかったように感じる。
山内の入り口の唯心坂でどのくらい息が切れるかが、ここ数年の何らかのバロメーターになっているようになっている。
「今年こそ体力づくりを」と強く思うのだが、徐々に日々の暮らしの中のどこかに溶けていってしまう。
…で、今年こそはと、今年も思った。

年が明けて、早、三日目。
日光門前の大通りは毎日大勢の往来がある。毎年の光景だ。
幸い天気も安定はしており、歩く人が目立つ。

この光景を見ていると、少し前までお手伝いしていた、日光金谷ホテルの150周年の記念企画「150の宝物」に書いたことを思い出す。

創業150年を記念して、金谷ホテルの「150」の大切な宝物を紹介するこの企画の中で、来晃時に金谷ホテルに宿泊したアイシュタインを挙げた項目がある。

アインシュタインは、来晃時に日光東照宮を訪ねてもいるのだが、ここで周囲にいくつか鋭い質問をしている。
物理学者らしく、鳴き龍を「音響の作用だ」と言って名物のタネアカシをしつつ、中でも一番鋭角なものはこれだ。

(日光東照宮の)参拝の人を見て「この多くの人々は宗教心から詣るのか、見物のためか」と問いを出す。

「アインシュタイン講演録」(石原純・著/岡本一平・画)東京図書

観光地で暮らす者にとっては、はっとさせられる問いである。
核心をついている。

宗教心と見物。
直ちに信仰と観光と区別することはできないだろう。
でも、実際はどうか。現実はどうか。
色々考えるうちに、2015年に放送されたNHKブラタモリの日光編の前編に「日光東照宮は江戸のテーマパーク?」というタイトルがついたことも思い出した。

信仰と観光。
そういうものがない混ぜになって、日常があるのだろうけども、正月にはこれが「信仰」に大きくシフトする。
通りの往来も、途端に「巡礼者」に見えてくる。
特殊な時間だと、改めて思う。

そういえば、4年前に半年ほど地元紙のコラムを担当した。
この5回目の最終回に下のリンク先のようなことを書いた。

 ツリーや縁起物は季節によるが、龍の街路灯は年中変わらずにともる。それがこのまちの日常なのだが、年末になると私には一層「いのり」の風景に見えてくる。
 来年はどんな年になるだろうか。今年は良い年にしたい。それぞれの心に小さな願いの灯がともり、山々に抱かれた社寺と門前町にその思いや祈りが集まってくる。
 今年ももうすぐいのりの灯がともる。

記事の掲載が12月だったため、日光門前のまちづくりを紹介することと、地域性・特殊性を伝えたかった。なので、このような書きようになった。

日々の暮らしの中で、明確な信仰の時間が少なくなっているであろう、現代。
正月は大切だ。
アインシュタインの問いかけは、そのまま現代の観光地のあり方における宿題のようにも感じる。
時代による変容を容易に認めようとは思わない。しかし、かといって明確な答えを持ち合わせてもいないな。

そう思いながら、沿道の小さな店でコーヒーを淹れ、抹茶をたて、餡茶巾を包む。
そんな日々である。

祭(いのり)のまち、日光門前。
まちづくりの基礎である「規範」の前文にはこうある。

新しい日光を創っていくために、あらゆる信仰や願い、つまりは、さまざまな「いのり」の気持ちが集まってくる懐の深い神聖な場所として品格のあるまちづくりを目指します。

「日光東町まちづくり規範」前文より


今年は良い年にしたい。




NPO法人日光門前まちづくりnote部 | 岡井 健(世話人)

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