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#5 ゴスペル・ミュージックって、何?/特集:Mahalia Jackson【ケニー・ストーンのあ!メリカーナ】

※以下の文章は、配信中のポッドキャスト「ケニー・ストーンのあ!メリカーナ」第5回放送内容の文字起こしです。もちろんnoteの文字だけでも読んでいただきたいですが、せっかくならぜひ配信音声とご一緒にお楽しみください!

※記事中の参考資料として、主に公式のYoutube動画のみ取り上げています。内容にご興味が湧いた方は、ぜひGoogle検索などでさらに掘り下げてみてください。



タイトル・番組説明

「ケニーストーンのあ!メリカーナ」

このポッドキャストは、自称日本初のアメリカーナミュージシャンこと、ぼくケニー・ストーンと一緒に、アメリカーナという音楽について学んでいこうという番組です。

こんにちは。ケニー・ストーンです。

特に日本人にとってまだまだなじみの薄い「アメリカーナ」という音楽。このポッドキャストを通してみなさんと一緒に知っていくことで、みなさんの音楽ライフをちょっぴりでも豊かにしていけたら、という思いで始めました。

さあ、今回5回目です。最初の配信でも触れたのですが、ぼくはアメリカーナ研究の専門家ではありません。この番組をつくるにあたり、いろいろな情報を調べて、整理したものをこうしてお伝えしているわけなのですが、調べる中で本当にたくさん、これまで知らなかった情報や、新たな魅力に気付かされています
このポッドキャストを聴いてくださる方にも、「アメリカーナって、聞いたことなかったけど、なんかいいなぁ」「このアーティスト、もっと聴いてみたい!」なんて楽しいきっかけにしていただけたら、とっても嬉しいです。

さて、この番組は、
①トークコーナー
②アーティスト紹介コーナー
③楽曲紹介コーナー
④英語学習コーナー
の4部構成になっております。
Youtube版ではそれらに加え、紹介した楽曲の、ケニー・ストーンによる弾き語り音源、そして歌の練習にも使えるカラオケトラックを投稿しています。また、メディアプラットフォームの「ノート」では、音声だけでは伝わりづらい英語のつづりや、関連動画のyoutubeリンクなど、ポッドキャストの内容をより視覚的に楽しめるようになっております。よければどちらも、概要欄のURLからぜひご覧ください。
それでは、さっそく内容に入っていきましょう。


★トークコーナー

さて、アメリカーナ音楽を構成するそれぞれの音楽ジャンルについて掘り下げているこのコーナー。今回はゴスペル・ミュージックをピックアップしたいと思います。
ゴスペル・ミュージック、みなさんは聴いたこと、ありますか?ぼく自身、一番なじみがないのがこのジャンルかもしれません。個人的には、映画「天使にラブソングを…」のイメージで、シスターさんたちが並んで、みんなで神様がテーマの歌を力強く歌っている、くらいの認識しかなかったのですが、はたしてゴスペルってどんな音楽なのか?一緒に知っていきましょう。

・ゴスペルという言葉の意味

まずは「ゴスペル」という言葉についてです。日本語では幸福の音と書いて「福音」と訳されるゴスペル。もともとギリシャ語のエウアンゲリオンに由来し、英語ではgood spell、「良い知らせ」ということばが合わさってできた単語です。イエス・キリストの死後、弟子たちがその教えを布教していく中で、キリストのメッセージを「良い知らせ」と呼んだのが、ゴスペルという言葉のはじまりでした。聖書におさめられているキリストの言葉を集めた書物のことも、福音書すなわちゴスペルと呼ばれています。
 
さて、それではゴスペル音楽はどのように生まれ、どのように発展してきたのでしょうか。
ゴスペル音楽は、アメリカの奴隷制度下における黒人たちの生活、そして彼らのキリスト教信仰の中から生まれました。まずは、ゴスペル音楽のもととなる黒人霊歌の歴史について解説していきます。

・黒人霊歌の歴史

17世紀から19世紀にかけて、アフリカからアメリカに強制的に連れてこられたアフリカ系の黒人たち。彼らはそれまで持っていた文化や生活様式、またそれまで信仰していた彼ら固有の宗教も奪われてしまいました。白人たちが黒人奴隷たちの文化を奪ったのは、彼らの文化的な結束や団結力を奪うため。黒人たちが団結し反乱を起こしたりすることを恐れた白人たちの抑止策でもあったのです。
 
