見出し画像

#3 カントリー・ミュージックって、何?/特集:Hank Williams【ケニー・ストーンのあ!メリカーナ】

※以下の文章は、配信中のポッドキャスト「ケニー・ストーンのあ!メリカーナ」第3回放送内容の文字起こしです。もちろんnoteの文字だけでも読んでいただきたいですが、せっかくならぜひ配信音声とご一緒にお楽しみください!

※記事中の参考資料として、主に公式のYoutube動画のみ取り上げています。内容にご興味が湧いた方は、ぜひGoogle検索などでさらに掘り下げてみてください。


タイトル・番組説明

「ケニーストーンのあ!メリカーナ」

このポッドキャストは、自称日本初のアメリカーナミュージシャンこと、ぼくケニー・ストーンと一緒に、アメリカーナという音楽について学んでいこうという番組です。

こんにちは。ケニー・ストーンです。

特に日本人にとってまだまだなじみの薄い「アメリカーナ」という音楽。このポッドキャストを通してみなさんと一緒に知っていくことで、みなさんの音楽ライフをちょっぴりでも豊かにしていけたら、という思いで始めました。

さて、今回が第3回となりました。これまでの2回の放送を聴いてくださった方、少しでもアメリカーナに興味を持ってもらえていたら嬉しいなと、強く願っています。今回はじめてこの番組を聴いていただいている方、このポッドキャストはテーマが何十年も前の話になってしまうことが多いのですが、ぼくは決して昔の偉いミュージシャンや音楽が「すごいだろ!」って言いたいわけでは決してなく、あるいは、遠い昔の遠い国での出来事です、的な感じで教養番組をやりたいわけでもありません。昔の伝説的なミュージシャンも、今の新人アーティストも、白人も黒人も老いも若きも、みんな身を粉にして作り上げてきたアメリカーナという音楽が、日本人のぼくたちにもこんなに心に響くんだということを知ってもらえたら、もしかしたらつらい毎日がちょっと楽しくなるかもしれない。ぼく自身、音楽に救われて生きている人間ですので、そういう思いもあって、今こうしてお話をさせていただいております。よかったらぜひ最後まで聴いていってください。

さて、この番組は、
①トークコーナー
②アーティスト紹介コーナー
③楽曲紹介コーナー
④英語学習コーナー
の4部構成になっております。
Youtube版ではそれらに加え、紹介した楽曲の、ケニー・ストーンによる弾き語り音源、そして歌の練習にも使えるカラオケトラックを投稿しています。また、メディアプラットフォームの「ノート」では、音声だけでは伝わりづらい英語のつづりや、関連動画のyoutubeリンクなど、ポッドキャストの内容をより視覚的に楽しめるようになっております。よければどちらも、概要欄のURLからぜひご覧ください。
それでは、さっそく内容に入っていきましょう。


★トークコーナー

さて、前回の放送では、ざっくりとアメリカーナ音楽の歴史について見ていきました。今回からのトークコーナーでは、アメリカーナ音楽を構成するいくつかの音楽ジャンルについて、個別に掘り下げていきたいと思います。今回取り上げるのは、カントリーミュージックです。

・突然ですが、ここでちょっとクイズです!

アメリカでこれまで、一番たくさん音楽アルバムを売り上げているアーティストは誰でしょうか?

ヒントその1、グループです。
ヒントその2、メンバーにアメリカ人はいません。

さあ、音楽好きな方でしたらもう即答かもしれないんですが、答えは?

ザ・ビートルズです。
2024年の全米レコード協会のデータによりますと、約1億8千300万枚の売り上げだそうです。

それでは、ビートルズに次ぐ2位のアーティストは誰でしょうか?

その売り上げは1億6千200万枚
マイケル・ジャクソンでも、エルヴィス・プレスリーでもありません。

オクラホマ州出身のカントリーシンガー、ガース・ブルックスです。

日本では認知度が高いとは言えない彼ですが、1000万枚以上を売り上げたアルバムに付与されるダイアモンド認定を、ビートルズの6枚を上回る、9枚のアルバムで達成しているミュージシャンです。
ちなみに、さきほどのアーティスト売り上げランキングでは、トップ50組のうち10組がカントリーアーティスト
それほどのすさまじい影響を誇るカントリーミュージック、どういった音楽なのか、詳しく見ていきましょう。

