![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/173870473/rectangle_large_type_2_41552f36c8928968f478f5baa51af00d.jpeg?width=1200)
【エッセイ】鯨といふ季語 寺沢かの
海峡ほそく凪ぎて鯨のよく通る 水原秋桜子
イルカの棲む島に育った。
故郷の海にはイルカが定住しており、一年中その姿を観察することができる。小舟を出してダイビングすれば、イルカも異種の訪問者を喜んで並走したり、ダイバーの周りをぐるぐると回ってくれたりする。野生ながら芸達者な我が島の同胞である。
「鯨」の句を引いて、なぜイルカの話をしているかと言うと、イルカとクジラは共にクジラ目に属し、その区別はおおまかには体長の違いであると子供の頃知ったから。例外もあるが、基本的に4mより小さければイルカ、大きければクジラだという。私には、彼らは「ざっとクジラの仲間」というイメージがあるのだ。ちなみに、故郷のイルカは「ミナミハンドウイルカ」といい、日本近海に生息する代表的なイルカである。クジラ目同士と言うことで強引に話を進める。
私が小学校に上がった頃、故郷はダイビングスポットとしてにわかに注目を浴びた。夏の間はイルカウォッチング目当ての観光客が島を潤わせ、私も観光の合間を縫って船に乗せてもらい、ブームにあやかってイルカと泳いだ。イルカは賢い。海の中で誰が優位なのかを完全に理解している。運動神経の悪い私はイルカに舐められていた。泳ぎの得意な同級生たちがすいすいとイルカと遊ぶ中、私は潜ってイルカを観察するのが精一杯である。なるほど、美しい筋肉をしているではないか。目もつぶらで可愛い奴め。……などと思いながらもおぼつかない泳ぎの私にも、ようやく一頭のイルカが向かってきた。けれど、その動きは異種の来訪を喜び並走を楽しむと言うような穏やかなものではない。遠くから急加速して私の方に一直線に接近してきたかと思うと、ぶつかるやいなやのところでパカっと口を開いてつぶつぶとした歯を見せつけ、私の顔の横を高速のままツイっと通り過ぎていった。明確にからかわれたのである。はぁ、なるほど賢い。そしていい性格をしている。そのときから私の彼らに対するイメージは「美しいがなんかヤな奴」だ。比較すれば、水族館のイルカは圧倒的に性格が良さそうに見える。嫌な夏の思い出である。
![](https://assets.st-note.com/img/1739091246-RU8wSrdgVGDMF0zh7YqLvNZI.jpg?width=1200)
島の沖には時々鯨も通った。豪華客船飛鳥IIやら、どこの国の軍艦かわからない船やらと同じように、遠くの沖を鯨が通っていった。シロナガスクジラが通ったこともある。
5歳くらいの頃、小さなクジラがどこかの漁船にかかったといって、我が島に上がったこともあった。幼いアカボウクジラだったと思うが、なぜうちの島に上げられたのかの詳細は幼なすぎて覚えていない。血に塗れてやたら鮮やかなピンクに染まったクジラの体だけは今もはっきり覚えている。
イルカもクジラも私の鼻先をよく通る、身近な生き物だった。ただし、それらは圧倒的に「夏」の季感を伴って私の心身に染み込んでいた。
だから俳句を始めた頃、真っ先に驚いたのは「海豚」や「鯨」が冬の季語とされていることだった。
夏だろう、それらは。
なぜ「鯨」が冬の季語とされているかというと、冬季の日本近海が暖かく繁殖に適しているため鯨類が回遊してくるからのようだ。江戸時代に隆盛した捕鯨と、それに伴って鯨料理「鯨汁」が冬の季語として親しまれたのも、やはり冬ごろに当時の日本人が捕獲しやすい領域まで鯨が現れることが多かったからだろう。
だが、一年中イルカを見ることができる私にとってその違和感は強かった。歳時記に反抗するかのように海豚の句をいくつか読んだが、季語に立てておきながら私の中には暑い夏の海風が吹いていた。この句を目にする人は別に冬の句と思ってくれて構わないが、私の海豚は夏だし、クジラ目同士なので私にとってマレビトの鯨だって当然夏の仲間だ。
「私の中では夏」。これが私にとってのリアルでありファイナルアンサーであった。
以下に、2018年ごろ詠んだ拙作を挙げる。
傷で個体識別さるる海豚たち
はづみゆく小舟に海豚並走す
夏深む海豚の雄ら縺れ合ひ
海豚の仔しやくれて母によく似たり
金の花撒き散らす如海豚の糞 かの
![](https://assets.st-note.com/img/1739107056-4mzNWPdSrupIchoTZ7O6J3Ds.jpg?width=1200)
ただ、これが近年状況が変わってきた。
Facebookに地元友人たちの報告が上がる。「最近冬になると島の周りによくクジラが来る」と。クジラの撮影にハマった友人が激写する冬のクジラの姿が私の元に届くようになる。「これが今、お前がいない島のリアルである」と、Facebookが突きつけてくるようになったのだ。
![](https://assets.st-note.com/img/1739107180-E4uA0smZqdgbLKUkBO2QlcPe.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1739106465-Y9pd6KVnN2cfA5Hg40MXxqZu.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1739106465-6yB7om3r1A5NHS4MbCL2s9TG.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1739106933-3HNTRasPzLWmd021tEAFbkJO.jpg?width=1200)
昔に比べ、かなりクジラを観察できる機会が増えた我が島の近海。その理由はよくわからない。気候変動が鯨の移動ルートに影響を与えたのかもしれないし、小笠原諸島の周囲の鯨が増え過ぎてあぶれた鯨が我が島によく姿を見せるようになったのだ…などというまことしやかな説も聞いたことがあるが、その噂が本当かはわからない(というか、検索してもそんな研究結果が見当たらない。どこかの雑誌に発表された個体数変化なり考察なりがあるのだろうか?)
ともあれ、近年急速に「鯨」という季語が「冬」の季節感を伴って私に迫り始める。遠くの方から、一直線に、からかうように。あんなに「私の中では夏なのだが!?」と憤っていたアレは一体なんだったのだろう(さして憤っているわけでもないが…)。
俳句をやっている以上、季節とより意識的に向き合う必要に駆られる私たちであるが、季節を見つめるが故に歳時記に疑問を持つことも、逆に自分の中の季節感の真偽を問い直すことも、時代の変化に敏感に反応していくことも、求められていくし、自らに求めていく必要がある。
ただし、そういう変化も含めて、地球に訪れる変化も自分の変化もおおらかに楽しまなければ、詩情を捕まえそこねてしまうのではないか。「今」の「季節」を、自分の感覚を、ひとつずつ大切にしていきたい。
(まあそれでも、「海豚」は私の中では、今も鮮やかに「夏」である。)
カーテンを開けば海を割る鯨 かの
![](https://assets.st-note.com/img/1739106968-Tai7Gcko8ZCPSWtfsw2neu1A.jpg?width=1200)
写真を提供してくれた友人のInstagramをご紹介。迫力がすごい。写真の腕もどんどんレベルアップしてるご様子。
余談ですが、最後の句は彼の写真に衝撃を受けて詠んだものです。感謝申し上げます。今シーズンの撮影も楽しんでね。