そんな中、キリスト教では「大覚醒」と呼ばれる大運動が数度にわたり巻き起こりました。当時、キリスト教を信仰する多くの人々は教会に通うこと自体はしていても、心からの信仰を持っていなかったり、形式的な信仰に甘んじていたりしました。また、宗教的な自由を求めて移住してきた人々が多いアメリカでは、教会に対する不満や疑問もありました。このような状況の中で、信者が自身の心で神を感じ、信じるべきだとするプロテスタントの一大布教活動、「大覚醒」が始まったのです。

大覚醒運動の主体となったプロテスタントでは、「神の前で全ての人は平等である」という考えのもと、多くの人々が奴隷制度に反対を表明しており、その熱心な布教活動は黒人奴隷たちに向けても盛んにおこなわれました。日曜になると農場の一角に奴隷たちが集まり、キャンプ・ミーティングと呼ばれる布教活動で説教を聞いたり、賛美歌を歌うようになっていきました
大覚醒の布教活動により信仰心に目覚めた奴隷たちでしたが、彼らの主人である白人は彼らの生活を非常に厳しく制限していました。宗教的なものであっても奴隷たちだけで集会を開くことは禁止され、読み書きを習うことや、自分たちの住んでいるエリアから出ること、楽器の使用なども認められていませんでした。そのため、奴隷たちは夜遅く、主人が寝静まる頃になると農場の奥深くで秘密の集会を開くようになりました。「見えない教会」と呼ばれたその集会で黒人たちは、奴隷としての枷から自らを解放し、自分たちの感情を自由に表現するようになっていったのです。彼らは文字が読めなかったため、集会では祈りの言葉や賛美歌に彼ら自身の想いや祈りが加わり、だんだんとミックスされていきました。手を叩いたり、足を踏み鳴らしたりすることでリズムを伴う演奏が行われました。こうして形作られていったのが、黒人霊歌、ニグロ・スピリチュアルと呼ばれる歌でした。

・奴隷解放、黒人霊歌からゴスペルへ

1865年、リンカーン大統領により奴隷制度が廃止されると、黒人たちは奴隷としての強制労働から解放され、それまで農場の片隅でひっそりとおこなわれていた彼らのキリスト教信仰は、黒人の牧師を主体とする黒人教会で行われるようになりました。黒人教会には資金が少なく、楽器を設置することが難しかったため、礼拝では手を叩いたり、足を踏み鳴らしたりすることでリズムを伴う演奏が行われ、これがのちのゴスペル音楽の特徴となっていきました
 
さて、黒人奴隷たちの祈りから生まれた黒人霊歌、ニグロ・スピリチュアルは、宗教的なツールとして黒人教会での礼拝で歌われるようになっただけでなく、音楽そのものとしても世に出始めます。1867年には、「スレイヴ・ソングズ・オブ・ザ・ユナイテッド・ステイツ」、アメリカ合衆国の奴隷歌という名ではじめて黒人霊歌が歌集として出版。74年に出版された歌集「ゴスペル・ソングス」でははじめて「ゴスペル」という名称が登場しました。また、アカペラの黒人アンサンブル・グループ「フィスク・ジュビリー・シンガーズ」が結成され、アメリカ各地やヨーロッパを巡業、アメリカ大統領やイギリス女王の前でも演奏を行いました。

フィスク・ジュビリー・シンガーズの1909年の録音、Swing Low Sweet Chariot。

・ゴスペル音楽を作った男

その後も黒人教会を中心に歌われてきた黒人霊歌でしたが、1930年代ころには、トーマス・ドーシーという男の活躍により新たなスタイルへと変貌を遂げ、「ゴスペル音楽」として一気に普及していきました