・カントリー・ミュージックのあゆみ

カントリーミュージックは、1927年、アメリカの建国時代から最も歴史のある州のうちの一つ、バージニア州ブリストルで誕生しました。

1920年代、当時生まれてまだ間もないレコード産業。世に新しい音楽を売り出そうとしていたコロンビアやビクターなどのレコード会社は、アメリカ南部や東部、アパラチア地方に赴き、その地の音楽の調査を始めます。そこで発見したのが、アパラチアの民謡をベースとした、当初「ヒルビリー」と呼ばれたその地域の伝統音楽でした。
ビクターのディレクターは、ブリストルに録音機材を持ち込み、レコードの録音をかけたオーディションを行います。そこで合格したのが、カーター夫妻とその妹によるグループ「カーターファミリー」と、のちに「カントリー音楽の父」と呼ばれるジミー・ロジャースでした。彼らの録音は大ヒットし、このレコーディングセッションは「カントリー・ミュージックのビッグバン」とまで呼ばれ、バージニア州ブリストルは「カントリーミュージック発祥の地」となっています。

カーター・ファミリーによる初期の録音、When I'm gone。

余談ですが、ジョージ・クルーニー主演の2000年公開の映画「オー・ブラザー!」ではこのころのアメリカの伝統音楽が、名プロデューサー、T・ボーン・バーネットにより大フィーチャーされています。そちらもご覧いただくと、当時のアメリカの雰囲気がより分かりやすくなるかと思いますので、おすすめです。

1929年、アメリカで株価の大暴落が発生し、それを発端に世界恐慌が起きます。レコードの売り上げが落ち込む半面、国民のエンターテインメントとして大きく広がっていったのがラジオ放送でした。1925年から放送開始していたカントリーミュージックに特化したラジオ番組、「グランド・オール・オプリ」ではロイ・エイカフをはじめ多くのカントリースターが誕生し、カントリー音楽はアメリカ南部だけにとどまらず、全米で人気を博すようになります。

来年2025年には100周年を迎えるグランド・オール・オプリ。現代アメリカーナの最先端にして最高峰、ビリー・ストリングスの演奏です。

1930年代から40年代には、西部劇映画のヒットとともにウエスタン・ミュージックの人気も高まりました。
その名の通り、主にアメリカ西部のカウボーイたちのライフスタイルを描いたウエスタン・ミュージックは、彼らの乗る馬の歩くリズムをベースとして作られています。ディズニーがお好きな方には、映画「トイ・ストーリー2」に登場するカウボーイ番組「ウッディのラウンドアップ」のテーマ曲、というとウエスタン音楽のイメージがしやすくなるかもしれません。
代表的なアーティストとしては、のちに「ホワイト・クリスマス」を大ヒットさせ、映画俳優としても大活躍するビング・クロスビーや、「キング・オブ・カウボーイ」の異名を持つロイ・ロジャースらがあげられます。カントリーミュージシャンのイメージとしてカウボーイの衣装などが定着したのは、このウエスタンミュージックの影響です。
このころには、ウエスタン音楽とジャズのリズムを融合させた、「ウエスタン・スウィング」というスタイルも登場します。「キング・オブ・ウェスタン・スウィング」として後世にも大きな影響を与えるボブ・ウィルスは、それまでアコースティック楽器主体だったカントリーバンドにドラムスとエレクトリックギターを取り入れ、ダンス・ミュージックとしても大人気となりました。

映画「トイ・ストーリー2」より、「ウッディのラウンドアップ」のテーマ曲。劇中での使用は一部のみでもちろんアニメーション映像でしたが、こちらは実写のウェスタン・スウィングの演奏が収録されています。

1940年代後半、第二次世界大戦が終わりを迎えると、カントリー音楽では失恋や不倫、孤独やアルコール依存といった悲劇的なテーマが歌われるようになります。アメリカ南部のブルースやメキシコの伝統音楽、ランチェーラに影響を受けた「ホンキートンク」と呼ばれるそのサウンドは、2拍子のシンプルなリズムをベースとしています。ホンキートンクはハンク・ウイリアムスの人気によって黄金時代を迎え、エルヴィス・プレスリーをはじめとする、のちのロックンロールにも多大な影響を与えました。ちなみに、ロックバンド・ローリングストーンズの大ヒット曲「ホンキートンク・ウィメン」は、この時代のサウンドに基づいています。

50年代になると、カントリーミュージックから派生した別の音楽も登場します。ロカビリーです。黒人たちの間で発展してきた「R&B」と、カントリーの別名でもあった「ヒルビリー」を合体させて作られたロカビリーは、力強いリズムやシンプルなメロディラインが特徴で、エルヴィス・プレスリーらを筆頭に多くのスターが生まれました。彼らの活躍により文化的にも、商業的にも巨大化したロカビリーはロックンロールとなり、のちのロック音楽へとつながっていきます。

