器の大きさ。表層意識と深層意識
器の大きな人間。
人に言われようが、言われまいが、そうありたいと願う人は多いでしょう。しかし、これも、器とは何かを理解しようとすると、人間とは何かを理解せねばなりません。
私という存在をどのように理解するか。僕たちの自我は強烈な臨場感があるので、自我=私と思っている人も多いかと思います。また、日常生活においては、私の皮膚が私のテリトリーであり、少なくとも肉体の内側は私であるというのは、なんとなくの実感でしょう。しかし、私たちが意識している世界、表層意識がコントロールしている世界は、実は圧倒的に小さいのです。
私たちは、生命基盤である、呼吸器系、循環器系、消化器系、内分泌系、などを通常意識せずに生きています。つまり、生きるということに関しては、自動運転状態なのです。もちろん、それらには多大なエネルギーが使われており、交感神経と副交感神経からなる自律神経系および該当する脳の部署が動いている。諸説あるものの、概ね、表層意識は脳の力の数%〜20%弱、深層意識に80%以上の力が使われているようです。
表層意識は、スペック上、それほど多くの作業を同時にできません。よって、RAS(Reticular Activating System)網様体賦活系(もうようたいふかつけい)がフィルターの役目を果たし、重要ではない、新しくない情報は意識に挙げないようにしている。(当たり前のことは、意識しない)このように、情報を絞ることで、目下優先順位の高いことに、脳力を絞り、新しい判断などを下すようにして、新しい状況に対応するようになっています。
古い情報、慣れ親しんだ情報に関しては自動的に処理できるようにしています。(朝、駅に歩いて向かう際、一つ一つの動作を悩まない)慣れ親しんだ情報処理に関しては、自動でできるようにし、15~20%の力で新しい事態にも対応できる状況を作る。これが脳が日々やっていることです。
これが生命がサバイバルのために選んだ最良の姿だとすると、私たちは、ここから学ぶこともたくさんあるように思います。まず、新しい事態に対応できるように、常に20%のリソースは空けておく。一方で、80%の力で、しっかり現状を維持する。などです。しかも半ば自動運転でもある。組織論としてはどういうことでしょう。イノベーションの議論とも関連ありますね。私たちは、社会システムの構築において、機械論的世界観をそろそろ卒業し、よりホリスティックな生命論的世界観からもっと学ばねばなりません。
私たちは、連携し合う無数の素粒子、原子、分子、細胞、器官、系からなりますが、以下のように分類できるのかもしれません。
1)宇宙の基礎期:宇宙誕生から原子誕生まで
2)生命発展期:分子から現在の私たちの生命意識誕生まで、生存競争と多様性を競う段階
3)意識的統合期:多様でありながらも一体であるという共存、調和の時代
そして、私たちは、こういった生命系全体の過渡期に現れた存在かもしれません。
もう少し踏み込んで述べますと、そのような確信に近いものが生まれてきました。もし、私たちが弱肉強食の差を競う社会を目指すならば、間違いなく人類は滅びるでしょう。それが、武力であれ、経済力であれ、力は差を生み出しますが、その力を共存でない方に活用した際、私たちは、分離し、バラバラになり、下方圧力(進化と逆の力)に引きずり込まれるでしょう。
長い歴史の中で生み出された力を、現状維持を超えた一段高いレベルでの統合に使い始めた時に、それらの力は上昇圧力に変わり、新しい生命を出現させ(単細胞生物から多細胞生物が生まれてきた延長に我々人類がいるように)ることでしょう。21世紀の半ばまでに、私たちは、分解して終わる種なのか、愛を学び統合していく種なのかがわかるでしょう。
一人一人の意識の変革が世界を変える、まさにそのような時代に生きているのです。
「私」という存在を自らがどのように捉えるか。表層意識のエゴ・マインドの世界の思いつく範囲で捉えるか、自分自身を成り立たせている存在基盤にまで広げ、より大きなセルフの部分として生きておりより広い世界への貢献を意識できるか。
私という領域を、どのレベルで持つことができるか。
それこそ器の大きさというものでしょう。