ここで「ゴスペル音楽の父」と呼ばれる、トーマス・ドーシーと彼が作り上げたゴスペル音楽のスタイルについて触れておきましょう。
トーマス・アンドリュー・ドーシーは1899年、ジョージア州に生まれました。彼はもともとゴスペル音楽を演奏していたわけではなく、はじめはブルース・ピアニストとして音楽シーンに登場しました。「ジョージア・トム」という名前で、ギタリストのタンパ・レッドと共に録音した楽曲「It’s tight like that」は700万枚を超える大ヒットを記録。ツアーで多忙なスケジュールの中、深刻な鬱に苦しんだ彼は、教会で牧師の祈りを受け劇的に回復したことがきっかけで、ブルースからゴスペル音楽に転向し、その後生涯をかけてゴスペル音楽の普及と発展に尽くすことになりました。
彼はシカゴのピルグリム・バプテスト教会で50年間にわたり音楽監督を務め、即興演奏や手拍子、足踏み、シャウトなどを取り入れた新しいスタイルを確立しました。当時、これらの表現方法は「洗練されていない」として非難されていましたが、ドーシーはそれをゴスペル音楽の魅力として広めました。
1932年には全米ゴスペル合唱団を設立。サリー・マーティン、マヘリア・ジャクソン、ロバータ・マーティン、ジェームズ・クリーヴランドなど、後にゴスペル界で活躍するアーティストを育成しました。
1993年にはこの世を去りましたが、彼は生涯にわたり2000曲以上の楽曲を作り、そのメロディーの美しさとシンプルさは多くの人々に愛されました。彼がゴスペル合唱の形式を確立し、合唱団の動きや歌唱方法に革新をもたらしたことで、ゴスペル音楽は単なる宗教音楽にとどまらず、心の解放と希望を象徴するものとなったのです。

トーマス・ドーシー、そしてゴスペル音楽を代表する楽曲、Take my hand, precious lord。

・公民権運動、ゴスペル音楽の普及と発展

さて、トーマス・ドーシーらの活躍により黒人教会以外にも普及していったゴスペル音楽。第二次世界大戦後にはさらに人気と規模を広げていきました。1950年代には、「ネグロ・ゴスペル・アンド・リリジアス・ミュージック・フェスティバル」がカーネギー・ホールやマディソン・スクエア・ガーデンで開催され、大人気となりました。また、ゴスペル・グループのソウル・スターラーズのリードボーカルであったサム・クックは、端正なルックスでアイドル的人気を博し、1957年にソロ歌手としてR&Bに転向、数々のヒットを飛ばし、R&B界のスーパースターとして大活躍しました。
 
1960年代になると、ゴスペル音楽は黒人たちの人種差別撤廃を求める一大ムーブメント、公民権運動と密接に結びつき、多くの黒人たちが平等と自由を求めて立ち上がる中、ゴスペルは希望の象徴となりました。公民権運動の歴史的イベント、ワシントン大行進ではマハリア・ジャクソンが高らかにゴスペルを歌い、20万人の聴衆を鼓舞。ゴスペル音楽は、宗教音楽としての枠を超え、社会運動やポピュラーミュージックとも結びついていったのです。

ワシントン大行進でのマハリアの歌唱。 

1970年代以降には、様々な音楽ジャンルからの影響を受けながら、ゴスペル音楽は変化していきました。
「現代ゴスペルの父」と呼ばれ、牧師としても活動したアンドレ・クラウチは、伝統的なゴスペルに基づきながら、ポップスのセンスを取り入れたモダンなアレンジを加え、マイケル・ジャクソンやマドンナらにも影響を与えました。

また、90年代にはカーク・フランクリンが登場。ヒップホップやR&Bと融合したスタイルが生まれ、新しい世代に親しまれるようになりました。

特に日本では、映画『天使にラブ・ソングを…』のヒットがきっかけとなり、ゴスペル音楽が大きなブームとなりました。日本各地でゴスペルクワイアが結成され、現在も多くの人々がゴスペルを楽しんでいます。

・教会でのゴスペル音楽のスタイル

 さて、特集の最後に、ゴスペル音楽がどのように歌われているかを知るために、黒人教会での礼拝スタイルについて、白人教会のスタイルと比較しながら説明したいと思います。
アメリカの教会の中でも、黒人教会と白人教会の礼拝は、そのスタイルにおいて大きな違いがあります。これらの違いは、歴史的な背景や文化、社会的な経験から生まれたものであり、礼拝の内容や雰囲気にもその影響が色濃く表れています。
 
まず、黒人教会の礼拝で最も特徴的なのは、ゴスペル音楽です。
黒人教会では、ゴスペル音楽が中心となり、その歌は非常に感情的で力強いものです。リズム感に満ち、しばしば即興的に歌われるゴスペルの歌は、アフリカの音楽的伝統を色濃く反映しています。聴衆も積極的に参加し、「アーメン」や「ハレルヤ」といった声援を上げ、歌の中で神への賛美を表現します。まさに、礼拝は一つの共同体的な体験となり、信者全員が歌を通して神との深いつながりを感じることができるのです。
一方、白人教会では、音楽は一般的に賛美歌が中心となります。賛美歌はより静かで格式があり、オルガンやピアノが多く使用されます。歌は感情的に表現するというよりも、神への敬意を込めて荘厳に歌われます。黒人教会のように、聴衆が積極的に声を上げたり、身体を動かしたりすることは少なく、より静かな雰囲気の中で歌が進行します。賛美歌の歌詞も比較的理論的であり、神の偉大さや人間の信仰のあり方について語ることが多いです。
 