ロカビリーやロックンロールなど、新しいサウンドが全米を席巻していた50年代後半、カントリー音楽は一時、商業的な低迷を迎えてしまいます。そんななか、カントリーの聖地と呼ばれたテネシー州ナッシュヴィルでは、カントリー音楽のより効果的なアピールのため、CMA、全米カントリー協会が1958年に設立されます。
また、ギタリストとしても有名なチェット・アトキンスをはじめとする音楽プロデューサーたちが活躍し、伝統的なサウンドを生かしながらも、カントリーにさまざまな改革を行います。これがナッシュヴィル・サウンドの確立です。彼らは、当時流行していたポップス音楽のスタイル、力強いボーカルやクラシックの弦楽器などの要素を取り入れます。ところが、ナッシュヴィルサウンドを代表する2人のスター、パッツィ・クラインとジム・リーブスが63年、64年と相次いで死去。そして64年にはビートルズがアメリカに上陸し、それに続けとばかりに、ローリングストーンズなどイギリスのサウンドが次々進出。再びナッシュヴィルは苦戦を強いられます

一方、アメリカ西海岸では、商業化するナッシュヴィルサウンドに対抗した新たなカントリーが生まれていました。カリフォルニア州ベイカーズフィールドで発展した、ベイカーズ・フィールド・サウンドです。ロックンロールやホンキートンクのスタイルを融合させ、マール・ハガードやバック・オーウェンズらを筆頭に、大人気となります。その影響はザ・ビートルズまでにもおよび、バック・オーウェンズの楽曲「アクト・ナチュラリー」をカバーするほどでした。

ベイカーズフィールドサウンドの旗手、バック・オーウェンズの「アクト・ナチュラリー」。名ギタリスト、ドン・リッチをはじめとする腕利きのバンドが彼を支えました。

60年代後半。ビートルズらイギリス勢と、西海岸のベイカーズフィールド。2つの脅威に立ち向かうため、ナッシュヴィルサウンドはますますのポップ化を図り、カントリーポリタンへと変貌します。カントリーと、「世界市民」をさすコスモポリタンが合わさったこのスタイルでは、オーケストラや合唱団の導入など、より耳触りの良い、売れることを目的としたサウンドを追究し、ナッシュヴィルは商業的に復活していきます。
余談ですが、当時を代表するプロデューサー、チェットアトキンスが「ナッシュヴィルの音ってどんな音でしょうか」と聞かれると、ポケットの小銭をチャリチャリと鳴らし、「これだよ、金の音だ」といったそうです。

1970年代中盤には、商業化するナッシュヴィルのスタイルから距離を置き、もっと自由な音楽を追究する「アウトローカントリー」と呼ばれる動きも出てきました。ウィリーネルソンをはじめとする彼らは、ジャズやフォークなどの要素を取り入れた新しいカントリーを作り上げていきます。また、固定化されたナッシュヴィルのバンドサウンドではなく、自分たち自身でバンドを集め、より音楽的な自由を追い求めました。

ポップ化するナッシュヴィルや、西海岸のベイカーズフィールド、そしてテキサスのアウトローカントリー。70年代から80年代にかけて、カントリー音楽はさまざまなスタイルでしのぎを削りながら人気を広げていき、ポップスチャートにもヒット曲を送り込むようになります。日本でも「カントリーロード」のヒットで有名なジョン・デンバーや、オリビア・ニュートン・ジョンらも活躍し、カントリー音楽のスタイルはアメリカだけでなく、世界中で人気を獲得しました。

1920年代からアメリカの人々にカントリー音楽を広める大きな手段であったラジオにも、そのころ大きな変化が起こります。国によるラジオの規制緩和です。それにより、当時出始めだったFMラジオが大きく発展、たくさんのFMラジオ局が開設されました。より広範囲に、高音質な音楽の放送が可能であるFMラジオの普及のおかげで、それまで主に田舎の農村部のAMラジオで聞かれることが多かったカントリーは、80年代以降、都市部の若年層へとリスナーを一気に拡大していきます。
そこで登場したのが、オクラホマ州出身のガース・ブルックスやカナダ出身のシャナイア・トゥエインら、新しい世代のスーパースターでした。彼らはともに伝統的なカントリーサウンドにポップやロックの要素を取り入れ、ガースは1億枚以上、シャナイアは6000万枚以上アルバムを売り上げる大ヒットを記録しました。

女性アーティストとして歴代最高の売り上げを誇るシャナイア・トゥエインのアルバム「Come on over」より、「Man! I feel like a woman!」

