短編小説:編入生
道端に、劣悪なサプリメントを排水溝に流し続ける男がしゃがんで、早春賦を歌っていた。傍には大きな街路樹が経っていて、果物のような鳥がぽつぽつと出来上がっている。世界の終焉を告げる鳥だった、明彦はしきりにお母さんを呼んでいる。寂しんぼうを拗らせているのだ。
ハルナは今日、二学期の嚆矢を告げるセレモニーの出席に向かっていた。彼女はいわば、ヒーローだった。多くの生徒が彼女の到来を待っていた。ある人は、彼女の可愛さを予言していた。その人は、ハルナが編入手続きをしに職員室を訪問するのを、夏休みに見ていたのだった。そのとき、その人が見たのはハルナの後ろ姿に過ぎなかったが、日頃からトリートメントを欠かさず湯浴みの後に浸潤させている彼女の黒く靡いた後ろ髪を見て、可愛さを確信したのだった。その人は、ハルナの後姿を知っているというだけで吟遊詩人を務めたのだった。転校生は可愛いんだ。ぼくは知っているんだ、転校生はとっても黒い髪をしている。転校生はそう、とても美しい髪の毛を持っていたんだ。顔はどうなんだ。いや、顔は分からない、けれどあの髪をした女の子が美人じゃないわけがないよ。でも、ブスの可能性はあるんだな。いや――と吟遊詩人は返事を渋った。確かに、その可能性ももちろんあると思ったからだ。しかし、その通り転校生がブスでは、彼の吟遊詩人人生が終わってしまう。彼は可能性に抗うことを決意した。吟遊詩人は時として、来たる未来に抗って、時代の革命児として名を馳せるという。彼は自らの勇気を、彼女に賭けたのだった。ベットするのは、彼のプライド――もし、彼女がブスだった暁には、彼はブス選として二年間と約半年を高校生活において過ごすことになるだろう。
「彼女は可愛い、絶対にだ」
吟遊詩人にとっては運のよかったことに、ハルナは確かにかわいかった。その頃の彼女は電車の座席に座って本を読んでいたが、向かいに座っていた主婦が彼女の姿を羨ましそうに見ていたのだ。かわいらしい文学少女の姿に、主婦は在りし日の自分の姿を思い出していた――が、男子に混じって腹筋をしていたバレー部キャプテンの彼女の高校生活からは、かわいらしい文学少女の姿を見るのは難しかった。もし、高校生の自分が本を読むことが好きだったら、もう少し男子からモテただろうか。しかし、彼女はすぐさま首を振って自分のありもしない妄想をかき消した。私には、今の旦那がいる。彼は、私の運動神経に惚れて結婚したのだ。大学の、体育の授業で話しかけてきた爽やかな彼。彼の白い歯を思い出していたときにはすでに、ハルナは電車を降りていた。
同じころ、ハルナの通うことになる高校の職員室は慌ただしかった。ハルナが、まだ来ていなかったのだ。事務の人間は、確かにハルナに、三十分だけ早く来るように伝えたのだった。しかし、彼女はまだ高校についていない。保護者の方にも連絡はつかない。それはそのはずである、彼女の両親は共働きであり、既に出勤していて、真面目な二人はともに、スマートフォンをマナーモードに設定していた。もとより、ハルナはしっかりものだから、そうそう高校から緊急連絡などくるはずがないと思っていたのだ。もちろん、両親のハルナに対する評価は決して過大なものではない。ハルナは、自分の信念に従って実直に行動していた。彼女は真面目に学園生活を送るつもりだった。事実、前世の宿世によれば、彼女は真面目な学園生活を送ることになっただろうと思う。しかし、そうはならなかったのは、学校が配布したプリントにあった。事務の人間は確かに、口では学校に早く来るように伝えたのだったが、プリントには三十分だけ遅く来てくださいと書いてしまったのだ。真面目なハルナは、口約束よりもなんどもプリントを読み返し、プリントの中の事実を信じてしまったのだった。無論、事務の人間は、プリント作成者が致命的なミスをしたことなど、微塵も気がついていない。だから彼は教頭に「ハルナさんにはきちんと伝えました」と言った。教頭も、彼の言うことを信じた。それで、ハルナさんがもしや登校の途中で事故にあってやしないかどうか、目下確認を取るのに奔走しているというわけだった。
果たして、彼女は始業時間の八時半を三十分だけ過ぎた九時に間に合うように校門に着いたのだった。いや、真面目な彼女らしく、五分さえも早く着いたのだった。彼女はこれから始まる新生活に胸を躍らせながら、正門をくぐり、職員玄関に入った。持ってくるように言われた新品の上履きに履き替え、ローファーを揃えて端に寄せ、慎ましやかな足取りで職員室に辿り着いた。扉を開くと、教師方々が一斉にハルナの方を向いた。教師は遅刻してきた怠惰な編入生の姿を認めると、口々に騒ぎ立てた。「初日から遅刻ですか」と扉のそばで頭を掻いていた学年主任の先生はハルナを責めた。謂れのない責め苦を受けたハルナは、泣きそうになる。時間ちょうどですけど……彼女は震える手で、持ってきたプリントをクリアファイルから取り出して見せた。そこには、見事に「三十分だけ遅く来てください」とご丁寧に太字で、しかも下線部も付け加えられて、書かれていた。その記述を認めるや否や、先ほど一番激しく攻め立てた学年主任が、自らのシャイネスを頭から払い落とすべく、「誰がこのプリントを作ったんだ」と怒鳴りつけた。しかしハルナ――おお、かわいそうなハルナは、男性の怒号に心臓を震わせてしまった。元来、優しいお父さんの元で育った女の子ハルナは、男性の大きな声に全く耐性がない。ハルナは、この世の全ての男性が、怒鳴り声を上げなければいいのにと常日頃から考えていた。そして今、まさにその願いは緊急性を帯び始めていた。同時に、彼女はお父さんとの結束を心の中でより強めた。一方でお父さんはハルナの編入祝いのプレゼントを購入すべく、会社の第一線で営業周りをしている最中であった。ぼくは、ハルナ一家が幸せになればいい――と常日頃から考えています。こういう家庭が幸せになれる国は、きっと良い国家になるだろうという、ささやかな社会運動です。と、それはさておき、学年主任の怒号は、彼女の高校に対する第一印象を決定づけた。この学校の教師は根本的に腐っているというわけだ。彼女は、絶対に図書館に引きこもろうと決意した。学校の腐った帝国主義に臆するなかれ。人生において唯一の師匠は、自分の敬愛する作家である。彼女はより文学的志向を強めることになる。
教室では、未だ来ない担任の先生を不審に思いながらも、一方で先生のいない自由を生徒たちが謳歌していた。吟遊詩人はまだ、吟遊詩人をしていた。長くきれいな黒髪だったから、彼女は真面目なはずだよ――と彼は言った。じゃあなんでまだ来ないんだ? とクラスメイトは訊く。ううん、多分、先生がなんか問題を起こしたんだろう――吟遊詩人は嘯いた。吟遊詩人は決して真面目に喋らない――しかし、だからこそ吟遊詩人は〝たまに〟真実を言い当てることがある。今日の吟遊詩人はまことに冴えていた。誰よりも真実に近かったのは、まさに吟遊詩人の彼だったのだ――
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