次に、説教のスタイルについて見ていきましょう。
黒人教会では、説教が非常に感情的でダイナミックです。牧師はしばしば大声で語りかけ、聴衆とのやり取りを通じて説教を進めます。「アーメン」や「ホーリー」といった応答が聴衆から返され、礼拝全体が一体感を持って進行します。説教は即興的な要素を多く含み、神の言葉を伝えることに力を注ぐ一方で、聴衆との強い絆を感じさせる場でもあります。
これに対して、白人教会の説教は、比較的静かで論理的なスタイルが特徴です。牧師は事前に準備した説教を静かに読み上げ、聴衆はそれを黙って聴きます。感情的な表現は控えめで、むしろ聖書の教えや道徳的な教義に焦点を当て、信仰生活をどう築くかといった点を論理的に説明します。聴衆の反応も控えめで、説教はあくまで内面的な理解と祈りの時間として位置付けられています。
 
また、身体的表現の違いも重要な要素です。黒人教会では、信者が手を挙げたり、踊ったりすることがよくあります。礼拝の中で、神への感謝を表現するために身体を動かすことは非常に自然な行為とされており、これはアフリカの音楽やダンスの伝統が影響を与えています。信者は、神への賛美や感謝の気持ちを身体全体で表現します。
白人教会では、身体的な表現は控えめです。信者は礼拝中に座っていることが多く、手を挙げたり踊ったりすることはほとんどありません。むしろ、礼拝は静かな祈りと内面的な反省の時間として進行します。神に対する敬意を表すために、身体を大きく動かすことなく、心の中で深く信仰を育むことが重要視されています。
 
最後に、黒人教会の礼拝は、コミュニティとしての一体感が非常に強いです。黒人教会では、信者が互いに支え合い、共に祈り、歌い、神の存在を感じることが大切にされています。礼拝は、個々の信者が神に向き合う場であると同時に、共同体全体が一緒に神に賛美を捧げる場でもあります。
一方、白人教会では、個々の信仰生活が重視される傾向にあります。礼拝の中で、聴衆が積極的に声を上げて反応することは少なく、静かな中で神との個人的な対話を深める時間となります。信者同士の一体感はもちろんありますが、黒人教会ほど強調されることは少ないです。
 
トークコーナー、今回はゴスペル音楽を取り上げました。


★アーティスト紹介コーナー

さて、ゴスペルについて掘り下げている今回。アーティスト紹介では、ゴスペルの女王ことマハリア・ジャクソンをピックアップします。

・マハリア、シカゴへ行く

マハリア・ジャクソンは、1911年、ルイジアナ州ニューオーリンズに、港で働く父チャリティ・クラークと、理容師の母ジョニー・ジャクソンとの間に生まれました。マハリアの祖父母はともに奴隷出身でした。敬虔なキリスト教徒の家庭で育ったマハリアは、教会に通い、信仰を深めていました。彼女が暮らす家のすぐ隣には教会があり、そこから聞こえてくる黒人霊歌に親しんでいたといいます。
5歳の時に母親を亡くし、叔母であるデュークに引き取られましたが、彼女の厳格なしつけに苦しむこともありました。マハリアは家事を手伝いながら、教会での活動に積極的に参加しました。10歳で学校を辞め、洗濯の仕事をするかたわら、教会の合唱団で歌い続けました。14歳になると、厳しい叔母デュークとの関係に悩んだ彼女は、ニューオーリンズを離れシカゴへ移ることを決断しました。シカゴ到着後、すぐ教会で歌う機会を得て、合唱団に加わることとなりました。
 
マハリアがシカゴに到着した時期は、グレート・マイグレーションと呼ばれる、南部の黒人が北部の都市へ移住する大規模な動きの真っただ中でした。1910年から1970年の間に、数十万人もの黒人がシカゴに移住したといわれています。教会音楽はマハリアが親しんだ南部とは異なり、厳かな賛美歌が演奏されていました。南部で盛んにおこなわれていたシャウトや拍手、足踏みなどはシカゴでは品位を欠いていると見なされ、マハリアの活気に満ちたシャウトははじめ牧師らに公然と非難されました
「これが南部での歌い方よ!」と反論したマハリアでしたが、自由に歌うことを許されず、礼拝で歌う際には彼女の姿が目立たないよう周囲から妨害をされたこともあるほどでした。