1990年には、カントリー界にそれまでにないスタイルのバンド、アンクル・トゥペロが現れます。「普通とは違う、型にはまらない」という意味の「オルタナティブ・カントリー」と呼ばれる彼らの音楽は、ナッシュヴィルが牽引する洗練されたカントリーから意図的に外れた、反骨精神にあふれたものでした。ナッシュヴィルに反抗する、という意味ではそれまでのベイカーズフィールド・サウンドやアウトロー・カントリーと同じですが、彼らはそこへさらに、カーターファミリーやハンク・ウィリアムスら先人の要素や、パンクロックの爆発的なエネルギーを込めたのでした。アンクル・トゥペロは商業的に成功を収める前に解散しましたが、その後メンバーはウィルコ、サン・ヴォルトという二つのバンドに分かれ、その後もシーンに大きな影響を与え続けていきます。

2000年代に入ると、ジェイソン・イザベル、マーゴ・プライスやクリス・ステイプルトンらが活躍し、オルタナティブ・カントリーの人気がますます高まります。2019年には、ケイシー・マスグレイヴスが、アルバム『Golden Hour』でグラミー賞の最優秀アルバム賞とベスト・カントリー・アルバム賞を受賞し、大ヒットを記録しました。

2000年代後半から近年にかけて、カントリーミュージックはさらにポップの影響を強く受け、シンプルで繰り返しの多い歌詞やエレクトロニクスを駆使したアレンジ、さらにはラップを取り入れるなど多様化しています。歌詞のテーマにも変化が見られ、性の多様化やドラッグなど、物議を醸す内容が取り上げられることも多くなってきています。
また、ジャスティン・ティンバーレイクやビヨンセなど大物ポップアーティストがカントリー路線の作品を発表することも多く、現代においてもカントリー・ミュージックは絶えず変化を続けています

2024年3月にビヨンセがリリースしたカントリー・アルバム「カウボーイ・カーター」は全米1位の大ヒット。

さて、駆け足で約100年のカントリーミュージックの歴史について見てきましたが、いかがでしたでしょうか。次回はアメリカーナの要素のひとつ、フォークミュージックについてお話したいと思います。


★アーティスト紹介コーナー

・失われたノート

ときは2006年。あるレコード会社で働く清掃員が、ごみ箱の中に古い4冊のノートが捨てられているのを発見します。
清掃員によってごみの中から救い出されたノートたちは、さまざまな流れを経て、ある男の手に渡りました。男は、ノートを手にひとり、ホリーという女性を訪ねます。中身について何も伝えず、ただ読んでほしいとホリーに伝えるその男。彼女は目を通して、すぐにそれがなんであるかがわかりました。「これは祖父の、ハンク・ウィリアムスの未発表曲の歌詞だ」。ホリーとは、カントリーミュージシャン、ハンク・ウィリアムスの孫娘であり、彼女を訪ねたその男とは、ハンクをリスペクトし、自身も多大な影響を受けたフォーク歌手、ボブ・ディランでした。

さて、いきなり最近のエピソードから始まりましたが、この続きは後程お話ししましょう。
今回取り上げるアーティストは、「ハンク・ウィリアムス」です。
1923年生まれ。1953年に29歳の若さで亡くなるまでの短く、破滅的な音楽人生は、カントリー音楽はもちろんのこと、エルヴィス・プレスリー、ボブ・ディラン、ローリング・ストーンズなどのちのロックにも非常に大きな影響を与えた、伝説のミュージシャンです。カントリーミュージックの殿堂やロックの殿堂入りを果たしているほか、2010年にはその作曲家としての技術や影響力が評価され、ピューリッツァー賞が授与されました。
彼の人生は決して華々しさに満ちたものではなく、つねに生まれ持った痛みや苦しみとの闘いでした。それでは、カントリー音楽界最高のアーティストの一人である彼の人生について、見ていきましょう。

・ハンク・ウイリアムスの生涯

ハンク・ウイリアムスは1923年、テネシー州の南に位置するアラバマ州、バトラーに「ハイラム・ウィリアムス」の名で生まれました。
生まれつきの「潜在性二分脊椎症」という病気のため、彼は生涯、背中の痛みに苦しめられ、またその痛みを和らげようと、のちにアルコールや薬物に依存していくことになります。
ハンクの父、エロンゾは第一次世界大戦で従軍したのち、製材会社で働いていましたが、ハンクが7歳の時に脳動脈瘤を患い、退役軍人病院に長く入院してしまいます。そのためハンクと1歳年上の姉、アイリーンは、母のリリーにより女手一つで育てられました。世界恐慌時代の当時、家族を養うために母リリーは昼間は缶詰工場、夜は病院で看護師として働くという暮らしでした。そんな中、家が火事で全焼するなど苦難が続きますが、父親の障害年金が入り始め、また新しい家で始めた下宿屋が軌道に乗ったおかげで、なんとか暮らすことができたようです。

