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言葉を走る、跳ぶー谷佳紀についてー 黒岩徳将

腹の底まで水は磁石だ詩は元気  谷佳紀(「ゴリラ」創刊号)
太鼓の三連打のような7・7・5のリズムに撃ち抜かれる。句という磁石に私がギューンと惹きつけられる。
私が会いたかった俳人は谷佳紀氏。遺句集『ひらひら』(2020,東京四季出版)には1943年新潟生まれ、1962年「海程」2号から参加とある。1985年「海程」を一度退会し、1986年原満三寿と「ゴリラ」を創刊。その後「海程」に復帰している。この句は句集収録時に「水は」が削除されている。
2018年末、現代俳句協会青年部の勉強会にゲストとして出演いただいた小川楓子氏に句会に誘われ、谷氏にもお目にかかるはずだったが、句会の数日前にお亡くなりになったと連絡を受けた。驚いて言葉も出なかった。その後、小川氏と「海原」の三世川浩司氏と三人で句会を行った。次第に、今まで私自身が勝手に作って自らを縛っていた俳句セオリー的考え方が頭の中でガラガラと崩れていった。この二人と一緒にいた谷氏への興味は深まるばかりだった。「走るならウルトラマラソン、歩くなら俳句を作る」人だと聞いた。2019年4月〜9月の「海原」誌には谷氏がかつて個人誌「しろ」で書いた「海程の作家たち」という作家論が転載されている。特に阿部完市の句に対する読みが新鮮かつ切り口豊かで目を見開いた。
水漬く私を妹らみつけるたちまち景色 阿部完市『にもつは絵馬』
谷氏は阿部句の評に「地面から浮いて走っているとしか思えない」と書く。「非意味」「気分」というキーワード挙げて、俳句表現の不完全性に常に相対しつつ、明解な部分と謎の境界線を引き続ける評論で、読み返すたび発見がある。
俳句は、切れによる大きな断絶や断片性などによって、理屈や説明を逃れて感覚だけを残すことができる。歌詞カードを見ずにダンスをして楽しめる音楽のように俳句を味わえるということを、阿部氏や谷氏、三世川氏や小川氏たちの句を通じて心から感じることができた。心。今、この場所で生きている主体の移り変わる言語化しづらい心の揺れ動き自体を言葉でなんとなく表す句を読みたい。そこには「私性」という言葉で収まらない何かが確実に存在する。
沙羅のリボン肘や首お休みなさい 同
沙羅の花だろうか。ほどかれた白い色が誰かの体の肘や首をリボンとなってふわりと包み込み、お休みなさいと呼びかける。谷氏の句はモチーフの硬軟が自在で、その多くは対象に自身がどんな感情を抱いているのかを隠さない。
どこへでも走って天気の中にいる 同
この句の「天気」は快晴を示す「お天気」と読む方が楽しいと思うが、「天候」という大いなる現象と向き合っていると読んでも広がりがある。阿部氏と比べると意味からの必死の逃避は見られないが、理屈に回収されないので型式から「浮いて走っている」感は共通する。読むと頭だけではなく、身体・五感でぴりぴりと感じることができる。
私は小川氏と三世川氏と多くの俳人と、1986〜1991年に全20号発刊された「ゴリラ」の読書会を実施している。現在の俳句総合誌で読めない破天荒な句が多く、正直最良の読みに近付いている気が全くしない。しかし句は面白い。読書会の記録はWebサイト「週刊俳句」に掲載されているので、ご関心のある方にはぜひご覧いただきたい。
https://weekly-haiku.blogspot.com/2021/11/5_01998288855.html 

会えなかった。しかし俳句を通じて会いに行きます。

ゴリラや毛虫瞬間的に丸太ン棒『谷佳紀句集』
君が来てサーカスが降る大天才『楽』
腹の底まで磁石だ詩は元気『楽』
木の中にするするのうどん俺マラソン『楽』
どこへでも走って天気の中にいる『ひらひら』
死は溶けて僕の素敵な草いちご 『ひらひら』
沙羅のリボン肘や首お休みなさい『ひらひら』

(本記事は、「俳壇」誌2023年3月号特集「会いたかった俳人」への寄稿内容を一部改稿のうえ掲載しております)

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