・ドーシーとの出会い

あきらめずに自分のスタイルを貫こうとしていたマハリアに、そこで転機が訪れました。ブルース音楽の熟練したミュージシャンで、ゴスペル音楽に転向したてだったトーマス・ドーシーと出会ったのです。
ドーシーは、それまで独学で歌っていたマハリアに2ヶ月間みっちりと音楽的スキルを叩きこみ、歌い方や感情のコントロールなど余すところなく教えました。徹底的なトレーニングのあと、2人は理想とするゴスペル音楽のためにタッグを組み、シカゴの街角でパフォーマンスをするようになりました。ドーシーとの出会い、そしてシカゴでのパフォーマンスがきっかけとなり、マハリアは教会での合唱以外にソロとしてのゴスペルの歌も磨いていきました
シカゴ初の黒人ゴスペルグループであるジョンソン・シンガーズの一員としても活動を開始したマハリアは地道にキャリアを重ねていき、1932年にはフランクリン・D・ルーズベルトの大統領選挙キャンペーンで歌うという大役も射止めます。そのころには彼女はシカゴで唯一のプロのゴスペル歌手となり、わずかではあるものの安定した収入を得るようになりました。
 
彼女は様々な仕事を掛け持ちしながらも、自らを「フィッシュ・アンド・ブレッド・シンガー」(魚とパンの歌手)と称し、神への奉仕として歌い、ゴスペルに忠誠を誓っていました。1937年に発売したレコードの売り上げが低迷した際には、ブルースを歌うことを条件に追加レコーディングの機会を与えられましたが、彼女はそれを拒否。その後ゴスペル歌手として大きな影響力を持つようになった後も、ポップスやジャズのレコーディングや舞台への出演など、様々な高額オファーがありましたが、彼女はゴスペル音楽以外を歌うことはありませんでした

・大ヒット、そして人種差別との闘い

1938年にはジョンソン・シンガーズが解散しましたが、マヘリアはソロ歌手としてシカゴを拠点に活動しながら、次第に全米へと進出。1946年にはアポロ・レコードと契約を結び、「Move On Up a Little Higher」が1947年に大ヒット。全米で200万枚を売り上げ、全米チャートでは2位を記録しました。この成功により、彼女の人気と知名度は一気に上昇。1948年にはトルーマン大統領選挙キャンペーンに参加、1956年の民主党全国大会では「I See God」を歌い、大きな感動を呼びました。

50年代になるとますますマハリアの人気は高まり、年間200公演のステージを行うほどまでになりましたが、彼女はゆく先々で経験する人種差別問題につねに毅然とした態度で闘いました。公演会場では、白人と黒人が一緒に座れるよう頼み、ときには聴衆に対しても、人種分け隔てなくふるまうよう促しました。1956年にはマーティン・ルーサー・キング・ジュニアと出会い、彼が先導していた公民権運動を支持、マハリアは彼とともに教会を回り、自らの歌で彼の活動をサポートするようになりました。彼女はキング牧師と家族ぐるみで親しくなり、牧師が運動で悩み苦しむときには、彼女は彼にゴスペルを歌い勇気づけることも多かったようです。公民権運動が激化する中、63年に行われたワシントン大行進の際には、マハリアはゴスペルを力強く歌い、歴史的な瞬間を彩る存在となりました。

さて、ここでワシントン大行進でのエピソードを一つご紹介します。
1963年8月、黒人差別の撤廃を求め20万人以上が参加したワシントン大行進。そこでの「私には夢がある」というキング牧師の演説は20世紀最高のスピーチのひとつともいわれています。
20万人の観衆を前に、あらかじめ用意した演説を進めていたキング牧師。終盤にさしかかったところで、マハリアは「あなたの夢をみんなに伝えて!」と声を上げました。教会を一緒に回っていた時に牧師が語っていた夢の話を、いまこそ語るべきだと牧師に伝えたかったのです。その言葉を聞いた彼は演説をいったんやめ、原稿をわきに置いて、“I Have a Dream” と即興で語り始めました。マハリアは歴史的スピーチにも影響を与えたのです。
彼女と牧師の親交はその後も続きましたが、、1968年にはキング牧師が暗殺。彼の葬儀でマハリアは、牧師の好きな曲であった「Take My Hand, Precious Lord」を歌い、友人の死を悼みました。
 