ハンクが8歳の時、母リリーがギターを買い与えます。3ドル50セント、現在の5000円ほどの中古ギターを手に、彼は練習を始めました。ハンクは当時のカントリーミュージックのスター、ロイ・エイカフの音楽をよく聞いていたようですが、初めて学んだスタイルは黒人音楽のブルースでした。彼は「ルーファス」という名の黒人路上パフォーマーと親しくなり、ブルースのボーカルやギター演奏を吸収し、これがのちの彼のスタイルを形作る一つの要素となっていきます。

ハンク・ウィリアムス、14歳の夏。
中学生になった彼は、放課後や週末には路上で演奏するようになり、腕を磨いていきました。次第に自分の経験や自作のストーリーを歌にするようになった彼は、初めて作ったオリジナル曲「WPAブルース」を地元の音楽コンテストで歌い、見事優勝。それがきっかけで地元のラジオ番組に出演をするようになり、注目を集めます。
このころ、ハンクは自身のバンド「ドリフティング・カウボーイズ」を結成。メンバーのステージ衣装は、彼が大好きだった西部劇から、カウボーイハットとブーツで統一します。メンバーの入れ替わりはありましたが、「ドリフティング・カウボーイズ」はこのあと10年以上、ハンクを支えるバックバンドの名として使われ続けます。

ラジオの出演がきっかけとなり波に乗るハンクは、高校を2年生で退学。バンドとともにアラバマ州各地を演奏して周り始めました。ハンクの母、リリーがマネージャーとして活動をサポートし、ダンスホールや劇場、バーなどで精力的に演奏を続けますが、その巡業の中でハンクは飲酒を覚えてしまいます。生まれつきの背中の痛みが飲酒によって和らぐように感じ、演奏のギャラをすべて酒に使ってしまうほど、彼は若くしてアルコール依存に陥っていきました。

ハンクの演奏は好評でしたが、1941年、彼が18歳になると状況が変わっていきます。アメリカは第二次世界大戦に参戦し、「ドリフティング・カウボーイズ」のメンバーはみな戦場へと送られました。ハンクも徴兵の対象となりましたが、背中の痛みのために除外されます。やむなく代わりのバンドメンバーを集めますが、悪化していくハンクの酒癖の悪さに彼らもバンドを抜けていきました。レギュラー出演していたラジオ番組も、泥酔した状態での出演が続き、クビになります。ハンクの小さなころからのあこがれのミュージシャン、ロイ・エイカフとステージ裏で会う機会に恵まれましたが、そのロイもハンクに「君には百万ドルの声があるが、10セントの頭しかない。今すぐ酒をやめるんだ」と、警告したほどでした。

音楽の仕事では暮らしていけなくなり、2年近く造船所で船の組み立てなどの仕事をしながら暮らしていたハンク。そこでオードリーという女性と出会い、結婚します。彼女がハンクの音楽活動を大いに励ましたことで、彼は再び活動を始めます。オードリーはマネージャーとしてハンクをサポートし、彼の書き溜めたオリジナル曲をもって方々のラジオ局にかけあいます。そのきっかけもあり、45年にはハンクがラジオの仕事に復帰。また、このころオリジナルの歌詞をまとめた詩集を出版するなど、ハンクの作詞家としての認知度も上がっていきました

1946年、ハンクはカントリーミュージックの聖地、ナッシュヴィルへと赴きます。ラジオ番組「グランド・オール・オプリ」のオーディションを受けますが、落選。そこで次に、当時できたばかりの「エイカフ・ローズ」という名のレコード会社に向かいます。「blue eyes crying in the rain」の原作者としても有名なロイ・エイカフとフレッド・ローズ。二人のカントリーミュージック界の大御所が設立したこの会社にアプローチすることで、ハンクは成功のきっかけをつかもうとしたのです。アポイントもなく「エイカフ・ローズ」を訪問し、スタジオで卓球をしていた社長のフレッドをつかまえ、半ば強引にオリジナル曲を歌って聴かせるハンク。「無名の歌手がこれほどいい歌をかけるとは」と、フレッドはハンクの歌声に大いに可能性を感じたと同時に、本当に彼のオリジナルなのかと疑ってもいました。そこでフレッドは、『数日待ってあげるから、「丘の上の家」というテーマで一曲作ってきてほしい。その出来がよければ、契約してあげよう』と提案しました。そうして隣のカフェにコーヒーを飲みに行き、小一時間ほどして戻ってきたフレッド。そこにはなんと、すでに曲を書き上げていたハンクがニヤリと笑っていました。ここで出来上がった「A mansion on the hill」で見事エイカフ・ローズとの契約を勝ち取り、リリースされた楽曲は大ヒット。それをきっかけに、ハンクは1947年には大手レコード会社、MGMとも契約を結びます。