1971年には世界ツアーを行い、インドや日本にも訪れました。72年、ヨーロッパツアーの最中に体調を崩し、シカゴで入院。腸閉塞の手術を受けましたが、回復できずに死去しました。
世界中のファンが彼女の死を悲しみ、また彼女の残した偉大なゴスペル音楽に敬意を表しました。シカゴのバプティスト教会で葬儀が行われた際には、5万人の人々が雪の中参列しました。
 
アーティスト紹介、今回はマハリア・ジャクソンを取り上げました。

★楽曲紹介コーナー

今回ピックアップするマハリア・ジャクソンの楽曲は、「Down by the Riverside」です。

ゴスペル音楽としてのみならず、アメリカーナの主要なレパートリーとしても多くのミュージシャンが歌っているこの楽曲。マハリア自身も56年以降、4回もレコーディングしている、彼女の代表曲の一つです。
はじめてリリースされた1956年は、現在2025年から71年前の、昭和31年。日本はその年に国際連合に復帰、また白黒テレビの放送が開始された年でした。
 
「Down by the Riverside」は「Ain't Gonna Study War No More」「Gonna Lay Down My Burden」など多くの別名で知られる歌で、黒人霊歌の一つです。その起源は南北戦争以前にさかのぼるとされていますが、1918年の「プランテーション・メロディーズ」という歌集において初めて楽譜が出版され、また1920年には黒人アンサンブル・グループ「フィスク・ジュビリー・シンガーズ」が初めてレコーディング。楽曲は教会以外にも大きく広まっていきました。
 
この楽曲の歌詞は、人生の困難や苦しみから解放されることを象徴しており、「burden」(重荷)を「down by the riverside」(川のそば)に下ろすという表現が登場します。川は聖書の中でしばしば清めと再生の象徴として描かれ、ここでも解放の象徴として使われています。また、「I ain't gonna study war no more」というフレーズは、戦争や暴力といった負の要素に対して決別し、平和を求めるという強いメッセージを伝えています。この言葉は、歌詞全体を通じての平和のテーマを強調し、黒人コミュニティやアメリカ社会全体の希望を表現しています。楽曲の持つ力は、特に奴隷制度時代や公民権運動の時期に重要な役割を果たし、また反戦運動においても用いられてきました。
ゴスペルだけでなく、ジャズのルイ・アームストロングをはじめブルースやポップなど様々なジャンルのアーティストによってカバーされている、アメリカ音楽史にとっても重要な楽曲です。


★英語学習コーナー

さてここで、楽曲の歌詞から英語表現を学んでいきましょう。今回ピックアップするのは、こちら。

I’m gonna lay down my burden down by the riverside.

では、単語や表現を見ていきましょう。

I'm ~:わたしは~。
I amの短縮形です。I は「私」、amはbe動詞で、左右にあるものをイコール関係で結びます。

gonna:
going toの口語的な短縮表現で、I’m gonna ~で「私は~するつもりです」という未来の行動を表します。

lay down:武器などを捨てる、置く。

my ~:私の~。

burden:重荷。
第1回の放送ではloadという単語を取り上げましたが、覚えていますか?そちらは物理的な重荷を指すのに対し、今回のburdenは精神的な重荷のことです。

by the riverside :川のそばに。

さて、この歌詞がどういう意味なのか、分かりましたか?
「私は自分の重荷を川のそばに捨てるつもりです」となりますが、楽曲紹介コーナーでも触れたように、これは単純に川に行って積み荷を降ろすという物理的な動作を表すのではなく、神によって清められることで、苦しみや痛みから解放されるという宗教的な概念を含んでいる、黒人奴隷たちが込めた思いが非常に感じられる歌詞です。


さて、発音練習です。ぼくに続いて、まずはゆっくり練習しましょう。

I’m gonna lay down my burden down by the riverside.

いかがでしょうか。スピードを上げて練習です。

I’m gonna lay down my burden down by the riverside.

うまくできたよ!という方。ぜひケニーストーンのYoutubeにある弾き語りバージョンに合わせて、一緒に歌ってみてください。



さいごに

ケニーストーンのあ!メリカーナ。今回の放送は以上になります。アメリカーナ音楽の魅力を伝えたいとはじめたポッドキャストですが、楽しんでいただけましたでしょうか。
ゴスペルにスポットを当て、黒人文化や歴史について掘り下げた今回。次回も黒人の歴史が大きなテーマとなる、ブルースについて特集したいと思います。
 
次回もどうぞお楽しみに。
ケニーストーンでした。

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