ハンクが脚光を浴びるきっかけとなった「A mansion on the hill」。

MGMで最初に発表した「Move it on over」がヒットし、ハンクはルイジアナ州のラジオ番組、ルイジアナ・ヘイライドにレギュラー番組を持つようになります。ラジオ出演のおかげもあり、ハンクは活動範囲を広げ、ルイジアナ州やテキサス州でもコンサートを行い知名度を上げていきました。49年にはカバー曲「Lovesick blues」をリリースし、これがカントリーチャートで4か月連続のナンバーワンヒット。つづく4曲もすべてトップファイヴにランクインさせ、ついにハンクはグランド・オール・オプリにも出演を果たします。またその年、妻のオードリーとの間にも息子、ハンク・ウィリアムス・ジュニアが生まれ、ハンクは公私ともに充実し50年代を迎えます。

1950年になると、ハンクの人気はますます高まり、1回のショーで1000ドル、約150万円を稼ぐほどになりました。
ところが、51年にかけて次々とヒットを量産していく一方で、ハンクは彼のダークサイドともいうべきある作品を制作します。それは歌ではなく、音楽にのせて物語を語りかける朗読作品、「トーキングブルース」というスタイルでしたが、ヒットメイカーとしてのハンクのイメージとはかけはなれたものでした。プロデューサーのフレッド・ローズは売り上げに影響するのを恐れ、ハンクに「ルーク・ザ・ドリフター」という偽名を使ってリリースさせます。人間関係のはかなさや道徳、人間の死など、ハンクの別人格ともいうべき哲学的な作品は、後世のカントリー音楽やロックにも多大な影響を与えました。

さて、ヒットシンガーとして成功が続くハンク。51年には「hey, good lookin’」、52年にはのちのカーペンターズのカバーでも有名な「ジャンバラヤ」など、数々の楽曲をチャートインさせ、またTVやラジオへの出演も大好評が続きます。
が、そのヒットの陰で、ハンクの行く先に暗雲が立ち込めます。ツアー先で転倒し、生まれつきの痛みに苦しんでいた脊椎がさらに悪化。手術を受けますが、医師の反対を押し切り無理やり退院し、その後は痛み止めを大量に服用しながらの活動が続きました。また、この時期にダンサーとの不倫がきっかけで妻のオードリーと離婚。離婚後すぐにビリー・ジーンという女性と恋仲になりますが、彼女とのデートを優先しグランド・オール・オプリの出演を何度もすっぽかす始末。それまでも度重なる泥酔状態での出演などが問題となっていましたが、それが決めてとなり、52年にはオプリーをクビになってしまいます

52年の秋には、ビリー・ジーンと結婚。
またそのころハンクは心臓の痛みを訴え、トビー・マーシャルという医師の診察を受けます。このトビーという男、実のところは医者ではなく、刑務所から仮釈放中の詐欺師で、医師免許や学位などもすべて偽造というとんでもない男でした。トビーは胸の痛みを訴えるハンクにでたらめな薬を長期間処方し、そのために体調はますます悪化。ハンクは死へと近づいていくことになるのでした。

1952年12月31日。翌日のコンサートを控え、車でオハイオ州へと移動中。長時間の運転に疲れ果てたドライバーが休憩所に車を停め、ふと後部座席を見ると、ハンクが息絶えているのに気づきます。死因は心不全、誤った処方薬で心臓に負担がかかったことが原因でした。その夜予定されていたコンサート会場でハンクの死が伝えられると、大勢の観客たちはハンクの曲を大合唱し、彼の死を悼みました。

あまりにあっけない最期を遂げたハンクでしたが、生前に録音された作品は彼がなくなった後にもリリースされ、レコード会社も予想だにしないほどのヒットを記録します。生前にはハンクを追放さえしたグランド・オール・オプリも、彼の功績をたたえたプログラムを放送し、また数多くの音楽賞が彼に与えられました。

なんたる皮肉か、ハンクが亡くなる前にリリースされた最後のシングルは「生きてはこの世を出られない」というタイトルでした。

ハンクは遺言を残しませんでしたが、たしかにその意志を受け継ぐものがいました。最初の妻、オードリーとの間に生まれた彼の息子、ハンク・ウィリアムス・ジュニアです。
彼についてもここでご紹介しましょう。ハンク・ジュニアは幼少期に、父のかかわりのあったたくさんのミュージシャンからてほどきを受け、ギターだけでなく、バンジョーやピアノ、サックス、ハーモニカ、フィドル、ドラムなど実に様々な楽器の腕を磨きました。
8歳には父ハンクの歌をステージで歌うようになり、1964年、15歳のときには父の名曲「Long gone lonesome blues」を歌い、レコードデビューします。父親とうり二つのハンクジュニアの歌声は非常に好評となり、その後70年代にかけてハンクジュニアは多くのヒットを飛ばします。が、成功する一方で、物まね芸人のような周囲の扱いに嫌気がさし、次第に自分自身の音楽とは何かを悩み始めます

深く悩んだハンク・ジュニアは、父と同じくアルコールやドラッグに手を染めていき、精神的にも身体的にも苦痛に満ちた時期を過ごしました。
そんな真っただ中の1975年、ある事故が彼を襲います。登山中に足を滑らせ、150メートル下の岩場に落下。頭蓋骨と顔面を骨折し、一時は生死の境をさまよいます。その後2年間の療養を余儀なくされましたが、それがハンク・ジュニアにとっての転機でした。
2年間に17回の手術を受け、リハビリでは声の出し方や話し方を再び一から学ぶことで、それまでの父の模倣ではない、自分らしい歌い方を獲得することができたのです。また、事故による傷跡を隠すため、ひげを生やし、サングラスとカウボーイハットを常にかぶるという彼のスタイルもこの時期に確立しました。
自分自身のスタイルに目覚めたハンク・ジュニアは79年に療養から復帰後、ロック的なアプローチを取り入れた楽曲を作り始め、ヒットを連発します。現在までに21枚のアルバム、10枚のシングルでカントリーチャートのナンバーワンとなりました。

快進撃を続けるハンク・ジュニアは、1990年、ついにグラミー賞を受賞します。受賞曲となった「There’s a tear in my beer」のリリースに至るまでには、一つの物語がありました。
時は戻り、1951年のこと。ハンク・ウィリアムスは書き上げたばかりのビールがテーマの曲をレコーディングしようとします。しかし、アルコール中毒のイメージをハンクから払拭したい、と考えたプロデューサーのフレッド・ローズがそれを却下。ハンクのギター弾き語りのみのデモバージョンを残し、その楽曲はビッグ・ビル・リスターという別の歌手へと引き渡され、彼の歌としてリリースされましたがヒットはせず、リスターもその後歌手を引退してしまいました。
それから30年以上がたったある日。リスターの妻が屋根裏部屋を掃除していると、ほこりをかぶったブルーシートの下から、ハンク・ウィリアムスの弾き語りデモ音源を発見します。すぐに彼女はそれをハンク・ジュニアへと渡し、ジュニアは父ハンクウィリアムスとの時を超えたデュオ「There’s a tear in my beer」を作り上げたのでした。
父ハンクの弾き語りのデモ音源と、息子ジュニアの歌、バンド演奏を組み合わせて作られたこの楽曲は、PV映像にもハンクのTV出演の様子を合成し、まるで親子が一緒に楽しんでいるかのような映像となっています。この楽曲でハンク・ウィリアムス・ジュニアは父ハンクとともに、最優秀カントリーヴォーカル賞と最優秀ビデオ賞を受賞する快挙を成し遂げました

ミュージックビデオ「There’s a tear in my beer」。

ハンク・ウィリアムスの遺産は、時を越えて彼の孫娘、ホリーにも届きます。
ハンクは生前、革のブリーフケースに入れたノートを肌身離さず持ち、思いついた歌詞やアイデアなどをそこにメモしていました。彼の死後、66曲もの未発表の歌詞を収めた4冊のノートは、所属していたレコード会社「エイカフ・ローズ」の金庫の中に保管されます。会社の買収などを経てそれがごみと混ざり、危うく捨てられる寸前のところを清掃員に発見されます。
ノートを手に入れたボブ・ディランはミュージシャンであるハンクの孫、ホリーやハンクを敬愛するミュージシャンたちと協力し、ハンク・ウィリアムスの未発表曲集「The lost notebooks of Hank Williams」を完成させます。彼らは、ノートに断片的に記されていたハンクの言葉をまとめ、時に補い、彼の思いを読み解きながらそこにメロディを加え、曲にしていきました。ディランやホリーに加え、ザ・バンドのリヴォン・ヘルム、ノラ・ジョーンズ、ジャック・ホワイト、シェリル・クロウらも参加したこのアルバムは、2011年にリリースされ、ヒットを記録しました。

2016年にはハンク・ウィリアムスの人生をテーマにした映画「I saw the light」が公開。また、ハンク・ウィリアムスの生誕100周年である2023年には、故郷アラバマで彼の誕生日が記念日と制定され、ナッシュヴィルでは記念コンサートが開催されるなど、これほどの時を経てもなお、彼の影響力は計り知れません。

アーティスト紹介、今回はハンク・ウィリアムスを取り上げました。

★楽曲紹介コーナー

今回ピックアップする楽曲は、ハンク・ウィリアスの「Cold, cold heart」です。

この楽曲がリリースされたのは1951年
このころの日本はまだGHQの占領下でしたが、第1回紅白歌合戦の放送や、日本で初めてレコードが発売されるなど、音楽的にも大きな出来事があった年でした。

それでは、楽曲について見ていきましょう。
「Cold, cold heart」は1950年にハンク・ウィリアムスによって書かれました。当時の妻、オードリーとハンクとの関係は最悪の状態でした。ツアー先で平然と浮気を繰り返すハンクに、妻のオードリーは自らも浮気を重ねるようになります。そんな中、オードリーは妊娠しますが、彼女はハンクにそれを知らせないまま、自宅でおなかの子を中絶し、病院に搬送されてしまいます。知らせを聞いてすぐに病院に来たハンクに、「あなたがここまで私を追い詰めたのよ」と冷たく突き放すオードリー。大きなショックを受けたハンクは「どうしたら俺は、君の冷え切った心を溶かせるだろう」と、その心情を歌詞に書き上げます。
「Cold, cold heart」はそうしてできた歌詞と、1943年のテッド・ウェストの楽曲「You’ll still be in my heart」のメロディをヒントに、ギタリストのチェット・アトキンスを含むバンドで録音されました。1951年にシングル「Dear John」のB面としてリリースされますが、ラジオやジュークボックスなどで人気に火が付き、カントリーミュージックチャートで1位を記録。ハンク・ウィリアムスの楽曲の中でも屈指の人気曲となりました。
また、当時のTV番組「ケイト・スミス・イブニング・アワー」に出演した際の映像が残っており、あこがれのミュージシャン、ロイ・エイカフから紹介され歌う姿を見ることができます。

楽曲の人気の高さから、他のアーティストにカバーされることも多く、なかでもハンクと同年にリリースされたジャズ・シンガーのトニー・ベネットのバージョンは、ポップス・チャートで1位を記録する大ヒットとなりました。


★英語学習コーナー

さてここで、楽曲の歌詞からひとつ、英語表現を学んでいきましょう。今回ピックアップするのは、楽曲中で何度も繰り返される、この部分です。

Why can’t I free your doubtful mind?

歌の中ではこの後にand melt your cold, cold heartと続きますが、今回はシンプルにピックアップしました。

では、単語や表現を見ていきましょう。

Why ~?なぜ?どうして?
カタカナだと「ホワイ」となることがありますが、「ホ」とはっきり発音はしません。後に続く「ワイ」という音に向けて息を吹きかけるイメージで言ってみましょう。

can’t I ~?わたしは~できないの?
前のwhyとあわせて、「なぜわたしはできないの?」という意味になります。

free ~~を解放する。
今回は動詞です。形容詞だと「無料の」とか「自由な」という意味になりますね。つづりはF・R・E・E、はじめのFでフッと息を吐いて、次のRでは舌を巻きましょう

your doubtful mind
doubtful 、ちょっと聞きなれない単語です。カタカナだと「ダウトフル」ですが、そこから「ト」の部分をグッと弱くしましょう。「フル」の部分は、「フ」といいながら舌を前歯の付け根のところに持っていきます。あわせて、doubtful 。
「疑い」という意味のdoubtいっぱい=fulなので、「疑い深い」という意味になります。ちなみにBeautifulは「美しさ」beautyがいっぱいなので「美しい」wonderfulは「不思議、驚き」のwonderがいっぱいなので「素晴らしい」、同じつくりの言葉がたくさんありますね。
your doubtful mindで、「あなたの疑い深い心」となります。

さて、この歌詞がどういう意味なのか、分かりましたか?
ストレートに日本語にすると、「なぜ私は、あなたの疑い深い心を解放できないの?」。これだとちょっと固いので、「どうしたら君の心を癒してあげられるんだろう?」という風に訳してもよいかもしれません。


発音練習です。ぼくに続いて、まずはゆっくり練習しましょう。

Why can’t I free your doubtful mind?

いかがでしょうか。もっと滑らかに発音するためには、can’t Iに注意してみましょう。以前の放送でも登場したcan’t、覚えてますか?「エ」の口のまま「ア」でしたね。そして、よりスムーズにするために、うしろのIとつなげてみます。いかがでしょうか。

最後に、すべて合わせて練習です。
Why can’t I free your doubtful mind?
うまくできたよ!という方。ぜひケニーストーンのYoutubeにある弾き語りバージョンに合わせて、一緒に歌ってみてください。


さいごに

ケニーストーンのあ!メリカーナ。今回の放送は以上になります。アメリカーナ音楽の魅力を伝えたいとはじめたポッドキャストですが、楽しんでいただけましたでしょうか。
次回のテーマは、フォークミュージックです。取り上げるアーティストは誰になるのでしょうか、どうぞお楽しみに。

ケニーストーンでした。

いいなと思ったら応援しよう!